第44話 終局戦・前編 黒い騎士、帰還
アビス・ルートの入口は、すでに閉じていた。
黒い大地の上には、さっきまで空間を裂いていた穴の痕だけが残っている。
焼け焦げたような円形の傷。そこから漏れていた青白い光も、今は消えかけていた。
後方結界の内側で、レンは倒れていた。
黒い騎士の姿はもう薄れている。
仮面の輪郭は消えかけ、黒衣の影も、呼吸に合わせて揺らいでいた。
胸の奥に、白金の火がまだ残っている。
《ソーラーフレア》。
アベルから託された残り火。
たった三秒。
それだけで、AI群を焼き払い、ノクス級を沈黙させ、オーバーマインド本隊の外殻を穿った。
そして、その代償として、レンの身体はほとんど動かなくなっていた。
「まだ動かないで」
セツナの声が近くで聞こえる。
冷静に聞こえるが、指先は忙しく動いていた。端末を三枚同時に展開し、レンの神経値、黒仮面の反応、閉じた入口の座標傷を追っている。
フィオナはレンのそばに膝をつき、白い結界を薄く重ねていた。
「脈が不安定です。神経の熱も下がりきっていません」
「分かってる」
「この状態で再接続させる気ですか」
「本人が行く気なら、止めても無駄」
「それでも止めるのが治癒役です」
「止められるなら、最初からここにいない」
フィオナは何も言い返せなかった。
レンは目を開けた。
視界が滲んでいる。
セツナとフィオナの顔が、はっきり見えない。
「……中は」
声がかすれた。
セツナが端末から目を離さず答える。
「通信は断続的。四天王、カイ、サナ、ボリスが前進。トウマは死亡。エリナ右腕喪失、リゼット左脚重度損壊で後方遮断。フィオナの結界は外から届くけど、細い」
一つひとつの言葉が胸を打つ。
トウマ。
エリナ。
リゼット。
また失っている。
また削られている。
レンは身体を起こそうとした。
腕が震え、すぐに崩れた。
フィオナが肩を押さえる。
「駄目です」
「行かないと」
「今行けば、あなたが死にます」
「行かなくても、誰かが死にます」
フィオナの手が止まった。
レンは息を整えようとする。
うまくいかない。
それでも、目だけは入口の傷を見ていた。
「あそこへ、戻れますか」
セツナが沈黙した。
できない、とは言わない。
その沈黙が答えだった。
「方法はありますね」
「普通の侵入は無理。穴は閉じた。でも、ソーラーフレアで空間に焼きついた“座標傷”が残ってる」
「座標傷?」
「穴じゃない。一度そこが開いたという痕跡。空間に残った傷跡みたいなもの」
セツナは端末の上に、黒い円環状の反応を浮かべた。
「そこを辿れば、黒い騎士だけなら深層側から滑り込ませられるかもしれない。肉体はここに置く。向こうで受ける損傷はこっちに返る」
「つまり、死ぬ時は死ぬ」
「そう」
セツナはようやくレンを見る。
「成功率は低い。戻れる保証もない」
レンは少しだけ笑った。
「いつも通りですね」
「笑う場面じゃない」
「笑わないと、怖いので」
その言い方が、誰かに似ていると思った。
カイだ。
レンはゆっくり目を閉じた。
カイは中にいる。
レオナも。
四天王も、サナも、ボリスも。
自分が開けた道の先で、戦っている。
なら、戻るしかない。
フィオナが静かに言う。
「レン」
「はい」
「あなたが黒い騎士として戻るなら、ここから先、もっと隠すのは難しくなります」
「分かっています」
「それでも?」
「それでも」
フィオナは目を伏せた。
「なら、せめて帰ってきてください。秘密を守るためではなく、あなた自身のために」
「はい」
セツナが端末を操作する。
「黒仮面、接続できる?」
頭の奥で声が鳴った。
『接続可能。ただし、再戦闘時の崩壊率は高い』
セツナが眉を寄せる。
「今、返事した?」
レンは苦笑した。
「たぶん、セツナさんにも聞こえています」
「最悪。もっと早く言って」
『質問されていません』
「性格まで面倒」
『仕様です』
この状況で、セツナが本気で嫌そうな顔をした。
フィオナが小さく息を吐く。
「本当に、似ていますね」
「誰にですか」
「あなたに」
レンは返事に困った。
セツナが最後の固定を終える。
「行くなら今。座標傷が消える」
フィオナの白い結界がレンの身体を包む。
「肉体は私が保護します」
「深層側は私が繋ぐ」
セツナが言う。
「向こうで戻れなくなりそうなら、強制的に引く。でも、戦闘中に引けば死ぬかもしれない」
「分かりました」
「分かってない顔」
「分かっています」
「信用できない」
レンは黒仮面を装着した。
視界が沈む。
音が整理される。
痛みが遠くへ押しやられる。
代わりに、胸の奥の白金の火が熱を増す。
『黒色戦術個体、再起動』
セツナの端末が一斉に震えた。
「座標傷、開きます」
黒い大地の上に、細い亀裂が走る。
穴ではない。
傷だ。
レンはそこへ意識を滑り込ませた。
身体が落ちる感覚。
一瞬、深淵が口を開けた。
アベルの声が聞こえた気がした。
――人間のまま、来い。
レンは答えない。
黒い騎士は、閉じたはずのアビス・ルートの内側へ落ちた。
◇ ◇ ◇
内部では、もう限界が近かった。
ケイオスは、まだ立っている。
オーバーマインド統括機。
白い仮面のような顔。
黒い外殻。
背に伸びる青い神経束。
それは、四天王を相手にしてなお、崩れなかった。
レオナの炎は幾度も届いた。
シオンの雷は何度も急所へ入った。
イヴァンの重力は足場を何度も潰した。
ミレーヌの幻は認識をずらし続けた。
だが、ケイオスは学習していく。
一度受けた攻撃は、次には浅くなる。
二度目には避ける。
三度目には利用される。
「本当に腹立つな、こいつ」
レオナが血を拭った。
「感情的評価を確認」
ケイオスが答える。
「怒りは判断を鈍らせます」
「残念だったな」
レオナが《アシュラ》を構え直す。
「私は怒ってる時の方が強い」
シオンが横に並ぶ。
「根拠は薄いが、否定はしない」
「そこは肯定しろ」
「事実ならする」
「相変わらず面倒な男だな」
イヴァンが二人の背後で笑った。
「喧嘩する余裕があるなら、まだ戦える」
ミレーヌが細剣を下げ、薄く微笑む。
「余裕ではありませんわ。意地です」
ケイオスの周囲に青い輪が展開する。
「人類側戦力、損耗率上昇。勝率、継続低下」
カイが双剣を握る手に力を込めた。
脇腹から血が流れている。
肩も裂けている。
それでも、目は死んでいない。
「数字で勝てるなら、最初から苦労しない」
サナが隣で短槍《紅煙》を回す。
「年下のくせに、言うようになったわね」
「今だけ見逃してください」
「生きて帰ったらからかうわ」
「それ、帰る理由になりますね」
ボリスが戦斧を構え直した。
「小僧ども、喋ってねえで来るぞ!」
ケイオスが動いた。
速い。
レオナが正面から受ける。
シオンが右を斬る。
イヴァンが足元を沈める。
ミレーヌが偽の死角を作る。
カイが走る。
サナが火薬術式を撃ち込む。
ボリスが重い一撃を叩きつける。
全員の攻撃が、初めて一つの点へ重なった。
ケイオスの胸部外殻に亀裂が入る。
「今!」
レオナが叫ぶ。
だが、ケイオスはその叫びすら読んでいた。
胸部の亀裂が開き、中から青い刃が伸びる。
カイが反応した。
「させるかよ……!」
いや、口調が崩れた。
崩れるほど余裕がなかった。
双剣で青い刃を受ける。
受けきれない。
カイの身体が吹き飛ぶ。
サナが支えようとしたが、間に合わない。
「カイ!」
その瞬間、空間が黒く裂けた。
ケイオスの背後に、黒い影が落ちる。
誰もそこを見ていなかった。
いや、見えた時にはもう遅かった。
黒い騎士がいた。
黒仮面。
黒衣。
揺らぐ影の刃。
戻ってきた。
カイが床に転がったまま、血の混じった息で笑う。
「……遅いんだよ」
黒い騎士は答えない。
だが、ほんの一瞬だけ、カイの方へ顔を向けた。
それだけで、カイは満足したように目を細めた。
「ほらな」
誰に言うでもなく呟く。
「戻った」
レオナも黒い騎士を見た。
胸の奥で、何かがほどける。
「本当に、遅い」
その声は小さかった。
黒い騎士はケイオスへ向き直る。
ケイオスの白い顔が、わずかに傾いた。
「黒色戦術個体、再出現」
「ソーラーフレア使用後の再稼働を確認」
「想定外」
ミレーヌが笑った。
「あなたでも想定外はありますのね」
「補正します」
ケイオスの背後の青い束が広がった。
だが、それより先に黒い騎士が動いた。
速さではない。
間合いそのものが消えたような動きだった。
黒い刃が、ケイオスの右肩を裂く。
レオナの炎が、そこへ食いつく。
シオンの雷が、裂け目を深くする。
イヴァンの重力が、逃げ場を奪う。
ミレーヌの幻が、ケイオスの認識を半拍ずらす。
四天王と黒い騎士。
初めて、戦場の呼吸が合った。
ケイオスが後退する。
「処理負荷、上昇」
「黒色戦術個体の戦闘波形、変動」
「ヴァルク・アシュグレイ戦闘記録と部分一致」
黒い騎士の手が、《グレイファング》を抜いた。
黒剣は、ただの剣ではなかった。
黒仮面との共鳴で刃が影をまとい、輪郭を変えている。けれど、その重さだけは変わらない。
ヴァルクの剛剣。
逃げず、下がらず、守りたいものの前で身体を置く剣。
黒い騎士は、その重さを振った。
ケイオスが初めて、完全に受け止めそこねる。
外殻が割れる。
レオナが叫んだ。
「押し切る!」
《ブレイズクラウン》が燃え上がる。
炎が黒剣の影を照らす。
黒い騎士が左から斬り込み、レオナが右から《アシュラ》を叩き込む。
シオンが背後の神経束を断ち、イヴァンが重力で核を引きずり出す。
ミレーヌの鏡が、最後の逃げ道を塞いだ。
ケイオスの胸部が開く。
青い中枢核が見えた。
黒い騎士の剣が入る。
レオナの炎が重なる。
黒と炎の一撃が、ケイオスの核を貫いた。
青い光が爆ぜた。
ケイオスの身体が大きく傾ぐ。
「統括処理、破損」
「演算核、崩壊」
「継続不能」
ケイオスが膝をついた。
誰もすぐには動かなかった。
終わったのか。
そう思った瞬間、ケイオスの白い顔が割れた。
中から、別の音が聞こえる。
機械音ではない。
獣の唸りだった。
青い光が赤黒く変わる。
ケイオスの外殻が、内側から剥がれ落ちていく。
「まだ何か来る!」
サナが叫ぶ。
セツナの通信が、遅れて割り込んだ。
「離れて! その反応、統括機じゃない!」
「何だ」
レオナが聞く。
セツナの声に、初めて明確な恐怖が混じった。
「知性統括を破棄してる。戦闘中枢へ再構成してる」
ケイオスの身体が裂けた。
内側から現れたのは、人間のようなものだった。
黒い管に繋がれ、胸から下は機械に埋もれ、顔の半分は白く、半分は焼けた人間の面影を残している。
アベル・ノワール。
そう呼べるものが、そこにあった。
黒い騎士の内側で、レンの意識が揺れた。
父。
ケイオスの残骸が、そのアベルらしき核を抱き込み、全身を作り変えていく。
青い知性の光は消えた。
代わりに、赤黒い深淵の脈が走る。
「深淵再構成、完了」
壊れた音声が響く。
「オーバーマインド統括機、戦闘中枢形態へ移行」
ミレーヌが呟いた。
「……《ケイオス・アビスコア》」
その名が、誰の口から出たのかも分からないほど、場に馴染んだ。
次の瞬間、咆哮が起きた。
声ではない。
衝撃だった。
四天王が吹き飛ぶ。
カイが壁に叩きつけられる。
サナが床を転がる。
ボリスが斧を支えにしても膝をつく。
周囲に残っていた強化型汎用機は、咆哮だけで機能停止した。青い光が消え、ばらばらに崩れる。
味方も敵も関係ない。
知性を捨てた鬼神が、そこにいた。
ケイオス・アビスコアは、もう喋らなかった。
ただ、アベルの形をした核を抱えたまま、獣のように黒い騎士へ飛びかかる。
黒い騎士は受けた。
《グレイファング》が軋む。
一撃で、足が床にめり込む。
重い。
速い。
先ほどまでのケイオスとは違う。
読み合いではない。
知能戦でもない。
純粋な暴力。
黒い騎士が押される。
レオナが立とうとするが、膝が崩れた。
「くそ……!」
シオンも刀を支えにしている。
イヴァンは重力を張ろうとして血を吐いた。
ミレーヌは幻を出そうとするが、視界が揺れている。
動ける者がいない。
その時、カイが立った。
胸を押さえ、片目に血が入っている。
それでも、双剣を抜いた。
「……ほんと、世話が焼ける」
サナが叫ぶ。
「カイ、やめなさい!」
「すみません」
カイは笑った。
「俺、悪友なんで」
ケイオス・アビスコアが黒い騎士を押し潰そうとする。
その横合いへ、カイが飛び込んだ。
双剣《オルト》が、赤黒い腕の関節へ入る。
ほんのわずか。
軌道がずれた。
黒い騎士の剣が、押し返す隙が生まれる。
「今だ!」
カイが叫んだ。
黒い騎士が踏み込む。
だが、その瞬間、ケイオス・アビスコアのもう一本の腕が、カイへ向いた。
速すぎた。
誰も止められない。
赤黒い刃が、カイの胸を貫いた。
音が消えた。
カイの身体が、小さく跳ねる。
双剣が床に落ちた。
「……遅いんだよ、悪友」
血の混じった声が、かすかに響いた。
それから、カイは崩れ落ちた。
黒い騎士が止まった。
一瞬。
たった一瞬。
だが、その一瞬で、レンの中に残っていたものが壊れた。
ユウ。
ダリオ。
ニア。
ヴァルク。
そして、カイ。
失うたびに押し込めてきたものが、もう抑えきれなかった。
黒い騎士の仮面の奥で、白金の火が反転する。
深淵が、口を開けた。
黒い騎士の周囲から、禍々しい影が噴き上がる。
レオナが息を呑んだ。
「まずい……」
黒い騎士は、カイの倒れた場所を見ていた。
何も言わない。
声も出さない。
ただ、そこにあるすべての熱が、黒く沈んでいく。
黒仮面の声が、深く響いた。
『臨界域 87/100』
『自我境界、急速低下』
『深淵接触、拡大』
黒い騎士が一歩踏み出す。
その足元から、黒い波紋が広がった。
ケイオス・アビスコアが、初めて後退した。
獣が、さらに大きな獣を見たように。
黒い騎士の中で、レンの意識が沈んでいく。
もう、誰の声も届かない。
ただ、深淵だけが近い。
その奥で、誰かが呼んでいる。
父か。
黒仮面か。
それとも、自分が失ったすべての声か。
黒い騎士は、ゆっくり剣を構えた。
次の一撃で、何かが変わる。
人間として戻れるか。
それとも、完全に深淵へ落ちるか。
誰にも分からなかった。




