第49話 黒い騎士のいない王都
「待って」
扉へ手をかけたレオナの背に、セツナの声が刺さった。
「何だ」
「今出ても探せない。反応は拾っただけ。山間部ひとつを焼きながら進むつもりなら止めないけど」
「焼かない」
「あなたの場合、断言が信用できない」
レオナの眉が動く。けれど言い返さなかった。
包帯を巻いた右手で《アシュラ》を握ったまま、机の上の端末を見る。細い波形は、ときどき息をするように揺れては沈んだ。
生きている。その可能性が見えた瞬間から、身体だけが先へ行こうとしていた。
だが今回は、どこで傷ついているのかも、こちらを覚えているのかも分からない。
「半日」
セツナが言った。
「もう一度反応が出れば、範囲を絞れる。捜索申請も、その時なら誤魔化せる」
「誤魔化す?」
フィオナが薬袋を抱えたまま目を細める。
「レンの反応だと書いたら、私たちより先に軍務院が動く。黒仮面個体の所在確認として」
レオナの目に火が入った。
「兵器の回収扱いか」
「そうさせないために、情報を絞る。私が出すのは座標傷の残響と、再生派残党の可能性だけ。レンの名前も、黒仮面の生体照合も出さない」
「私にも隠す気か」
「あなたに隠して意味があると思う?」
抑揚の薄い言い方だったが、セツナの指は端末の縁を強く押さえていた。
レオナは息を吐き、柄から手を離した。包帯の一部が、また赤く染んでいる。
フィオナがそれを見て、呆れたように言う。
「ほら。出発前にもう開いてる」
「うるさい」
「うるさく言う役が必要なの。今は特に」
外の回廊を、担架の車輪がゴロゴロと通り過ぎていった。勝利から数週間経っても、中央治療棟にはまだ空いた寝台より埋まった寝台の方が多い。
レオナは、その音を聞いて顔を上げた。
「行く前に、寄る」
誰に、と聞く者はいなかった。
◇ ◇ ◇
カイ・フェルナーは、窓際の白い寝台で眠っていた。
胸元には厚い包帯が巻かれ、呼吸に合わせて薄く上下している。以前なら誰かが扉を開けただけで、寝たふりのまま軽口を投げてきそうな男だった。
今は、唇すら動かなかった。
寝台の脇には双剣《オルト》が布に包まれて置かれている。手入れはされているのに、持ち主の手へ戻る気配がない。
レオナは椅子を引かず、その横に立った。
「まだ寝ているのか」
返事はない。
「お前が寝ている間に、面倒なことになった」
フィオナが後ろで小さく息を吐く。
「話しかけるのはいいけど、起こそうとして怒鳴らないで」
「怒鳴らない」
「あなたの普通の声は、他人には十分大きい」
レオナは無視した。
「レンらしき反応が出た。これから探しに行く」
カイの呼吸は変わらない。
こいつなら、いつもの顔で笑って「遅いですよ、炎姫様」とでも言うはずだった。レンを悪友と呼び、誰より自然に待つはずだった。
「……先に起きていろ」
レオナは低く言った。
「連れて戻った時、お前まで寝たままだと、あいつが余計な顔をする」
右手を伸ばしかけ、包帯の下で痛みが跳ねたため、レオナは舌打ちして手を下ろした。
フィオナが代わりにカイの脈を取り、胸元の包帯へ指先を添える。静かな呼吸が一度、二度と続いたあと、彼女は小さく頷いた。
「変わらない。でも、悪くもなってない」
「それで十分だ」
「あなたも同じことを言われる側にならないで」
「私は寝ない」
「倒れる人は、だいたいその前にそう言う」
レオナは返さず、寝台脇に置かれた双剣へ目を向けた。
布に包まれた《リベル》と《オルト》は、持ち主が目を覚ます時を待つように、きれいに並べられている。
カイがこの場にいたなら、レンの生存反応を聞いて、何を置いても飛び出そうとしただろう。
止めても聞かず、傷口を開いてフィオナに怒鳴られ、それでも笑って「悪友を迎えに行くのに寝てられませんよ」と言う。
その声がないことが、妙に重かった。
病室を出ると、中央治療棟の長い廊下には薬草と血の匂いが薄く残っていた。
ここに運び込まれているのは、アビス・ルートへ踏み込んだ選抜隊だけではない。
終局戦へ至るまで各地で続いた防衛戦や残党掃討、そして中枢沈黙後の救難・封鎖任務で傷を負った者たちも、まだ帰る場所を取り戻せずにいる。
壁際の椅子で包帯を巻き直される者がいる。片脚を固定された者、肩から先のない外套を膝に置いた者、目を覆ったまま誰かの声を聞いている者。
終局戦は勝利として報じられたが、その言葉ひとつで、そこへ至るまでに積み重なった傷まで消えるわけではなかった。
レオナは歩みを緩めなかった。
ここで立ち止まれば、探しに行く理由が増えすぎる。
ヴァルクは帰らない。
トウマも帰らない。
名も知られないまま倒れた兵も、もう戦場からは戻らない。
ならば、まだ帰れるかもしれない一人を、今度こそ取りこぼすわけにはいかなかった。
「観測棟へ行く」
レオナが言う。
セツナが端末を抱え直した。
「エリナとリゼットにも確認したいことがある。昨夜から、座標傷以外にも妙な反応が出てる」
「再生派か」
「まだ決めつけるのは早い。でも、あなたが先走って山へ突っ込む前に見ておくべきものではある」
「回りくどいな」
「あなたに慎重さを覚えさせるには、このくらいでちょうどいい」
フィオナがレオナの右手へ視線を落とす。
「歩きながらでいいから、その包帯をもう少し大事にして。レンを見つける前に、あなたの治療で足止めされたくない」
「分かっている」
「あなたの“分かっている”は信用していない」
「二人してうるさい」
「一人だと聞かないから」
セツナが淡々と返した。
レオナは不機嫌そうに鼻を鳴らし、治療棟の出口へ向かう。外から差し込む朝の光は明るかったが、その白さの中にはまだ、焼けた王都の煤が残っていた。
◇ ◇ ◇
観測棟の二階では、エリナ・ソロヴィエワが左手で記録板を押さえていた。
利き腕だった右腕は、肩から先がない。固定具の下に空いた輪郭があり、目を逸らしたくなるほどはっきりしている。
それでも彼女は左手に筆を挟み、震える線で波形を写していた。
「文字、ひどいでしょう」
レオナたちに気づき、エリナは紙から目を上げずに言った。
「読めればいい」
「同じことを観測長にも言われました。悔しいので、以前より読みにくくしてやろうかと思っています」
「元気そうだな」
「元気には見えないと思いますけど」
言いながら、エリナは記録板をずらした。そこには、各地から集まった異常反応が並んでいる。
北方山脈の旧施設、ルクス沿岸の残骸市場、カグラ東部の無人観測塔。どれも単独なら小さな乱れだが、点の打たれ方が妙に均等だった。
セツナが紙へ手を伸ばす。
「これ、いつから?」
「昨日からです。ケイオス消失後、眠っていた反応が同じ周期で一度だけ跳ねています。観測はできます。引き金は引けなくても」
最後の一言だけが、少し乾いていた。
隣室から、甘い声が飛ぶ。
「そんな顔をしていると、なくした腕まで陰気になりますわよ」
リゼット・マルローが、窓際の長椅子に座っていた。
左脚は膝下まで固定具で覆われ、床へ下ろすことも許されていない。薄い毛布の上に、小瓶と細い針、それから見覚えのない黒い粉を並べている。
フィオナが眉をひそめた。
「何をしてるの」
「前線に行けない女の嗜みですわ。残骸に残った伝達毒の反応を見ていますの」
「休みなさい」
「脚は休ませています。手と頭まで休ませたら、退屈で死んでしまうでしょう?」
リゼットは涼しい顔で小瓶を振った。中の液体が薄い紫に濁る。
「それに、気になるのです。再生派の流していた薬剤と、終局戦後に回収された人工神経の保存液が、よく似ている。まるで誰かが、人間の身体へもう一度機械を植え直そうとしているみたい」
部屋の空気が変わった。
「根拠は」
セツナの声が低くなる。
「まだ香り程度ですわ。ですが、私の鼻は高いの。脚よりは安くありません」
冗談めかした言い方だったが、笑う者はいなかった。
エリナが左手で一枚の紙を差し出す。
「同じ反応が、ルクス経由の部材に出ています。情報を止めるなら、早い方がいい」
レオナはセツナを見る。
セツナは紙を受け取り、一度だけ折った。
「全部は上に出さない。再生派の動向として最低限だけ共有する」
「また隠すの?」
フィオナが聞く。
「黒仮面と結びつく情報を流せば、反応を追っている相手にも場所が分かる。味方が味方とは限らない」
リゼットが小さく笑った。
「ようやく、私好みの嫌な話になってきましたわね」
◇ ◇ ◇
同じ朝、王城西棟の会議室には、各国の紋章を付けた通信板が並んでいた。
カグラ側の映像には、全身の裂傷を包帯で覆ったシオンが座っている。顔色は白かったが、背筋は崩れていない。
医官に止められているのだろう、刀《紫電》は画面の遠い位置へ置かれていた。
ノルディア側の回線では、イヴァンが寝台の上で腹部を固定されながら苛立っていた。
「会議くらい座って出せと言ったんだがな。医者どもが腹の中身を戻したいなら寝てろとうるせえ」
「寝ていろ」
シオンが短く返す。
「お前に言われると腹が立つな、美人剣士」
「まだ喋れるなら死なないな」
「そういうお前もな」
ルクスの席にはミレーヌがいた。頬の色はまだ薄く、扇を開く指にも力は戻りきっていない。
それでも表情だけはいつも通り、どこか芝居がかって優雅だった。
「皆様、ずいぶん傷だらけで。英雄というのも割に合いませんわね」
「お前も倒れていただろう」
レオナが言う。
「半日ほど眠っただけですわ。美容には睡眠が必要でしょう?」
軽口の向こうに、全員が同じ疲労を抱えていた。
ケイオスを倒した四天王は、誰一人としてすぐに戦える状態ではない。
会議机の端には、使われないままの席が残っていた。
ヴァルク・アシュグレイが低い声で場を締めていた席は、もう埋まらない。鵺坂トウマが目を閉じたまま立っていた壁際にも、今は誰の気配もなかった。
そして、いつも軽口を挟んで空気を乱していたカイの席だけは、まだ主を失ったとは言えないまま、静かに空いている。
死んだ者と、まだ戻ってこない者。
その不在を並べてしまうことに、レオナは胸の奥で小さく苛立った。
軍務卿オルディスが咳払いをする。
「諸君の傷を押してまで回線をつないだのは、感傷のためではない。黒い騎士について確認したい」
レオナの目が細くなる。
シオンは黙ったまま、画面越しにオルディスを見た。
「終局戦において、黒仮面個体はケイオス撃破に決定的な働きをした。一方で、戦闘終盤に味方識別の混線が起きたことも記録されている」
「何が言いたい」
レオナの声が硬くなる。
「所在を把握し、保護すべきだと言っている」
「保護、ねえ」
ミレーヌが扇の向こうで笑った。
「鎖の付いた保護でなければよろしいのですけれど」
オルディスの顔は変わらない。
「各国にも問う。黒い騎士が貴国領内へ現れた場合、独自に確保せず、アルディアへ情報を共有していただきたい」
イヴァンが鼻を鳴らした。
「ずいぶん都合のいい話だな。あの黒いのはアルディアの所有物だったのか?」
「王都で最初に確認された存在だ」
「だから何だ。人間なら所有物じゃねえ。機械なら、なおさらお前らだけに渡す理由はねえ」
人間なら。
その言葉に、レオナの指が少し動いた。
シオンが静かに口を開く。
「確保という言葉を使う時点で、保護ではない」
「危険性を無視しろと言うのか」
「無視はしない。だが、戦場で命を救われた者が、先に処分の話をするのは醜いと言っている」
会議室が静まり返った。
セツナは壁際で端末を抱えたまま、一切口を挟まなかった。すでに座標反応の詳細は別回線へ移し、公式報告からは削っている。
この場に出ているのは、終局戦時の断片と、黒い残滓が観測されたという薄い事実だけだ。
レオナが出発しようとしていることも、白梢の里へつながる反応も、ここにいる上層部には渡さない。
渡せば、捜索隊ではなく回収部隊が出る。
それだけは分かりきっていた。
◇ ◇ ◇
会議が終わる前に、外で騒ぎが起きた。
兵が一人、扉の前へ駆け込んでくる。息を切らし、顔色が悪い。
「報告します。王都南区にて、黒い騎士を称える落書きが増加。市民の間で、帰還を求める集まりが始まっています」
「集まり?」
「壁際に花と灯りを置いています。止めようとした守備兵と揉めかけましたが、暴力行為はありません」
オルディスが眉を寄せる。
「排除しろ。混乱を招く」
レオナの椅子が、ギ、と鳴った。
「何も壊していない市民を、何の理由で排除する」
「正体不明の兵器への盲信は危険だ」
「助けられた者が礼を置くことまで、お前が決めるのか」
「君は近すぎる、レオナ殿」
オルディスは静かに返した。
「だから見えていない。市民は黒い騎士を英雄として求めている。もし彼が現れ、王国の命令より自分の判断を優先したらどうなる。民は騎士団ではなく、彼へ従うかもしれない」
「それが怖いのか」
「怖がるのが統治する側の責任だ」
オルディスは立ち上がり、長卓へ両手をついた。
「オーバーマインドも最初から敵の顔をしていたわけではない。人のために作られ、人の判断を超え、最後には人を不要とした。黒い騎士が同じ道を辿らない保証を、誰が出せる」
レオナは答えなかった。
答えられなかった。
最後の戦いで、レンは確かにこちらへ光を向けかけた。自分が名前を呼ばなければ、何が起きていたか分からない。
それをなかったことにはできない。
だが、だからといって、あいつを兵器と呼ばせる気はなかった。
レオナが口を開くより先に、セツナが端末を閉じた。
「議論している時間があるなら、再生派残党の追跡に人を回して。黒仮面を恐れるのは自由だけど、現に動いている敵を見逃すのは無能」
オルディスがセツナを見る。
「ヘリオスの解析官。君は何か隠していないか」
「解析中の情報を未確定のまま広げないだけ。あなたたちみたいに、恐怖で結論を先に決めたくないから」
「口を慎め」
「事実を慎む趣味はない」
フィオナが小さくため息をつく。
レオナは逆に、少しだけ冷静になった。
セツナがここまで露骨に噛みつく時は、隠したいものがある時だ。そして今、隠しているものは一つしかない。
レンへつながる道。
オルディスはしばらくセツナを見たあと、低く言った。
「よろしい。ならばこちらも、こちらの責任で動く」
その声音に、レオナの表情が変わった。
「何をする気だ」
「黒仮面個体が再出現した場合に備え、対抗戦力の編成を進める。英雄であるなら保護すればいい。危険個体であるなら止める。その判断ができる力を、人類側が持つのは当然だ」
「勝手な真似をすれば、私が潰す」
「君一人の感情で、王国は動かない」
オルディスは、机に残された黒仮面の報告書を閉じた。
そして、感情のない声で言った。
「制御できない英雄は、敵より厄介だ」
窓の外では、朝の光が修復途中の王都を照らしていた。
南区の壁際では、まだ名も知らない市民たちが、黒い騎士のために小さな灯りを置いている。
その頃、彼らの英雄は、自分が誰であるかさえ思い出せないまま、遠い山里で黒い火を抱えていた。




