第47話 黒い火の青年
「あなた、黒い火を持ってるの?」
アリアの声は、雨上がりの湿った空気の中で少しだけ震えていた。
青年は答えられなかった。右手首に浮かんだ黒い影は、もう皮膚の奥へ沈んでいる。
けれど確かにそこにあった。雨に濡れた手首から指先へ墨を落としたように広がり、一瞬だけ炎の形に揺らいだ。
リオを助けた直後だというのに、里人たちは近づいてこない。倒れた小型ビーストの首元から、パチ、パチ、と弱い火花が跳ねていた。
「黒い火だ……」
誰かが呟いた。
その声で、空気が一段冷える。
黒い火。
その言葉には覚えがない。だが、胸の奥にある残り火だけが、その呼び名にわずかに反応した。
痛みではない。熱でもない。
昔からそこにあったものを不意に撫でられたような感覚だった。
「アリア姉」
リオが震えた声を出した。
「その人、俺を助けてくれたよ」
アリアは青年の腕を掴んだまま、少しだけ目を伏せた。
「分かってる」
「じゃあ」
「分かってるって言ったでしょ」
青年はようやく息を吐く。
「俺は、それを知らない」
里人たちのざわめきが揺れた。信用したわけではない。
むしろ、知らないという言葉の方が怖かったのかもしれない。
「小屋へ戻る。立てる?」
「立てる」
「なら歩いて」
アリアは里人たちへ振り返る。
「リオは薬室へ。見張り台はあとで組み直す。ビーストには誰も触らないで。核が残っているかもしれない」
若い男が一歩前へ出た。
「そいつを里へ戻すのか。黒い火だぞ」
「同じかどうかも分からない」
アリアがそう返すと、男は黙った。
戻れなかった者たちの話が、この雨上がりの空気にも染みていた。
アリアは青年の袖を軽く引いた。
「行くよ、クロ」
クロ。
仮の名前。
それを聞いた時、青年の胸の奥で、ほんの小さく何かが軋んだ。違う。
そう思いかけて、何が違うのか分からなかった。
◇ ◇ ◇
小屋へ戻ると、アリアは扉を閉め、外から掛け木を差した。
閉じ込めるためではない。外から誰かが急に入ってこないようにするためだと、青年には分かった。
アリアは炉に薪を入れた。湿っているせいでなかなか燃えず、白い煙が低く広がる。
「座って」
青年は寝台の端に腰を下ろした。身体は思った以上に重い。
さっきの動きの反動が遅れて来ている。胸の奥の黒い残り火も、灰を被ったように沈んでいた。
アリアは布で青年の右手首を拭いた。
黒い影は見えない。それでも、彼女の指は慎重だった。
「黒い火って何だ」
青年が聞くと、アリアはすぐには答えなかった。
炉の中で薪がようやく燃え、パチ、と火が跳ねる。
「昔、この里には封じ場を守る人たちがいた。外へ出してはいけないものを、外へ出さないために」
「守る?」
「その中に、ときどき深いところに触れてしまう人がいた。封じ場の奥にあるもの。それに触れた人は、身体の内側に黒い火を宿す」
「それが俺の手首に出たものか」
「たぶん」
「黒い火を持つと、どうなる」
アリアは布を握る手に、ほんの少し力を入れた。
「戻れなくなる」
その一言で十分だった。
「人の形は残る。でも少しずつ人じゃなくなる。声が届かなくなる。家族の顔を見ても分からなくなる。誰かを助けようとしていたはずなのに、最後には助ける相手も壊す相手も見分けられなくなる」
青年は黙った。
さっきビーストを止めた時、リオを助けたことは分かっている。だが、その後の感情が薄い。
ただ処理が終わった、という妙に冷たい感覚だけが胸に残っていた。
「俺も、そうなるのか」
「知らない」
アリアは即答した。
「私はあなたを知らない。あなた自身も、自分を知らない。でも里の人たちは怖がる。黒い火を見たから」
「追い出すべきだと思うか」
「リオを助けた人を、雨の山へ放り出す趣味はない。ただし、信じたわけじゃない」
青年は右手首を見下ろした。
「今夜、長老が来ると思う。あなたをどうするか決めなきゃいけないから」
「抵抗したら?」
アリアの目が少しだけ鋭くなった。
青年は、なぜそんなことを聞いたのか自分でも分からなかった。ただ、もしこの里が自分を敵と見たらどうなるのか、それを確認しておくべきだと身体のどこかが判断した。
アリアは腰の鉈に手を置く。
「抵抗しないで」
「答えになってない」
「あなたを殺したくない」
殺せるとは言っていない。
殺したくないと言った。
その違いが、なぜか胸に残った。
◇ ◇ ◇
夕方、長老は二人の男を連れて小屋へ来た。
背の低い老人だった。白い眉が垂れ、杖をついている。
けれど足取りは弱々しいだけではなく、ゆっくりと地面を確かめるような重さがあった。
「リオは?」
「軽い打撲だけです。怯えていますけど、怪我はほとんど」
「そうか」
老人はそれだけ言うと、青年を見た。
「名は」
「覚えていない」
「どこから来た」
「分からない」
「何をしに来た」
「分からない」
小屋の中にいた男の一人が苛立ったように顔を歪める。アリアが少しだけ前へ出ようとしたが、長老が手を上げて止めた。
「よい」
老人は青年の右手首を見る。
「黒い火を見た者がいる。怖いか」
青年は少し考えた。
怖い。そう答えるべきなのかもしれない。
だが、はっきり怖いと言えるほど、その感情は形を持っていなかった。
「分からない」
また同じ答えになった。
だが長老は怒らなかった。
「この里には、昔、黒い火に呑まれた者がいた。皆、最初は人を守ろうとした。だが、深いところに触れた者は、戻る道を失った。名前を忘れ、顔を忘れ、最後には守るはずの里に刃を向けた」
「俺もそうなるかもしれない」
「なるかもしれん」
長老は隠さなかった。
「なら、なぜここに置く」
「今日、お前はリオを助けた。それだけではない。黒い火を持つ者が皆、戻れぬわけではない。ごく稀に、火を抱えたまま人として立つ者がいる。そういう者には、決まって帰るための何かがある。名か、人か、約束か。お前には今、それが見えぬ」
青年の胸の奥が、小さく痛んだ。
名。
人。
約束。
どれも、ありそうでない。掴もうとすると崩れてしまう。
「お前を里に置く。ただし封じ場へ近づくことは禁じる。夜はアリアの小屋から出るな。もし黒い火が広がり、人を傷つける兆しがあれば、その時は、わしらが止める」
止める。
殺す、とは言わなかった。
だが、意味は同じだった。
青年はうなずいた。
「分かった」
あまりにもすぐ答えたので、アリアがこちらを見た。
「本当に分かってる?」
「たぶん」
「たぶんって」
「でも、他に行く場所もない」
小屋の中が少しだけ黙る。
「アリア、今夜は見張りを増やせ。黒い火が出たなら、森も騒ぐ」
「分かりました」
老人たちは小屋を出ていった。
◇ ◇ ◇
夜は、昼よりも静かだった。
雨は上がっていたが、濡れた木々から雫が落ち、屋根や葉に当たって、トン、トン、と不規則に鳴る。
青年は寝台に横になっていた。
眠れない。
黒い火。
深淵。
戻れなかった者たち。
長老の言葉が、頭の中をゆっくり回っていた。
自分もそうなるのかもしれない。
名前を忘れ、顔を忘れ、最後には守るはずのものを壊す。
守るはずのもの。
そこでまた、赤い髪が浮かんだ。
炎の中でこちらを見る目。
怒っているようで、泣きそうでもある声。
――レン。
青年は目を開けた。
その名前を思い出そうとすると、胸が痛む。だが、痛みがあるということは、そこに何かが残っているのかもしれない。
小屋の外で、アリアの足音がした。彼女は扉の前に座っている。
中から逃げないようにか、外から何かが入らないようにか、たぶん両方だった。
青年は声をかけた。
「アリア」
「何」
「黒い火に呑まれた者は、最初からそうだったのか」
少しの沈黙。
「たぶん、途中で変わった。使いすぎた。深いところに触れすぎた。誰の声も聞かなくなった。本当のところは分からない」
「共通してることは?」
「自分は大丈夫だと言った人から、だめになった」
青年はしばらく黙った。
「なら俺は大丈夫だとは言わない」
「それ、少しは信用していいの?」
「分からない」
「便利ね、その返事」
「本当に分からないんだ」
「知ってる」
アリアの声が少しだけ柔らかくなった。
その時だった。
遠くで鐘が鳴った。
カン。
一つ。
間を置いて、もう一つ。
カン、カン、カン。
昼のビーストの時より速い。
青年は寝台から起き上がった。
「出ないで」
扉の外でアリアが言った。
「何が来た」
「分からない。だから出ないで」
アリアの足音が離れる。
青年は扉を見た。
出るなと言われた。夜は小屋から出るなとも言われた。
長老の命令でもある。従うべきだろう。
だが、身体はもう立っていた。
外で誰かが叫ぶ。
「北から来るぞ!」
次の瞬間、金属が木を裂く音がした。
メキ、と太い音。
続いて悲鳴。
青年は扉へ手を伸ばした。
右手首が、熱い。
◇ ◇ ◇
里の北側で火が上がっていた。
青年が小屋を出た時、空気はすでに鉄臭かった。
そこにいたのは、昼の小型ビーストではなかった。
人の形をしている。
だが、人間ではない。
背丈は青年より少し高い。腕は細く、関節の動きが妙に滑らかで、皮膚のように見えるものの下で白い金属繊維が脈打っていた。
片方の目だけが機械の単眼になっていて、頭の上には割れた白い輪が浮かんでいる。
青年はその名を知らないはずだった。
だが、見た瞬間に分かった。
これは人間だったものだ。
そして今は、命令だけで動いている。
「クロ!」
アリアが北の柵の前にいた。鉈を構え、肩で息をしている。
隣には若い男が倒れており、腕から血を流していた。
半AI化兵は三体。
一体は柵を壊し、二体目は弓兵へ向かい、三体目は民家の方へ歩いている。その動きは速くはない。
だが迷いがない。恐れも怒りもなく、ただ目標へ進んでいる。
「戻って!」
アリアが叫ぶ。
青年は返事をしなかった。
頭の奥でノイズが走る。
ザザッ。
『敵性――三』
言葉は途切れる。
だが十分だった。
青年は地面に落ちていた鉈を拾った。
手にした瞬間、軽すぎると思った。刃は悪くない。
だが重さが足りない。そんなことをなぜ自分が判断できるのか、考える前に身体が動く。
一体目がこちらを向いた。
「黒反応、確認」
その声は平坦だった。
青年は踏み込んだ。
相手の腕が伸びる。関節が一つ多いような曲がり方で、刃物のように尖った指が喉を狙ってきた。
遅い。
半歩内側へ入り、肘関節の下を鉈の背で叩いた。
ゴギ、と鈍い音。
曲がってはいけない方向へ腕が折れる。
青年はそのまま膝を蹴る。身体が落ちる。
首筋に白い繊維が見えた。
そこだ。
鉈を差し込み、切るというより引き抜く。
白い繊維がブチ、と音を立てて千切れた。
一体目が崩れた。
青年は振り返らない。
二体目が弓兵の胸を貫こうとしている。
青年は倒れた一体目の腕を掴み、そのまま引き抜いた。人の腕ではない。
内側は金属と繊維でできている。
投げる。
腕は回転しながら飛び、二体目の肩へ突き刺さる。体勢がずれた隙に距離を詰め、脚を払い、首の付け根へ鉈を入れる。
硬い。
足りない。
もう一度、角度を変えて入れる。
ブツ、と何かが切れた。
二体目が地面に伏す。
「クロ……?」
アリアの声が聞こえた。
青年はそちらを見なかった。
三体目が民家の扉へ手をかけている。
中には子どもの泣き声がした。
青年の胸の奥で、黒い残り火が静かに広がった。
熱い。
だが、感情は動かない。
怒りではない。
焦りでもない。
目標がある。
処理する。
それだけだった。
青年は走った。
ぬかるんだ地面で足が滑る。だが転ばない。
身体が勝手に最短の線を選ぶ。
三体目が振り向く。単眼が光る。
「対象、黒反応」
青年は低く踏み込んだ。
相手の胸には、小さな白い核が見えた。肋骨の奥、本来なら心臓がある場所。
なぜ知っている。
一瞬だけそう思った。
だが手は止まらない。
鉈を捨て、素手で相手の手首を掴み、捻る。関節が外れる。
空いた胸元へ肘を入れる。装甲がわずかに歪む。
そこへ指を差し込んだ。
青年は核を掴んだ。
熱い。
指先の皮膚が焼ける。
それでも離さない。
引き抜く。
ズル、と嫌な感触がした。
白い核が胸から抜け、半AI化兵の身体が糸の切れた人形みたいに崩れ落ちた。
青年は核を地面に落とし、踵で踏み砕いた。
バキン。
白い光が弾け、夜の空気に薄く散った。
静かになった。
三体は倒れた。
子どもも、弓兵も、アリアも生きている。
それなのに、青年の中には何も湧いてこなかった。
青年は自分の手を見る。
血ではない。白い液体と黒い煤のようなものが指についていた。
右手首からは黒い影がまたにじみ、今度は指の節まで薄く伸びている。
アリアが近づいてきた。
「クロ」
青年は顔を上げる。
「俺は」
そこで言葉が止まった。
何をした。
一体目をどう倒した。
二体目に何を投げた。
三体目から何を抜いた。
断片はある。
だが、動きの全部がつながらない。
まるで途中だけ、自分ではない誰かが身体を使っていたようだった。
「半分、覚えてない」
そう言うと、アリアの顔色が変わった。
恐れよりも先に、痛みのようなものが浮かんだ。
◇ ◇ ◇
夜明け前、里の広場に長老が来た。
半AI化兵の残骸は、封じ場の近くへ運ばれた。誰も素手では触らない。
青年はその様子を、広場の隅で見ていた。
近づくなと言われたわけではない。
だが、誰も隣には立たなかった。
長老が杖をついて近づいてくる。アリアも一緒だった。
「手を見せなさい」
青年は右手を出した。
黒い影は薄くなっている。だが完全には消えていない。
皮膚の下に、まだ黒い火の芯が残っている。
長老はそれをしばらく見ていた。
「お前、戦い方を誰に習った」
「覚えていない」
「では、なぜ戦える」
「分からない」
また同じ答え。
だが、今度は誰も責めなかった。
夜の戦いを見ていたからだろう。
分からないと言いながら、青年は三体を壊した。関節を砕き、核を抜き、命令を処理するように止めた。
そこには迷いがなかった。人を守る動きではあった。
けれど、人間の動きとしては冷たすぎた。
「アリア。この者を、封じ場の家へは近づけるな。だが、里の外へも出すな」
「長老」
「出せば、外の何かが拾う。ここに来た時点で、もうこの里と無関係ではない」
青年は長老を見た。
「俺は、ここにいていいのか」
「よくはない」
老人ははっきりと言った。
「だが、今追い出すよりはましだ」
それは優しさではなかった。
けれど、嘘でもなかった。
青年はうなずこうとして、胸の奥が急に痛んだ。
リリア。
どこからか、その音が落ちてきた。
いや、まだ聞こえていない。誰かが口にする前に、胸の奥だけが先に反応した。
長老が青年の横顔を見て、ほんのわずかに目を見開く。
そして、信じられないほど小さく呟いた。
「……リリアに似ている」
アリアが息を止めた。
青年は、その名を聞いた瞬間、理由もなく胸を押さえた。
リリア。
知らない名のはずだった。
けれど、その名だけが、黒い残り火の奥で静かに燃えた。




