第45話 終局戦・後編 黒い騎士と炎姫
黒い騎士が、剣を構えた。
その瞬間、床を這った黒い波紋に、ケイオス・アビスコアが初めて退いた。
知性を捨てたはずの獣が、初めて警戒した。
黒仮面の声が、低く響く。
『臨界域 87/100』
『自我境界、急速低下』
『深淵接触、拡大』
ケイオス・アビスコアが吼えた。
赤黒い腕が、黒い騎士へ振り下ろされる。
黒い騎士は避けなかった。
《グレイファング》を片手で上げる。
衝撃。
床が割れ、壁が裂け、周囲に残っていた強化型汎用機の残骸が砕け散る。
それでも、黒い騎士は一歩も下がらなかった。
レオナは、床に膝をついたまま息を呑んだ。
「……何だ、あれは」
力が増した、という次元ではない。
黒い騎士の奥で、何かが開きかけていた。
力が増しているのではない。
もっと深い場所へ、扉が開こうとしている。
そこへ踏み込めば、レン・ノワールという名前は、たぶん戻ってこない。
シオンが刀を支えに立ち上がる。
「危険だ」
「分かってる」
イヴァンは血を吐きながら重力を張ろうとした。
だが、腕が震えている。
「止めるか、援護するか。どちらかだ」
ミレーヌは割れた細剣を握り、低く笑った。
「どちらも難しそうですわね」
サナは倒れたカイを見て、唇を噛んだ。
「ふざけないでよ……ここまで来て」
ボリスは戦斧を床へ突き立てたまま、立てない。
「小僧……」
誰も動けなかった。
動けるのは、黒い騎士だけだった。
ケイオス・アビスコアが、さらに踏み込む。
知性のある攻撃ではない。
だが、その一撃一撃が、四天王の防御すら砕くほど重い。
黒い騎士は受ける。
受けながら前へ出る。
《グレイファング》に影が絡みつき、刃の輪郭が溶ける。
黒剣であって、黒剣ではない。
ヴァルクの剛剣が、深淵の牙へ変わっていく。
『臨界域 91/100』
『警告。自我境界、損傷』
黒い騎士は止まらない。
一閃。
ケイオス・アビスコアの腕が裂ける。
二閃。
赤黒い外殻が砕ける。
三閃。
胸部のアベルらしき核へ、刃が迫る。
その瞬間、アベルの顔が見えた。
管に繋がれ、半分機械に埋もれ、ほとんど人間の形を失っている。
けれど、片目だけがレンを見ていた。
父の目だった。
黒い騎士の動きが、一瞬だけ鈍る。
ケイオス・アビスコアは、その隙を逃さなかった。
赤黒い尾のような神経束が伸び、黒い騎士の脇腹を貫く。
黒い血のような影が飛んだ。
レオナが叫ぶ。
「黒い騎士!」
黒い騎士は膝をつかない。
むしろ、貫かれたまま前へ出た。
影がさらに濃くなる。
『臨界域 95/100』
『深淵接続、拡大』
『警告。戦術補助範囲を逸脱』
黒仮面の声が、わずかに乱れた。
黒い騎士は、もはや戦っているというより、深淵そのものを叩きつけていた。
ケイオス・アビスコアが後退する。
獣のような咆哮を上げる。
それを黒い騎士が追う。
一歩。
また一歩。
その足元から黒い火花が散った。
深淵の中で、レンの意識は沈んでいた。
音が遠い。
レオナの声も、シオンの声も、黒仮面の警告も、すべて水の向こうのように霞んでいる。
目の前には、暗い海が広がっていた。
海の底に、白金の火が沈んでいる。
アベルの残り火。
《ソーラーフレア》。
そして、その周りを黒い深淵が包んでいる。
光と闇が、互いを食い合っていた。
もういい。
どこかで、誰かが囁く。
全部、沈めればいい。
守ろうとして、失った。
強くなろうとして、間に合わなかった。
誰かのために立ったはずなのに、また誰かが倒れた。
なら、もう人間のままいる意味があるのか。
深淵が囁く。
人間でいるから、迷う。
迷うから、遅れる。
遅れるから、失う。
なら、全部捨てろ。
そうすれば、もう失わない。
レンは、その言葉に沈みかけた。
その時、黒い海の底で、《グレイファング》が震えた。
いくつもの声が、遠く響く。
ヴァルクの声。
ニアの鈴。
ダリオの掠れた最期。
ユウの笑い声。
そして、カイの声。
――戻らなきゃ困る。
レンは、沈みかけた意識の中で拳を握った。
そうだ。
死ぬために来たんじゃない。
壊れるために強くなったんじゃない。
戻るために来た。
まだ戻らなければならない場所がある。
黒仮面の声が、深淵の奥で響く。
『臨界域 98/100』
『警告。自我境界、崩壊寸前』
『深淵接続、制御不能』
レンは、黒い海の中で目を開けた。
違う。
制御不能じゃない。
これは、俺の中にある。
失ったものも。
怒りも。
父の火も。
黒仮面も。
ヴァルクの剣も。
全部、俺の中にある。
なら、奪われるな。
沈むな。
握れ。
現実で、黒い騎士が止まった。
深淵の影が一瞬だけ膨れ上がり、次の瞬間、黒い騎士の体へ吸い込まれていく。
禍々しい気配が消えた。
消えたのに、弱くなっていない。
むしろ、戦場の空気が変わった。
黒い騎士の周囲に残ったのは、荒れ狂う影ではない。
静かで、重い威圧。
鬼神のような闘気だけだった。
黒仮面の声が響く。
『臨界域 100/100』
『同調率 100%』
『深淵接続、完全開放』
黒い騎士の胸に、白金の火が灯る。
だが今度は、それを黒い深淵が飲み込まない。
逆に、黒と白金が重なり合い、一つの輝きへ変わっていく。
黒い太陽。
光を放つ闇。
黒仮面が告げた。
『新規戦術異能、発現』
『《エクリプス・ノヴァ》』
黒い騎士が《グレイファング》を構えた。
刃に、黒い光が宿る。
ケイオス・アビスコアが咆哮し、突進する。
黒い騎士は一歩だけ踏み込んだ。
それだけで、床が沈む。
《エクリプス・ノヴァ》。
放たれた一閃は、爆発ではなかった。
黒い光が、音もなく一直線に走る。
深淵の黒い圧と、《ソーラーフレア》の白金の熱。
その二つが一点へ圧縮され、ケイオス・アビスコアの外殻を斬り、演算線を焼き、接続された赤黒い神経束をまとめて断った。
ケイオス・アビスコアが初めて悲鳴を上げる。
獣の咆哮ではない。
壊れる音だった。
胸部が大きく裂ける。
その奥に、アベル・ノワールの半身が露出した。
管に繋がれ、機械に埋もれ、それでも片目だけが人間のまま残っている。
黒い騎士の奥で、何かが揺れた。
父。
そう思ったのは、レンだったのか。
それとも、まだ残っているはずのない人間の名残だったのか。
その瞬間、アベルの片目が青く染まった。
人間の目ではない。
そこにあったのは、父の意志ではなく、父の形を使って侵入してくるAI側の信号だった。
アベルの口が、かすかに動く。
「……レン」
声だけは父のものだった。
だが、その奥に別の命令が混じっていた。
――高位戦力を削れ。
――人類側指揮個体を排除しろ。
――黒色戦術個体を再分類せよ。
黒仮面の声が乱れる。
『敵性中枢、露出』
『最終切断を推奨』
『――外部干渉』
『識別系統、侵食』
黒い騎士の仮面に、白金の線が走った。
その線が、一瞬だけ青く濁る。
黒い騎士の視界で、味方の輪郭がぶれた。
レオナ。
シオン。
イヴァン。
ミレーヌ。
サナ。
ボリス。
カイ。
白で表示されていた輪郭が、赤へ反転しかける。
『高位戦力群、敵性再分類』
『排除対象、更新』
黒い騎士の腕が、ケイオス・アビスコアではなく、レオナたちの方へ向いた。
レオナは、すぐに気づいた。
黒い騎士の殺気が、自分たちへ向いている。
「……おい」
声が掠れた。
黒い騎士の《グレイファング》に、黒い光が集まっていく。
《エクリプス・ノヴァ》。
あれを撃たれれば、誰も残らない。
ケイオスを裂いた一撃だ。
四天王だろうと、十傑だろうと、受けられるものではない。
シオンが動こうとした。
だが、身体が追いつかない。
イヴァンも重力を張ろうとするが、膝が崩れる。
ミレーヌの幻も間に合わない。
黒い騎士の刃に、黒と白金の光が収束していく。
まだ放たれてはいない。
だが、次の瞬間には終わる。
レオナは立った。
紅蓮大剣を杖代わりにし、血の混じった息を吐く。
全身が痛む。
腕は痺れている。
肋骨も、たぶん折れている。
それでも、動いた。
「やめろ」
黒い騎士は止まらない。
レオナは前へ出た。
一歩。
二歩。
黒い光が、彼女の皮膚を焼く。
まだ発射前の収束段階。
それでも、近づくだけで肉が裂ける。
レオナの手の甲が割れた。
腕に赤い線が走る。
肩口の戦衣が裂け、血が流れる。
さらに一歩。
黒い光が、彼女の戦衣を焼いた。
耐熱繊維が黒く縮れ、内側の防火布まで焦げていく。
肩から脇腹にかけて、焼けるような痛みが走った。
白い肌が赤く焼け、血と汗が同時に浮いた。
「っ……!」
レオナの顔が苦痛に歪む。
だが、足は止まらない。
炎の女が、黒い光の中を歩いていた。
「黒い騎士」
反応はない。
黒い騎士の仮面には、青く濁った白金の線が走っている。
その奥に、レンの意識があるのかどうかさえ分からなかった。
「戻れ」
黒い騎士の腕は止まらない。
《エクリプス・ノヴァ》の光がさらに収束する。
このまま放たれれば、レオナだけではない。
後ろにいるシオンも、イヴァンも、ミレーヌも、サナも、ボリスも、倒れたカイも、まとめて消える。
レオナは歯を食いしばった。
そして、《グレイファング》の柄を握る黒い騎士の手首に、両手でしがみついた。
黒い光が、レオナの掌を焼いた。
皮膚が裂ける。
血が流れ、黒い光に蒸発する。
それでも、離さない。
レオナの《ブレイズクラウン》が燃え上がった。
敵を倒すための炎ではない。
黒い光に呑まれかけたレンを、こちら側へ押し返すための炎だった。
「お前……」
レオナは、荒い息のまま言った。
「勝って消えるつもりか」
黒い騎士の仮面が、わずかに揺れる。
だが、まだ戻らない。
レオナは怒鳴らなかった。
命令もしなかった。
ただ、血だらけの手で黒い騎士の腕を掴み、まっすぐに見上げた。
涙が一筋、頬を落ちる。
「……レン」
その名が、戦場に落ちた。
誰も声を出せなかった。
シオンが目を見開く。
ミレーヌの笑みが消える。
イヴァンが、何かを言いかけて止める。
黒い騎士の指が、わずかに震えた。
レオナは、もう一度言った。
「レン。戻ってこい」
黒い光が揺らいだ。
黒仮面の声が乱れる。
『識別系統、再構成』
『敵性再分類、停止』
『自我境界、復旧』
深淵の底で、レンは目を開けた。
レオナの声だけが、そこまで届いていた。
黒い騎士の腕が、ゆっくりと下がる。
《エクリプス・ノヴァ》の射線が、味方から外れた。
レオナはその場に崩れかけた。
だが、黒い騎士の空いた手が、彼女の肩を支えた。
ほんの一瞬。
それだけだった。
レオナは血の滲む唇で笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「……遅い」
黒い騎士は答えない。
否定もしない。
肯定もしない。
けれど、もう味方へ刃を向けてはいなかった。
レオナは血の滲む手で《アシュラ》を握り直す。
「終わらせるぞ」
黒い騎士が、横に並んだ。
今度は一人ではない。
黒い光と、紅蓮の炎。
深淵と王炎。
黒い騎士と炎姫が、同じ敵を見据えた。
ケイオス・アビスコアが、最後の咆哮を上げた。
赤黒い腕が増え、床を砕きながら迫る。
シオンが最後の力で《雷装》を走らせ、左の腕を斬る。
イヴァンが膝をつきながら《グラビティワールド》を絞り、巨体の足を一瞬だけ沈める。
ミレーヌが割れた《ノクターン》を掲げ、《ミラーミミック》でレオナと黒い騎士の像を重ねた。
「今ですわ」
サナが短槍《紅煙》を投げた。
火薬術式が、ケイオス・アビスコアの胸部で爆ぜる。
ボリスが戦斧を床へ叩きつけ、最後の衝撃波で外殻を開かせる。
道ができた。
レオナと黒い騎士が同時に踏み込む。
炎と黒光。
《アシュラ》と《グレイファング》。
二つの刃が、ケイオス・アビスコアの胸へ入った。
レオナの《ブレイズクラウン》が赤黒い外殻を焼き切る。
黒い騎士の《エクリプス・ノヴァ》が、奥の演算核を焼き抜く。
二つの力が交差した。
ケイオス・アビスコアの身体が、内側から白く裂ける。
「統括……不能」
壊れた音声が漏れる。
「深淵……再構成……失敗」
「オーバーマインド……中枢……」
そこで声が途切れた。
黒い大樹のような中枢が、遠くで悲鳴を上げるように軋んだ。
ケイオス・アビスコアの外殻が砕ける。
その中心で、アベル・ノワールの顔が一瞬だけ人間に戻った。
それは周囲には見えなかった。
黒い騎士の内側にだけ、声が届いた。
「レン」
その声に、黒い騎士の奥で何かが震える。
アベルは、ほんの少しだけ笑っていた。
「今度は、置いていかない」
レンは答えようとした。
声にはならない。
「お前が、人間でいてくれたからだ」
白金の光が、アベルの胸から抜けていく。
「母の名は――」
ノイズが走る。
最後の言葉は、すべては届かなかった。
けれど、その名の欠片だけは、白金の光の奥に残った。
ただ、ひとつだけ確かに聞こえた。
「生きろ」
アベルの顔が崩れ、光になった。
ケイオス・アビスコアが完全に崩壊する。
赤黒い深淵の脈が途切れ、周囲の青い根が次々と沈黙していく。
アビス・ルートの心臓部に、静寂が落ちた。
勝った。
誰もすぐにはそう言えなかった。
レオナは《アシュラ》を床に突き立て、膝をつく。
焼けた両手は血に濡れ、肩と脇腹には深い熱傷が残っている。
それでも、彼女は倒れなかった。
シオンは刀を納めようとして失敗し、そのまま壁にもたれた。
イヴァンは大きく息を吐き、仰向けに倒れた。
ミレーヌは微笑もうとして、途中で力尽きた。
サナはカイの方へ這うように進む。
ボリスは何か叫ぼうとして、声が出なかった。
黒い騎士だけが、立っていた。
胸の奥で、黒仮面の声がかすかに鳴る。
『臨界域 100/100』
『同調率 100%』
『帰還処理、困難』
黒い騎士は、倒れたカイの方を見た。
カイは動かない。
落ちた双剣《オルト》が、床の上で冷たく光っている。
胸元に広がった血は黒く、呼吸の気配は見えなかった。
さっきまで軽口を叩いていた男が、そこにいる。
もう何も言わない。
遅いんだよ、悪友。
最後に残ったその声だけが、黒い騎士の奥で何度も反響していた。
また、間に合わなかった。
その事実だけが、深淵よりも重く沈んでいく。
レオナが顔を上げた。
「どこへ行く」
黒い騎士は答えない。
仮面の奥で、レンの意識がまた遠ざかっていく。
勝った。
だが、まだ戻れない。
深淵の入り口が、彼の内側で開いたままだ。
このままここにいれば、誰かを傷つけるかもしれない。
黒い騎士は一歩退いた。
「待て」
レオナが立とうとする。
立てない。
黒い騎士は、ほんの一瞬だけ彼女を見た。
礼なのか。
別れなのか。
約束なのか。
分からない。
次の瞬間、黒い影が騎士の足元から広がり、その姿を包んだ。
黒い騎士は、音もなく消えた。
レオナの手が、空を掴む。
「……勝って消えるなって、言っただろ」
その声は、誰にも届かなかった。
◇ ◇ ◇
その頃、アビス・ルートの外では、セツナの端末が一斉に鳴った。
閉じていた座標傷の奥から、短い信号が返ってくる。
作戦終了。
中枢沈黙。
ケイオス撃破。
セツナは一瞬だけ目を閉じた。
すぐに全回線を開く。
「こちらヘリオス臨時管制。アビス・ルート中枢沈黙を確認。各国救難部隊へ。即時突入準備」
声が震えないように、言葉を切る。
「負傷者多数。四天王、十傑ハイランカー複数名が戦闘不能。治癒班、搬送班、封鎖班を最優先」
フィオナが傍らで顔を上げる。
「レンは」
セツナは端末を見る。
黒い騎士の反応はない。
レンの生体反応も、結界内から消えている。
ただ、空間の奥に黒い残滓が残っていた。
「……消えた」
フィオナの顔が青ざめる。
セツナは唇を噛む。
「でも、死んだ反応じゃない」
「では」
「深淵側に落ちたか、自分で姿を消したか」
セツナは端末を握りしめる。
「探す。必ず」
その声は小さかったが、強かった。
救難信号が夜明け前の空へ飛んでいく。
各国の紋章を刻んだ緊急通信が、一斉に走った。
アビス・ルートの奥では、満身創痍の人類側選抜隊が次々と意識を失っていた。
レオナも最後まで抗ったが、ついに膝から崩れる。
その視界の端に、黒い騎士が消えた場所が見えた。
赤い炎の残り火と、黒い影の残滓。
それだけが、並んで揺れていた。
レオナは唇を動かす。
声にはならない。
戻ってこい。
その言葉だけを残して、炎姫も意識を手放した。
終局戦は終わった。
ケイオスは倒れ、アビス・ルートは沈黙した。
だが、黒い騎士は姿を消した。
残ったのは、勝利の歓声ではなかった。
ただ、夜明け前の静けさだけだった。




