第53話 黒い騎士、帰還
夜明け前、白梢の里に警戒鐘とは違う音が届いた。
山の斜面に埋められた古い伝令石が、ひびの入った表面を青く明滅させている。普段なら王都との連絡に使うこともない代物らしく、アリアも長老も、その鳴り方を聞いた途端に顔を変えた。
レオナは小屋の床で眠っていた青年から離れ、セツナから預かった端末を開いた。映ったのは彼女の顔ではなく、乱れた文字列と赤い警告表示だった。
王都北西外縁、避難街路にて複数反応。
半AI化人型を確認。
再生派系統の残存信号と一致。
住民退避、未完了。
白冠隊、試験運用中のため現地投入。
「白冠隊?」
フィオナが聞き返す。
「知らん。だが、人がいるなら行く」
レオナは立ち上がり、《アシュラ》を背負った。右手の包帯には昨夜の血が滲んだままだったが、巻き直しを待つ気などないらしい。
「その手で、また戦うつもり?」
「戦わずに見ていろと言うなら、お前がここに残れ」
「残らない。だから言ってるの」
二人の声で、寝台の青年が目を開けた。
「……何があった」
レオナは一瞬だけ黙る。
昨夜、自分へ刃を向けたことも覚えていない顔だった。胸の奥がまた鈍く痛んだが、今はそこへ噛みついている時間がない。
「王都の近くで襲撃だ」
青年は身体を起こした。アリアがすぐ肩を押さえる。
「クロ、あなたは行かないで。昨日のこと、覚えてないんでしょ」
「覚えてない」
青年は否定しなかった。
「でも、襲われている人がいるなら、ここにはいられない」
その言葉だけは、レオナの知るレンと変わらなかった。
腹が立つほど、変わらない。
レオナは外套を放るように青年へ渡した。
「来い。ただし、勝手に深く入るな。私の声を聞け」
「命令か」
「命令だ」
青年は外套を受け取り、短く頷いた。
その横でアリアが鉈を腰へ差す。
「私も行く。里から下りる道は、私が一番知ってる」
長老は止めなかった。ただ青年の右手首を見て、低く言った。
「戻る場所を忘れるな。黒い火は、前へ出る理由まで食う」
青年は答えず、小屋の外へ出た。
白い木々の隙間から見える空が、遠く王都の方角だけ薄黒く染まり始めていた。
◇ ◇ ◇
山を下り始めてから、まだ半刻も経っていなかった。
王都北西外縁の避難街路は、戦のあとに作り直されたばかりの道だった。壁外の集落から王都へ物資と人を運ぶための広い石路で、今日は山間部の住民へ配る薬と食糧の荷車が何台も並んでいた。
そこへ、半AI化兵が入り込んだ。
人の形をしたものが、人の声を残したまま刃を振るう。
逃げる者は余計に混乱した。敵だと分かるまでに、一拍遅れるからだ。
「西側の荷車を盾にしろ! 子どもから下げる!」
ルーファス・エルフォードは叫びながら、三本の拘束杭剣を石路へ投げた。
一本が半AI化兵の進路の右へ刺さる。二本目は崩れた柵の脇。
三本目を足元へ打ち込んだところで、頭に装着した白い環が冷たく光った。
白冠環。
視界へ、敵の軌道が白い線となって流れ込む。腕が伸びる位置、刃が届く範囲、逃げ遅れた少女が転ぶ場所まで、考えるより先に見えてしまう。
「《ロック・フィールド》!」
三本の杭剣を結ぶ領域が淡く揺れ、走っていた二体の半AI化兵の脚が重く沈んだ。
完全には止まらない。
だが、一呼吸あれば十分だった。
「今だ、走れ!」
少女の母親が駆け込み、転んだ娘を抱いて領域の外へ転がり出る。隊員のヘイルが盾を差し込み、ユナが避難列を奥へ送った。
「隊長、まだ三体来ます!」
「領域は長く持たない。倒すより退路を開けろ!」
ルーファスは白い環の奥から、敵の中枢を刺せという線が何本も伸びてくるのを無視した。
倒せる。
だが、その間に後ろの人間が裂かれる。
白冠隊の試験運用は、本来なら残存AI一体を相手にした拘束確認だけのはずだった。そこへ人型が十体以上、さらに街路の外側では大型の機械音まで鳴り始めている。
偶然で済む数ではない。
「こちらアルバ・オーダー、軍務院へ! 予定外の半AI化個体を多数確認、住民避難を優先する! 増援を――」
通信に雑音が走った。
返事の代わりに、荷車の向こうで悲鳴が上がる。
一体が領域の端を破り、老人へ刃腕を振り下ろした。
ルーファスは間に合わない。
そう思った瞬間、赤い炎が街路を横切った。
半AI化兵の胴が焼けたまま二つに割れ、石路へ転がる。
「避難路を開けろ! 立てる者は走れ!」
紅蓮大剣を引き抜き、レオナが煙の中から歩いてきた。火傷を負った右手の包帯が炎の熱で赤く濡れる。
それでも、市民の顔には一気に安堵が広がった。
「炎姫様だ!」
「レオナ様が来た!」
ルーファスは思わず息を吐きかけ、すぐに異変へ気づく。
レオナの炎が弱い。
一撃の威力はなお凄まじいが、二体目へ振り返る動きで右腕がわずかに遅れた。傷を押して来たのだと分かる。
白衣戦装の女が後ろから結界を張り、倒れた住民を包む。
「レオナ、右を使いすぎないで!」
「注文はあとで聞く!」
フィオナ・ルーベル。十傑の治癒師までいる。
これで持たせられる。
ルーファスがそう判断した、その時だった。
街路の外れで、荷車が内側から吹き飛んだ。
白い繊維に覆われた半AI化兵が、四体まとめて現れる。胸には同じ形の白い核、頭上には歪んだ輪が浮かび、顔だけは人間の面影を気味が悪いほど残していた。
その一体が、ひび割れた声で呟いた。
「くろ……回収……」
ルーファスは聞き逃さなかった。
黒仮面を探している。
次の瞬間、山側の斜面から、黒い影が落ちてきた。
◇ ◇ ◇
最初に見えたのは、粗い外套だった。
その中から伸びた腕を、黒い影が包んでいく。手首から肘、肩、首元へと一息に這い上がり、最後に顔の半分を覆った。
墨をぶちまけたような影が形を持ち、仮面に近い輪郭へ閉じる。
レオナの喉が動いた。
「レン、待て!」
届かなかった。
青年は地面へ着くより早く、一体目の半AI化兵の懐へ入っていた。
山刀に黒い影がまとわりつき、刃が長く伸びる。半AI化兵の腕が振り上げられる前に、肘、膝、胸の核へ三つの線が走った。
一体目が崩れる。
二体目が背後から刃腕を突き出す。
青年は振り返りもしない。落ちた白い核を蹴り上げて単眼へ当て、そのまま返した黒刃で首の接続を断った。
三体目が声を漏らした。
「ま……って……俺は……」
人間の声だった。
半分潰れた顔に、ほんの一瞬だけ怯えが浮かんでいる。まだ自我の切れ端が残っているのか、それとも再生派がわざと声だけ残したのか、判別する暇もなかった。
レオナの足が止まる。
青年は止まらなかった。
黒刃が胸へ入り、白い核を切り離す。声は途中で消え、身体だけが膝から落ちた。
「レン!」
今度は怒鳴った。
青年の顔が、ほんのわずかに遅れてこちらを向く。
けれど目が合っただけだった。誰が呼んだのか確かめるより先に、四体目へ視線が流れ、次の瞬間にはその核も地面へ転がっていた。
黒い影の奥から、途切れた音が漏れる。
『敵性……排除』
『臨界域 六十……訂正……七十……』
『同調率 算定不能』
『保護対象……識別――混線』
フィオナの顔が青ざめた。
「ログが壊れてる。昨日より深い」
アリアはその場で固まっていた。
里で見た戦いとは違う。あの時も冷たかったが、まだ人の輪郭があった。
今は黒い影の方が、青年の身体を使って先に動いているように見える。
半AI化兵の群れは、十数秒で動かなくなった。
それでも青年は止まらない。
街路の奥で地面が揺れ、石路を割って大型の機体が姿を現した。
ガーディアン級改良版。
細長い四肢と、肩の上で開く二枚の迎撃板。灰冠迷宮の夜、《灰冠の主》を守り、レオナの斬撃を何度も遮った迎撃機――その上位互換機だった。
白冠隊の隊員が息を呑む。
「ガーディアン級改良版……試験運用で相手にするものじゃありません!」
ルーファスは拘束杭剣を握り直した。
「領域を前へ移す! 炎姫殿が斬り込むまで三秒作れ!」
「必要ない」
声がした。
青年だった。
短く、平らな声。
黒い仮面の奥で、瞳だけがガーディアンを捉えている。
ガーディアンの肩板が開く。青白い砲光が集まり、その射線の先には避難しきれていない住民がいた。
レオナは炎を上げる。
だが、青年の方が早かった。
一歩。
石路が沈む。
黒い軌跡が、白冠隊の拘束領域を横切った。ルーファスの白冠環へ予測線が大量に流れ込むが、どれも青年の背中へ届く前に崩れていく。
「追えない……?」
ルーファスが呟いた。
自分だけが扱えるはずの《ロック・フィールド》を通過してなお、あの黒い影はほとんど速度を失っていない。
ガーディアンが砲撃を放つ。
青年は真正面から消えた。
いや、青い光が通るわずかな脇を抜けたのだ。黒刃を引いたまま跳び上がり、ガーディアンの胸へ向けて、たった一度だけ振る。
音は遅れて届いた。
ズン、と大型機の上半身が揺れる。
青い砲光が細く割れ、胸の核まで一直線に黒い切断面が走っていた。
ガーディアンは、もう次の動作へ移れなかった。
巨体が左右に割れ、街路へ倒れる。
ドォン、と砂埃が噴き上がった。
しばらく、誰も声を出せなかった。
最初に叫んだのは、荷車の陰にいた少年だった。
「黒い騎士だ!」
その声で、堰が切れた。
「黒い騎士が帰ってきた!」
「本当にいたんだ!」
「助かったぞ!」
「黒い騎士様!」
歓声が街路を埋める。
泣きながら手を合わせる女がいた。傷ついた兵が、立てないまま剣の柄を胸へ当てた。
王都で灯りを捧げられていた英雄が、目の前でまた人を救ったのだ。
だが、レオナは笑えなかった。
歓声の中央で、黒い騎士は倒れた人を見ていない。
助けを求める声にも、礼を告げる声にも、何一つ反応しない。砕けたガーディアンの核を見下ろし、まだ動く可能性だけを確かめるように黒刃を上げた。
「もう終わった!」
レオナが駆け寄り、背中へ声を叩きつけた。
黒刃が止まる。
すぐではない。
一拍、遅れて。
黒い騎士はゆっくり振り向いた。
仮面の下から、ひどく掠れた声が漏れる。
「……敵性、残存なし」
「私はそんなことを聞いていない」
レオナは焼けた手で、青年の腕を掴んだ。
黒い影が触れた場所からジリ、と熱を返してくる。それでも離さない。
「戻れ。私を見ろ」
仮面の奥の目が、ようやくレオナへ合った。
『自我境界……応答遅延』
『呼称照合……レ……オ……』
『障害。深層優先』
ノイズが耳障りに途切れた。
青年の唇が、わずかに動く。
「……あんたは」
そこまで言ったところで、膝が揺れた。
レオナが支えるより先に、フィオナが結界を重ねる。黒い影は薄くなったが、完全には消えず、青年の頬へ墨のように貼り付いていた。
「触らないで。まだ接続が切れてない!」
「切れないなら引き剥がす」
「あなたまで焼ける!」
「もう焼けている!」
声を荒げたレオナの耳へ、周囲の歓声がまだ届いている。
黒い騎士が帰ったと、人々は喜んでいる。
その腕の中で、レンはまた自分の名前を失いかけていた。
◇ ◇ ◇
王城地下の観測室では、セツナが立ったまま画面を睨んでいた。
北西外縁の観測球が拾った戦闘記録が、次々と転送されてくる。半AI化兵の停止。
ガーディアン級改良版の消失。黒い反応の急上昇。
技術員が震える声を出した。
「ガーディアン級改良版が、一撃です。王都決戦時の黒色戦術個体より、処理速度が上がっています」
「黙って記録を封鎖して」
セツナは指を走らせる。
だが、遅かった。
白冠隊の試験映像は、軍務院系統へも直結している。黒い騎士が姿を現した時点で、隠せる段階は終わっていた。
セツナの端末へ、フィオナから短い通信が届く。
レン確保。意識不安定。
黒仮面反応、増悪。
レオナ接触中。
セツナは唇を噛んだ。
「見つけたのに……」
生きてさえいればいいと思っていた。
帰ってきてくれれば、あとはどうにかできると思っていた。
だが戻ってきた反応は、以前より強く、以前より壊れている。
「フィオナ。レオナから引き離さないで。名前への反応を残す。何があっても、完全に沈ませないで」
送信を終えた時、端末の隅に別回線の開通表示が浮かんだ。
軍務院。
その文字を見ただけで、セツナは嫌な予感がした。
◇ ◇ ◇
王城西棟の地下会議室では、軍務卿オルディスが同じ映像を見ていた。
隣に立つ技術顧問が、黒い騎士がガーディアン級改良版を斬り割った瞬間で映像を止める。
「白冠環の予測範囲を越えています。《ロック・フィールド》による減速も、ほぼ無効」
オルディスは黙っていた。
画面の端では、市民が歓声を上げている。
英雄の帰還を喜ぶ声だ。
けれど軍務卿の目が見ているのは、その中央で、半AI化兵の人間の声に一度も止まらなかった黒い刃だった。
「白冠隊との敵対は確認されていません」
技術顧問が言う。
「現時点では、な」
オルディスの声は低かった。
「次もそうだと、誰が保証する」
「炎姫が腕を掴んだことで、攻撃動作は停止しています」
「それは制御ではない。偶然つながっている細い糸だ。その糸が切れた時、王都はあれを止められない」
技術顧問は返事をしなかった。
画面の中で、黒い騎士を囲む市民の顔が明るく見える。救われた者たちにとっては、理屈など必要ない。
目の前で命を救ってくれた者が英雄だ。
だからこそ、オルディスの顔は険しくなった。
「前より強くなっている」
地下室に、その言葉だけが沈んだ。
オルディスは通信端末を取った。
◇ ◇ ◇
瓦礫と歓声の中で、ルーファスは白冠環を外せずにいた。
環の内側で、黒い騎士を囲む予測線だけが何度も弾かれて消える。さっき市民を救った男。
自分たちでは間に合わなかった大型機を、一太刀で止めた男。
危険なのは分かる。
だが、今この場であの男がいなければ、死んでいた人間が何十人いたかも分かっている。
レオナの腕に支えられた青年の横へ、フィオナが膝をついている。少し離れた場所では、山の服を着た若い女が、怯える子どもを母親のもとへ返していた。
敵はまだ残っているかもしれない。
それなのに、通信が入った。
軍務卿直通の識別音だった。
「ルーファス・エルフォード。聞こえるか」
ルーファスは黒い青年を見た。
「聞こえています」
「黒仮面個体の再出現を確認した。現時点をもって、白冠隊の任務を更新する」
喉の奥が乾く。
「待ってください。対象は市民を救助しました。少なくとも、今は敵ではありません」
「それでも制御できない」
オルディスの声は低く、揺れなかった。
「黒仮面を捕獲せよ」
ルーファスの指が、拘束杭剣の柄へ触れる。
「抵抗された場合は」
通信の向こうで、わずかな沈黙があった。
「不能なら、討伐せよ」
ルーファスは答えられなかった。
目の前では、先ほど救われた少年が、泣きながら黒い騎士へ手を振っている。
歓声だけが、何も知らずに大きくなっていった。




