第54話 討伐命令
「不能なら、討伐せよ」
通信石の向こうから届いた声は、歓声に満ちた街路の中で、そこだけ別の空気をまとっていた。
ルーファス・エルフォードは返事をしなかった。
崩れた荷車の向こうでは、母親に抱かれた少年が黒い騎士へ手を振っている。ガーディアン級改良版を一太刀で両断した男は、その歓声にも気づかないまま、レオナの腕の中で崩れかけていた。
黒い影が頬から薄れ、仮面の下に人の輪郭が覗く。
だが、その瞬間を見たのはレオナとフィオナ、そしてアリアだけだった。フィオナがすぐに白い結界を厚くし、レオナは自分の外套を青年の頭から被せた。
外から見えるのは、黒い騎士が治癒結界の中へ運び込まれたという事実だけだった。
「ルーファス。命令を聞いたな」
軍務卿オルディスの声が重なる。
ルーファスは、白冠環の奥に残る予測線を見た。黒い騎士が駆け抜けたあとだけ、線が白い砂のように砕けている。
《ロック・フィールド》は、止めるどころか、一歩を鈍らせたかどうかさえ分からなかった。
「聞いています」
「なら、対象を拘束しろ」
「未避難の市民が残っています。負傷者も多い。ここで白冠隊が黒い騎士へ武器を向ければ、騒乱になります」
「命令を拒むのか」
「救難を優先するだけです」
結界の向こうで、レオナがこちらを見た。
鋭い目だった。頼むとも、感謝するとも言わない。
ただ、邪魔をするなら斬るという目をしている。その腕の中にいる者を、絶対に渡さない目だった。
ルーファスは通信石を握り直した。
「対象は負傷し、現在は治癒師の管理下です。まず街路を安全化し、住民を退避させます。捕獲判断はその後です」
返答を待たず、通信を切る。
隊員のユナが息を呑んだ。
「隊長、いいんですか」
「良くはない」
ルーファスは拘束杭剣を抜き、残骸へ向き直った。
「だが、俺たちは市民を守るためにここへ来た。英雄を背中から刺すためじゃない」
◇ ◇ ◇
「顔を隠して。もう影が保たない」
フィオナの声が結界の内側で震えていた。
レオナは外套に包んだ青年を抱え直す。黒い痣は右手首へ沈んでいるが、呼吸は浅く、時折、身体の奥から黒い熱が跳ねた。
「レン、聞こえるか」
返事はない。
「レオナ、今は起こさないで。目を覚ましてまた接続したら、今度は私でも押さえられない」
アリアが街路の山側へ目を向けた。
「里へ連れて戻る。封じ場の近くなら、黒い火を鎮められるかもしれない」
「行く」
レオナは迷わなかった。
「待って。王都側に、正体を見られたら終わる」
フィオナが低く言う。
「今はまだ、皆が見たのは黒い騎士だけ。結界の内側で影が崩れたことも、中にレンがいることも知られていない。ここであなたが王国兵と斬り合って連れ去ったら、自分で答えを教えるようなもの」
レオナの奥歯が噛み締められる。
結界の外から、ルーファスの声がした。
「炎姫殿。重傷者の搬送なら、救護車を一台出せます」
「私が何を運ぶか、確かめないのか」
「治癒師が命を繋いでいる最中に、幕を剥がす趣味はありません」
「お前は討伐を命じられたはずだ」
一拍、間があった。
「次にここへ来る部隊は、俺ほど迷わない。急いでください」
レオナは男の顔を見た。
敵ではない。だが命令から逃げられる人間でもないのだろう。
「借りる」
救護車が結界の脇へ寄る。フィオナは白い膜を崩さないままレンを担架へ移し、上から黒い外套を重ねた。
市民の目には、傷ついた黒い騎士が運ばれていくようにしか見えない。
「黒い騎士様を助けてくれ!」
「治してやってくれ!」
声が飛ぶ。
レオナは答えず、荷台へ乗った。アリアが御者台へ上がり、馬を山道へ向ける。
ルーファスは追わなかった。
「対象は?」
ヘイルが訊く。
ルーファスは散乱する半AI化兵の残骸を見た。
「救難の混乱で見失った。今は生きている者を運べ」
それが、自分に許される最後の猶予だと分かっていた。
白冠環の内側で、警告音が一度だけ鳴った。
『黒色反応残滓 追跡可能』
ルーファスの視界に、救護車の通った石路から山側へ伸びる細い線が浮かぶ。戦闘時の速度は追えなくても、倒れて力を落とした今なら痕跡を拾えるということだ。
胸の奥が冷えた。
これなら、上層部が討伐を命じた理由も分かる。白冠隊は黒い騎士に正面から勝つための部隊ではない。
あれが人間の身体へ戻り、弱り、逃げる時を追うための鎖だ。
通信石が再び鳴る。今度は技術顧問の声だった。
「隊長機に追跡反応が出ているはずだ。座標を送れ」
「残骸の再起動反応と重なっています。市民の退避が終わるまで精査できません」
「時間を与えれば消えるぞ」
「だからこそ、誤認で民家へ踏み込めないと言っています」
返事の代わりに舌打ちが聞こえ、通信は切れた。
ルーファスは表示を消そうとして、指を止めた。ここで追跡線を消せば、隊員まで巻き込んで反逆になる。
だが即座に送れば、あの黒い騎士は治療を受ける前に狩られる。
「隊長」
ヘイルが低く呼ぶ。
ルーファスは追跡記録を未確定扱いのまま保存した。
「救護を終えたら報告する。それまで、この街路から目を離すな」
次に会う時は、迷っているだけでは済まない。
その予感だけが、白い環を外した後も首筋へ冷たく残った。
◇ ◇ ◇
救護車が石路を外れ、樹々の濃い道へ入りかけた時、セツナから通信が入った。
『王都へ戻らないで。軍務院が黒仮面個体の捕獲命令を出した。抵抗時は討伐まで許可されてる』
レオナはレンの手を握ったまま答える。
「こちらは顔を見られていない」
『現場映像でも顔貌照合は取れてない。黒い騎士が結界内へ倒れ、搬送されたところまで。レオナが終局戦で“レン”と呼んだ記録はあるけど、今日の現場音声は歓声に潰れてる』
フィオナが息を吐いた。
フィオナは知っている。セツナも知っている。
レオナは、もう確信などという言葉では足りない。
カイは眠ったままだが、目を覚ませばほぼ気づくだろう。シオン、イヴァン、ミレーヌも、終局戦で落ちた「レン」という名を聞いている。
けれど一般市民は知らない。上層部も、まだ黒い騎士と青年の名を結ぶ証拠までは持っていない。
それを渡せば、レンは救われる前に、兵器として囲われる。
レオナは、終局戦の床を思い出した。あの場にはシオンも、イヴァンも、ミレーヌもいた。
自分が血だらけの手で黒い騎士にしがみつき、レンと呼んだ声を、三人は確かに聞いている。
それでも、誰一人として王都へ戻ったあとに問い詰めてはこなかった。知らないふりをしてくれたのか、それとも確かめる時を待っているのかは分からない。
その猶予まで、もう長くはない。
「道を隠せるか」
レオナが訊く。
『完全には無理。今のレンは黒い反応を出しすぎた。白冠環は戦闘反応の残滓を追えるはず』
アリアが御者台から振り向く。
「なら、里も見つかる」
『古い座標傷の残響へ反応を流す。北の廃封鎖区へ向かったように偽装する。でも数時間しか持たない。白梢の里へ着いたら、封じ場で本物の残り火を沈めて』
「お前が疑われるぞ」
『とっくに疑われてる。今さら一つ増えても同じ』
セツナの声は淡々としていたが、端末の向こうで指が震えているのが見えた。
『レオナ。正体を明かせば、処刑は避けられるかもしれない。でも、レンはもう一人で歩けなくなる。四天王以上の力を持つ黒仮面適合者を、王国も各国も自由にはしない』
「明かさない」
レオナは即答した。
「こいつは道具じゃない」
『分かってる。だから私も隠す』
通信が切れた。
車輪が木の根を越え、荷台が大きく揺れる。レンの指がわずかに動き、レオナの外套を掴んだ。
「……レオ……」
息に近い声だった。
レオナは身体を屈める。
「ここにいる」
目は開かなかった。けれど指だけは、確かに外套を離さなかった。
◇ ◇ ◇
王城地下会議室では、同じ戦闘記録が繰り返し映されていた。
半AI化兵を一息に沈め、ガーディアン級改良版を一太刀で割った黒い影。その直後、レオナとフィオナの結界の内側へ倒れ、救護車で戦場から消える。
軍務卿オルディスは映像を止めた。
「顔は」
「確認不能です。結界が遮っています。声紋も機械音と歓声に潰れました」
技術顧問が答える。
「終局戦で炎姫殿が黒い騎士を“レン”と呼んだ件は?」
「複数の証人がいます。ただし、レン・ノワール本人との生体照合はありません」
会議卓の端で、セツナは端末を抱えたまま黙っていた。
その時、会議卓の通信板が二つ、ほぼ同時に点灯した。
許可を待たずに回線を開いたのは、終局戦の最深部まで進み、いまなお自力で言葉を叩きつけられる十傑ハイランカーの二人だった。
一人は、日輪皇国カグラ十傑、火邑サナ。
映像の中で、彼女は治療棟の寝台に腰掛け、裂傷の残る左肩を包帯で固めていた。
もう一人は、北冥連邦ノルディア十傑、ボリス・イェーガー。
腹部を厚く固定され、戦斧を握ることも止められているらしいが、顔に浮かぶ苛立ちは戦場にいた時と変わらない。
サナが開口一番、吐き捨てた。
「証拠もないのに、よく討伐なんて言えるわね。あれがいなければ、今日の街路でも人が死んでた。終局戦でも同じよ」
ボリスが通信板の向こうで低く唸る。
「黒いのが危ないのは認める。あの力がこっちへ向けば、俺でも止められん。だが、助けられた直後に首を獲れと言うのは筋が違うだろ」
「これはアルディアの内部判断だ」
オルディスが言う。
「なら、勝手に終局戦の功績までアルディアの所有物みたいに扱わないで」
サナの声が冷える。
「黒い騎士に救われたのは、あなたたちの王都だけじゃない。私たちも同じよ」
会議室の空気が重く沈んだ。
オルディスは表情を変えなかった。
「危険だからこそ、助けられたという感情で判断はできない」
端末を抱えて立つセツナの指は冷えきっていた。
「記録上、黒仮面個体は市民へ攻撃していない。半AI化兵と迎撃機を排除し、負傷して停止した。討伐は過剰」
「君は、黒仮面に心当たりがあるのではないか」
オルディスの問いはまっすぐだった。
セツナは瞬きもしなかった。
「ない」
短い嘘だった。
「なら解析担当として答えろ。白冠隊で対象を止められるか」
セツナは映像へ視線をやる。ルーファスの《ロック・フィールド》を、黒い影がほとんど速度を落とさず横切っている。
「正面からなら無理。全滅する」
サナが冷たく笑う。
「分かりやすいじゃない。命令を引っ込めれば?」
「正面から戦わせるつもりはない」
技術顧問が別の波形を映した。
黒い反応は戦闘中に跳ね上がり、そのあと急速に落ちている。落差の末端に、細い追跡線が伸びていた。
「黒仮面は常時あの出力を維持できません。戦闘後には生体側へ戻り、接続が不安定になる。白冠環は、その残留波形を追える。接続値が落ちた時点で《ロック・フィールド》へ閉じ込め、同期波で黒仮面の再起動を乱す」
「弱った時を狙うのか」
ボリスの顔が険しくなる。
「捕獲が第一だ」
オルディスが言った。
「黒い騎士を倒したいわけではない。だが、あれを誰か一人の感情でのみ止まる存在のまま、放置もできない」
セツナは反論できなかった。
終局戦で、レオナの声が届かなければ何が起きていたか。今日、あと一拍遅れていれば、レンはレオナへ刃を向けていたかもしれない。
危険なのは事実だ。
だが、だからこそ名前を渡せない。
レン・ノワールという人間まで知られれば、保護の名で解体される。白い環の研究材料と同じ机に載せられる。
「追跡波形は私が精査する」
セツナは言った。
「誤差の大きい反応で山へ兵を入れれば、住民を巻き込む」
「許可する。ただし監視下で行え」
「好きにして」
セツナが会議室を出ようとした背へ、オルディスの命令が落ちた。
「同時に、身元の洗い出しを始めろ。終局戦に参加し、現在所在不明の者。炎姫、治癒師、解析官と接点のある者を優先だ」
足を止めれば負けだった。
セツナは扉を閉め、歩きながら端末を開く。
北へ流す偽の座標傷に、さらに三重の乱れを足した。
「間に合って」
誰にも聞こえない声だった。
◇ ◇ ◇
日が沈みきる頃、救護車は白梢の里へ滑り込んだ。
封じ道へ入ってから、レンの頬に残っていた黒い影は消えた。だが右手首の奥では、黒い筋がまだ生き物のように脈打っている。
長老は血に濡れた青年を見ると、何も訊かずに封じ場へ近い小屋を開けさせた。
フィオナが治癒結界を張る。アリアは炉へ白い薬草を放り込み、苦い煙を寝台へ流した。
レンの呼吸が少しだけ深くなる。
「追っ手は来る?」
アリアが訊いた。
「来る」
レオナは寝台の横に座ったまま答えた。
「あの隊長は、今すぐ斬りかかる男ではない。だが、命令を捨てられる立場でもない。次は白冠隊として来る」
「勝てるの? あの人たちが、クロに」
「正面からは来ない」
フィオナが疲れた声で言った。
「レンが黒仮面になれない時を狙う。今みたいに、接続が落ちて身体が壊れかけている時を」
レオナの右手が、寝台の縁で固く握られた。
眠ったままのレンの唇が、わずかに動く。
「……レオナ」
今度は、はっきり聞こえた。
レオナは息を止めた。
忘れていたはずの名が、暗いところから一つだけ戻ってくる。そのことが嬉しいのか、苦しいのか、自分でも分からなかった。
彼女は黒い痣の残る手を握り、額を俯けた。
「遅い」
声が震えた。
「本当に、遅いんだ。お前は」
◇ ◇ ◇
王都中央治療棟の一室で、夜勤の治癒師が水差しを取り替えていた。
寝台の上では、カイ・フェルナーが長い眠りの底にいる。胸元の包帯はまだ厚い。
呼吸も浅い。だが今夜は、指先にわずかな熱が戻っていた。
廊下の向こうから、兵士の声が漏れてくる。
「黒い騎士が戻ったらしい」
「北西街路で、大型機を一太刀だってよ」
「じゃあ、あいつも――」
治癒師が扉を閉めようとした時、寝台の上で右手が動いた。
指が、シーツをわずかに掴む。
乾いた唇から、掠れた声が落ちた。
「……遅いんだよ、悪友」
治癒師が息を呑む。
閉じたままだったカイの瞼が、ゆっくりと震えた。




