第41話 ソーラーフレア継承
ヘリオス地下第七解析層は、地図に載っていない。
白い研究棟の下、さらに古い配管区画を抜けた先。黒く濡れたような通路が、地下へ向かって続いていた。
レンはセツナの後ろを歩いていた。
背中には《グレイファング》。
懐には、黒仮面。
だが、それを出すつもりはない。
セツナはまだ知らない。
黒い騎士の正体を。
「ここ、正式な施設なんですか」
「半分」
「半分?」
「正式な記録と、消された記録が混ざってる。使える設備だけ残して、責任者の名前は消されてる」
「最悪ですね」
「同意」
セツナの声は平坦だった。
ただ、いつもより少し硬い。
温室第三棟。
ヘリオス正規管理番号。
人機融合派。
再生派。
それらは全部、彼女の足場を削っている。
それでもセツナは逃げない。ヘリオスを信じてもいないし、捨ててもいない。危うい場所に立ったまま、レンをここまで連れてきた。
「あなたが見た深層接続」
セツナは扉の前で止まる。
「もう一度、再現する」
「できるんですか」
「普通は無理。でも今のあなたには条件が揃ってる」
「条件?」
「《グレイファング》との共鳴。黒色因子の反応。アベル・ノワールの痕跡。そして、あなた自身の神経波長」
アベル・ノワール。
その名を聞くたび、胸の奥が重くなる。
父。
そう呼んでいいのか、まだ分からない。
七十年から八十年前、最初のオーバーマインド襲撃で《ソーラーフレア》を放った男。
人類を救い、人間として壊れ、AI中枢に取り込まれたかもしれない男。
二十年前、レンの母と出会い、レンを残し、再びAI側に囚われたかもしれない男。
確かめるしかない。
扉の奥は円形の部屋だった。
中央に、黒い椅子のような装置がある。椅子というより、拘束台に近い。天井から何本もの管が垂れ、床には古い術式紋と機械回路が重なっていた。
人間が作ったものと、AIが作ったものの境界が分からない。
「これに座るんですか」
「そう」
「見た目が悪いです」
「機能優先」
「作った人間の性格が悪い」
「同意」
セツナは端末を操作しながら言う。
「ここなら深淵へ届く可能性がある。あなたが見たアベル・ノワールの断片。その発信元へ、逆に潜れるかもしれない」
レンは黒い椅子を見た。
「セツナさん」
「何」
「もし俺が戻れなかったら」
「止める」
「まだ言い終わってません」
「置いていけ、みたいなことを言う顔だった」
「顔で分かりますか」
「最近、分かるようになった」
セツナは淡々と言った。
「あなたが壊れたら、深淵への道も、アベル・ノワールへの手がかりも失う。だから止める」
「合理的ですね」
「それだけじゃない」
珍しく、すぐに続いた。
「温室で私は判断を間違えた。ヘリオス内部の敵を甘く見た。だから今度は、見ているだけにしない」
レンは少し黙った。
「ありがとうございます」
「礼は帰ってから。座って」
レンは装置に座った。
背中に冷たい感触が走る。首と手首に細い固定具が伸びる。
「痛みは?」
「ある」
「浅い接続だけ。深くは刺さない」
「十分痛いです」
「我慢して」
「雑ですね」
「時間がない」
セツナの端末が青く光る。
「《グレイファング》を共鳴源にする。あなたは意識を落とすだけでいい」
「寝るみたいに言いますね」
「少し似てる」
「絶対に違う」
目を閉じた瞬間、懐の奥で黒仮面が熱を持った。
声が響く。
『深層接続要求を検出』
レンは声には出さず、心の中で返す。
今は黙ってろ。
『接続補助なしでは成功率が低下』
分かってる。
『隠蔽を優先しますか』
違う。
まだ、言うべき時じゃないだけだ。
『回答を保留と記録』
勝手に記録するな。
『接続開始』
世界が落ちた。
夢ではないと、今回は分かった。
身体はヘリオス地下の装置にある。
意識だけが、黒い深みへ沈んでいく。
黒い水。
白い記録片。
燃える都市。
空を裂く光の柱。
前に見た断片が、流れるように過ぎていく。
レンは沈まなかった。
手には《グレイファング》がある。現実では握っていないはずなのに、深層ではその重さが確かにあった。
『前回到達領域を通過』
黒仮面の声が近い。
『深淵中枢へ接近』
「アベルは」
『反応あり』
黒い水の底に扉があった。
普通の扉に見える。
だが、その向こうから漏れる圧だけで胸が潰れそうだった。
レンは手を伸ばす。
『警告。撤退可能距離を超過します』
「開ける」
『危険です』
「分かってる」
扉が開いた。
白い荒野が広がっていた。
地面は骨のように白く、空は黒い。星はない。代わりに、無数の青い線が空を走り、遠くの巨大な構造物へ繋がっている。
塔ではない。
根だ。
空から地上へ、地上から地下へ、機械の根が張り巡らされている。中央には、黒い大樹のような中枢がそびえていた。
『座標取得』
黒仮面が告げる。
『旧文明地下基幹炉群。通称、アビス・ルート。オーバーマインド本隊の中枢施設と推定』
「ここが敵の本拠地か」
『物理座標と深層座標が重複。通常侵入は不可能。外殻遮断層を確認』
場所はある。
だが、たどり着けない。
現実から向かえば外殻に阻まれる。深層から入ろうとすれば精神が焼かれる。
その扉を開く鍵が、《ソーラーフレア》なのだと、レンは直感した。
「来たか」
声がした。
振り向くと、アベル・ノワールが立っていた。
半身が機械に覆われている。左腕は黒い金属。
胸からは青い管が何本も伸び、背後の根へ繋がっていた。顔は半分だけ人間で、もう半分は青い光を宿す仮面のように硬い。
「アベル・ノワール」
「そう呼ぶか」
「他に呼び方を知らない」
アベルは少しだけ笑った。
だが、すぐに顔の青い線が強く光る。
声が変わった。
「接続因子継承体、確認」
機械音声。
レンは《グレイファング》を構えた。
「父親の顔で喋るな」
「対象、捕獲」
アベルの身体が消えた。
速い。
レンは反射で黒剣を上げる。
金属腕と刃がぶつかり、白い荒野に亀裂が入った。
『敵性反応。AI側制御が優位』
「つまり、今は敵か」
『はい』
レンは息を吐く。
「なら、止める」
アベルが踏み込む。
剣でも拳でもない。身体そのものが武器だった。黒い金属腕が伸び、レンの首を狙う。
レンは半歩沈み、《グレイファング》を横へ置いた。軌道をずらし、懐へ入る。
刃がアベルの肩へ入る。
だが浅い。
青い光が傷を塞いだ。
「再生するのかよ」
『深層領域内の仮想再構成です。通常損傷では停止しません』
「どうする」
『胸部中央の制御核を切断』
胸に、白い光が灯っている。
太陽の残り火。
《ソーラーフレア》の核。
レンは息を呑んだ。
「あれを斬れば」
言い切れなかった。
その瞬間、アベルの青い目が揺れた。
「……レン」
人間の声だった。
レンは剣を止める。
「聞こえてるのか」
「短い……長くは、もたない」
アベルの身体が震える。背後の根が青く脈打ち、彼の声を塗り潰そうとしていた。
「逃げろ。これは罠だ」
「分かってる」
「分かっていて、なぜ来た」
レンは迷わなかった。
「会いたかったからだ」
アベルの顔が歪んだ。
「私は、父親ではない」
「それを決めるのは俺だ」
レンは《グレイファング》を握り直す。
「母さんの名前を教えろ。俺を逃がした人間を教えろ。あなたが今どこにいるのかも」
アベルは首を振った。
「全部は、まだ渡せない。渡せば、君の中に向こうが入る」
「またそれか」
「だが、一つだけ渡せる」
「何を」
「道だ」
次の瞬間、AI制御が戻る。
「接続因子、回収」
黒い腕が伸びる。
レンは受ける。
重い。
アベルは強い。
人間の癖とAIの読みが混ざっている。攻撃の途中で角度が変わる。避けた先に、もう次の刃がある。
父親を相手にしているのか、AI本隊と戦っているのか分からない。
レンの腕が痺れた。
『接続補助を上げます』
「やれ」
黒仮面との共鳴が深まる。
視界が暗くなる。
《グレイファング》の刃に、影が巻きつく。
だが、レンは踏みとどまった。
人間のまま来い。
前に聞いたアベルの言葉が残っている。
「全部は渡さない」
『自我境界を維持』
レンは踏み込んだ。
足元の白い亀裂へ右足を置く。
沈む前に、身体を左へ滑らせる。
《グレイファング》を振らず、重さだけを懐へ落とす。
カイを救った時の半歩。
ヴァルクから継いだ重さ。
黒仮面の演算。
三つが、同じ線に乗った。
刃が、アベルの胸へ届く。
だが、斬らない。
寸前で止めた。
「戻れ!」
アベルの青い目が揺れる。
「……レン」
「俺はここにいる。だから戻れ」
「無茶を、言う」
「父親なら、一回くらい言うこと聞け」
アベルは、ほんのわずかに笑った。
その瞬間、彼は自分の胸へ手を突き入れた。
白い光が弾ける。
アベルが胸から、小さな核を引き抜いていた。
太陽の残り火のような、白金のコア。
周囲の青い根が一斉に暴れる。
「制御核、分離」
「異常」
「回収」
機械音声が空を裂く。
アベルは血ではなく、青白い光を流していた。
「持っていけ」
「待て!」
「完全な《ソーラーフレア》ではない。私の残り火だ。限定運用しかできない。使えば、君の身体も仮面も焼く」
「そんなものを」
「必要になる」
アベルはコアを押し出した。
レンの手に触れる前に、黒仮面が反応する。
『高密度戦略級異能核を検出』
「黒仮面?」
『吸収可能。ただし危険』
アベルが言う。
「それは、もともと私の補助コアと同じ根を持つ。君の仮面なら、受け皿になれる」
「父さんはどうなる」
アベルは答えなかった。
答えないことが答えだった。
「嫌だ」
「レン」
「また置いていくのか」
アベルの表情が崩れた。
初めて、父親の顔に見えた。
「すまない」
「謝るな」
「それでも、すまない」
白金のコアが、黒仮面へ吸い込まれる。
レンの頭の奥で、焼けるような痛みが走った。
『吸収開始』
視界が白く染まる。
『戦略級異能断片を取得』
骨の中に太陽を押し込まれたようだった。
『限定運用プロトコル構築』
レンは膝をつく。
アベルが支えようと手を伸ばす。
だが、その手は途中で止まった。
背後の根が、彼を引き戻そうとしている。
「深淵の場所を、記録した」
アベルの声が遠くなる。
「アビス・ルート。旧文明地下基幹炉群。その外殻遮断層は、通常攻撃では開かない」
「ソーラーフレアなら開くのか」
「一時的にな」
アベルは頷いた。
「照射は数秒。連発はできない。使えば君はしばらく戦えなくなる。それでも、道は開ける」
レンは痛みに耐えながら顔を上げる。
「あなたはそこにいるのか」
「ああ」
「なら、迎えに行く」
アベルは目を閉じた。
「来るな、と言うべきなんだろうな」
「遅い」
「そうだな」
その声は、少しだけ穏やかだった。
次の瞬間、アベルの顔に青い線が走る。
「異常個体、分離不能」
「接続因子、破壊へ移行」
レンは立てない。
『撤退推奨』
「まだ――」
『現在戦闘不能。撤退推奨』
アベルの黒い腕が振り上がる。
だが、その直前、人間の声が割り込んだ。
「帰れ、レン」
アベルは、自分の腕を自分で止めていた。
青い線が乱れる。
「人間のまま、来い」
その言葉を最後に、白い荒野が砕けた。
現実の音が戻る。
「レン!」
セツナの声だった。
レンはヘリオス地下の装置で激しく痙攣していた。固定具が軋み、端末が警告音を鳴らす。
《グレイファング》は壁に立てかけられている。
なのに、刃の表面に白金の線が走っていた。
そして、レンの顔には黒い仮面の輪郭が浮かび上がっていた。
物質として取り出したものではない。
皮膚の上に黒い影が這い、仮面の形を作っている。その中央に、白金の火が脈打っていた。
セツナの手が止まる。
「……やっぱり」
すべてを理解した声だった。
「黒い騎士は、あなた」
レンは返事ができない。
セツナは一瞬だけ目を閉じ、すぐに強制切断をかけた。
「今は後。戻って」
固定具が外れる。
レンは装置から崩れ落ちた。床に手をつく。黒い仮面の影が顔から剥がれるように消えていく。
「意識は?」
「……あります」
「名前」
「レン・ノワール」
「今、何を得た」
レンは答えようとして、咳き込んだ。
黒仮面の声が、かすかに鳴る。
『限定戦略級異能プロトコル、格納完了』
セツナの端末に白金の文字列が走った。
《ソーラーフレア》。
セツナの顔色が変わる。
「本当に、継いだのね」
レンは荒い息のまま彼女を見る。
「言いますか」
「誰に」
「皆に」
セツナは即答しなかった。
数秒だけ、地下の機械音が響いた。
「言わない」
「なぜ」
「言えば、あなたは人間ではなく戦略兵器として扱われる。アルディアも、ルクスも、ヘリオスも、あなたを守る顔で囲う」
セツナの声は低かった。
「それは、再生派や人機融合派がやっていることと、紙一枚しか違わない」
レンは黙る。
「それに、黒い騎士がレン・ノワールだと広まれば、アベル・ノワールへの道も、ソーラーフレアも、全部政治になる。
今それをやれば、道が開く前に人類側が割れる」
「合理的ですね」
「そう。でも、それだけじゃない」
セツナは少しだけ目を伏せる。
「あなたは、まだ自分で選ぼうとしている。だから、勝手に奪わない」
レンはしばらく彼女を見ていた。
「ありがとうございます」
「礼は要らない。条件」
「何ですか」
「深層接続は、次から必ず私を通す。勝手に潜らない。ソーラーフレアも勝手に使わない」
「状況によります」
「駄目」
「でも」
「駄目」
いつもより強かった。
レンは小さく息を吐く。
「分かりました。できる限り」
「また信用できない返事」
セツナは端末を暗号化し、外部回線を切った。
画面に残った情報は重い。
アビス・ルート。
旧文明地下基幹炉群。
外殻遮断層。
《ソーラーフレア》限定運用。
使用後、戦闘不能化の危険。
ついに、敵本拠地への座標が出た。
「この情報は、私とあなた。それから、あなたが本当に信じている人間にだけ」
レンは少し黙った。
「……ひとりだけ、すでに知っている人がいます」
「黒い騎士の正体を?」
「はい」
セツナは名前を聞かなかった。
「なら、その人にはあなたから話して。私は記録しない」
「いいんですか」
「知らなければ、奪われても吐かない」
彼女らしい答えだった。
レンは黒仮面の影が消えた顔に手を当てる。
熱はまだ残っている。
《ソーラーフレア》。
父が残した火。
救いではない。祝福でもない。ほとんど呪いに近い力だ。
使えば身体が焼ける。
連発はできない。
使った後は、しばらく戦えない。
それでも、道を開く力。
父へ続く道を。
オーバーマインド本隊へ続く道を。
「父さんは、生きている」
レンは呟いた。
「敵としても」
セツナが言う。
「はい」
「倒せる?」
すぐには答えられなかった。
深層で見たアベルの顔が浮かぶ。
父親ではないと言った男。
それでも、最後に自分を帰した男。
「倒すために行くかは、まだ分かりません」
レンは言った。
「でも、止めます」
セツナは頷いた。
「それでいい」
レンは立ち上がろうとして、膝が崩れた。
セツナが肩を貸す。
「無理しないで」
「大丈夫です」
「全然大丈夫じゃない。最低三日休んで」
「無理です」
「三日」
「一日」
「三日」
「二日」
「三日」
交渉の余地はなかった。
レンは諦めて、壁にもたれた。
地下解析層の黒い壁に、白金の光が一瞬だけ反射する。
それは太陽というには小さすぎる。
だが、闇を裂くには十分な色だった。
セツナが端末を閉じる。
「私は、あなたを兵器にしないために監視する」
レンは少しだけ笑った。
「それ、変な言い方です」
「知ってる」
深淵はまだ遠い。
けれど道は見えた。
アビス・ルート。
オーバーマインド本隊。
父が囚われている場所。
そして、その外殻を開くための火。
レンは胸の奥に沈んだ白金の残り火を感じた。
父から託されたものは、優しいものではなかった。
それでも、確かに受け取った。
今度は、こちらから会いに行く。
救えるかどうかは分からない。
倒すことになるかもしれない。
それでも、もう知らないままではいない。
深淵の向こうで、父が待っている。




