第三章 プロローグ 黒い騎士のいない朝
ケイオスが倒れてから、王都の朝は少しだけ静かになった。
それは平和になったという意味ではない。
壊れた外壁の向こうからビーストの群れが押し寄せてこなくなり、夜ごと鳴っていた警戒鐘が鳴らない日も増え、焦げた石畳に市場の布屋台が戻りはじめただけのことだった。
人は思っているより早く日常へ戻ろうとする。それでも、誰も本気で笑いきれてはいなかった。
「黒い騎士、またどこかで戦ってるって話だぞ」
朝市の端で、魚を並べていた男がそう言った。
「最後の戦いで消えたんじゃなかったのか」
「消えたっていうより、姿を見せなくなっただけだろ。ああいうのは必要な時に出てくるんだよ」
「灰冠迷宮の時もそうだったしな」
その言葉で、周りにいた数人が黙った。
灰冠迷宮の夜に現れ、レオナ・ヴァレンハイトですら届かなかった敵を止めた黒い怪物。王都決戦でAI兵器を斬り、終局戦でアビスの奥へ消えた名前のない英雄。
兵士の間では黒い騎士と呼ばれ、市民の間では黒仮面様などという、少し幼い呼び方まで広まりはじめている。
助けられた者は、その姿を神のように語った。
怖れた者は、怪物のように語った。
どちらも、たぶん間違っていない。
◇ ◇ ◇
王城の会議室は、朝から冷えていた。
卓上に置かれた報告書の表紙には、黒仮面個体と記載されていた。
身元、不明。
所属、不明。
指揮応答、確認なし。
終局戦最終局面において、味方側への高出力反応を一件確認。
「戦果は否定しません」
若い参謀が資料を押さえながら言った。
「灰冠迷宮、王都決戦、アビス・ルート終局戦。彼がいなければ、被害は比較にならない規模でした。
市民の支持も強い。扱いを誤れば反発が出ます」
オルディスは表紙をめくらなかった。
「命令で止まるのか」
「確認できません」
「拘束できるのか」
「現行装備では不可能です」
「正体は」
「調査中です」
オルディスの指が、報告書の端を一度だけ叩いた。
「なら、英雄として遇する前に、止める手段を用意する。捕獲、拘束、無力化。不能であれば討伐まで含めて設計しろ」
「レオナ殿が認めません」
「四天王の感情は、運用規程ではない」
誰も返事をしなかった。
報告書の一枚目には、黒い騎士の戦果ではなく、危険度判定の欄だけが赤く囲まれていた。
◇ ◇ ◇
ヘリオスの地下解析室では、灯りが夜のまま残っていた。
セツナ・クレインは三日まともに眠っていない顔で、黒く焼けた記録媒体を前に座っている。
机の上には終局戦の断片記録、ケイオス残骸の中枢片、座標傷の波形図、そして本来なら存在してはいけない生体反応の照合結果が広げられていた。
レン・ノワール。
その名が出ている記録は、すでにほとんど隠した。
消したのではない。消せば跡が残る。
だから古い補給台帳や壊れた機材リスト、意味のない天候記録の奥へ分散し、誰にも読めない形に沈めた。
隣でフィオナ・ルーベルが包帯を巻き直していた。今の彼女は戦士というより、夜明け前の病室に残った医師のように見えた。
「戻ってきた結果、行方不明ですが」
セツナが言う。
「生きています」
フィオナは即答した。
「根拠は」
「ありません」
「十傑とは思えない回答です」
「患者を診る時、根拠より先に信じなければいけない瞬間があります」
セツナは鼻で息を吐き、端末の隅を見る。
座標傷の残響。
終局戦のあと、一度は完全に消えたはずの反応が、数日前からほんのわずかに戻っていた。場所は特定できない。
王都でもヘリオスでもない。地図の空白に近い、山間部のどこか。
「……帰ってきなさい。記録の整合性が取れません」
それは彼女なりの祈りだった。
◇ ◇ ◇
レオナ・ヴァレンハイトは、まだ右手に包帯を巻いていた。
焦げた皮膚はフィオナの治療で塞がったが、深いところの痛みは残っている。剣を握ればずきりと走り、炎をまとえば火傷の内側からまた焼かれるような感覚があった。
それでも彼女は、訓練場へ出ていた。
紅蓮大剣を振る。
一度。
二度。
三度。
風が裂け、離れた砂埃がぶわっと浮いた。
「やめろとは言わねえけどな」
後ろからガロが言った。
「今の手で無理すりゃ、治るもんも治らねえぞ」
「治るまで待っていたら、戻ってきた時に殴れない」
「誰をだよ」
レオナは答えなかった。
黒い騎士と呼んでも届かなかった。兵器として怒鳴っても届かなかった。
けれど、レンと呼んだ時だけ、あいつは止まった。
だからレオナは信じている。
あれはまだ、レンだ。
たとえ記録が沈黙しても、上が何を決めても、市民が英雄と呼び、官僚が怪物と呼んでも、彼女だけはそこを譲れなかった。
「勝って消えるなって言っただろ」
独り言は、朝の訓練場にすぐ溶けた。
返事はない。
ただ遠くの城壁で、修復用の槌が、かん、かん、と鳴っていた。
◇ ◇ ◇
王都から遠く離れた地下施設で、白い光が瞬いた。
そこは地図にない場所だった。かつてヘリオスの分解技師たちが見捨てた旧文明の補助研究区画で、今は再生派残党が死にかけた鼠のように潜り込んでいる。
中央の台座には、人間だったものが寝かされていた。
胸部にはケイオスの破片が埋め込まれ、首筋から白い金属繊維が伸び、頭の上には王冠に似た薄い輪が浮かんでいる。
黒ではない。
青でもない。
ひどく冷たい白だった。
「適合率は」
白衣の男が尋ねる。
「六十二。自我残存率、三十一」
「十分だ」
「戦闘投入にはまだ」
「黒仮面は待ってくれない」
白衣の男が指を鳴らす。
かちり。
白い王冠がゆっくり回転した。
兵士の目が開く。瞳の奥に、人の色はほとんど残っていなかった。
「命令を」
男は満足そうに笑った。
「黒い騎士を回収する」
◇ ◇ ◇
小屋の屋根を、雨が叩いていた。
ぽつ、ぽつ、ざあ、と降り方が少しずつ変わり、古い木の隙間から湿った匂いが落ちてくる。
青年は、その音で目を覚ました。
知らない天井だった。
木の梁。吊るされた薬草。
壁にかかった古い外套。窓の外には濃い霧があり、その向こうで森が揺れている。
身体を起こそうとして、胸の奥に痛みが走った。
「っ……」
手を見る。
自分の手だと思う。けれど、本当にそうなのか分からない。
指には細かい傷があり、爪の間に黒い煤が残っていた。右手首のあたりには、消えかけた影のような痣がある。
思い出そうとすると、頭の奥でざり、と砂を噛むような音がした。
何かがある。
黒いもの。
深いところに沈んでいる、火のようなもの。
扉が開いた。
きい、と木が鳴る。
入ってきたのは若い女だった。山の民らしい厚手の服を着て、濡れた髪を後ろで束ねている。
「目が覚めたのね」
女は水を差し出す。彼はそれを受け取って飲んだ。
水は冷たく、少し鉄の味がした。
「ここがどこか分かる?」
青年は首を横に振った。
「自分が誰かは?」
その問いだけが、やけに重く落ちた。
青年は口を開く。
名前。
自分の名前。
誰かが呼んでいたはずの名前。
炎の中で、黒い光の中で、泣きそうな声で、誰かが確かに呼んでいた。
けれど、出てこない。
「名前は?」
青年は、自分の胸に手を当てた。
そこには何もない。
何もないはずなのに、奥の奥で黒い残り火だけが、まだ消えずにくすぶっていた。
「……分からない」
雨が強くなる。
小屋の外で森が揺れ、遠くで獣のような低い音がした。
青年はその音に、反射で顔を上げた。
自分が誰かは分からない。
けれど、何かが近づいてくることだけは分かった。




