第57話 味方と戦う日
紅蓮大剣と黒い刃がぶつかった瞬間、白梢の里の地面が低く唸った。
衝撃で石が跳ね、乾いた土が輪になって広がる。レオナは両手で柄を押し込んだが、焼けた右手の包帯がすぐに赤く滲み、掌の中で傷口が裂けていく感覚があった。
それでも力を抜けば、目の前の刃は自分ではなく、その後ろで動けずにいる白冠隊の兵へ落ちる。
「退け!」
ルーファスが振り返り、隊員たちを里人の側へ下がらせた。
「戦うな、避難を優先しろ! 巻き込まれるぞ!」
「でも隊長、拘束が――」
「俺が持たせる!」
最後に残った拘束杭剣が、土の上で白く光る。二本目はすでに抜かれ、森の幹へ深く突き刺さっていた。
三点で閉じるはずだった《ロック・フィールド》は欠けたまま歪み、それでも黒い騎士の足へ重さをかけ続けている。
止めたい。ただ、それだけだった。
ルーファスの目に映る黒い騎士は、昨日、市民を救った英雄と同じ姿をしている。あの刃がなければ死んでいた人間がいた。
その事実を知ったまま、殺すための一撃など命じられるはずがなかった。
だが黒い騎士は、こちらの迷いを待ってくれない。
黒刃が跳ねた。
レオナは受け止めきれず、靴底で土を削りながら数歩押し戻された。右手から力が抜けそうになる。
そこへ黒い騎士が一歩で踏み込み、斬り上げる。
レオナは《アシュラ》を横へ寝かせ、刃の腹で受けた。
ギィン、と耳を刺す音が響く。
火花の向こうに見える仮面は、何も語らない。けれど、その奥の目は完全に無機質でもなかった。
ほんのわずかに迷う。喉を断てる角度に入っているのに、刃が半寸だけ逸れる。
「聞こえているんだろう」
レオナが息を吐く。
「なら、私を見ろ」
黒い騎士の首が、わずかに傾いた。
『敵性高位戦力、対処継続』
『制限出力では排除不能』
『殺傷レベル、再算定』
ひび割れた声が、仮面の内側から漏れる。
レオナは歯を食いしばった。
「勝手にこいつの口を使うな」
答えの代わりに、黒刃が振り下ろされる。
◇ ◇ ◇
白い木々の間を、里人たちが走っていた。
アリアは子どもの手を引き、振り返って叫ぶ。
「長老、封じ場の下へ! 小屋に残ってる人も呼んで!」
「分かっておる。お前は前を見るんだ」
長老は杖を鳴らしながら、歩けない老婆の肩を若い里人へ預けた。黒い火を恐れていた者たちも、いまは逃げながら何度も戦場の方を見ている。
数日前に拾った青年が、王国の兵に囲まれ、炎を纏う女と刃を交えている。その意味を理解できる者はいなかった。
白冠隊のユナが、転んだ子どもへ駆け寄る。黒い騎士に妹を救われたと言った女兵だった。
盾を背に回し、泥まみれの少年を抱き上げる。
「大丈夫。森の奥まで走れる?」
「黒い人、悪い人なの?」
不意に聞かれて、ユナの足が詰まりかけた。
「……今は、分からない」
嘘はつけなかった。
「あの人を止める人も、助けようとしてる。だから走って。お願い」
少年がうなずく。ユナはその背を押し、避難列へ送り出した。
その横を、白い閃光が掠める。
黒刃を弾いたレオナの炎が、地面へ突き刺さって弾けたのだ。熱風に煽られ、ユナは盾を立てて身を伏せる。
「ユナ、下がれ!」
ヘイルが腕を掴み、彼女を引きずるように退かせた。
「隊長が言っただろ。俺らがあそこに残れば、黒い騎士はこっちを狙う!」
「でも、炎姫様一人じゃ――」
「あの人が一人で済ませようとしてるんだ。俺たちを殺させないために」
ユナは振り返った。
赤い炎の向こうで、レオナの右手から血が流れている。それでも彼女は黒い騎士の正面を譲らず、白冠隊へ一度も刃を向けさせていなかった。
助けられて、止めようとして、今度は守られている。
何が正しいのか、ますます分からなくなる。
ただ一つ分かるのは、ここにいる誰も、黒い騎士を憎んで戦っているわけではないということだった。
◇ ◇ ◇
レオナの足元で炎が跳ねる。
大きく燃やせない。右手が耐えない。
かつてのように《ブレイズクラウン》で押し切れば、剣を握る指から先に死ぬ。
ならば、技で止めるしかなかった。
黒刃が左から来る。
レンは強い一撃の前に、必ず右肩をわずかに落とす。黒仮面に呑まれても、その癖だけは変わらない。
レオナは一歩内へ入り、刃を受けずに柄元へ《アシュラ》を当てた。軌道を逸らし、黒い騎士の胸へ肩をぶつける。
「戻れ!」
黒い騎士の身体が揺れた。
近い。
仮面の下の瞳が、わずかに開く。
「戻る……」
掠れた声が落ちた。
「どこへ」
胸を抉る問いだった。
それでもレオナは退かなかった。
「お前が名前を持っていた場所へだ。自分の手で守ったものを、自分で壊さない場所へ戻れ」
「俺は……知らない」
「知らないなら、私が何度でも教える!」
言い切った直後、黒い騎士の膝が跳ねた。レオナの腹へ衝撃が入り、身体が宙へ浮く。
背中から地面へ叩きつけられ、肺の空気が一気に抜けた。
黒刃が真上へ上がる。
フィオナが結界を放つ。
「レオナ!」
白い膜が刃の手前に割り込むが、一撃でヒビが走った。黒刃は止まらない。
レオナは倒れたまま《アシュラ》を持ち上げ、刃を噛み合わせる。
右手に、火が通った。
痛い。痛いどころではない。
焼けた皮膚の下へもう一度熔けた鉄を流し込まれたようで、視界が霞む。
だが、ここで落とせば終わる。
「お前の刃は……そんなに軽くないだろうが!」
レオナは《アシュラ》を押し返した。
炎が一度だけ大きく膨らみ、黒い騎士の外套が揺れる。仮面の端に亀裂のような揺らぎが走った。
その隙に、ルーファスが三本目の拘束杭剣を回収し、地面へ打ち直す。
「炎姫殿、三秒だけ離れてください!」
「何をする!」
「殺しません! 影の出力だけを落とす!」
レオナは黒い騎士の目を見た。
このまま押し合えば、自分の手が先に壊れる。だが白冠環の干渉は、さっきレンを黒仮面へ引きずり込んだ原因でもある。
「失敗したら、まずお前を斬る」
「承知しました」
ルーファスの返事に迷いはなかった。
レオナが刃を弾き、横へ抜ける。
同時に三本の拘束杭剣が白く光った。
「《ロック・フィールド》!」
歪んでいた白い領域が、黒い騎士の足元で再び閉じる。
一歩、二歩と踏み込もうとした黒い騎士の身体が、今度は目に見えて沈んだ。黒刃の先が地面を抉り、動きが一瞬止まる。
ルーファスの白冠環が熱を持つ。
視界へ流れ込む予測線は、ほとんど役に立っていなかった。黒い騎士は、過去の戦闘ログと同じ軌道を取らない。
読むたびに、さらに短く、さらに無駄のない一撃へ変わっていく。
それでも、止まった一瞬だけは本物だった。
「聞こえますか!」
ルーファスが叫ぶ。
「俺たちは、あなたを殺しに来たくて来たんじゃない! あなたに救われた者を、また救うために来た!」
黒い騎士の顔が、わずかにルーファスへ向いた。
『白色戦術個体、優先度変更』
『拘束機能、脅威判定』
『排除対象、追加』
黒刃が持ち上がる。
ルーファスの背後には、退避を終えきれていない隊員がいる。自分が避ければ、その誰かが斬られる。
彼は杭剣の柄から手を離さなかった。
「隊長!」
ヘイルの叫びが響く。
黒い騎士が領域を踏み割った。
白い線がバチンと弾け、黒刃がルーファスの首へ走る。
赤い炎が横から割り込み、刃を受けた。
レオナの右手は、もう握れているのが不思議なほど血に濡れていた。
「私を見ろと言ったはずだ」
黒い騎士はレオナへ向き直る。
「どうして……」
声が、少しだけ人間に戻っていた。
「どうして、そこまで」
レオナは息を整えながら、黒刃を押した。
「私に言わせるな。お前が思い出せ」
◇ ◇ ◇
黒い光の中に、赤い髪があった。
両手が焼けている。皮膚が裂け、指の間を血が流れているのに、その女は黒い腕を掴んだまま離さない。
――レン。
その声で、何かが引っかかった。
――戻ってこい。
見上げた目が濡れている。
どうして、と考えたところへ、白い音が割り込んだ。
『記憶断片、干渉』
『感情由来の制御低下を検知』
『排除処理、優先』
赤い髪が黒く塗り潰される。
「……レオナ」
声が落ちた。
レオナの表情が変わる。
「そうだ。私だ」
一歩、前へ出る。
「もう一度言え。私を見て、名前を呼べ」
「レオ……」
黒い影が喉元まで噴き上がり、刃が跳ねた。
レオナは避けなかった。
焼けた右手を、今度は黒刃へ伸ばした。
フィオナが叫ぶ。
ルーファスが杭剣を投げる。
だが、誰より早く、別の声が戦場へ叩き込まれた。
「お前、また間に合わない側に俺を置く気かよ!」
黒い騎士の刃が、レオナの肩先で止まった。
◇ ◇ ◇
声は、白冠隊の通信石から流れていた。
ルーファスの白冠環が突然ノイズを吐き、軍務院との回線に見知らぬ通信が割り込んだのだ。
王都中央治療棟の寝台で、カイ・フェルナーは胸の包帯を押さえながら通信器へ怒鳴っていた。横ではセツナが端末を繋ぎ、青い顔で回線の維持に指を走らせている。
「声を張らないで。傷が開く」
「今、そこ気にする場面かよ……っ」
声が途切れ、深い咳が出る。胸に鋭い痛みが走り、包帯の下に熱が広がった。
けれど、カイは通信器を離さなかった。
映像は見えない。届いているかも分からない。
それでも、あいつなら聞く。
自分が最深部で倒れ、また取り残したと思わせた相手なら、なおさらだ。
「聞こえてんだろ、悪友!」
セツナが、何も言わず通信出力を上げた。
「俺を勝手に死んだことにして、今度は自分が消える気か! ふざけんなよ。こっちは、起きるだけで胸が死ぬほど痛いのに、お前に文句言うために起きてんだぞ!」
喋るたび、呼吸が削れる。
以前なら笑って誤魔化せた痛みが、今は声の最後を震わせた。それでも軽口の形だけは捨てなかった。
「レオナさんに全部任せて、綺麗に沈んでんじゃねえよ。お前が戻らなきゃ、俺は一生、悪友に逃げられた間抜けになるだろうが!」
◇ ◇ ◇
悪友。
その音が、黒い影の奥へ落ちた。
倒れた男がいる。
黒い床の上で、胸を血に染めて動かない。双剣が冷たく転がっている。
遅いんだよ、悪友。
あの時、そう聞こえた。
間に合わなかったと思った。
また守れなかったと思った。
だから全部を壊すしかないと、黒い何かに身体を渡しかけた。
「……カイ」
レンの口から、名前が落ちた。
黒刃が震える。
レオナはその刃を押しのけず、血に濡れた右手を伸ばした。触れればまた焼ける。
それでも、今離せば本当に終わる。
彼女の指が、黒い仮面の頬へ触れる。
ジリ、と肉の焼ける匂いがした。
「ここにいる。私も、あいつも。お前を置いていかない」
黒い騎士の瞳が揺れる。
「俺は……」
「喋れ。名前を思い出せ。逃げるな」
「俺は……誰だ」
「その答えを私に言わせるな」
レオナの声が掠れる。
「戻ってきて、自分で名乗れ」
黒刃が地面へ落ちた。
カラン、と山刀の軽い音がした。影で伸びていた刃が縮み、元の粗末な形へ戻りかける。
仮面を形作っていた影も頬から剥がれ、下にいる青年の輪郭が露出しかけた。
フィオナが咄嗟に白い膜を張る。
「見ないで。いま接続が切れかけてる。刺激したらまた戻る」
治療のための言葉だった。だが、その膜が素顔を隠したことをルーファスは理解した。
彼は隊員たちへ顔を向けずに命じる。
「全員、視線を外せ。負傷者の顔貌確認は任務に含まれていない」
ユナが驚いたように隊長を見たが、すぐに里人の方へ向き直った。ヘイルも無言で盾を下ろす。
誰も、白い膜の向こうを覗こうとはしなかった。
ルーファスは息を呑み、杭剣の出力を落とした。今ここで拘束を強めれば、また仮面が反発する。
白冠環は捕縛の機会だと白い線を示している。だが彼は、その線を選ばなかった。
「全員、武器を下げろ」
「隊長、命令は――」
「今、あの人を敵に戻すな!」
白冠隊の兵たちが、迷いながら刃を下ろす。
フィオナが駆け寄り、レオナの右手へ治癒術式を流す。焼けた匂いは消えない。
レオナは歯を食いしばったまま、レンの頬から手を離さなかった。
レンの口元が動く。
「レオナ……カイ……」
二つの名が、途切れながら落ちる。
思い出したのは名前だけだった。誰と何を過ごしたのか、なぜ胸が苦しいのか、まだ靄の向こうにある。
それでも空白だった場所に、確かに二つの声が刺さっていた。
黒い影が一度、大きく揺らぐ。
消えるのかと思った。
だが、次の瞬間。
レンの胸の奥から、今までとは違う低い震動が響いた。
封じ場の岩壁が、ゴン、と鈍く鳴る。
長老が青ざめる。
「まずい……名が戻ったことで、深い方まで反応した」
レオナが顔を上げる。
レンの手首から沈みかけた黒い影が、今度は身体の内側へ引き込まれるように逆流していく。
見える影が薄くなるほど、奥が開いていく。
黒仮面の声が、ひどく静かに響いた。
『自我境界、再低下』
『深淵接続、拡大』
『外部音声、拒絶失敗』
レンの瞳が、もう一度暗く揺れた。




