第二章 エピローグ 夜明けのあとに
夜明けは、来た。
それは勝利の朝というには、あまりに静かだった。
アビス・ルートは沈黙し、オーバーマインド統括機は破壊された。
旧文明地下基幹炉群の反応は急速に低下し、周辺に残っていたAI群も指揮系統を失って停止した。
人類側は、敵本拠の中枢を落とした。
そう記録された。
だが、誰も声を上げて喜ばなかった。
◇ ◇ ◇
救難部隊が到着した時、アビス・ルート内部は戦場というより、墓標のようだった。
崩れた黒い通路。
焼けた壁。
折れた武器。
血の跡。
四天王は全員生存。
ただし、無傷の者はいなかった。
レオナ・ヴァレンハイトは両手と腕に深い熱傷を負い、肩と脇腹にも裂傷が残った。
しばらく大剣は握れない、とフィオナに言われた時、レオナは不機嫌そうに黙り込んだ。
シオンは全身に深い裂傷。
イヴァンは内臓への負荷が大きく、絶対安静。
ミレーヌも異能の酷使で倒れたまま、半日ほど目を覚まさなかった。
十傑ハイランカーの損耗は、さらに重かった。
鵺坂トウマ、戦死。
エリナ・ソロヴィエワ、右腕喪失。
リゼット・マルロー、左脚重度損壊。
それでも、エリナは片腕で記録板を掴み、「観測はできます」と言った。
リゼットは寝台の上で、「脚より服の方が高かったのに」と笑った。誰も笑えなかったが、彼女だけは笑っていた。
そして、カイ・フェルナー。
彼は生きていた。
胸を貫かれたように見えた一撃は、完全には急所へ届いていなかった。
ミレーヌの《ミラーミミック》が、ほんの一瞬だけケイオス・アビスコアの認識をずらしていた。
イヴァンの《グラビティワールド》が、貫通の圧を殺していた。
シオンの《雷装》が、続く二撃目を斬り落としていた。
そしてフィオナが、止まりかけた命を繋いだ。
それでも、意識は戻らない。
白い寝台の上で、カイは眠っていた。
顔色は悪い。
呼吸も浅い。
それでも、生きている。
レオナはその寝台の横に立った。
包帯の巻かれた両手は、まだうまく動かない。指先に力を入れるだけで痛む。それでも、彼女はしばらくカイを見下ろしていた。
「お前まで死んだら、あいつが戻りづらいだろ」
返事はない。
カイは眠っている。
だが、その顔はどこか、いつもの軽口を隠しているようにも見えた。
レオナは小さく息を吐いた。
「あいつは戻る。戻らなきゃ困る……だったな」
その言葉を口にして、胸の奥が痛んだ。
黒い騎士は消えた。
そして、レン・ノワールもまた、行方不明になっていた。
公式記録では、レンは作戦後方でセツナの管制補助と護衛についていたとされた。
ソーラーフレア発動時の反動で座標傷の崩壊に巻き込まれ、消息不明。
それが、フィオナとセツナが作った説明だった。
完全な嘘ではない。
だが、真実でもない。
黒い騎士が誰だったのか。
それは公にはならなかった。
各国の報告書には、こう記された。
――黒色戦術個体、再出現。
――ケイオス撃破に重大寄与。
――戦闘後、所在不明。
王都では、また噂が広がった。
黒い騎士は人間なのか。
AIなのか。
英雄なのか。
災厄なのか。
誰も知らない。
だからこそ、噂だけが残った。
一方で、レン・ノワールの名もまた記録に残された。
元Fランク回収係。
王都決戦以降、複数の重要任務に関与。
黒剣継承者。
アビス・ルート作戦において、後方支援任務中に消息不明。
王都軍評議会は、本人不在のまま、レンを戦時特別功績者として認定した。
さらに、正式な昇格ではなく、異例の「Aランク特進級」として扱うことが決まった。
本人は、そこにいない。
それでも、名前だけが上がった。
レオナはその報告を聞き、何も言わなかった。
ただ、窓の外を見ていた。
王都の空は晴れている。
嫌になるほど、綺麗な空だった。
「レオナさん」
声をかけたのはフィオナだった。
「手の処置を」
「あとでいい」
「よくありません」
「少しくらい待て」
「待ちません」
フィオナの声は柔らかいが、譲らない。
レオナは観念して椅子に座った。
包帯が外される。
焼けた掌が露わになる。
黒い光を掴んだ痕。
あの時の熱が、まだ皮膚の奥に残っている気がした。
「名前を呼びましたね」
フィオナが静かに言った。
レオナの目がわずかに動く。
「何の話だ」
「聞こえていました」
「なら、聞き間違いだ」
「そういうことにしておきます」
フィオナはそれ以上、追及しなかった。
レオナも何も言わなかった。
だが、胸の奥では、もう誤魔化せなくなっていた。
黒い騎士。
レン。
完全な証拠はない。
本人も肯定していない。
否定もしていない。
それでも、あの時、自分が呼んだ名に、黒い騎士は反応した。
その事実だけで、十分だった。
「戻ってくると思いますか」
フィオナが聞いた。
レオナはしばらく黙った。
それから、低く答える。
「戻る」
「根拠は」
「ない」
「では、なぜ」
レオナは窓の外を見る。
「戻ってこないと、困るからだ」
それはカイの言葉と同じだった。
フィオナは少しだけ目を伏せ、処置を続けた。
◇ ◇ ◇
セツナは、ヘリオス臨時管制室にいた。
机の上には、壊れかけた端末が並んでいる。アビス・ルートの座標傷、ソーラーフレアの反応、黒仮面の残滓、レンの生体反応。
どれも途切れていた。
死んだ反応ではない。
だが、生きていると断言できる反応でもない。
「消え方が、普通じゃない」
セツナは誰に言うでもなく呟いた。
黒い騎士は、最後に自分から深淵側へ沈んだ可能性がある。あるいは、誰かに引かれた可能性もある。
アベル・ノワールの残滓。
黒仮面。
ソーラーフレア。
深淵接続。
どれも、まだ終わっていない。
セツナは端末の記録を閉じ、暗号化した。
レンの正体は、まだ外へ出せない。
出せば、彼は英雄ではなく兵器になる。
それだけは避ける。
「勝手に消えておいて、仕事を増やす」
セツナは小さく言った。
声は冷たい。
だが、その手は震えていた。
◇ ◇ ◇
その頃。
誰の記録にも残っていない場所で、ひとつの朝が始まっていた。
王都ではない。
ヘリオスでもない。
アビス・ルートでもない。
木の匂いがする。
湿った土の匂い。
古い布の匂い。
薬草を煮たような苦い匂い。
小さな部屋の寝台で、一人の青年が眠っていた。
黒髪。
やつれた頬。
全身に包帯。
そばには、見知らぬ誰かの気配がある。
若い女の声がした。
「まだ起きない方がいい」
青年の瞼が、わずかに震えた。
ゆっくりと目が開く。
天井が見えた。
知らない天井だった。
「……ここは」
声がかすれている。
女の影が近づいた。
「覚えてないの?」
青年は答えようとして、眉を寄せた。
何かを思い出そうとした。
炎。
黒い剣。
白金の光。
誰かが泣いていた顔。
だが、どれも指の間からこぼれる水のように消えていく。
「名前は?」
女が聞いた。
青年は口を開いた。
何も出てこない。
自分の名前。
それすら、分からなかった。
窓の外では、朝日が昇っていた。
長い夜が終わり、世界は次の朝を迎えている。
けれど、彼だけはまだ夜の底にいた。
何も覚えていないまま。
ただ胸の奥に、黒い残り火だけを抱えて。




