第51話 炎姫、山へ
王都北門が開いたのは、朝の鐘が鳴るより少し前だった。
まだ店も開かず、修復中の石壁には薄い霧がかかっている。門番は通行証を受け取ると、そこに記された任務名を二度見した。
北西山間部・旧施設反応調査。
黒い騎士の名も、レン・ノワールの名もない。
「同行は二名だけですか」
「十分だ」
馬上のレオナが短く返す。黒い外套の下には軽装の戦衣を着ており、背には紅蓮大剣がある。
右手には新しい包帯が巻かれていたが、手綱を握る指先はすでに少し赤く滲んでいた。
フィオナが隣の馬からその手を見る。
「門を出る前から開いてる。私が巻いた意味がない」
「握れるなら問題ない」
「その判断をするのは私」
門の内側に、セツナが立っていた。徹夜明けの顔で端末を抱え、いつもの白い上着の裾を朝風に揺らしている。
「レオナ」
呼ばれて、レオナは馬を止めた。
セツナが小型の端末を投げる。レオナは左手で受け取った。
「反応を簡易表示するようにしてある。光点が消えたら、そこで待って。追って動けば余計に座標がぼける」
「待てると思うか」
「思わないからフィオナに言ってる」
フィオナが小さくうなずく。
「止める」
「必要なら縛って」
「おい」
セツナはレオナを無視して続けた。
「上には旧施設の残存反応調査で通した。黒仮面個体の追跡だとは出してない。軍務院より先に見つけて」
「言われなくてもそうする」
「見つけたあとも、先走らないで」
レオナは答えなかった。
見つけた時、自分が何をするかなど自分でも分からない。殴るのか、抱き締めるのか、怒鳴るのか。
まず生きていることを確かめて、そのあと考えるしかなかった。
セツナは視線を逸らす。
「……連絡が切れたら、三日で戻って。戻らなかったら私が別の手を使う」
「別の手とは何だ」
「聞かない方がいい」
フィオナが馬の腹を軽く蹴った。
「行こう。ここで話してる間にも反応は薄くなる」
レオナは端末を外套へ押し込み、手綱を引く。朝靄の向こうへ二頭の馬が駆け出し、王都の壁が少しずつ遠ざかっていった。
セツナは門の前でその背を見送り、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「間に合って」
◇ ◇ ◇
王都北西の道は、半日も進むと石畳が途切れた。
浅い谷に沿った土道は雨でぬかるみ、馬の蹄が沈むたびに泥が跳ねる。遠くには白く霞んだ山が連なり、道の左右には人の手が入らなくなった監視塔が崩れたまま残っていた。
レオナは何度目か分からないほど、外套の内側の端末を見た。
光点は弱い。消えたと思えば、少し離れた位置でまた浮かぶ。
誰かが移動しているというより、地面の下を流れるものに引っ張られているような揺れ方だった。
「見る回数を増やしても、近くはならない」
フィオナが言う。
「分かっている」
「あなたの“分かっている”は、今日は特に信用できない」
「お前もセツナに似てきたな」
「あなたが同じことを言われ続けるから」
レオナは不機嫌そうに端末をしまった。
右手がずきりと痛む。馬の揺れだけで包帯の下に熱が溜まり、掌が心臓のように脈を打つ。
終局戦で黒い光を受け止めた傷だ。治療で皮膚はつながっても、深く焼かれた痛みまでは簡単に消えない。
フィオナの目はそこを見逃さなかった。
「次の沢で休む」
「要らない」
「水を飲ませる。馬に」
「……好きにしろ」
「最初からそうする」
沢の脇で馬を止めると、レオナはすぐに端末を開いた。フィオナはため息をつきながら、彼女の右手を取る。
「開ける」
「急げ」
「急かすならきつく巻く」
「性格が悪いな」
「患者にだけね」
包帯が解かれる。掌から手首にかけて、赤黒い火傷の痕が残っていた。
剣を握り続けたせいで皮膚の一部が裂け、細い血が流れている。
フィオナは薬液を落とした。
レオナの肩が、ほんの少しだけ跳ねる。
「痛いなら痛いと言えばいいのに」
「言って治るのか」
「我慢しても治らない」
「なら同じだ」
フィオナは返事をせず、包帯を巻き直した。
沢の水音だけが続く。
レオナは山の方角を見たまま、ふいに言った。
「覚えていなかったら、どうする」
フィオナの手が一度だけ止まる。
「レンが?」
「あいつの欠損は、もう軽いものではなかった。黒仮面に呑まれ、父親の核まで取り込んで、最後は座標傷の向こうへ消えた。生きていたとしても……」
続きを口にできなかった。
もし、名前を呼んでも振り向かなかったら。
フィオナは包帯を結び終えると、レオナの手を離した。
「覚えていなければ、教える」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない。でも、忘れたことを責めても帰ってはこない」
フィオナは馬へ戻りながら続ける。
「あなたが覚えているなら、まだ繋げる。レンが誰だったかを、誰か一人でも手放さないなら」
レオナは包帯の巻かれた右手を見た。
「……手放すわけがない」
その声は、山の風に消えるほど小さかった。
◇ ◇ ◇
日が傾きかけた頃、端末の光点が大きく跳ねた。
山へ入る旧監視路の手前だった。道は二つに割れ、片方は土砂で塞がり、もう片方は細い獣道のように森へ続いている。
朽ちた道標には文字がほとんど残っていなかった。
レオナは馬を降りた。
「近い」
フィオナも端末を覗く。
「待って。反応が一つじゃない」
「どういうことだ」
「同じ場所に別の機械反応が重なってる。小型だけど、数が――」
森の奥で枝が折れた。
バキ、と乾いた音が一つ。次いで低い機械音がいくつも重なる。
レオナは《アシュラ》を抜いた。
「下がれ」
「私は治癒師であって、荷物じゃない」
「守りながら斬る余裕があると思うか」
「手を壊して倒れたあなたを運ぶ余裕もない」
言い終わらないうちに、木々の間から黒い影が飛び出した。
狼型ビーストが三体。装甲は古く、ところどころ錆びている。
だが動きは揃っていた。後方には、四脚の細い偵察機が二体。
頭部の青い光がこちらを測るように明滅している。
レオナは一歩前へ出る。
炎が剣身へまとわりついた。
「消えろ」
横薙ぎの一閃。
赤い火が走り、先頭の狼型二体がまとめて裂ける。いつもの彼女なら、そのまま残りも焼き払っていた。
だが炎が途中で揺れた。
右手の傷へ、熱した針を突っ込まれたような痛みが走る。握りが一瞬緩み、斬撃の端が逸れた。
残った一体が低く身を沈め、フィオナへ向かう。
「フィオナ!」
白い結界が咄嗟に開いた。
狼型がぶつかり、結界が大きくたわむ。フィオナの靴が泥の上を滑り、背中が木へぶつかった。
レオナが踏み込み、狼型の横腹へ大剣を叩き込む。装甲が割れ、同時に右手の包帯が赤く染まった。
「っ……!」
偵察機の頭部が開き、青い針弾が連続で放たれた。レオナは剣を立てて弾くが、一発が肩を掠め、外套が裂ける。
フィオナが結界を重ねる。
「レオナ、炎を抑えて!」
「抑えて斬れる数か!」
奥からさらに音がする。木々の間に、青い単眼が四つ、五つと増えていた。
眠っていた残党機が反応に寄せられているのか、それとも最初から待っていたのか。
端末の光点は、敵の反応に埋もれてちらついている。
ここで退けば、座標を失う。
だが、この手で無理に焼けば、山へ入る前に剣が握れなくなる。
レオナが歯を食いしばった、その時だった。
森の上方で、黒いものが揺れた。
鳥ではない。
人影だった。
斜面の岩を蹴り、一息で木々の間を落ちてくる。粗い村布の上着。
仮面はない。手には山刀のような短い刃を握っている。
その右手首から、黒い影が細くにじんでいた。
レオナの呼吸が止まった。
見間違えるはずがない。髪が少し伸び、頬は痩せ、着ているものも知らない。
けれど、あの足運びも、剣を握る前にわずかに右肩を落とす癖も、何度も見てきた。
レン。
黒い影は、レオナの横を通り過ぎた。
青年は彼女を見なかった。
最初の偵察機が針弾を放つより先に懐へ入り、山刀を脚関節へ滑らせる。刃が浅いと見ると、迷わず蹴りを入れて関節を逆へ折った。
機体が崩れたところへ手を差し込み、青く光る小さな核を引き抜く。
ガリ、と金属が擦れた。
核を捨てる。踏み砕く。
光が消える。
次の機体が横から襲う。
青年は倒れた残骸の脚を盾代わりにし、針弾を受けたまま前へ出た。残骸を投げつけ、敵が傾いたところへ刃を突き入れる。
首ではない。胸でもない。
ただ、動力だけを正確に壊す。
速い。
強い。
けれど、レオナの知るレンの戦い方とは少し違った。
以前のあいつは、誰かを助ける時ほど無茶をした。守れたことに安堵して、遅れて傷の痛みに顔を歪めた。
今の青年には、それがない。
フィオナの前へ立つでもなく、レオナの怪我を見るでもなく、目の前にある敵を順番に消している。敵が人を狙うから壊す。
ただそれだけの処理に見えた。
「レン……?」
フィオナの声が、ひどく小さく落ちた。
青年は反応しない。
森の奥から、狼型が二体同時に飛び出す。
青年の頭がわずかに動いた。黒い影が腕の周囲で揺れる。
一体目の爪を身体一つ分だけ外し、首下へ刃を入れる。二体目の牙が背へ届く直前、レオナが炎を走らせた。
狼型が焼けながら横へ吹き飛ぶ。
青年が初めてレオナを見た。
視線が合った。
その瞳には、警戒はある。敵ではないと測る冷静さもある。
だが、再会の揺れはどこにもない。自分を見る目ではなく、戦場に突然加わった一人を見る目だった。
レオナの右手から血が落ちる。
青年はそれを一瞬見たが、何も言わなかった。
最後の偵察機が逃げるように山側へ跳んだ。
青年は地面を蹴る。レオナより先に追いつき、背後から刃を機体の継ぎ目へ押し込んだ。
そのまま核を抜き、泥の上へ落として踏み潰す。
バキン、と硬い音がした。
森が静かになる。
焦げた油の匂いだけが残った。
◇ ◇ ◇
フィオナはすぐレオナのもとへ駆け寄った。
「手を見せて」
「あとだ」
「あとじゃない。もう握れなくなる」
「今は黙れ」
レオナの声は低かったが、怒りではなかった。視線は少し離れた場所に立つ青年から外れない。
青年は山刀についた黒い油を布で拭っていた。まるで日常の作業のような手つきだった。
黒い影はもう手首の奥へ沈み、粗い袖から覗く皮膚には薄い痣しか残っていない。
フィオナも、その顔を見たまま動けなくなる。
「本当に……」
レオナは一歩進んだ。
泥を踏む音がする。
青年が顔を上げ、山刀を下ろした。敵意はない。
だが、近づく相手への最低限の警戒は消していない。
レオナの唇が動く。
言いたいことは、山ほどあった。
生きていたのか。
なぜ戻らなかった。
どこにいた。
誰に傷を見せた。
何も覚えていなくても、まず一度殴らせろ。
けれど、どれも声にならなかった。
青年の目が、あまりにも遠かった。
「お前……」
ようやく出た声は、ひどく頼りなかった。
青年はレオナを見て、それからフィオナを見る。二人の装備と怪我、倒れた機械兵、山へ続く道を静かに確かめるように視線を動かした。
そして、短く訊いた。
「知り合いか」
何かが、胸の真ん中へ突き刺さった。
剣なら受けられた。炎なら焼き返せた。
黒い光なら、もう一度でも掴みに行けた。
だが、その一言だけは、どう受ければいいのか分からなかった。
フィオナが息を呑む。
「あなた、自分の名前は……」
青年は首を横に振った。
「分からない。里では、クロと呼ばれてる」
「クロ……」
フィオナの声が揺れる。
レオナは動けなかった。
クロ。
あれだけ呼んだ名前が、もう本人の中にない。
黒い騎士へ呑まれかけたあの時、血まみれで叫んだ声は届いた。確かに届いたはずだった。
なのに、戻ってきた男の中には、それすら残っていない。
青年はレオナの右手へ視線を落とした。
「怪我をしている。治療した方がいい」
その言い方も、知らない相手へ向けるものだった。
レオナの喉が震えた。
怒鳴ればいい。いつものように命じればいい。
忘れるな。思い出せ。
勝手に消えるな。私を知らないなどと、ふざけたことを言うな。
だが、声を荒げたら目の前の男がさらに遠くへ離れていきそうで、何もできなかった。
森の奥から、足音がした。
「クロ!」
女の声。
山の服を着た若い女が、短い鉈を握って斜面を駆け下りてくる。彼女は青年の無事を見て息をつき、すぐにレオナたちへ警戒の目を向けた。
青年が言う。
「アリア。機械兵がいた。二人は襲われていた」
「二人?」
アリアはレオナの炎の残滓と、フィオナの白い外套を見て目を細めた。
レオナは、その名も距離も受け入れられなかった。
アリア。
自分が探し続けた間、レンをクロと呼び、そばにいた女。
そう理解した瞬間、胸の奥にどうしようもない焦りが込み上げる。
フィオナがそっとレオナの腕へ触れた。
止めるためではない。
ここにいると伝えるような触れ方だった。
レオナは一度、目を閉じた。
震える息を吐き、もう一度、青年を見る。
敵を見る目ではない。
英雄を見る目でもない。
ずっと戻ってくると信じていた、たった一人を見る目で。
「レン」
声が震えた。
名を呼ぶだけで、あの夜より苦しかった。
青年は、反応しなかった。
ただ知らない音を聞いたように、静かにレオナを見返していた。




