第55話 悪友、目を覚ます
カイ・フェルナーが目を覚ました時、最初に感じたのは喉の渇きではなく、胸の奥へ杭を打ち込まれたような痛みだった。
息を吸っただけで、傷口の内側が引きつれる。思わず身体を起こそうとして、視界が白く弾けた。
「っ……あ、これ、駄目なやつだ」
掠れた声に、窓際で薬瓶を並べていた治癒師が振り返る。手にしていた瓶が卓へぶつかり、カチンと甲高い音を立てた。
「カイ様! 動かないでください!」
「動けるなら、もう少し格好よく起きたんですけどね」
冗談のつもりだったが、笑う前に咳が出た。胸の包帯の奥に熱が走り、額へ冷たい汗が浮く。
治癒師が慌てて枕を支え、寝台へ押し戻した。
天井は白い。薬草と消毒液の匂い。
窓の外からは、遠くで兵が走る音と、何やら浮き立った市民の声が届いていた。
戦場の音ではない。けれど、穏やかな朝とも違う。
「どれくらい寝てました?」
「終局戦から……数週間です」
終局戦から帰還した重傷者は、所属国にかかわらず、まず王都中央治療棟へ運び込まれた。
特に胸を貫かれたカイは、ルクスへ送り返すどころか、寝台を動かすことさえ危険な状態だった。
「数週間」
自分で繰り返してみても、実感がなかった。
最後に覚えているのは、黒い床と、ケイオスの光。それから胸へ突き抜けた衝撃。
倒れる途中で双剣《オルト》が手を離れ、誰かの声を聞いた気もする。
悪友。
口に出したのが自分だったのか、聞こえたのかは分からない。
カイは乾いた唇を舐めた。
「終わったんですか」
治癒師は一瞬答えを迷い、それから頷いた。
「ケイオスは破壊されました。アビス・ルートも沈黙しています」
「それで、この騒がしさは?」
廊下を走る兵の声が、扉越しに漏れてきた。
黒い騎士が戻った。
北西街路で、大型機を一太刀で落とした。
カイは目を閉じた。
痛い胸の奥で、別の何かが少しだけ緩む。
「……遅いんだよ、悪友」
治癒師が怪訝そうに振り返る。
「誰か、呼べますか」
「すぐに医師を」
「医師も必要ですけど。セツナさんを。本人が来られないなら、端末だけでも持ってきてください」
その名前を出した途端、治癒師の顔に迷いが浮かんだ。今の王城で、セツナへ無造作に連絡を入れることが安全ではない。
その程度の空気は、寝起きのカイにも読めた。
「大丈夫。起きたばかりの重傷者が、解析官に終局戦の記録を聞きたいだけです」
カイは笑おうとして、途中で息を詰めた。
「……と言ってください。ちょっとだけ、急ぎで」
◇ ◇ ◇
セツナが病室へ来たのは、日が傾き始めた頃だった。
白い上着の胸元へ小型端末を抱え、扉を閉めるなり窓の遮蔽膜を下ろす。見舞いに来た人間の動きではない。
カイは枕を高くされ、どうにか半身を起こしていた。顔色はまだ悪く、呼吸も深くできない。
寝台の脇には布に包まれた双剣が置かれていたが、今の腕では柄を握るだけで終わるだろう。
「起きるの、遅い」
セツナの第一声はそれだった。
「そこ、もう少し感動してくれてもいいところじゃないですか」
「死んでないのは知ってた」
「冷たいなあ」
言いながら、カイの声は以前より弱い。軽口をひとつ投げるたび、胸の傷が抗議するように息を奪っていく。
セツナはそれを見て、寝台横の椅子へ端末を置いた。
「長く話すと傷が開く」
「なら短く聞きます。レンは?」
セツナの目が、少しだけ細くなった。
否定しない。その沈黙で十分だった。
カイは天井を見て、ひどく小さく息を漏らした。
「やっぱり、あいつだったんだ」
「何を知ってたの」
「確証なんてなかったですよ。ただ、最後の戦いで、黒い騎士が俺を見た時の間が……あれ、知らない兵器の間じゃなかった。人の顔をしてた」
「顔は隠れてた」
「そういう意味じゃないです」
胸へ痛みが差し、カイは言葉を切った。セツナが水を差し出す。
少し飲むだけで喉が痛んだが、声は戻った。
「戻ったんでしょう。なら、どこにいるんです」
「王都にはいない。レオナとフィオナがついてる」
「それは、また豪華な付き添いだ」
「笑える状態じゃない」
セツナが端末を開く。そこに映ったのは、北西街路で記録された黒い反応の乱れだった。
「レンは記憶を失ってる。黒仮面の戦闘補助だけが強く残っていて、戦闘になると本人より先に動く。昨日、レオナへ刃を向けかけた。今日も接続が深くなって、ガーディアン級改良版を一太刀で落としたあと、名前への反応がほとんど消えかけた」
カイの笑みが消えた。
「レオナさんを、覚えてない?」
「最初は知らないと言った。里へ戻ったあと、眠りながら一度だけ名前を呼んだ」
「……それ、喜んでいいのか困りますね」
「困ってる。全員」
カイは目を閉じた。
以前のレンなら、レオナの名前を聞いただけで面倒な顔をした。怖い、近い、無理だと言いながら、結局は一番目で追っていた。
カイがそこをからかうと、分かりやすく嫌そうにする。
その全部が抜け落ちて、力だけが残っている。
「通信、繋げますか」
「何のために」
「顔を見せろとは言いません。俺の声だけ、届けてください」
セツナはすぐには答えなかった。
「回線を開けば、場所を探られる可能性がある」
「もう追われてるんでしょう」
「だから、余計な穴を増やしたくない」
「だったら一往復だけ。俺が起きたことを、レオナさんに伝えないままにする方が駄目ですよ。あの人、ひとりで全部抱えてレンごと燃えかねない」
セツナは少しの間、カイを見た。
「胸に穴が開いてても、口は変わらない」
「むしろ、口くらい動かないと俺の価値がなくなるんで」
端末の光が一度、細く揺れた。
「一分だけ。音声を三重に迂回させる。長く喋ったら切る」
「十分です」
◇ ◇ ◇
白梢の里では、夜の冷気が早く下り始めていた。
封じ場に近い小屋の中で、レンはまだ眠っている。右手首へ浮かぶ黒い筋は、アリアが焚いた薬草の煙に触れるたび薄く沈むが、消えたと思った頃にまたじわりと戻ってきた。
フィオナは寝台脇で術式を維持しており、レオナは椅子へ座ったまま一度もそこを離れていない。
小さな通信石が、外套の内側で震えた。
レオナが取り出すと、セツナの声が低く流れる。
『声を上げないで。回線は短く切る』
「何かあったか」
『カイが目を覚ました』
レオナの目がわずかに開く。
フィオナも術式を保ったまま顔を上げた。
「本当?」
『本当。でも胸の傷は深い。歩けないし、長時間の戦闘は無理』
通信の向こうで、雑音に混じって咳が聞こえた。
『勝手に、もう死人みたいに話さないでもらえます?』
いつもよりずっと掠れている。それでも間違えようのない声だった。
レオナは、すぐには何も言えなかった。
終局戦の黒い床で動かなかった男が、もう二度と軽口を投げないと思っていた男が、今こうして文句を言っている。
「……遅い」
『すみませんね。寝起きが悪い方なんで』
「レンと同じことを言わせるな」
『そのレンは、そこに?』
レオナは眠る青年を見た。
「いる。だが、戻ったとは言い切れない」
『聞きました。俺のことも忘れてそうですか』
「私を知らなかった」
声が思った以上に低く落ちる。
「黒い騎士として戦えば、前より強い。だが戦いが終わると、自分が何をしたのか覚えていない。私の名前も……一度だけだ。眠ったまま呼んだ。それだけだ」
通信の向こうが、しばらく静かになった。
カイが息を整える音が聞こえる。軽く返す言葉を探したが、見つからなかったのだろう。
『レオナさん』
「何だ」
『だったら、殴ってでも起こすしかないでしょう』
レオナは目を細めた。
「お前、まだ立てないだろ」
『立てなくても、口は動きます』
いつものように笑いが続くはずだった。
けれど、通信の向こうでは苦しそうな呼吸だけが一度混じった。カイは痛みに耐えるように少し黙り、それでも声を落とさなかった。
『俺、あいつに言ってないことがあるんです。助けられた礼も、勝手に消えた文句も、それから……悪友のくせに一人で格好つけるなってことも』
レオナの指が、通信石を強く握る。
『レオナさんが名前を呼べば、あいつは一番深いところからでも振り向く。俺が何度呼んでも、たぶんそこまでは届かない。でも、戻ってきたあと、馬鹿みたいな顔で笑わせる役は俺にやらせてください』
「……笑うところまで、戻せると思うか」
『戻しますよ。あいつ、俺の軽口に嫌な顔する時だけは、かなり人間らしいんで』
フィオナが目を伏せた。
レオナは寝台の上のレンを見た。眠った顔は穏やかではない。
ときどき眉が寄り、何かに引きずられるように指が動く。
その手を握っているのは自分だ。
けれど、手を引いて帰った先で、待っている声も要る。
「死にかけが偉そうに言うな」
『生きてるから言ってるんです』
「なら、寝て治せ。お前の悪友は、私が連れて帰る」
『はい。お願いします』
その返事だけは、軽くなかった。
回線が切れる直前、カイは最後に言った。
『レンに伝えてください。起きないと、俺が勝手に悪友を名乗り続けるぞって』
通信石の光が消える。
小屋には薬草の煙と、レンの浅い呼吸だけが残った。
レオナはしばらく黙っていたが、やがて眠る青年の額へ手を伸ばした。焼けた手では触れず、無傷の指先で髪を払う。
「聞いたか。面倒な奴が起きたぞ」
レンの瞼は閉じたままだった。
だが、握っていた手に、ごくわずかに力が返った。
◇ ◇ ◇
通信が途切れたあと、カイは枕へ沈み込み、しばらく息ができなかった。
胸の奥が焼ける。少し喋っただけでこの有様なら、双剣を握るなどまだ遠い。
自分の弱さが笑えるほど分かる。
セツナが無言で薬液を点滴管へ足す。
「無茶するから」
「話すくらい、いいでしょう」
「咳で傷が開いた」
「それは、笑わせるレオナさんが悪いです」
「笑ってない」
「俺は気持ちで笑いました」
セツナは冷たい目を向けたあと、端末を閉じようとした。
カイが低く呼び止める。
「セツナさん」
「何」
「王都は、レンだと気づいたんですか」
「確証はない。黒い騎士をレオナとフィオナが連れ出したことは知られてる。終局戦でレオナが“レン”と呼んだことも記録には残ってるけど、生体照合は取れてない」
「なら、まだ隠せる」
「長くは無理。レンが消息不明なのは、軍務院も知ってる。黒い騎士が消えた時期と重ねられたら、すぐ疑われる」
カイは目を閉じた。
「ばれたら、英雄として扱ってくれますかね」
「最初だけは」
「その後は?」
「兵器として囲う。解析して、再現しようとする。白冠環を作った人たちなら、そうする」
寝起きの身体に、冷たい現実が落ちてくる。
カイは笑わなかった。
「なら、俺も死んだふりを続けてた方が便利でしたね」
「今から寝直す?」
「嫌ですよ。寝てる間に、悪友が知らない誰かにされるのは」
セツナは返事をせず、しばらく端末の画面を見ていた。
「……一つ、届けるものがある」
「レンに?」
「黒剣。あれはレンの武器。黒仮面を使うかどうかとは別に、本人へ返すべきものだから」
カイの目が少しだけ鋭くなる。
「誰に持たせるんです」
「ガロ。ヴァルクと黒剣の重さを知ってるし、軍務院に余計なことを聞かれても黙って運べる」
「乱暴な信頼ですね」
「褒めてる」
セツナは端末を操作し、短い指示を送った。
カイは胸の痛みを堪えながら、枕へゆっくり沈んだ。
「頼みます。あいつ、あの剣を持ってる時だけは、少しだけ自分を信じられる顔をするんで」
セツナはわずかにうなずき、カイの顔を見た。
「あなたが起きたことは、軍務院にもすぐ伝わる。動けない重傷者でも、終局戦の証人として呼ばれる可能性がある」
「記憶が混乱してるふりなら得意です」
「本当に混乱してるでしょう」
「半分くらいは」
カイの口元に、ようやく以前に近い笑みが浮かんだ。
「残り半分で、うまく嘘をつきます」
◇ ◇ ◇
同じ夜、王都北西外縁の戦場跡へ、白冠隊は再び入っていた。
住民の避難は終わり、壊れた荷車と機械兵の残骸だけが月明かりに濡れている。昼間の歓声はもうなく、風が焦げた布を転がす音だけがした。
ルーファスは白冠環を装着し、ガーディアン級改良版の切断面へ手を添えた。
冷たい光が視界へ流れる。
黒い騎士が残した反応は、街路の途中で幾つにも枝分かれしていた。北の廃封鎖区へ伸びる濃い線。
谷側へ落ちる線。王都へ戻るように見える残滓。
偽装だ。
それも、座標傷を扱える者が意図的に流したものだと、白冠環の補助が告げている。
「隊長、軍務院は北の廃封鎖区へ先遣を出すそうです」
ヘイルが言った。
「そこにはいない」
ルーファスは膝をついたまま答えた。
「濃すぎる。戦闘後に弱った対象が、これだけ整った反応を残すはずがない」
ユナが不安そうに周囲を見る。
「では、本物は?」
ルーファスは視界の奥に沈む、消えかけた線を追った。
白い線ではない。ほとんど見えないほど薄い、黒い染みのような痕跡だった。
山へ向かい、地図に村名すら記されていない谷の手前で一度途切れている。
だが途切れた場所の奥から、白冠環がかすかな反響を拾っていた。
黒い火と、古い封じの波長。
隠れているのではない。
あの場所そのものが、黒い反応を沈めている。
「……見つけた」
呟いた声は、自分でも嫌になるほど重かった。
通信端末が開き、軍務卿の声が入る。
「位置は特定できたか」
ルーファスは答える前に、街路の端へ置かれた小さな花を見た。昼間、助けられた少年が置いたのだろう。
折れた黒い布と一緒に、潰れずに残っている。
報告を遅らせれば、反逆だ。
報告すれば、次は英雄へ刃を向けることになる。
それでも、再生派が先にあの場所を見つければ、黒い騎士だけでなく、周囲にいる人間まで利用される。守るために近づくしかないという理屈が、ひどく卑怯に感じられた。
「北西山間部。地図上は空白地帯ですが、封鎖性の高い集落、あるいは旧施設がある可能性があります」
通信の向こうで、紙をめくる音がした。
「座標を送れ」
ルーファスは端末へ位置情報を流した。
「軍務卿。捕獲を優先するという命令は、変わりませんね」
「対象が抵抗しない限りはな」
抵抗しないはずがない。
自分を狙って来る兵を見て、黒い騎士が黙って拘束されるなど、誰が信じる。
ルーファスは目を閉じた。
「白冠隊、明朝出発の準備に入ります」
通信を切ると、白冠環の内側で、黒い線がひとつの場所へ収束した。
白梢の里。
まだ名も知らない山里へ向かう道が、冷たい光で示されていた。




