第56話 白冠隊、出撃
夜が明けても、レンの右手首に浮かぶ黒い筋は消えなかった。
白梢の里の奥、封じ場に近い小屋には、乾かした薬草を焚く苦い匂いが満ちている。アリアが炉へ新しい葉を入れるたび白い煙が細く立ち、寝台の上にいる青年の腕へ流れていく。
黒い筋は煙に触れると一度は薄くなるのに、呼吸が乱れると、皮膚の下からまたじわりと戻った。
「……レオナ」
目を開けないまま、レンが言った。
椅子に座っていたレオナの肩がわずかに動く。
「起きているのか」
「さっきから。名前だけ、出てきた」
声は乾いていた。レオナは喜んでいいのか分からず、包帯の巻かれた右手を膝の上で握った。
「私が誰か、分かるか」
レンは長く黙った。
「分からない。ただ、その名前を呼ぶと……胸が痛む」
それは昨日よりも前へ進んだ言葉だった。だが、欲しかった答えには遠い。
フィオナが術式板から顔を上げる。
「無理に探らないで。思い出そうとして黒い火が広がれば、また接続が深くなる」
「接続」
レンは自分の手首を見た。
「俺の中に、まだあれがいるのか」
答えたのはレオナだった。
「いる。だから引きずり出す」
「どうやって」
「知らん。見つかるまで何度でも止める」
あまりに乱暴な言い方で、アリアが炉の前から振り返った。レンも一瞬だけ目を細め、ほんの少し、困ったような顔をした。
その表情に、レオナの胸が痛む。
いまの顔は、黒い騎士ではない。
けれど次に何かが来れば、またあの冷たい目へ戻る。
戸口の外で、長老が杖を鳴らした。
「朝から勇ましい話をするのは構わんが、客が来たようだ」
アリアが立ち上がる。
「誰が?」
「白い輪を頭に載せた兵だ。森の入口で止まっておる」
小屋の空気が、一瞬で固まった。
レオナは立ち上がり、《アシュラ》へ手を伸ばす。
フィオナが先に言った。
「追跡された」
「セツナの偽装は」
「破られたか、別の痕跡を拾われたか。どちらにしても、ここで王国兵を斬れば、守るどころじゃなくなる」
レンが寝台から起きようとする。身体がふらつき、アリアが肩を支えた。
「寝てて。あなたが出る必要はない」
「俺を追って来たんだろ」
「だから出ていけばいいって話じゃない」
アリアの声が強くなる。
レンは何も言わず、壁際に置かれていた山刀を見た。里で借りた、何の飾りもない短い刃。
かつてヴァルクから託された黒剣は、終局戦でレンが消えた座標傷の縁に残され、今も王都にある。
ここにあるのは、名前も失った青年が拾い直した、ただの刃だけだった。
それでもレオナは、その刀へレンの手が伸びるのを見て息を詰めた。
「触るな」
「何も持たずに話せる相手か」
「私が話す」
レオナは青年の手を押し戻し、黒い外套を肩へ掛けた。
「お前はここにいろ。私の声が届く場所に」
レンは反論しなかった。
ただ、右手首の黒い筋だけが、嫌なほど濃くなった。
◇ ◇ ◇
白梢の里の入口には、十数人ほどの兵が立っていた。
白い戦装は王国軍のものに似ているが、胸元に見慣れない紋章がある。白い環を、縦に割ったような印だった。
頭部に白冠環を装着している者が数名。残りは弓も剣も抜かず、道を塞がないよう左右へ分かれている。
先頭にいる男だけが、剣ではなく三本の短い杭剣を腰に帯びていた。
ルーファス・エルフォード。
昨日、街路で青年を追わずに通した白冠隊の隊長。
レオナは里人を背後へ下げ、一人で前へ出た。フィオナは少し後ろに立ち、アリアは長老の横で鉈を握っている。
「昨日の礼を言いに来た顔ではないな」
レオナが言う。
ルーファスは敬礼した。
「炎姫殿。救護中の対象を追跡したことは謝罪します。ですが、黒仮面個体を放置することもできません」
「ここにいるのは負傷者だ」
「負傷者が、昨日ガーディアン級改良版を一太刀で沈めました。半AI化兵の人間の声にも止まらず、あなたへ刃を向けかけた」
レオナの目が細くなる。
「見ていたように言うな」
「白冠環が記録しています。俺は……見なかったことにしたいものまで見せられました」
声に苦さがあった。
敵意ではない。そのことが、かえってレオナには厄介だった。
最初から殺す気で来た男なら、斬って通れる。だが目の前の男は、昨日の市民を救った存在を知った上で、なお止めるべきだと考えている。
「目的は何だ」
「拘束と保護です。黒仮面との接続が落ちている今なら、白冠環で反応を抑えられる可能性がある。王都へ連行するのではなく、まずこの場で接続の固定を試したい」
フィオナが口を挟む。
「ケイオスの残骸を使った装置を、その人の頭へ近づけるつもり?」
ルーファスの目がわずかに動いた。
フィオナが名前を避けたことには気づいたのだろう。だがルーファスは問い返さなかった。
今ここで身元まで押さえれば、捕獲命令は一人の青年へ直接向く。その意味を、この男も分かっているようだった。
「対象の名を聞きに来たわけではありません。私は暴走を止めたいだけです」
「止められるのか」
レオナは冷たく返す。
「昨日、お前の領域はあいつの足を止められなかった」
ルーファスは否定しなかった。
「戦闘出力の黒仮面に、正面から勝てるとは思っていません。だから戦う前に、本人へ選んでもらいたい。接続を抑える処置を受けるか、少なくとも監視下で保護されるか」
「保護の名で、兵器にするだけだ」
「そうならないように、私がいる」
「お前一人で王国を止められるのか」
言葉が止まる。
ルーファスは目を伏せなかったが、答えもすぐには出なかった。
その沈黙だけで、十分だった。
「帰れ」
レオナは言った。
「こいつは渡さない」
白冠隊の後ろで、隊員たちの表情が硬くなる。一人の若い女兵が、拳を握ったまま声を上げた。
「私の妹は、黒い騎士に助けられました!」
レオナが視線を向ける。
「だから、あの人を怪物として殺したくありません。でも……昨日みたいに、誰の声も届かないまま刃を振るうなら、その時に逃げる市民を守る人間も必要なんです」
その声は震えていた。
憎しみで来たわけではない。
黒い騎士に救われたからこそ、壊れていく姿を見ないふりにはできない。レオナは、それを簡単に踏みにじれなかった。
その時、小屋の方から足音がした。
「待てと言っただろうが」
レオナの声が低くなる。
アリアに支えられながら、黒い外套を頭から深く被った青年が歩いてきた。顔は影に隠れ、外からは輪郭もほとんど見えない。
腰には、里で借りた山刀が差されている。
「戻って。まだ動ける状態じゃない」
アリアが腕を引いたが、青年は足を止めなかった。
「俺を追って来たんだろ」
声が低く落ちた瞬間、ルーファスの白冠環が鋭く明滅した。
『黒色反応、確認』
白冠隊の空気が一気に張り詰める。
青年の外套の奥で、右手首が黒く脈打った。次いで、影が指先から腕、首筋へと這い上がる。
レオナが踏み出す。
「やめろ。今、出てくるな」
だが遅かった。
フードの内側で黒い影が顔を覆い、素顔を晒すより先に、青年の輪郭は黒い騎士へ変わっていった。
「……っ」
青年が顔を歪めた。
『白色演算反応、確認』
どこからともなく、ひび割れた声が漏れる。
『干渉波形……敵性候補』
フィオナの顔が変わった。
「離して! 白冠環の信号が黒仮面を刺激してる!」
ルーファスが即座に手を上げる。
「全員、出力を落とせ! 拘束起動は禁止――」
一人の隊員の白冠環が、甲高い警告音を上げた。
半AI化兵の残滓を警戒するために張っていた自動防護が、レンの黒い反応を敵性として拾った。隊員本人が止めるより先に、白い拘束索が地面を走り、レンの足元へ絡みつく。
アリアが叫ぶ。
「クロ!」
レンの目から、迷いが消えた。
◇ ◇ ◇
山刀の刃へ、黒い影が走った。
ただの短い刃が、墨を引き伸ばすように歪み、地面へ届きそうな黒刃へ変わる。
拘束索が切れる。
白冠隊の前列が、一斉に下がった。
「殺傷するな! 組み分け通りに囲め!」
ルーファスの声で、兵たちは恐怖を押し殺して動いた。三人が左右へ散り、一人が小型の杭を投げる。
黒い騎士が踏み込むはずの場所へ先に白い線が走り、刃の軌道へ盾が重なった。
黒刃が振られる。
盾は割れなかった。
ギリ、と白い光が軋み、隊員が数歩押し飛ばされる。それでも立っている。
黒い騎士の目が、わずかに動いた。
『既知軌道……対策確認』
『戦術補助、更新』
「効いてる……!」
ユナが息を呑む。
白冠装備は、黒仮面が過去に使った足運びと斬撃を基に作られている。倒すことはできなくても、最初の一撃を読むことはできた。
ヘイルが横から拘束輪を投げる。
黒い騎士が避けた先へ、別の隊員が杭を撃ち込む。白い線が足元を囲み、一瞬だけ踏み込みが止まった。
ルーファスが前へ出た。
「今ならまだ戻れる! 聞こえているなら、刃を下ろせ!」
返事はない。
仮面の影が、レンの頬から額へ広がる。人の顔が少しずつ消え、黒い輪郭だけが残っていく。
ルーファスは三本の拘束杭剣を抜いた。
一本目をレンの右へ。
二本目を背後へ。
三本目を、レオナと黒い騎士の間へ突き立てる。
白冠環が頭上で淡く回り、視界の奥へ冷たい線が走った。
「《ロック・フィールド》!」
三つの杭剣を結ぶ領域が閉じる。
黒い騎士の肩が、初めて大きく沈んだ。
黒刃を振り上げたまま、脚が石畳へ縫いつけられる。白冠隊の兵たちが息を呑み、レオナでさえ一瞬だけ動きを止めた。
止まった。
昨日は通過されただけの領域が、黒仮面の出力が安定しない今なら、確かにその身体を拘束している。
ルーファスのこめかみに汗が浮かぶ。
「殺す気はない! その影を沈めるまで耐えてくれ!」
黒い騎士の首が、ゆっくり上がった。
仮面の奥から、壊れた音が響く。
『拘束干渉……解析』
『白色戦術個体群、敵性確定』
『殺傷制限……解除申請』
フィオナが息を呑んだ。
「駄目! 聞いて、戻って!」
『申請……応答なし』
『自律判断へ移行』
『殺傷レベル、上昇』
黒い騎士の手が、黒刃を握り直した。
白い領域へ、ひびが入る。
ルーファスの目が見開かれた。
「まだ出力が上がるのか……!」
一歩。
黒い騎士の足が前へ出た。
それだけで《ロック・フィールド》の白線が一本、弾けて消える。二本目の杭剣が地面から抜け、回転しながら森の端へ突き刺さった。
黒刃が、最も近い隊員へ向く。
ユナだった。
彼女は逃げなかった。震えながら盾を前に出す。
妹を救った黒い騎士に、自分の刃を向けることを最後まで躊躇していた。その遅れを、黒仮面は容赦なく拾った。
「ユナ、下がれ!」
ルーファスが割って入ろうとする。
間に合わない。
黒刃が落ちる。
そこへ、赤い炎が噛みついた。
ゴォ、と熱風が爆ぜる。
黒い刃と紅蓮大剣が正面からぶつかり、白い領域ごと火花を散らした。
ユナが地面へ尻餅をつく。
レオナは焼けた右手で《アシュラ》を握り、黒い騎士の前に立っていた。
傷口が開き、包帯から血が落ちる。
それでも退かなかった。
「仮面を外せ」
黒い騎士は、刃を押し返しながらレオナを見る。
目の奥に、一瞬だけレンの苦しそうな揺れが戻った。
「……無理だ」
声は小さく、掠れていた。
だが、聞こえた。
レオナの胸を、喜びとも絶望ともつかない痛みが通る。声は届いている。
けれど、届くだけではもう止まらない。
黒刃の圧が増す。
レオナの右手から血が弾けた。
フィオナが叫ぶ。
「レオナ、手がもたない!」
「黙っていろ!」
「炎姫殿、俺たちは――」
ルーファスが声を上げる。
レオナは振り返らなかった。
「お前たちは里人を下げろ。こいつの相手は、私がする」
「それでは、あなたが」
「今のお前たちが前へ出れば、こいつは殺す」
ルーファスの目がわずかに揺れる。けれど問い返す余裕はない。
黒仮面の刃はもう、誰の迷いも待たない。
レオナは、黒い騎士の顔をまっすぐ見た。
昨日までなら、戻ってこいと叫ぶだけでよかった。腕を掴み、名前を呼び、離さなければいいと思っていた。
だが、今は違う。
目の前にいるのは、守るだけでは止まらない相手だ。
自分が斬らなければ、レンが誰かを斬る。
レオナは《アシュラ》を一度引いた。
黒刃が空を裂き、頬のすぐ横を抜ける。熱い風と黒い残滓が、赤い髪を揺らした。
「なら、私が止める」
《アシュラ》の刃に、炎が灯る。
小さな火だった。
火傷を負った身体で、かつてのような大炎を纏うことはできない。けれど、その炎は消えなかった。
ルーファスは、初めて完全に隊員を下げる命令を出した。
「全員、里人の退避へ! 拘束は俺一人で維持する!」
「隊長!」
「このまま前にいれば、あの人にお前たちを斬らせることになる!」
白冠隊が動く。怯える里人の前へ盾を作り、アリアと共に子どもや老人を小屋の奥へ走らせる。
フィオナは唇を噛み、レオナの背へ治癒術式を重ねた。止めればレオナは聞かない。
なら、せめて剣を握る時間を一呼吸でも延ばすしかない。
黒い騎士が刃を下げた。
足元で、黒い波紋が広がる。
『敵性高位戦力、再分類』
『対象、レオナ・ヴァレンハイト』
『排除優先度――上昇』
レオナはその声を聞き、獰猛に目を細めた。
「ようやく私を見たか」
紅蓮大剣を、両手で構える。
右手の包帯が燃え、血が刃を伝った。
「来い。今度は私が止める」
黒い騎士が踏み込む。
炎姫もまた、一歩を踏み出した。




