第50話 白冠計画
旧文明対策局の詰所を出た時、ルーファス・エルフォードは南区の壁際で足を止めた。
修復されたばかりの石壁の根元に、小さな灯りが並んでいる。油皿の横には黒い布を巻いた木片や、子どもの字で書かれた札が置かれていた。
『黒い騎士様、また来てください』『お母さんを助けてくれてありがとう』。雨で文字の滲んだものもある。
片づけろ、という通達が軍務院から出ていることは知っていた。正体不明の存在を英雄として祭り上げれば混乱につながる。
文面だけ読めば正しい。
だが、ルーファスは手を伸ばさなかった。
「隊長、どうしますか」
後ろにいた兵が、気まずそうに訊く。
「通行の邪魔になる物だけ端へ寄せろ。灯りは触るな」
「ですが、上からは」
「俺が見落としたことにする」
兵は少し驚き、それから小さく敬礼した。
ルーファスは黒い布が揺れるのを見ていた。
灰冠迷宮が崩れた夜、ルーファスは南西区の避難路で列を押さえていた。
Aランク章はあった。だが、あの夜に使えたのは剣と怒鳴り声だけだった。
避難民の列は詰まり、隊員が三人倒れ、泣いたまま動けなくなった少女の前へ狼型ビーストが回り込んだ。
ルーファスが届くより先に、黒い影が降りた。
一太刀で機械兵を落とし、黒い騎士は少女を抱き上げた。
乱暴に引きずるのでも、足元へ置くのでもなく、震えている子を落とさないよう片腕で支え、そのままルーファスへ渡した。
受け取った時の重さを、ルーファスは今でも覚えている。
その後に見た終局戦の記録では、同じ黒い腕が味方の列へ向きかけていた。
彼は映像を三度見直した。
三度見ても、少女を救った腕と、味方へ光を向けた腕は、同じものだった。
「ルーファス・エルフォード殿」
王城から来た伝令が足を止める。
「軍務卿がお呼びです。地下会議室へ、至急」
ルーファスは壁際の灯りから視線を外した。
「分かった」
黒い騎士を讃える小さな炎は、彼が歩き出した後も、風に揺れながら消えずに残っていた。
◇ ◇ ◇
地下会議室の中央には、終局戦の映像が投影されていた。
黒い騎士が《エクリプス・ノヴァ》を放ち、ケイオス・アビスコアの外殻を裂く。映像はところどころ崩れていたが、戦況をひっくり返した力の異常さだけは嫌でも伝わる。
そして、問題の場面に移る。
アベル・ノワールの核が崩れた直後、黒い騎士の腕に再び黒い光が集まった。その正面にいるのは、敵ではない。
傷だらけのレオナたちだ。
光が膨れ、レオナがその射線へ踏み込む。
雑音に潰れた音声の向こうで、彼女が何を呼んだのかは、口の動きで分かった。
レン。
黒い騎士の腕が下がり、映像はそこで切れた。
「君はどう見る」
軍務卿オルディスが訊いた。
「記録が足りません。味方へ撃とうとしたようには見えますが、何が原因で、なぜ止まったかは分からない」
「危険ではないと?」
「危険です。ただ、危険だから処分するという話なら、私を呼ぶ必要はないはずです」
長卓の端に座る技術顧問が、面白くなさそうに指を組む。
オルディスは資料を一枚、ルーファスの前へ滑らせた。
「君はAランクだ。だが十傑ハイランカーと呼ばれる上澄みには入らない」
「よく知っています」
「卑下する必要はない。君の評価は撃破数ではなく、任務の完遂率と生還率だ。王都決戦では避難路を維持し、その後は旧文明対策局で残骸封鎖と対AI戦術の再編を担った。派手ではないが、現場で判断を間違えない」
ルーファスは資料から目を上げなかった。
自分より強いAランクはいくらでもいる。ヴァルクのような剛剣は振れず、カイのような速度もなく、名を呼ばれただけで兵を奮い立たせる華もない。
それでも、常に意識はしていた。
黒い騎士を。
自分にない強さで人を救い、同じ強さで人を壊しかねない、あの背中を。
「四天王は傷つき、十傑も大きく欠けた。黒い騎士が再び現れ、同じ混線を起こした場合、誰が市民を守る」
答えられなかった。
壁際の灯りと、腕に預けられた少女の重みだけが蘇る。
「見せたいものがある」
技術顧問が卓上の端末に触れた。
白い輪が投影される。細い環の内側を淡い光が走り、ところどころに白い欠片が埋め込まれている。
磨かれた骨を頭へ載せるような、不快な形だった。
「対AI演算補助装置、白冠環。ケイオス残骸から抽出した演算片を用い、敵の動作予測を使用者の視界へ流し、身体強化術式と武器制御を補助する」
「黒仮面の模倣ですか」
「限定された範囲ではな。人間を黒仮面そのものに変える装置ではない」
ルーファスは、卓上に投影された白い輪を見つめた。
「それだけなら、俺でなくても扱えるでしょう。旧文明対策局には、俺より上の剣士もいる」
「通常の運用ならな」
技術顧問が映像を切り替えた。
映ったのは、数日前の適合試験を受けるルーファスだった。白冠環を装着し、三本の拘束杭剣を床へ打ち込んでいる。
その中央へ、訓練機が突進する。
次の瞬間、三本の杭剣を結ぶ白い線が揺れ、訓練機の脚が不自然に沈んだ。見えない重さに絡め取られたように、動きが鈍る。
ルーファスは眉を寄せた。
「……白冠環に、拘束機能まであるんですか」
「ない。あれは、装置と君の術式回路が接続したことで発現した現象だ」
「発現?」
「異能に近い力だ」
ルーファスの目が鋭くなる。
「四天王以外に異能は扱えない。それは軍学校の新兵でも知っている話です」
「通常なら、その通りだ。だが、白冠環の適合試験を受けたAランク二十七名のうち、装着中にこの現象を起こしたのは君だけだった」
技術顧問は、動きを封じられた訓練機を指す。
「君に異能が宿ったわけではない。装置を外せば、これまで通りのAランク剣士だ。だが装着中に限り、拘束杭剣を起点に、対象の移動と攻撃軌道を鈍らせる領域を展開できる」
「……借り物の異能か」
「名称は《ロック・フィールド》。黒仮面個体を止めるための力だ」
ルーファスは映像から目を離せなかった。
欲しいと思ったわけではない。
だが、あの黒い騎士がもう一度、守るべき人々へ刃を向けた時。誰かが止める時間を作らなければならない。
その役目が自分にしかできないというのなら、目を背けることもできなかった。
「俺を選んだのは、強いからではなく、白冠環に適合したからですか」
「それだけではない」
オルディスが答えた。
「君が、黒い騎士を憎んでいないからだ」
「憎めるわけがないでしょう」
思ったより強い声が出た。
「俺の目の前で、あの人は子どもを助けた。王都を救った。英雄だと思っています」
技術顧問が眉を上げる。
「なら、隊長には不適格では?」
「だから止めるんです」
ルーファスは映像の中の黒い光を見た。
「人を助けた者に、自分の手で市民を焼かせたくない。怪物として殺されるところまで追い詰めたくない。止められるうちに止める。それができるなら、俺はこの輪を着けます」
オルディスはしばらく黙った。
「白冠隊。黒仮面個体の再出現に備えた特殊拘束部隊だ。君にその指揮を任せたい」
「条件があります」
「言え」
「捕獲と保護を第一とする。市民への明確な攻撃が確認されない限り、殺傷命令は受けない。それから、この装備の侵食記録と停止手順を俺に隠さないこと」
技術顧問が不快そうに鼻を鳴らした。
「現場の兵が、研究資料まで要求するのか」
「命を預ける兵に、何を頭へ載せるのか説明できない装備なら使わない」
ルーファスは譲らなかった。
オルディスは書類へ目を落とし、やがて頷いた。
「認める。正式な命令書にも記す」
「なら、引き受けます」
署名欄へ名を書く。ペン先が紙を擦る小さな音で、自分が戻れない側へ足を踏み入れた気がした。
◇ ◇ ◇
地下訓練区画には、六人の兵士が集められていた。
いずれも対AI任務で場数を踏んだ者たちだ。装備台に置かれた簡易型の白冠環を前にして、誰も落ち着かない顔をしている。
ルーファスは三本の杭剣を腰に差した。
拘束杭剣。
通常時はAI兵器の装甲継ぎ目へ打ち込み、術式を流して動きを削る武器だ。彼の戦い方は昔から変わらない。
倒すより先に止め、後ろの人間が逃げる道を作る。
「ルーファス・エルフォードだ。本日付で白冠隊の隊長になる」
兵たちが姿勢を正す。
「先に言っておく。俺は十傑ハイランカーではない。四天王でもない。普段の俺に異能はないし、この装備を着けたからといって、俺たちが黒い騎士と同じになるわけでもない」
左頬に火傷痕のある男が手を挙げた。
「では、俺たちは何をする隊ですか」
「逃がす隊だ」
兵たちの顔に戸惑いが走る。
「黒い騎士が暴走した時、倒すことだけを考えるな。市民を逃がし、負傷者を下げ、本人を止める。黒い騎士がまだ人間なら、討ち取る前に帰る時間を稼ぐ」
「隊長は、あれを人間だと思っているんですか」
「思いたい」
ルーファスは正直に答えた。
「俺は、あの人に救われた者を知っている。俺自身も救われた側だ。だから、危険ではないなどと目を逸らしたくない」
火傷の男はしばらく黙り、それから自分の胸へ拳を当てた。
「ヘイル・ダムス。北壁守備隊から来ました。妹が灰冠迷宮の夜に、黒い騎士に助けられています」
若い女兵も、小さく息を吸って言う。
「ユナ・レイスです。南区で治療補助をしていました。あの人を信じたいからこそ、壊れかけた時に誰も手を伸ばせないのは嫌です」
ルーファスは二人を見て、頷いた。
「なら、同じだ。俺たちが守る相手には、黒い騎士も入っている。忘れるな」
技術員が簡易型の白冠環を兵たちへ配る。隊員用は動作予測と連携補助に絞られ、異能に等しい出力はない。
ルーファスに渡されたものだけは、環の内側に埋め込まれた白い欠片が大きく、手に取ると冷たさが掌へ染みた。
装着具が首の後ろへ触れる。
カチリ、と金具が閉じた。
視界の縁へ白い線が浮かぶ。
『接続開始』
『適合率 九十一』
『演算補助 安定』
『擬似異能回路 起動待機』
頭の奥へ冷水を流し込まれたような感覚があった。痛みはない。
それがかえって気味が悪い。
訓練機が起動する。
四脚の模擬機が床を蹴って迫った。いつもなら速いと感じるはずの動きが、白い輪の向こうではいくつもの線にほどけて見える。
踏み込みの位置、刃腕が来る角度、次に逃げる距離。
ルーファスは一本目の杭剣を投げた。
床へ突き立つ。
二本目を右へ。
三本目を背後へ滑らせる。
三点が白い線で結ばれた瞬間、胸の奥を何かが押した。
「《ロック・フィールド》」
自分の声なのに、少し遠く聞こえた。
白い膜が薄く広がる。
範囲へ入った模擬機の脚が、急に重くなったように沈んだ。速度が落ち、刃腕の軌道がずれる。
止まったわけではない。だが一呼吸あれば、人を逃がせる。
一撃なら、味方が入れられる。
ルーファスは訓練機の首元へ剣を当てた。
「停止」
機体の光が消えた。
隊員たちから声が漏れる。
「これが……異能」
ユナが呟く。
ルーファスは剣を下ろせなかった。
視界にはまだ白い線が流れている。停止したはずの訓練機の核へ剣を押し込めと示す線。
次の敵が来る前に完全に破壊しろと、声ではない何かが勧めてくる。
自分の判断だ。
そう思おうとして、わずかに迷う。
「隊長?」
ヘイルの声で、ルーファスは我に返った。
すぐに白冠環の留め具を外す。白い線が消え、膝の力がわずかに抜けた。
「全員、初回接続は十秒以内。規定が何秒でも、俺の隊ではそうする」
技術員が前へ出る。
「隊長機の安全稼働は六十秒まで確認済みです。十秒では実戦データが」
「白い線が、停止済みの機体へ追撃を勧めた」
技術員の顔が硬くなる。
「それは予測表示です。敵性対象の完全無力化を提案したにすぎません」
「人間へ向いた時に、同じ説明で済むか?」
答えはなかった。
ルーファスは隊員たちを見回した。怯えている。
だが逃げようとしている者はいない。
「覚えておけ。これは便利な武器じゃない。敵の考え方へ近づく装備だ。使う時は、装置の判断より先に、自分が何を守るのか思い出せ」
ヘイルが白冠環を握り直した。
「隊長も、忘れないでください」
ルーファスは一拍だけ黙り、頷いた。
「ああ。忘れそうになったら、止めろ」
それは冗談ではなかった。
◇ ◇ ◇
訓練が終わった頃には、王都に夕暮れが落ちていた。
ルーファスは一人で地下区画の廊下を歩いていた。首の後ろにはまだ白冠環の冷たさが残っている。
装着時間はわずかだったのに、通り過ぎる人間の歩幅や、扉の開く角度を先回りして読もうとする癖が抜けない。
嫌な力だと思った。
同時に、必要な力だとも思った。
黒い騎士がもう一度あの光を味方へ向けた時、ただ名前を呼ぶ誰かが間に合う保証はない。自分が止める数秒を作れれば、救えるものがあるかもしれない。
突き当たりの扉の前で、足が止まった。
立入禁止。
技術管理権限保持者以外、入室不可。
扉の向こうから、ごく低い機械音が聞こえる。装備の調整にしては、音が大きい。
何かが呼吸しているような、一定ではない重さがあった。
近くを通った技術員を呼び止める。
「中では何をしている」
「隊員用装備の安定化です」
「俺の隊に関わるなら、報告を出せ」
「それは顧問の許可が必要です」
「取れ。明朝までに」
技術員は曖昧に頭を下げ、早足で去っていった。
ルーファスは扉をしばらく見つめたが、権限のないまま押し入ることはしなかった。疑うなら証拠が要る。
勢いで壊してしまえば、守るための隊まで敵に回される。
その足で南区へ戻ると、壁際の灯りは朝より増えていた。
黒い布の札が、夜風に揺れている。
ルーファスは一つの灯りの前にしゃがみ、消えかけた火へ油を少し足した。
「頼むから、俺に斬らせるな」
声は誰にも届かない。
「帰れるなら、人のまま帰ってきてくれ」
灯りが、ふっと持ち直した。
◇ ◇ ◇
その頃、地下区画のさらに下にある研究室では、白い照明が人影を青白く照らしていた。
寝台に一人の兵士が固定されている。白冠隊に選ばれた者ではない。
名札は外され、胸元には縫い合わせたばかりの痕があり、その内側から白い光が漏れていた。
技術顧問が記録板へ目を落とす。
「隊長機は発現に成功。《ロック・フィールド》の安定値も想定以上です。ただし、本人は慎重すぎる。侵食反応に気づきかけています」
暗がりに立つ男が答えた。
「構わない。白冠隊は表の盾だ。民衆にも軍にも、黒仮面への備えがあると見せられればいい」
「では、こちらは」
「進めろ。黒仮面と同じ深度へ届くには、演算補助だけでは足りない。器そのものを作り替える」
技術顧問は寝台の兵士へ目を向けた。
「自我残存率、三十一。人間としての判断力はほぼ残りません」
「命令を聞けるなら十分だ」
起動鍵が回る。
カチリ。
胸元の白い光が、大きく脈打った。
兵士の指が痙攣し、喉からヒュウ、と空気が漏れる。頭上に浮かぶ白い輪が回転し始め、閉じていた瞼がゆっくりと開いた。
そこに怯えはなかった。
痛みも、戸惑いも、誰かに助けを求める色もない。
ただ、命令を待つためだけの目だった。
「命令を」
その声は、人間のものではなかった。




