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俺だけ【リミットブレイク】―最底辺Fランクが黒仮面で無双するたび壊れていく―  作者: スドタケ


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第46話 知らない天井

名前を聞かれて答えられなかった夜から、一晩が過ぎた。


雨は朝になっても止んでいなかった。細い雨が小屋の屋根を叩き、木の壁の隙間から湿った匂いが入り込んでくる。


青年は寝台の上で目を開けたまま、しばらく何も考えずにいた。


知らない天井。


それは昨夜も見た。けれど一度見たからといって、今日から知っている天井になるわけではない。


木の梁も、吊るされた薬草も、壁にかかった古い外套も、全部が自分の記憶の外側にあった。


自分の名前も、同じだった。


何度も探した。胸の奥を掘るようにして、頭の中をひっかくようにして、思い出そうとした。


けれど出てくるのは、黒い光と、燃えるような赤と、誰かが泣きそうな声で呼んでいた音の欠片だけだった。


それも、触れようとすると崩れる。


ざり、と頭の奥で砂を噛むような音がして、そこで終わる。


「起きてる?」


扉の向こうから声がした。


昨日の女だ。


アリア・セラ。


それだけは覚えた。覚えたというより、覚えようと決めた。


今の自分にとって、名前を持っている人間は、それだけで少し遠い場所にいるように見える。


「起きてる」


声を出すと、喉がまだ少し痛んだ。


扉が開く。アリアは片手に木皿、もう片方に布を持っていた。


昨日と同じ山の民の服で、腰には短い鉈。濡れた髪を後ろでまとめているが、前髪の端から雫が一つ落ちた。


「熱は?」


「分からない」


「そういう時は、あるとかないとか言うの」


「……たぶん、ない」


「最初からそう言って」


アリアは少し呆れた顔をして近づき、木皿を寝台横の台に置いた。中身は薄い粥だった。


湯気が立っている。薬草の匂いが少し混じっていた。


「食べられる?」


青年はうなずいた。


粥を口に入れる。味は薄い。


けれど、胃に落ちていく感覚がはっきりあった。自分が空腹だったことに、食べはじめてから気づく。


アリアはその間、黙って彼の手元を見ていた。


「箸の持ち方は普通ね」


「箸?」


青年は自分の手を見る。


細い木の棒を、当たり前のように扱っている。意識していなかった。


どう動かせばいいか、身体が勝手に知っていた。


「覚えてないのに、できることはあるんだ」


アリアが言う。


青年は返事をしなかった。


できること。


たしかにある。


水を飲むこと。歩くこと。


食べること。痛みを我慢すること。


誰かの声に反応すること。だが、それらが何につながっていたのかが分からない。


自分はどこで生まれたのか。


誰といたのか。


何をしていたのか。


それだけが、きれいに抜け落ちている。


「昨日も聞いたけど、名前はまだ?」


アリアの声は静かだった。


責めているわけではない。ただ確認している。


青年は粥を飲み込んでから、首を横に振った。


「出てこない」


「何か音だけでも?」


「……レ」


そこまで言って、喉が止まった。


アリアの目が少し細くなる。


「レ?」


「分からない。今のも、名前かどうか」


レン。


そう続きそうになった。


けれど、その二文字目を掴もうとした瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。黒い残り火が、灰の下で一瞬だけ強くなる。


青年は木皿を持つ手に力を入れた。


「無理に思い出そうとすると、痛む」


「なら、今はやめて」


「それでいいのか」


「よくはない。でも、頭を壊すよりはまし」


アリアは布を取って、青年の右手首を見た。


そこには、薄い黒い痣が残っている。昨夜より少し薄くなった気もするが、消えたわけではない。


皮膚の下に墨を流し込んで、それがまだ沈みきらずに残っているような色だった。


アリアの指が、その近くで止まる。


触れない。


触れたくないのか、触れてはいけないと思っているのか、青年には判断がつかなかった。


「それも覚えてない?」


「覚えてない」


「痛む?」


「今は」


「今は?」


「ときどき、熱い」


アリアは小さく息を吐いた。


その息の中に、嫌なものが混じっていた。恐れとも、警戒とも、もっと古い何かとも取れる。


「クロ」


「クロ?」


「昨日、仮の名前がいるって話をしたでしょ。あなたが好きに呼べばいいって言ったから」


「俺が?」


「覚えてないの?」


「……そのくらいは覚えてる。たぶん」


アリアは少しだけ眉を上げた。


「じゃあ、クロ。今日は外に出る。歩けるなら」


「昨日は止めなかったのに、今日は確認するんだな」


「昨日はあなたが勝手に立った。今日は私が連れていく。意味が違う」


そういうものか、と思った。


たぶん、そういうものなのだろう。


◇ ◇ ◇


里の周囲は、霧の中に沈んでいた。


雨が細くなった昼前、アリアは青年に厚手の外套を渡し、小屋の外へ出した。足元はぬかるんでいて、一歩踏むたびに靴底がじゅ、と湿った音を立てる。


青年は小屋の前で立ち止まった。


白い木々があった。


幹は細く、空へまっすぐ伸びている。雨に濡れた樹皮は淡く光り、葉は薄い銀色に見えた。


その木々の間に、小さな家がいくつも隠れるように並んでいる。


村、というには静かすぎる。


隠れ家、というには暮らしの匂いが強すぎる。


「白梢の里」


アリアが言った。


「外の地図にはほとんど載っていない。載っていても、古い山道の印くらい。商人もめったに来ないし、兵も来ない」


「来ないようにしている、と昨日言ったな」


「そこは覚えてるんだ」


「全部忘れるわけじゃないらしい」


「便利なのか不便なのか分からないわね」


アリアが歩き出すと、青年も外套の前を押さえながら後を追った。


雨上がりの道は柔らかく、踏むたびに靴の底が土へ少し沈む。

軒先では老婆が濡れた豆を籠へ広げ直し、別の家では男が薪を割っていた。

乾いた音が二度続いたところで、その手が止まる。


男は青年を見たあと、何も言わず、割った薪を子どものいる家の側へ積み直した。


小さな女の子が戸口から顔を出しかけ、母親に肩を抱かれて奥へ戻される。

青年はその動きを見てしまったが、見なかったふりをするしかなかった。


道は、妙に曲がっている。家と家を最短で結ぶなら、こんな造りにはならない。

途中に置かれた低い石柱も、目印というより、知らない者を迷わせるためのものに見えた。


「この道、わざと曲げているのか」


アリアが振り返った。


「分かるの?」


「真っすぐ抜けられる場所を、何度も外してる」


「普通は気づかない」


青年は泥の上に残る自分の足跡を見た。


「普通じゃないのかもしれない」


口にしてから、右手首の奥が熱を持った。青年は袖を引き下ろし、黒い痣を隠す。


アリアは薪割り場の脇で倒れていた細い薪を一本拾い、軒下へ戻した。


「悪い人たちじゃない。ただ、怖いだけ」


「俺がか」


「あなたが何者か分からないことが」


青年は返事をしなかった。


分からないのは、里の人間だけではない。自分も同じだった。


◇ ◇ ◇


里の奥に、黒い岩壁があった。


白い木々の向こう、霧に半分隠れるようにして、その岩壁は立っていた。岩肌には大きな亀裂が走り、その前に古い木組みがある。


鳥居に似ているが、神に祈るためのものではないように見えた。


もっと冷たい。


もっと無口で。


何かが出てこないように、押さえつけるための場所。


青年は足を止めた。


胸の奥の黒い残り火が、そこでわずかに揺れた。


ザザッ。


頭の奥に、ノイズが走る。


黒い空間。


砕けた足場。


誰かが叫んでいる。


炎。


赤い髪。


白い顔。


泣きそうな声。


――戻ってこい。


青年は片手でこめかみを押さえた。


視界が一瞬だけ暗くなる。足元がふらつく。


アリアがすぐ横から腕を掴んだ。


「見ない方がいい」


「……あれは何だ」


「封じ場」


「封じ場」


「古いものよ。この里がここにある理由でもある。あなたが倒れていたのも、あの手前の道」


青年は顔を上げた。


「俺が?」


「三日前の夜。雨も降っていないのに全身ずぶ濡れで、服は焼けて、血だらけだった。封じ場の横の、崩れた祠のそばに倒れていた」


「俺は、そこへ歩いて来たのか」


「足跡はなかった」


アリアの声が少し低くなる。


「馬も荷車も、人の気配もない。上から落ちた跡もない。ただ、そこに急に吐き出されたみたいに倒れていた」


吐き出された。


その言葉で、胸の奥がまた痛んだ。


落ちたのか。


流されたのか。


引き寄せられたのか。


分からない。


だが、どこかを通ってきた感覚だけはあった。長い闇の中を落ちて、何かに押されて、最後に冷たい地面へ投げ出されたような感覚。


「ここには、そういうことがあるのか」


「昔は、たまに」


「今は?」


「ほとんどない」


「なら、なぜ俺は来た」


アリアはすぐには答えなかった。


霧が流れ、封じ場の木組みが雨の向こうでぼんやり揺れる。


「この場所は、深い傷を拾うと言われてる」


「傷?」


「身体の傷じゃない。もっと奥のもの。外の世界で壊れかけて、でもまだ完全には終わっていないものが、まれにここへ引き寄せられる。そう伝わってる」


「俺は、壊れかけていたのか」


「たぶん」


「今は」


アリアは青年を見た。


「分からない」


正直な答えだった。


だから青年は、それ以上聞かなかった。


◇ ◇ ◇


里の外れには、小さな見張り台があった。


畑の先、森へ続く細い道を見下ろす場所に立っている。木で組んだ簡素な台で、雨に濡れた縄が黒くなっていた。


そこには弓を持った少年が一人いる。


年は十四、五くらいだろうか。


アリアを見ると、少年はすぐに顔を明るくした。


「アリア姉!」


「リオ、周りは?」


「今のところ何もないよ。雨だから獣も下りてこない」


「北の尾根で音がしたって言ったでしょ。油断しないで」


「分かってるって」


リオと呼ばれた少年はそう言いながら、好奇心を隠せない目で青年を見た。


「その人、起きたんだ」


「見れば分かるでしょ」


「名前は?」


「まだ分からない」


「え、記憶ないの?」


リオは驚いたように身を乗り出した。


青年は少しだけ返事に困った。子どもの無遠慮さは、不思議と嫌ではなかった。


ただ、どう返せばいいのか分からない。


アリアが少年を睨む。


「聞きすぎ」


「ごめん。でもさ、記憶ないって、物語みたいだな」


「物語なら、もう少し楽しい始まりにしてほしいけど」


アリアの声は軽かった。


だが、その目は森を見ていた。


青年もつられて視線を向ける。


雨に濡れた木々の奥。


何かが動いた気がした。


ザザッ。


頭の奥で、ノイズが鳴る。


青年の指が、勝手に動いた。


腰に武器はない。なのに、そこに柄があるかのように手が下りる。


足が半歩ずれる。視界が狭くなり、森の影の中の一点だけが妙にはっきり見えた。


リオが首を傾げる。


「どうしたの」


次の瞬間、森の奥から金属の擦れる音がした。


ギギ。


ギギギ。


獣の足音ではない。


もっと硬い。


もっと嫌な音。


アリアの顔色が変わった。


「鐘を鳴らして」


リオは一瞬遅れて反応し、見張り台の横に吊るされた小さな鐘を叩いた。


カン、カン、カン。


里の中で人の声が上がる。扉が閉まり、子どもを呼ぶ声が重なった。


森の陰から、黒い狼型の機械兵が出てきた。


小型ビースト。


青年はその名を知らないはずだった。


知らないはずなのに、分かった。


脚の構造。首下の接続部。


単眼の奥の熱。次に跳ぶ角度。


全部が、妙に遅く見える。


「下がって!」


アリアが鉈を抜く。


だが青年はもう動いていた。


身体が勝手に前へ出た。


助けようと決めたわけではない。ただ、ビーストが跳ぶ先にリオがいて、リオの足が見張り台の段に引っかかって、逃げ遅れると分かった瞬間、身体が先に動いていた。


「クロ!」


アリアの声が後ろから飛ぶ。


青年は柵を越えた。


足がぬかるみに沈む前に、石を踏む。石が滑る。


だが重心は崩れない。次の足場を身体が勝手に拾う。


見張り台から落ちかけたリオの襟首を掴み、横へ投げるように引き寄せる。


直後、ビーストの爪が、さっきまでリオの頭があった場所を裂いた。


木片が飛ぶ。


バキッ、と見張り台の支柱が折れる。


リオが地面に転がり、息を呑んだ。


青年は振り向かず、壊れた支柱の破片を掴んだ。


武器としては悪い。短いし、湿っている。


けれど、ないよりはいい。


ビーストが低く唸る。金属の喉から、ギャリギャリと壊れた音がした。


ザザッ。


頭の奥でノイズが走る。


『――左前脚、着地後――』


言葉は途中で崩れた。


だが十分だった。


青年は前へ出た。


ビーストが跳ぶ。


遅い。


そう思った瞬間、自分がなぜそう思えるのか分からなくなった。だが身体は迷わない。


半歩外へ流れ、爪を避け、首下へ支柱の尖った部分を押し込む。


硬い。


木が軋む。


足りない。


青年はさらに踏み込んだ。肩がビーストの装甲にぶつかる。


金属の冷たさと、焦げた油の臭い。胸の奥の黒い残り火が、一瞬だけ強くなる。


ギチッ、と何かが入った。


ビーストの単眼が揺れる。


青年は支柱を手放し、横へ転がった。


次の瞬間、ビーストの首元から火花が散り、黒い機体がぬかるみへ倒れ込んだ。


ドシャ、と重い音。


雨が、その上に降り続ける。


青年は膝をついたまま、荒く息を吐いた。


自分が何をしたのか、半分分からない。


だが、リオは生きている。


それだけは分かった。


◇ ◇ ◇


里の人々が集まってきた。


誰もすぐには喋らなかった。倒れたビーストと、膝をつく青年と、震えながら起き上がるリオを見比べている。


最初に動いたのはアリアだった。


彼女はリオへ駆け寄り、怪我がないか確かめる。リオは真っ青な顔で、それでも首を振った。


「平気……たぶん、平気」


「たぶんじゃない。あとでちゃんと見る」


アリアはそう言ってから、青年の方を見た。


その目は、さっきまでと違っていた。


警戒だけではない。


恐れ。


そして、何かを確かめようとするような、痛いほど真剣な色。


「あなた、今の動き……」


青年は立ち上がろうとして、ふらついた。


アリアが反射的に支える。


その瞬間だった。


青年の右手首から、黒い影がにじんだ。


雨に濡れた皮膚の下で、墨を落としたような色が広がり、手首から指先へ細く走る。ほんの一瞬だけ、炎の形に似た黒い揺らめきが見えた。


アリアの手が止まった。


青年も自分の手首を見る。


黒い影はすぐ薄くなった。だが、消えたわけではない。


奥へ沈んだだけだ。


周囲の里人たちがざわつく。誰かが小さく「黒い火」と呟いた。


アリアは青年の腕を掴んだまま、顔色を変えていた。


「あなた……」


声がかすれている。


青年は何も言えなかった。


自分でも分からない。


これは何だ。


自分は何だ。


雨が強くなる。倒れたビーストの中で、火花がパチパチと弱く弾けた。


アリアは、ようやく言葉を押し出した。


「あなた、黒い火を持ってるの?」

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