第48話 母の故郷
「……リリアに似ている」
長老の声は小さかったが、夜明け前の広場には妙にはっきり落ちた。
青年は胸を押さえたまま動けなかった。
リリア。
知らない名だ。そう思うのに、身体の奥が先に反応している。
黒い火が燃え上がるというより、冷えていた傷の底へ熱い指を差し込まれたような痛みだった。
「誰だ」
声が掠れた。
長老はすぐには答えなかった。青年の顔を見て、次に右手首に残る黒い影を見る。
視線だけが、確かめるように二度往復した。
アリアが戸惑った声を出す。
「長老、リリアって……あのリリアですか」
「他におるものか」
「でも、そんな」
「顔だけなら偶然で済ませた。黒い火まで持って、封じ場の脇に吐き出されてきたとなれば、偶然と言い張る方が難しい」
青年は胸を押さえた指に力を入れた。
「俺を知っているのか」
「お前を知っているとは言っておらん。知っているのは、よく似た目をした娘と、その娘が選んだ男のことだ」
長老は杖を返し、ゆっくりと里の奥へ歩き出した。
「来なさい。ここで話すことではない」
青年はその背を見たまま立ち尽くしていた。足を進めれば、失くしたものの形が見えてくるのかもしれない。
それが自分の望むものかどうかは分からない。けれど、知らないまま胸の痛みだけを抱えるには、その名前はもう深く刺さりすぎていた。
アリアが隣に立つ。
「歩ける?」
「……歩く」
一歩踏み出すと、夜の戦いで疲れた脚が鈍く軋んだ。だが、止まるほどではなかった。
◇ ◇ ◇
長老の家は、里の一番奥にあった。
大きさはアリアの小屋とさほど変わらない。違うのは、壁に古い木札が何枚も掛けられていることと、窓の下に白い石が並べられていることだった。
石には薄く文字が刻まれていたが、青年には読めない。
長老は炉の前へ座り、アリアに湯を沸かすよう言った。青年は向かいの敷物へ腰を下ろす。
座るだけで、右手の指先がずきりと痛んだ。昨夜、白い核を抜いた時に焼けた場所だ。
長老はその手に目をやり、棚の下から木箱を取り出した。
「リリア・セラ。元は、そういう名だった」
「セラ……」
青年が呟くと、アリアが黙って頷いた。
「私と同じ家筋。かなり遠いけど」
長老は木箱の蓋を開ける。中には、色の褪せた細い紐と、小さな銀の留め具が入っていた。
華美なものではない。生活の中で使われていた、ただの髪留めに見える。
「リリアは、この里で生まれた。封じ場を守る家の娘だったが、剣を握る人間ではない。腕力もなく、走ればすぐ息を切らす。子どもの頃は、森で転んでは膝を擦りむいて戻ってきた」
長老の声には、少しだけ遠い温度があった。
「異能者だったのか」
「違う。火を操るでも、機械を壊すでもない。あの娘にできたのは、手を当てることくらいだった」
「手を?」
「封じ場に近づいた者が熱に浮かされることがある。黒い火が表へ出かけ、声が届かなくなる。そういう時、リリアが手を握ると、不思議と呼吸が落ち着いた。黒い筋が引き、目の色が戻る。理屈は、今も分からん」
アリアが湯を注ぐ音だけが、小さく響く。
「里では、それを鎮めの血と呼んでいる。立派な力の名前に聞こえるが、戦えるわけではない。深いところへ引かれる人間を、こちら側へ留めるだけだ」
青年は自分の右手首を見た。
さっきまで皮膚の下で揺れていた黒い影は、いまは薄い痣にしか見えない。
「そのリリアと、俺が似ていると」
「似ている。目つきは男親の方だがな」
男親。
その言葉で、胸の奥がさらに重くなる。
長老は木箱の紐を指先で撫でた。
「二十年ほど前、封じ場の外で一人の男が倒れていた。今のお前と同じように、血まみれで、身体の内側に人ではない熱を抱えていた。名をアベル・ノワールと言った」
頭の奥で、何かが弾けた。
眩しいほど白い光。
黒い仮面ではない、別の何か。
倒れた男の背中。
声が聞こえかけて、すぐに砂嵐へ崩れる。
青年は息を呑み、片手で床を押さえた。
「アベル……」
「知っているか」
「分からない。でも、その名も……痛い」
長老は目を伏せた。
「アベルは普通の負傷者ではなかった。里の者が近づくだけで、封じ場の石が震えた。身体の奥に、深淵へつながる何かを持っていたのだろう。あれを黒い火と呼んでいいのかは、わしにも分からん。ただ、この里に置いておけば、いずれ封じ場ごと壊れると皆が思った」
「追い出したのか」
「追い出そうとした」
長老の口元が苦く歪む。
「だが、リリアが退かなかった。あの男はまだ人だと言って、毎晩そばに座った。熱に呑まれて暴れかければ手を握り、名前を呼び続けた。アベルは、リリアのそばにいる時だけ、まともに眠れた」
青年は喉の奥が詰まるのを感じた。
自分の記憶ではない。知らない男と、知らない女の話だ。
それなのに、なぜか聞いているだけで苦しい。
「二人は、ここを出た」
長老は続けた。
「里にいればアベルを守れない。外にも、あの男を追う者がいた。リリアは家を捨て、封じ場の守り手であることも捨てて、アベルと共に行った」
アリアが湯呑みを青年の前へ置いた。
「里では、よくない話として残ってる。守り手が役目を捨てたって」
「アリア」
長老がたしなめると、彼女は視線を落とした。
「でも、私は責めたいわけじゃありません。そう聞かされてきただけです」
青年は湯呑みに触れなかった。
「二人に、子どもがいたのか」
自分で聞いた声が、他人のもののように聞こえた。
長老は長く息を吐いた。
「リリアが一度だけ戻ったことがある。冬の終わりだった。雪の中を一人で歩いてきて、胸に赤子を抱いていた」
青年の指が、無意識に握られる。
「その子は泣きもしなかった。熱が高く、右手首の皮膚の下に黒い細い線が見えていた。リリアは封じ場へ連れていき、夜が明けるまで抱いていた。朝には、その線は消えていた」
右手首の奥が、ずきりと疼く。
「名を聞いた。リリアは、レンと呼んだ」
音が落ちた。
炉の火が鳴る音も、外で風が木を擦る音も、一瞬だけ遠くなる。
レン。
赤い髪の誰かが呼んでいた音と、同じだった。
青年は胸を押さえた。息がうまく入らない。
頭の奥で白い靄が膨らみ、その向こうに人影がいくつも揺れた。
笑っている男。
大きな盾。
小柄な少女。
赤い炎をまとった女。
名前は、どれも出てこない。
ただ、最後の女の声だけが妙に近かった。
――レン。戻ってこい。
「俺が……その子だと言うのか」
ようやく声を絞り出す。
「断定はせん。お前が自分で思い出していない以上、わしが決めることではない」
「でも、そう思っている」
「思っている」
長老は逃げなかった。
「リリアはその朝、二度とこの里へは戻らないと言った。自分の子には、封じ場を守るためでも、深いところと戦うためでもなく、普通に生きてほしいと。だが、お前はここへ戻ってきた。身体を壊し、名を失い、黒い火を抱えて」
長老の声が一度だけ揺れた。
「リリアは、赤子だったお前を封じ場へ連れていった。夜が明けるまで、ずっと抱いたままだった」
長老は、箱の中の髪留めから目を離さずに言った。
「翌朝、手首の黒い線は消えていた。
わしが知っているのは、それだけだ。あの娘が何をしたのか、何が残ったのか、理屈まで語れる者はもうおらん」
青年は自分の手首を握った。
「なら、俺がここへ来た理由も分からないのか」
「分からん。だが、お前は外で壊れかけ、名を失って、それでもここへ戻ってきた。リリアが一度だけ連れてきた場所へだ」
炉の火が、ぱち、と小さく鳴った。
「わしには、それを偶然とは思えん」
青年は顔を伏せた。
アベル。リリア。レン。
音だけが並ぶ。けれど、そこへ自分の記憶は一つも追いつかない。
「母と言われても、分からない」
口にした声が、思ったより乾いていた。
「顔も、声も、何も覚えてない。俺の話だと言われても、痛むだけで……まだ、信じようがない」
長老は静かに頷いた。
「それでよい」
「よい?」
「忘れている者に、母を愛せ、父を信じろなどと言っても仕方がない。知らない者は知らないままでいい。だが、痛むなら、そこに何かが残っておる。いま無理に掴めば、また壊れる」
青年は顔を伏せた。
膝の上で、拳が震えていた。
怖いのか、怒っているのか、自分でも分からない。けれど昨日まで空白だった場所へ、いきなり父と母と名前を押し込まれて、平気でいられるほど身体は鈍くなかった。
アリアが、小さく言った。
「クロでいるうちは、クロでいいんじゃない」
青年は顔を上げる。
「レンだろうと、別の誰かだろうと、あなたが思い出すまでは。里の人は怖がるけど、私は昨日助けられたリオを見た。今はそれで十分」
「……簡単に言うな」
「簡単じゃない。昨夜の戦いを見たから、余計に怖い」
アリアは視線を逸らさなかった。
「でも、怖いからって、あなたが何も選べないうちに決めつけたくない」
その言葉は、黒い火よりも少しだけ温かく胸に残った。
◇ ◇ ◇
長老の家を出た時には、空が白み始めていた。
雨は止み、濡れた白木の葉から雫が一つずつ落ちている。里人たちは遠くから青年を見たが、昨夜ほど露骨に顔を背けなかった。
半AI化兵から助けられた者がいることは、すでに広がっているのだろう。
それでも、近づいてくる者はいない。
青年はその距離を、受け入れるしかなかった。
アリアは隣を歩き、途中で古い井戸のそばに立ち止まった。
「長老の話、信じる?」
「分からない」
「またそれ」
「嘘を言うよりいい」
「それはそうだけど」
アリアは井戸の縁へ腰を下ろす。青年は少し離れた石に座った。
「リリアのこと、私は会ったことない。私が生まれる前に里を出てるから。でも、祖母から聞いたことはある」
「どんな人だった」
聞いたあと、自分が知りたいと思ったことに青年は少し驚いた。
アリアは森の向こうを見た。
「おとなしくて、頑固だったって。皆が封じ場へ近づくなと言えば近づくし、怪我人を置いて逃げろと言われれば最後まで残る。剣も使えないのに、一番危ないところへ座って、手を離さなかったって」
青年は視線を落とした。
誰かが泣きそうな声で、自分を呼んでいた。
その記憶の断片が、今の話と妙に重なる。
「父は深いところへつながり、母はそこから戻す。なら俺は、どっちなんだ」
アリアは少し考えたあと、首を振った。
「私に聞かないで。そんな大きな話を急にされても困る」
青年は一瞬黙り、それから、ごく小さく息が漏れた。
笑ったのかもしれない。
自分でも分からないほど浅いものだったが、アリアは目を見開いた。
「笑えるんだ」
「失礼だな」
「ずっと、死んだ魚みたいな顔してたから」
「助けた相手に言う言葉か」
「助けられたのはリオで、私は見張り役」
その返しがあまりに普通で、青年はそれ以上何も言えなくなった。
普通の言葉が、今は少しだけありがたかった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、聖王国アルディアの王都では、レオナ・ヴァレンハイトが旅装を整えていた。
紅蓮大剣はすでに腰にある。黒い外套の留め具を片手で締めようとして、右手に鋭い痛みが走った。
包帯の下の火傷が、ずくりと脈打つ。
それでもレオナは眉一つ動かさず、もう一度指をかけた。
「その手で、どこへ行くつもり?」
背後から声がした。
レオナは振り返らない。
「散歩だ」
「大剣と三日分の携行食を持った散歩なんて、初めて見た」
フィオナ・ルーベルが部屋の入口に立っていた。彼女自身もまだ万全とは言えない顔色だったが、白い外套を羽織り、手には包帯と薬瓶を持っている。
「邪魔をするな、フィオナ」
「邪魔じゃない。治療」
「必要ない」
「必要かどうかを決めるのは、怪我人じゃなくて私」
レオナの手が止まった。
フィオナはその隙に近づき、外套の留め具へ伸びていた右手を取る。包帯の一部が赤く滲んでいるのを見て、少しだけ目を細めた。
「ほら、開いてる」
「この程度で動けなくなるほど柔じゃない」
「動けるかどうかの話はしてない。今の手で《ブレイズクラウン》を使えば、次は剣を握れなくなるかもしれないって言ってるの」
「全力を出さなければいい」
「あなたがそれを守れるなら、私は止めに来てない」
レオナは舌打ちしかけて、やめた。
フィオナの言うことは正しい。見つけた瞬間、どんな状態でも駆け寄る。
何かが立ちはだかれば燃やす。レンがまた黒い光に呑まれていれば、今度こそ腕ごと失ってでも掴むだろう。
自分でも、分かっている。
フィオナは椅子を顎で示した。
「座って」
「命令か」
「診療所では、私の命令が一番強い」
「ここは私の部屋だ」
「怪我人がいる場所は、私の診療所」
言い返す言葉が見つからず、レオナは不機嫌そうに椅子へ腰を下ろした。
フィオナは乱れた包帯を外し、火傷の残る右手へ薬を塗る。冷たい薬液が染み、レオナの指がわずかに動いた。
「……あいつは生きている」
レオナがぽつりと言った。
フィオナは手を止めなかった。
「そうね」
「根拠はない」
「私もない」
「十傑の治癒師が、それでいいのか」
「患者が帰ってくるまで、勝手に死んだことにしない。それだけ」
新しい包帯が手首を回る。
きつすぎず、緩すぎない。戦場で何度も負傷者をつないできた手つきだった。
レオナは窓の外を見た。修復中の城壁の向こうに、朝焼けが薄く広がっている。
あのどこにも、レンの姿はない。
「あの時、黒い騎士と呼んでも届かなかった」
フィオナの指が、ほんの一瞬止まる。
「兵器だと怒鳴っても、何も変わらなかった。だが、レンと呼んだ時だけ、あいつは止まった」
「……」
「だったら、もう一度呼べば戻る」
レオナの声には迷いがなかった。
フィオナは包帯の端を留め、静かに息を吐く。
「なら、まずその手を使える状態にして。見つけた途端、また焼けた手で掴みに行くつもりでしょ」
「当然だ」
「本当に面倒な性格」
「お前にだけは言われたくない」
フィオナは少しだけ口元を緩めた。
その時だった。
廊下を駆けてくる足音が響いた。普段なら足音すら乱さない人間が、珍しく急いでいる。
扉が開く。
セツナ・クレインが、薄い記録端末を片手に立っていた。髪は少し乱れ、呼吸もいつもより浅い。
レオナは椅子を蹴るように立ち上がった。
「何か出たか」
「出た」
セツナは余計な言葉を挟まず、端末を机の上へ置いた。
淡い波形が画面の中で揺れている。
消えかけては戻り、また沈む。はっきりした反応ではない。
だが、完全な雑音とも違った。
フィオナが画面を覗き込む。
「これは?」
「座標傷の残響。終局戦のあと途絶えていた波形と一致してる」
レオナの指が、《アシュラ》の柄へかかった。
「場所は」
「まだ荒い。王都北西の山間部。地図だとほとんど空白に近い場所」
「生きているのか」
セツナはすぐには答えなかった。
画面を睨み、波形の揺れを追う。いつもの無表情に見えて、端末を持つ指だけがわずかに強張っていた。
「確定とは言えない。反応は弱いし、別の中継波を拾っている可能性もある」
「セツナ」
レオナの声が低くなる。
「回りくどい説明はいい。お前はどう思う」
セツナは一度だけ息を吐いた。
その瞬間、端末の波形が小さく跳ねた。
ごく弱い。
けれど、消えなかった。
セツナが顔を上げる。
「いた」
レオナの呼吸が止まる。
セツナは抑揚のない声のまま、しかしいつもより少しだけ強く続けた。
「たぶん、生きてる」
レオナはもう外套を掴んでいた。
フィオナが額へ手を当てる。
「言っても止まらない顔ね」
「止める気なら退け」
「止めない。私も行く」
レオナが振り返る。
「足手まといになるぞ」
「その台詞、右手を治してから言いなさい」
セツナは端末を閉じた。
「私も行く。現地で波形が消えたら、あなたたちだけじゃ追えない」
「危険だぞ」
「知ってる。だから行く」
レオナは二人を見て、短く息を吐いた。
「勝手にしろ」
「そのつもり」
セツナが淡々と返す。
フィオナは薬袋を取り上げ、レオナへ投げた。
「それ、持って。道中でも巻き直すから」
レオナは受け取り、黒い外套を肩に掛ける。
窓の外では、朝の王都がまだ静かに息をしていた。
けれど、止まっていた炎はもう動き始めている。
見つける。
今度こそ、連れ戻す。
レオナは包帯の巻かれた右手で《アシュラ》の柄を握り、扉の向こうへ踏み出した。




