第52話 レンと呼ぶな
「レン」
レオナがもう一度呼んでも、青年の目は揺れなかった。
知らない音を聞いた時の顔だった。敵意はない。
警戒も薄い。ただ、自分に向けられた名なのか分からず、どう返せばいいのか測っている。
その空白が、レオナの胸を焼けた手より深く刺した。
レオナは、青年の顔を見たまま動けなかった。
生きている。
肩の傷も、右手首に沈んだ黒い痣も、終局戦で掴んだ身体と同じだった。
けれど、その目だけが違った。
こちらを見ているのに、何も引っかからない目だった。
「彼を知ってるの?」
アリアが青年の前へ半歩出る。鉈は抜かないまま、いつでも動ける位置に立っていた。
レオナの視線が、その距離で止まる。
「知っている」
自分の声が、ひどく低く聞こえた。
「そいつはクロじゃない。レン・ノワールだ」
青年の眉がわずかに動く。
「レン……ノワール」
何かを思い出した声ではなかった。聞かされた名前を、形だけ確かめる声だった。
フィオナが近づく。青年は山刀を握り直したが、刃先は向けなかった。
「傷を診たい。私はあなたを傷つけるつもりはない」
「治療師か」
「そう。前にも、あなたを診ていた」
青年は迷ったあと、右手を出した。
フィオナは手首の痣へ指を当て、次に腕の内側の焼け痕、肩口の古い傷を確かめた。最後まで見終えると、手を離さないまま言った。
「間違いない」
レオナは、何も返せなかった。
青年が手を引く。
「俺は、その名前を知らない」
包帯の下で、レオナの右手が勝手に握られた。開いた傷が痛んだが、その痛みの方がまだましだった。
「知らないで済むと思うな」
「レオナ」
フィオナが止める。
「うるさい」
レオナは泥を踏み、青年の前まで行った。アリアが動きかけたが、青年が片手で止める。
「いい」
その声を聞いた途端、レオナの手が《アシュラ》の柄へかかった。
だが、抜かなかった。
「里へ戻る」
アリアが言った。
「あなたの手も、この人の傷も、このまま話せる状態じゃない。ここにいれば、また機械兵が来る」
レオナは青年から目を離さなかった。
どれだけ見ても、その目は自分を知らないままだった。
◇ ◇ ◇
白梢の里へ着く頃には、空は夕方の色へ沈み始めていた。
レオナたちが里へ入ると、家々の戸口から視線が集まった。赤い髪と大剣を見て足を止める者、白い外套のフィオナへ傷病者を見る目を向ける者、そして青年が連れてきた二人を怖がる者。
アリアは何も説明せず、青年を自分の小屋へ入れた。レオナが続こうとすると、入口で振り返る。
「剣は抜かないで」
「私に命令するな」
「クロを傷つける気なら、入れない」
「だから、その名で呼ぶな」
声が鋭くなった。
青年がアリアの後ろから言う。
「俺は、クロで困っていない」
レオナの手が《アシュラ》の柄で止まった。
フィオナが間へ身体を滑り込ませる。
「入ろう。誰も刃を抜く必要はない。話さなければ、もっと悪くなる」
小屋の中には薬草の匂いと、乾かしきれない湿気が残っていた。青年は炉の近くへ腰を下ろし、アリアがその前に水を置く。
自然な動きだった。この数日、何度も繰り返したのだろう。
レオナには、それがひどく気に入らなかった。
戸口に影が差した。
杖をついた長老が、アリアの肩越しにレオナを見ていた。赤い髪と大剣へ一度だけ視線をやり、静かに頭を下げる。
「王都の炎姫が、山奥の里まで何の用かと思えば」
「迎えに来た」
レオナは迷わず答えた。
長老は青年を見た。青年はその言葉を聞いても、立ち上がろうとも、喜ぼうともせず、ただ困ったように黙っている。
「迎えられる者なら、な」
レオナの目が鋭くなる。
「どういう意味だ」
「ここへ流れ着いた時、この者には名がなかった。黒い火だけが残り、昨日は里を守ったが、戦っていた間の記憶が欠けている。身体を連れて帰るだけなら簡単だろう。だが、中身まで王都にあるとは限らん」
「それでも連れて戻る」
「なら、まず本人の声を聞け。失った者の代わりに、周りが怒鳴って名を決めても戻りはせん」
レオナは返しかけた言葉を飲み込んだ。
長老はアリアへ視線を移す。
「話をさせなさい。ただし、日が落ちる前に見張りを増やせ。昨日の機械兵が、偶然で済むとは思えん」
「はい」
長老はそれだけ言い、戸を閉めて去っていった。
フィオナがこちらを見もせずに言う。
「睨まない」
「睨んでいない」
「睨んでる」
青年が水を一口飲む。
「俺は、あんたたちとどういう関係だった」
静かな問いだった。
レオナはすぐに答えられなかった。どういう関係だったのか。
王都最強とFランク回収係。四天王と小隊長。
黒い騎士を追う者と、正体を隠す者。命令する側と、勝手に無茶をする側。
それだけで済むほど、遠くなかった。
「お前は、私の部下ではない」
レオナは言った。
「だが、私の前で何度も死にかけた。私の命令を聞かずに前へ出て、勝手に誰かを助けて、そのたびに傷だらけで戻ってきた」
「……そうか」
「そうか、で終わらせるな」
「覚えていないものに、どう答えればいい」
青年の言葉に、レオナは詰まった。
声は冷たいわけではなかった。本当に困っているだけだ。
そこが余計に苦しい。
フィオナは青年の正面へ膝をつき、黒い痣の出ている右手へ薬布を当てた。
「頭の中で声は聞こえる?」
「声というより、音だ。戦う時だけ、ノイズの奥から言葉の欠片が出る」
「どんな言葉?」
「敵性。左。核。たぶん、その程度だ」
フィオナの顔が強張る。
「黒仮面の戦闘補助が残っている」
アリアが聞き返す。
「黒仮面?」
レオナは青年を見たまま答えた。
「こいつが王都で、黒い騎士と呼ばれていた時に使っていたものだ」
「俺が?」
青年は右手を見た。
驚いているはずなのに、その表情の動きは薄い。自分の話を聞いているというより、危険な誰かの記録を渡されているようだった。
「王都を救ったのか」
「救った」
「人を殺したか」
レオナは黙った。
フィオナが静かに言う。
「敵は斬った。人を守った。でも最後に、自分では止まれなくなりかけた」
青年の指が薬布の上でわずかに動いた。
「だから、あんたの手は焼けているのか」
レオナは自分の包帯を見なかった。
「お前を止めるために掴んだ」
「なぜ、そこまでした」
その言葉は、刃よりもまっすぐ入ってきた。
レオナは笑いそうになった。笑える話ではないのに、あまりにも分からなさそうに聞くから、怒るより先に何かが崩れた。
「知るか」
「レオナ」
「私だって、いちいち説明できるか。お前が消えた。探した。生きていると言い張った。見つけたら、私を知らない顔で立っていた。それで平気な顔をしていろという方が無理だ」
最後の方は、声が掠れた。
青年は黙っていた。
アリアも何も言わない。
レオナは息を整えようとしたが、うまくいかなかった。目の奥が熱い。
こんなところで泣く気などない。目の前の男に知らない女の涙として見られるなど、耐えられるものか。
青年が低く言った。
「あんたが泣く理由も、分からない」
レオナの顔から表情が消えた。
「……泣いていない」
「そうか」
「そうかじゃない」
立ち上がる。
右手が痛んだ。それでも構わず、青年の胸元を掴んだ。
粗い布の下に、確かに人の体温がある。黒い仮面でも、影でもない。
探していた男の身体がここにあるのに、中身だけが遠い。
「戻ってこい」
青年が目を伏せる。
「どこへ」
「私の知っているお前にだ」
「分からない」
「知らない場所へ行くな。勝手に名前を捨てるな。私を置いて消えるな」
胸元を掴む指に力が入った。焼けた手の皮膚が裂けたのか、包帯へ新しい赤が滲む。
青年の瞳が一瞬だけ揺れた。
痛みに反応したのか、声に反応したのかは分からない。
「俺は、その名前を知らない」
レオナの手から力が抜ける。
青年は続けた。
「呼ばれると、胸が痛む。何かを思い出しそうになる。でも、それが俺なのか、あんたが望む誰かなのか、分からない」
それは拒絶ではなかった。
だからこそ、レオナには返す言葉がなかった。
◇ ◇ ◇
夜になり、里の空気が変わった。
最初に気づいたのは青年だった。
小屋の戸口近くに座っていた彼が、会話の途中でふいに顔を上げた。アリアが薬草を束ねる手を止める。
「どうしたの」
「音が消えた」
「音?」
レオナは《アシュラ》へ手を置く。
外では風が白木の葉を鳴らしている。炉の火も燃えている。
だが、たしかに、さっきまで聞こえていた見張りの声と犬の鳴き声が途切れていた。
次の瞬間、鐘が乱暴に鳴った。
カン、カン、カン、と間を置かずに叩かれる。
「北じゃない、東側!」
アリアが鉈を掴み、戸を開ける。
里の東端で、白い光が走った。
木柵が内側へ弾ける。逃げかけた里人が転び、その背後を人型の影が歩いてくる。
昨夜現れた半AI化兵と似ていたが、今度の個体は頭上に割れた白い輪を持ち、胸元から白い線が脈のように点滅していた。
一体ではない。
柵の外に四体。屋根の上に一体。
「クロ、下がって!」
アリアが叫ぶ。
半AI化兵の単眼が一斉に青年へ向いた。
「黒反応、再捕捉」
「対象、回収」
人間の喉から出ているのに、人間の息が混じらない声だった。
青年の右手首が黒く染まる。
フィオナが息を呑んだ。
「レン、待って。深く入ったら――」
青年はもう聞いていなかった。
戸口に置かれていた山刀を取り、外へ出る。その首筋へ黒い線が這い上がり、頬の端を薄く覆った。
仮面ではない。けれど、あの黒い騎士の影がそこに重なって見えた。
一体目が腕を刃に変えて迫る。
青年は正面から入った。刃を避けるのではなく、相手の肘へ山刀の柄を叩き込む。
関節が砕けた瞬間に刃を返し、首元の白い繊維を断つ。倒れかけた身体を蹴って二体目の進路へぶつけ、その陰から滑り込み、膝裏と脇腹を二度だけ切った。
二体目が沈む。
躊躇がない。
怒りもない。
敵が落ちるより先に、次の敵へ目が向いている。
レオナは大剣を抜いて走った。屋根から飛び降りた一体が、逃げる子どもへ向かっている。
「させるか!」
炎をまとわせ、踏み込む。
だが右手に激痛が走り、炎の軌道が歪んだ。半AI化兵の肩を焼くだけで止めきれない。
子どもが転ぶ。
青年がそこへ割って入った。
一瞬だった。
黒い影が地面を滑り、半AI化兵の胸へ山刀が深く刺さる。相手はまだ動いた。
人に近い顔の半分が歪み、機械の単眼ではない方の目が青年を見た。
「たす……け……」
その声だけは、人間だった。
青年は止まらない。
刃を捨て、胸の裂け目へ手を入れた。白い核を掴み、迷いなく引き抜く。
ブチ、と湿った音がした。
個体が崩れる。
救われた子どもが、泣くのも忘れて青年を見上げていた。
青年は見返さなかった。白い核を踏み砕き、次の敵へ向き直る。
レオナの背筋に冷たいものが走った。
正しい。
戦場で迷えば、子どもが死んだ。今の一撃は間違っていない。
それでも、かつてのレンなら、あの声に一瞬だけ顔を歪めた。間に合わなかった誰かを見た時、勝った顔などできず、自分が傷ついたように息を詰めた。
今の青年には、その揺れがない。
残る二体が同時に跳ぶ。
青年の頬を覆う黒い影が、さらに広がった。
頭の奥で聞こえているのだろう。彼の唇が、わずかに動く。
「左。遅い。核、二つ」
人の言葉ではなく、処理の確認だった。
一体の足を断ち、倒れた背へ乗り、胸の核を抜く。もう一体が背後から刃を振るう前に、抜いた核をその単眼へ叩き込み、怯んだ首を折る。
白い光が二つ、ほとんど同時に消えた。
静寂が落ちた。
五体の残骸が、里の土に沈んでいる。
青年はその中心で立っていた。右手から黒い影が滴るように揺れ、頬の半分は仮面の欠片のように覆われている。
「レン」
レオナが呼んだ。
反応はない。
青年は森へ顔を向ける。
「まだいる」
「もうやめろ」
レオナは近づき、黒く染まった手首を掴んだ。
その瞬間、青年の身体が反射で動いた。
山刀の切っ先が、レオナの喉元へ止まる。
近い。
終局戦で、あれほど必死に掴んだ距離と同じだった。
だが今度の瞳には、苦しさすらない。対象を判別し、邪魔なら排除する。
その手前で止まっているだけの目だった。
フィオナが声を失う。
アリアは鉈を握ったまま動けない。
レオナは刃を避けなかった。
「レン」
もう一度呼ぶ。
青年の瞳が、わずかに揺れる。
黒い影が頬から剥がれるように沈んだ。山刀が手から落ち、土の上へカランと転がる。
青年の膝が崩れた。
レオナは焼けた右手で、その身体を受け止めた。痛みが走る。
けれど、もう離す気はなかった。
青年が掠れた声を落とす。
「……何が、あった」
レオナは答えられなかった。
さっきまで何をしていたのかも、誰を助けたのかも、自分へ刃を向けたことも、何も残っていない顔だった。
生きて戻った。
身体は戻った。
けれど、今ここで戦っていたのは、レンではない。
黒仮面だけが、帰ってきている。
レオナは青年を抱える腕に力を入れた。
怒鳴ることも、泣くこともできず、ただ喉の奥で言った。
「……お前、そのままだと戻れなくなるぞ」




