表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
俺だけ【リミットブレイク】―最底辺Fランクが黒仮面で無双するたび壊れていく―  作者: スドタケ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
53/70

第48話 母の故郷

「……リリアに似ている」


長老の声は小さかったが、夜明け前の広場には妙にはっきり落ちた。


青年は胸を押さえたまま動けなかった。


リリア。


知らない名だ。そう思うのに、身体の奥が先に反応している。


黒い火が燃え上がるというより、冷えていた傷の底へ熱い指を差し込まれたような痛みだった。


「誰だ」


声が掠れた。


長老はすぐには答えなかった。青年の顔を見て、次に右手首に残る黒い影を見る。


視線だけが、確かめるように二度往復した。


アリアが戸惑った声を出す。


「長老、リリアって……あのリリアですか」


「他におるものか」


「でも、そんな」


「顔だけなら偶然で済ませた。黒い火まで持って、封じ場の脇に吐き出されてきたとなれば、偶然と言い張る方が難しい」


青年は胸を押さえた指に力を入れた。


「俺を知っているのか」


「お前を知っているとは言っておらん。知っているのは、よく似た目をした娘と、その娘が選んだ男のことだ」


長老は杖を返し、ゆっくりと里の奥へ歩き出した。


「来なさい。ここで話すことではない」


青年はその背を見たまま立ち尽くしていた。足を進めれば、失くしたものの形が見えてくるのかもしれない。


それが自分の望むものかどうかは分からない。けれど、知らないまま胸の痛みだけを抱えるには、その名前はもう深く刺さりすぎていた。


アリアが隣に立つ。


「歩ける?」


「……歩く」


一歩踏み出すと、夜の戦いで疲れた脚が鈍く軋んだ。だが、止まるほどではなかった。


◇ ◇ ◇


長老の家は、里の一番奥にあった。


大きさはアリアの小屋とさほど変わらない。違うのは、壁に古い木札が何枚も掛けられていることと、窓の下に白い石が並べられていることだった。


石には薄く文字が刻まれていたが、青年には読めない。


長老は炉の前へ座り、アリアに湯を沸かすよう言った。青年は向かいの敷物へ腰を下ろす。


座るだけで、右手の指先がずきりと痛んだ。昨夜、白い核を抜いた時に焼けた場所だ。


長老はその手に目をやり、棚の下から木箱を取り出した。


「リリア・セラ。元は、そういう名だった」


「セラ……」


青年が呟くと、アリアが黙って頷いた。


「私と同じ家筋。かなり遠いけど」


長老は木箱の蓋を開ける。中には、色の褪せた細い紐と、小さな銀の留め具が入っていた。


華美なものではない。生活の中で使われていた、ただの髪留めに見える。


「リリアは、この里で生まれた。封じ場を守る家の娘だったが、剣を握る人間ではない。腕力もなく、走ればすぐ息を切らす。子どもの頃は、森で転んでは膝を擦りむいて戻ってきた」


長老の声には、少しだけ遠い温度があった。


「異能者だったのか」


「違う。火を操るでも、機械を壊すでもない。あの娘にできたのは、手を当てることくらいだった」


「手を?」


「封じ場に近づいた者が熱に浮かされることがある。黒い火が表へ出かけ、声が届かなくなる。そういう時、リリアが手を握ると、不思議と呼吸が落ち着いた。黒い筋が引き、目の色が戻る。理屈は、今も分からん」


アリアが湯を注ぐ音だけが、小さく響く。


「里では、それを鎮めの血と呼んでいる。立派な力の名前に聞こえるが、戦えるわけではない。深いところへ引かれる人間を、こちら側へ留めるだけだ」


青年は自分の右手首を見た。


さっきまで皮膚の下で揺れていた黒い影は、いまは薄い痣にしか見えない。


「そのリリアと、俺が似ていると」


「似ている。目つきは男親の方だがな」


男親。


その言葉で、胸の奥がさらに重くなる。


長老は木箱の紐を指先で撫でた。


「二十年ほど前、封じ場の外で一人の男が倒れていた。今のお前と同じように、血まみれで、身体の内側に人ではない熱を抱えていた。名をアベル・ノワールと言った」


頭の奥で、何かが弾けた。


眩しいほど白い光。


黒い仮面ではない、別の何か。


倒れた男の背中。


声が聞こえかけて、すぐに砂嵐へ崩れる。


青年は息を呑み、片手で床を押さえた。


「アベル……」


「知っているか」


「分からない。でも、その名も……痛い」


長老は目を伏せた。


「アベルは普通の負傷者ではなかった。里の者が近づくだけで、封じ場の石が震えた。身体の奥に、深淵へつながる何かを持っていたのだろう。あれを黒い火と呼んでいいのかは、わしにも分からん。ただ、この里に置いておけば、いずれ封じ場ごと壊れると皆が思った」


「追い出したのか」


「追い出そうとした」


長老の口元が苦く歪む。


「だが、リリアが退かなかった。あの男はまだ人だと言って、毎晩そばに座った。熱に呑まれて暴れかければ手を握り、名前を呼び続けた。アベルは、リリアのそばにいる時だけ、まともに眠れた」


青年は喉の奥が詰まるのを感じた。


自分の記憶ではない。知らない男と、知らない女の話だ。


それなのに、なぜか聞いているだけで苦しい。


「二人は、ここを出た」


長老は続けた。


「里にいればアベルを守れない。外にも、あの男を追う者がいた。リリアは家を捨て、封じ場の守り手であることも捨てて、アベルと共に行った」


アリアが湯呑みを青年の前へ置いた。


「里では、よくない話として残ってる。守り手が役目を捨てたって」


「アリア」


長老がたしなめると、彼女は視線を落とした。


「でも、私は責めたいわけじゃありません。そう聞かされてきただけです」


青年は湯呑みに触れなかった。


「二人に、子どもがいたのか」


自分で聞いた声が、他人のもののように聞こえた。


長老は長く息を吐いた。


「リリアが一度だけ戻ったことがある。冬の終わりだった。雪の中を一人で歩いてきて、胸に赤子を抱いていた」


青年の指が、無意識に握られる。


「その子は泣きもしなかった。熱が高く、右手首の皮膚の下に黒い細い線が見えていた。リリアは封じ場へ連れていき、夜が明けるまで抱いていた。朝には、その線は消えていた」


右手首の奥が、ずきりと疼く。


「名を聞いた。リリアは、レンと呼んだ」


音が落ちた。


炉の火が鳴る音も、外で風が木を擦る音も、一瞬だけ遠くなる。


レン。


赤い髪の誰かが呼んでいた音と、同じだった。


青年は胸を押さえた。息がうまく入らない。


頭の奥で白い靄が膨らみ、その向こうに人影がいくつも揺れた。


笑っている男。


大きな盾。


小柄な少女。


赤い炎をまとった女。


名前は、どれも出てこない。


ただ、最後の女の声だけが妙に近かった。


――レン。戻ってこい。


「俺が……その子だと言うのか」


ようやく声を絞り出す。


「断定はせん。お前が自分で思い出していない以上、わしが決めることではない」


「でも、そう思っている」


「思っている」


長老は逃げなかった。


「リリアはその朝、二度とこの里へは戻らないと言った。自分の子には、封じ場を守るためでも、深いところと戦うためでもなく、普通に生きてほしいと。だが、お前はここへ戻ってきた。身体を壊し、名を失い、黒い火を抱えて」


長老の声が一度だけ揺れた。


「リリアは、赤子だったお前を封じ場へ連れていった。夜が明けるまで、ずっと抱いたままだった」


長老は、箱の中の髪留めから目を離さずに言った。


「翌朝、手首の黒い線は消えていた。

わしが知っているのは、それだけだ。あの娘が何をしたのか、何が残ったのか、理屈まで語れる者はもうおらん」


青年は自分の手首を握った。


「なら、俺がここへ来た理由も分からないのか」


「分からん。だが、お前は外で壊れかけ、名を失って、それでもここへ戻ってきた。リリアが一度だけ連れてきた場所へだ」


炉の火が、ぱち、と小さく鳴った。


「わしには、それを偶然とは思えん」


青年は顔を伏せた。


アベル。リリア。レン。


音だけが並ぶ。けれど、そこへ自分の記憶は一つも追いつかない。


「母と言われても、分からない」


口にした声が、思ったより乾いていた。


「顔も、声も、何も覚えてない。俺の話だと言われても、痛むだけで……まだ、信じようがない」


長老は静かに頷いた。


「それでよい」


「よい?」


「忘れている者に、母を愛せ、父を信じろなどと言っても仕方がない。知らない者は知らないままでいい。だが、痛むなら、そこに何かが残っておる。いま無理に掴めば、また壊れる」


青年は顔を伏せた。


膝の上で、拳が震えていた。


怖いのか、怒っているのか、自分でも分からない。けれど昨日まで空白だった場所へ、いきなり父と母と名前を押し込まれて、平気でいられるほど身体は鈍くなかった。


アリアが、小さく言った。


「クロでいるうちは、クロでいいんじゃない」


青年は顔を上げる。


「レンだろうと、別の誰かだろうと、あなたが思い出すまでは。里の人は怖がるけど、私は昨日助けられたリオを見た。今はそれで十分」


「……簡単に言うな」


「簡単じゃない。昨夜の戦いを見たから、余計に怖い」


アリアは視線を逸らさなかった。


「でも、怖いからって、あなたが何も選べないうちに決めつけたくない」


その言葉は、黒い火よりも少しだけ温かく胸に残った。


◇ ◇ ◇


長老の家を出た時には、空が白み始めていた。


雨は止み、濡れた白木の葉から雫が一つずつ落ちている。里人たちは遠くから青年を見たが、昨夜ほど露骨に顔を背けなかった。


半AI化兵から助けられた者がいることは、すでに広がっているのだろう。


それでも、近づいてくる者はいない。


青年はその距離を、受け入れるしかなかった。


アリアは隣を歩き、途中で古い井戸のそばに立ち止まった。


「長老の話、信じる?」


「分からない」


「またそれ」


「嘘を言うよりいい」


「それはそうだけど」


アリアは井戸の縁へ腰を下ろす。青年は少し離れた石に座った。


「リリアのこと、私は会ったことない。私が生まれる前に里を出てるから。でも、祖母から聞いたことはある」


「どんな人だった」


聞いたあと、自分が知りたいと思ったことに青年は少し驚いた。


アリアは森の向こうを見た。


「おとなしくて、頑固だったって。皆が封じ場へ近づくなと言えば近づくし、怪我人を置いて逃げろと言われれば最後まで残る。剣も使えないのに、一番危ないところへ座って、手を離さなかったって」


青年は視線を落とした。


誰かが泣きそうな声で、自分を呼んでいた。


その記憶の断片が、今の話と妙に重なる。


「父は深いところへつながり、母はそこから戻す。なら俺は、どっちなんだ」


アリアは少し考えたあと、首を振った。


「私に聞かないで。そんな大きな話を急にされても困る」


青年は一瞬黙り、それから、ごく小さく息が漏れた。


笑ったのかもしれない。


自分でも分からないほど浅いものだったが、アリアは目を見開いた。


「笑えるんだ」


「失礼だな」


「ずっと、死んだ魚みたいな顔してたから」


「助けた相手に言う言葉か」


「助けられたのはリオで、私は見張り役」


その返しがあまりに普通で、青年はそれ以上何も言えなくなった。


普通の言葉が、今は少しだけありがたかった。


◇ ◇ ◇


同じ頃、聖王国アルディアの王都では、レオナ・ヴァレンハイトが旅装を整えていた。


紅蓮大剣アシュラはすでに腰にある。黒い外套の留め具を片手で締めようとして、右手に鋭い痛みが走った。


包帯の下の火傷が、ずくりと脈打つ。


それでもレオナは眉一つ動かさず、もう一度指をかけた。


「その手で、どこへ行くつもり?」


背後から声がした。


レオナは振り返らない。


「散歩だ」


「大剣と三日分の携行食を持った散歩なんて、初めて見た」


フィオナ・ルーベルが部屋の入口に立っていた。彼女自身もまだ万全とは言えない顔色だったが、白い外套を羽織り、手には包帯と薬瓶を持っている。


「邪魔をするな、フィオナ」


「邪魔じゃない。治療」


「必要ない」


「必要かどうかを決めるのは、怪我人じゃなくて私」


レオナの手が止まった。


フィオナはその隙に近づき、外套の留め具へ伸びていた右手を取る。包帯の一部が赤く滲んでいるのを見て、少しだけ目を細めた。


「ほら、開いてる」


「この程度で動けなくなるほど柔じゃない」


「動けるかどうかの話はしてない。今の手で《ブレイズクラウン》を使えば、次は剣を握れなくなるかもしれないって言ってるの」


「全力を出さなければいい」


「あなたがそれを守れるなら、私は止めに来てない」


レオナは舌打ちしかけて、やめた。


フィオナの言うことは正しい。見つけた瞬間、どんな状態でも駆け寄る。


何かが立ちはだかれば燃やす。レンがまた黒い光に呑まれていれば、今度こそ腕ごと失ってでも掴むだろう。


自分でも、分かっている。


フィオナは椅子を顎で示した。


「座って」


「命令か」


「診療所では、私の命令が一番強い」


「ここは私の部屋だ」


「怪我人がいる場所は、私の診療所」


言い返す言葉が見つからず、レオナは不機嫌そうに椅子へ腰を下ろした。


フィオナは乱れた包帯を外し、火傷の残る右手へ薬を塗る。冷たい薬液が染み、レオナの指がわずかに動いた。


「……あいつは生きている」


レオナがぽつりと言った。


フィオナは手を止めなかった。


「そうね」


「根拠はない」


「私もない」


「十傑の治癒師が、それでいいのか」


「患者が帰ってくるまで、勝手に死んだことにしない。それだけ」


新しい包帯が手首を回る。


きつすぎず、緩すぎない。戦場で何度も負傷者をつないできた手つきだった。


レオナは窓の外を見た。修復中の城壁の向こうに、朝焼けが薄く広がっている。


あのどこにも、レンの姿はない。


「あの時、黒い騎士と呼んでも届かなかった」


フィオナの指が、ほんの一瞬止まる。


「兵器だと怒鳴っても、何も変わらなかった。だが、レンと呼んだ時だけ、あいつは止まった」


「……」


「だったら、もう一度呼べば戻る」


レオナの声には迷いがなかった。


フィオナは包帯の端を留め、静かに息を吐く。


「なら、まずその手を使える状態にして。見つけた途端、また焼けた手で掴みに行くつもりでしょ」


「当然だ」


「本当に面倒な性格」


「お前にだけは言われたくない」


フィオナは少しだけ口元を緩めた。


その時だった。


廊下を駆けてくる足音が響いた。普段なら足音すら乱さない人間が、珍しく急いでいる。


扉が開く。


セツナ・クレインが、薄い記録端末を片手に立っていた。髪は少し乱れ、呼吸もいつもより浅い。


レオナは椅子を蹴るように立ち上がった。


「何か出たか」


「出た」


セツナは余計な言葉を挟まず、端末を机の上へ置いた。


淡い波形が画面の中で揺れている。


消えかけては戻り、また沈む。はっきりした反応ではない。


だが、完全な雑音とも違った。


フィオナが画面を覗き込む。


「これは?」


「座標傷の残響。終局戦のあと途絶えていた波形と一致してる」


レオナの指が、《アシュラ》の柄へかかった。


「場所は」


「まだ荒い。王都北西の山間部。地図だとほとんど空白に近い場所」


「生きているのか」


セツナはすぐには答えなかった。


画面を睨み、波形の揺れを追う。いつもの無表情に見えて、端末を持つ指だけがわずかに強張っていた。


「確定とは言えない。反応は弱いし、別の中継波を拾っている可能性もある」


「セツナ」


レオナの声が低くなる。


「回りくどい説明はいい。お前はどう思う」


セツナは一度だけ息を吐いた。


その瞬間、端末の波形が小さく跳ねた。


ごく弱い。


けれど、消えなかった。


セツナが顔を上げる。


「いた」


レオナの呼吸が止まる。


セツナは抑揚のない声のまま、しかしいつもより少しだけ強く続けた。


「たぶん、生きてる」


レオナはもう外套を掴んでいた。


フィオナが額へ手を当てる。


「言っても止まらない顔ね」


「止める気なら退け」


「止めない。私も行く」


レオナが振り返る。


「足手まといになるぞ」


「その台詞、右手を治してから言いなさい」


セツナは端末を閉じた。


「私も行く。現地で波形が消えたら、あなたたちだけじゃ追えない」


「危険だぞ」


「知ってる。だから行く」


レオナは二人を見て、短く息を吐いた。


「勝手にしろ」


「そのつもり」


セツナが淡々と返す。


フィオナは薬袋を取り上げ、レオナへ投げた。


「それ、持って。道中でも巻き直すから」


レオナは受け取り、黒い外套を肩に掛ける。


窓の外では、朝の王都がまだ静かに息をしていた。


けれど、止まっていた炎はもう動き始めている。


見つける。


今度こそ、連れ戻す。


レオナは包帯の巻かれた右手で《アシュラ》の柄を握り、扉の向こうへ踏み出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ