第58話 白冠の裏側
『自我境界、再低下』
『深淵接続、拡大』
『外部音声、拒絶失敗』
黒い声が消えたあとも、レンの身体はすぐには崩れなかった。
レオナの手に頬を触れられたまま、何かを振り払おうとするように首を揺らし、握るものを失った右手が空を掻く。山刀は足元に落ち、影で伸びていた刃も消えている。
それなのに手首から上へ走る黒い筋だけは、沈むどころか皮膚の内側で脈を打っていた。
「フィオナ!」
「分かってる。動かさないで!」
白い膜がレンとレオナを包む。顔を隠すために張った結界だったが、今は黒い熱が外へ漏れるのを押し返す薄い壁になっていた。
フィオナは膝をつくと、レンの胸元へ両手を当てる。術式の光が触れた途端、黒い筋がぴくりと跳ね、レンの喉から詰まった息が漏れた。
「……っ、あ……」
「聞こえる? 息を吐いて。誰の声でもいい、いま聞こえているものを追って」
瞼の奥で目が動く。
「レオ……ナ……カイ……」
その二つだけだった。
レオナの歯が鳴りそうになる。自分の名を呼んだことに安堵するには、レンの声があまりにも苦しそうだった。
「ここにいる。だから勝手に沈むな」
返事はなかった。代わりに、黒い筋がまた濃くなる。
その時、白冠隊の方で警告音が上がった。
ピー、と甲高い音が、ひとつではなく重なって響く。隊員たちの頭部に装着された白冠環が、勝手に明滅を始めていた。
「何だ、これ……出力を切ったはずだぞ!」
ヘイルが環の留め具へ手をかける。しかし白い光は消えず、むしろ指が触れた場所から細い線が走り、彼は呻いて片膝をついた。
ルーファスが振り返る。
「全員、装置を外せ! 拘束も追跡も中止だ!」
「解除できません!」
ユナの声が震える。
「指令権限が、上書きされています!」
ルーファスの白冠環にも、見たことのない表示が流れた。
『深層反応 再捕捉』
『黒色対象 自我揺らぎ確認』
『干渉観測 継続』
『接続誘導値 上昇』
ルーファスは表示を二度見しなかった。
「全員、環を外せ。外れなければ後部接続片を折れ!」
ヘイルが振り返る。
「隊長、拘束指令は継続中です!」
「これは拘束ではない。あの人の中へ、こちらから押し込んでいる!」
結界の内側で、レンの身体が大きく反った。
フィオナが叫ぶ。
「止めて! 白い環がこの人を沈めてる!」
「聞いたな。壊せ!」
「軍規違反になります!」
ルーファスは腰の《アルカ・ネイル》を抜いた。
「生き残った者が裁かれればいい。今は壊せ!」
ヘイルが歯を食いしばり、ユナの首元へ手を伸ばす。白い接続片を掴み、力任せに捻った。
パキン、と乾いた音がした。
ユナの環から光が消え、彼女はその場へ座り込む。ヘイル自身も続けて接続片を折り、隊員たちは互いの装置を壊すようにして出力を落としていった。
最後に残ったのは、ルーファスの隊長機だった。
彼の環だけは接続片の形が違う。指を入れられる隙間がなく、白い光が視界を埋めるほど強くなっていく。
『対象、深度上昇』
『観測継続』
『臨界値取得まで――』
「ふざけるな……」
ルーファスは腰から拘束杭剣を抜いた。
刃先を、自分の首へ向ける。
「隊長!」
「環だけを割る。動くな!」
白い線が視界の中で暴れた。黒い騎士の位置、レオナの胸、フィオナの喉、周囲にいる里人の逃走経路までが、敵性かどうかも分からないまま赤く塗り替えられていく。
ルーファスは息を止め、刃の腹を白冠環の付け根へ叩き込んだ。
ガキン、と硬い音がして、白い光が弾けた。
環の半分が地面へ落ちる。首筋に熱い血が走ったが、視界に溢れていた線はようやく途切れた。
同時に、結界の中で暴れていたレンの身体が沈んだ。
レオナが抱き留める。レンは浅く息を吸い、黒い筋も手首のあたりまで引いていった。
静けさが戻る。
誰も、すぐには動かなかった。
◇ ◇ ◇
「説明しろ」
レオナの声は、炎より低く燃えていた。
レンは小屋へ運び戻された。フィオナとアリアが付き添い、結界を閉じたまま治療を続けている。
白冠隊は里の入口に残り、誰も武器を構えていない。それでも里人たちの目には怯えが残り、長老は小屋と王国兵の間に立ったまま杖を離さなかった。
ルーファスは血の流れる首筋へ布を押し当てていた。足元には砕いた隊長用の白冠環が落ちている。
白い破片は、死んだ虫の脚のようにときどき微かに震えた。
「俺にも、説明できません」
「知らずに、あれを頭へ載せて来たのか」
「黒仮面個体の動作予測と、拘束補助のための装備だと説明されていました。接続を刺激する機能など、仕様にはない」
レオナは一歩近づいた。
「では、お前たちは何をしに来た」
その問いに、ルーファスは答えかけて止まった。
拘束と保護のためだ。昨日まではそう言えた。
黒い騎士が暴走し、市民へ刃を向ける前に止めるために、自分たちは白い環を着けた。
だが、先ほど起きたことは何だ。
止まりかけた黒い影へ、白い環が再び手を伸ばした。あれがなければ、黒い騎士はレオナとカイの声で沈んでいたかもしれない。
「……守るために来た」
ようやく出した声は、自分でも頼りなく聞こえた。
「だが、俺の装備が、守るべき相手を壊しかけた」
長老が地面へ杖を突く。
「白い冠は、黒い火と同じ臭いがする。色が違えば安全だとでも思ったか」
ルーファスは返さなかった。
ヘイルが壊れた環を拾い上げる。
「隊長。これ、さっきまでなかった表示が残っています」
差し出された内側の記録片へ、細い文字が焼き付いていた。通常の行動補助記録ではない。
黒色出力、接触前二十八。
白冠干渉後、四十三。
感情反応入力後、五十九。
殺傷移行直前、七十六。
ユナが口元を押さえる。
「私たちが……上げたんですか」
「違う」
ルーファスは即座に言った。
「お前たちが望んだことじゃない。俺もだ。だが、この装備を作った側は、分かっていた」
レオナの目が冷たくなる。
「確かめるために、お前たちをぶつけたのか」
その言葉を否定したかった。
だが、できなかった。
通信石が光った。
ルーファスの腰にある、軍務院直結のものだ。応答しなければ、命令違反を認めるようなものになる。
彼は数秒迷ったあと、接続した。
「ルーファス・エルフォード。状況を報告しろ」
技術顧問の声だった。
軍務卿ではない。そのことが、今はひどく不自然に感じられた。
「隊員用の白冠環が、命令なしに強制起動しました。対象の黒色反応は沈静化しかけていたにもかかわらず、干渉後に増大した。説明を求めます」
返答までに、短い間があった。
「装置は黒仮面個体に反応しただけだ。危険性が実証されたのなら、なおさら拘束を続けろ」
「反応ではありません。誘導と表示された。対象を抑えるのではなく、接続を深めている」
「現場の兵士が、演算表示を独自に解釈するな」
「なら、正式な仕様記録を送ってください。いまここで全員に開示してください」
通信の向こうが静まる。
ルーファスは、そこで確信した。
本当に誤作動なら、技術顧問は即座に原因を探る。隊員の命に関わる装置が勝手に動いたのだ。
安全停止を命じるより先に、拘束を続けろと言うはずがない。
「対象は今、戦闘能力を失っています。治癒師の処置を優先します。白冠隊は装置を停止し、待機する」
「許可しない。黒仮面個体を再び起動させろ。接続値が安定する前に拘束波を重ねれば、こちらで制御系へ届く」
レオナの炎が、足元で小さく噴き上がった。
ルーファスは聞き返した。
「再び、起動させろ?」
「言葉通りだ。対象が沈んだままでは、捕獲に必要な深度データが取れない」
ヘイルが息を呑む。
ユナの顔が、怒りで歪んだ。
「私たちは……止めるために来たんじゃないんですか」
技術顧問は答えない。
ルーファスは通信石を握り、低く言った。
「命令を拒否します」
「隊長職を失うぞ」
「その方がましだ。俺の隊員に、誰かを怪物へ落とす手伝いをさせるよりは」
通信の向こうで、男が小さく息を吐いた。
「残念だ。君は適合率が高かっただけでなく、扱いやすいと思っていたのだがな」
通信が切れた。
同時に、地面に落ちていた白冠環の破片が一斉に白く光った。
◇ ◇ ◇
光は一瞬で消えた。
だが、白梢の里の地面の奥で、何かが返事をするように低く鳴った。
ゴン。
封じ場の方角から響いた音に、長老が振り返る。
「いまのは……」
「レンのところへ戻る!」
レオナが小屋へ駆ける。
ルーファスも走りかけ、足元で転がる白冠環の破片へ目を止めた。破片の記録片に、先ほどまでなかった送信表示が浮かんでいる。
観測情報、転送完了。
黒色深度値、受領。
遠隔試験体、起動。
「遠隔……試験体?」
白冠隊が交戦していた間、白冠環は黒い騎士の反応を測っていた。どの言葉で自我が揺れるのか。
どの干渉で黒い火が強まるのか。どの程度の出力で殺傷へ移行するのか。
その値を、どこかへ送っていた。
小屋の中から、フィオナの声が飛ぶ。
「レオナ、押さえて! また黒い反応が来る!」
ルーファスは破片を掴み、そのまま小屋へ走った。
中ではレンが寝台の上で身体を丸め、胸元を握っていた。黒い影は顔を覆ってはいない。
だが、心臓の奥を内側から引っ張られるように、喉から苦しげな息を漏らしている。
フィオナがルーファスを見る。
「何をしたの!」
「俺たちではない。装置の観測値が、別の何かを起動した」
「別の何か?」
レオナの声が刺さる。
ルーファスは破片に残る文字を見せた。
レオナは読み終えると、表情を消した。
「お前の上は、何を作っている」
「分かりません。だが、黒仮面を止めるための装置だけではない」
封じ場がまた鳴る。
今度はさっきより深く、里の白い木々が枝を震わせるほどの音だった。
レンの指が寝台を掴む。
「……白い……」
「何が見える」
レオナが顔を寄せる。
レンの瞳は開いていた。だが視線は、この小屋ではないどこかを見ている。
「白い……冠……人が、いる……中に……」
フィオナの手が止まる。
「接続してるの? 黒仮面じゃなく、別の相手と?」
レンは答えられなかった。
ただ胸の奥を押さえ、息を詰めた。
◇ ◇ ◇
王都地下、許可記録に存在しない研究区画で、寝台に固定された男が目を開いた。
胸へ埋め込まれた白い核が、ひどくゆっくり脈打っている。頭上には、白冠環よりも太く、骨のように歪んだ環が浮いていた。
技術顧問は記録板を見下ろし、笑みを隠さなかった。
「黒色深度値、受領。自我抑制に対する外部音声の効果も取得しました。予想以上です。対象はまだ人の声へ戻ろうとする」
暗がりにいる男が、低く答える。
「なら、その声ごと潰せる器を作ればいい」
「白冠隊は予定より早く離反しました」
「構わん。最初から兵隊として期待してはいない。装置を黒仮面の前へ運び、接触値を取らせる。それで役目は終わりだ」
寝台の男の腕が、ギギ、と不自然に持ち上がる。
肌の下で白い線が走り、指先まで人工の光が満ちた。人間だった頃の傷痕は残っているのに、痛みに顔を歪めることもない。
「起動状態は」
「安定しています。ただ、黒仮面と同じ出力へ至るには、封じ場の深淵遮断核が必要です」
「場所は取れたな」
「白冠隊の送信から、すでに」
暗がりの男が、かすかに笑った。
「なら始めろ。黒い怪物を恐れて祈る時代は終わりだ。人間が扱える白い怪物で、すべてを作り直す」
寝台の男がゆっくり起き上がる。
拘束帯が千切れ、床へ落ちた。
その口が開く。
「命令を」
前よりも滑らかだった。
それがかえって、ひどく人間から遠かった。
◇ ◇ ◇
白梢の里では、封じ場の音がようやく止んでいた。
レンはフィオナの術式で再び眠りに落ちたが、額の汗は引かず、右手首には黒い筋が残ったままだった。レオナは寝台のそばを離れず、アリアは戸口で青い顔をしている。
ルーファスは小屋の外で、砕けた白冠環を掌に載せていた。
ヘイルとユナが、黙って待っている。
「隊長。王都へ戻れば、拘束されます」
ヘイルが言った。
「だろうな」
「では、このままここに残るんですか」
ルーファスは答えなかった。
この里へ来た目的は、黒い騎士を拘束し、王国へ連れ戻すことだった。その命令がすべて間違っていたとは、まだ思えない。
黒い騎士は危険だ。現に、あと少しで自分の隊員を斬っていた。
暴走を止める手段は必要だった。
だが、今日の装置は止めるために動かなかった。
黒い影を引きずり出し、測り、どこかへ渡した。
守るための部隊だと信じて着けた白い冠が、守りたかった人間を壊す道具だった。
「俺は、黒い騎士を無条件で信じることはできない」
ルーファスは、ようやく言った。
小屋から出てきたレオナが、その言葉を聞いて立ち止まる。
「なら、まだ敵か」
「分かりません。だが、これを作った側を信じたまま、あなたたちへ刃を向けることもできない」
レオナは冷たい目のまま、わずかに黙った。
「迷っている間に、次が来るぞ」
「だから確かめます。俺が何を着け、何を運ばされたのか。俺の隊が、本当は何のために作られたのか」
ルーファスは掌の破片を握った。
縁が皮膚へ食い込み、細い血が落ちる。
「白冠隊は、黒仮面を止めるための部隊ではない」
声にした瞬間、胸の奥へ沈んでいた疑念が形を持った。
ヘイルが震える声で続ける。
「黒仮面を完成させるための……観測装置だったのか」
誰も、その言葉を否定できなかった。




