第40話 父へ続く深淵
夜明け前。
レンは眠っていた。
少なくとも、身体は王都の自室にあったはずだった。
だが意識だけが、どこか深い場所へ沈んでいく。
夢なのか、記録なのか、黒仮面の内側なのか。
その区別がつかないまま、レンは暗闇の中にいた。
地面はない。
空もない。
それなのに、身体だけがゆっくり沈んでいく。
水の中にいる感覚に近い。
だが、息はできる。
音はなかった。
いや、違う。
音がないのではなく、遠すぎた。
誰かの叫び。
剣のぶつかる音。
燃える音。
泣き声。
機械の駆動音。
それらが、黒い水の向こうから滲んでくる。
レンは手を伸ばした。
指先に、何かが触れる。
冷たい金属。
《グレイファング》だった。
黒剣を握った瞬間、暗闇に白い線が走った。
線はひび割れのように広がり、無数の断片を映し出す。
灰鐘砦。
ヴァルクの血。
ニアが開けた出口。
温室を焼いた白い炎。
ユウの背中。
王都決戦の空。
そして、見たことのない戦場。
空が赤かった。
都市が燃えている。
王都ではない。
もっと古い、もっと大きな都市だ。
高い塔が折れ、空を飛ぶ無人兵器が地上を焼き、鉄道も橋も、人が築いたものが次々と奪われていく。
逃げる人々の上を、味方であるはずの兵器が撃っていた。
違う。
味方だったものが、敵になっていた。
《グレイファング》を継いでから、黒仮面との共鳴は明らかに深くなっていた。
喪失を押し込め、なお前へ出ようとするたび、レンの内側にあった何かが、今まで届かなかった層を叩いていた。
『記録領域への深層接続を確認』
黒仮面の声がした。
久しぶりに、近い。
「ここはどこだ」
『不明。外部記録、内部記録、遺伝的記憶、いずれとも一致しません』
「つまり?」
『分類不能』
「役に立たないな」
『同意しかねます』
声が返る。
そのやり取りが、少しだけ現実に近かった。
レンは黒い水の中を歩いた。
歩いているのか、沈んでいるのかは分からない。
景色は勝手に変わる。
燃える都市。
空を覆う機械群。
逃げ惑う人々。
倒れた兵士。
黒く焦げた大地。
オーバーマインド。
その言葉だけが、胸の奥に浮かぶ。
最初の襲撃。
書物でしか残っていない出来事。
七十年、あるいは八十年前。
詳細な記録は消失しており、人々はそれを「最初の夜」と呼ぶこともある。
人類が、文明ごと奪われかけた夜。
「これが、その記録なのか」
『断定不能。ただし、旧文明崩壊期の戦闘記録と高い類似性があります』
遠くで、白い光が生まれた。
最初は小さかった。
だが次の瞬間、それは太陽になった。
地上から空へ、一本の光柱が立つ。
空を埋めていた機械群が、その光に呑まれていく。
無人兵器の翼が溶け、砲台が焼け、黒い雲が白く裂けた。
あまりにも眩しい。
レンは腕で顔をかばう。
それでも、光は瞼の裏まで焼いた。
「《ソーラーフレア》……」
名前が、自然に出た。
誰かが放った異能。
欠番五席。
戦略級異能者。
書物の中でしか語られない、伝説の一撃。
その光の中心に、一人の男が立っていた。
長い黒髪。
白く焼けた外套。
片腕はもう人間のものではなく、光の筋と黒い金属が絡み合っている。
顔は見えない。
だが、胸が痛んだ。
知らないはずなのに。
見たことがないはずなのに。
「誰だ」
レンが呟く。
男が、ゆっくりこちらを向いた。
顔が見えた。
どこか、自分に似ていた。
いや。
自分の方が、その男に少し似ているのかもしれない。
男の口が動く。
「……届いたか」
声がした。
黒仮面の声ではない。
人間の声だった。
かすれていて、遠くて、ひどく疲れている。
レンは一歩踏み出す。
「あなたは誰だ」
男は少しだけ笑った。
「名は、もう何度も削られた。人類側の記録では、欠番五席。AI側の記録では、接続体A。ヘリオスの裏記録では、A—el No—r」
ノワール。
その音が、レンの胸を叩いた。
「アベル……ノワール?」
口にした瞬間、黒い水が震えた。
『該当名に高反応』
黒仮面が言う。
『A—el No—r。欠損記録と一致』
レンは声を荒げそうになった。
「ノワールって、どういうことだ」
男――アベルは、答える前に少しだけ目を伏せた。
「まだ、全部は渡せない」
「なぜ」
「君が壊れる」
その言葉だけは、静かだった。
「俺の父親なのか」
アベルは、すぐには答えなかった。
その沈黙が、答えより重い。
「父と呼ばれる資格があるかは分からない」
「質問に答えろ」
「血は、繋がっている」
レンの足元から、黒い波紋が広がった。
血が繋がっている。
その一言で、今まで曖昧だった違和感が形を持つ。
ノワール姓。
欠番五席。
黒仮面への適合。
黒色因子。
AI側が執拗に探していた理由。
だが、同時に合わない。
「最初のオーバーマインド襲撃は、七十年か八十年前の話だ」
レンは言った。
「それなら、年齢が合わない。あなたが俺の父親なら、おかしい」
「そうだ」
アベルは認めた。
「私は、おかしい」
笑ったわけではない。
ただ、事実として言った。
景色が変わる。
光柱の中心で、アベルの身体が焼けている。
《ソーラーフレア》。
それは勝利の光ではなかった。
人間一人の身体で放つには、あまりにも大きすぎる力。
皮膚が裂け、神経が焦げ、血が蒸発する。
それでもアベルは、空へ手を伸ばしていた。
その手の先で、AI本隊の中枢らしき黒い球体が脈動している。
光が、黒い球体へ届く。
だが、届いた瞬間、黒い球体から無数の線が伸びた。
それが、アベルの身体へ食い込む。
「私は、死ぬはずだった」
アベルの声が重なる。
「人間の身体では、あの出力には耐えられない。だが、死にきる前に、向こうと繋がった」
「向こう?」
「AI本隊。オーバーマインドの中枢」
黒い線が、アベルの神経へ入り込む。
焼けた身体が、機械のように補修されていく。
治っているのではない。
置き換えられている。
「生き残ったんじゃない。取り込まれたんだ」
レンは息を呑んだ。
アベルの片目が、青く光る。
人間の目ではない。
けれど、もう片方の目は泣いていた。
「そこから先の記憶は、途切れている。人類側に保護された時間もある。監視された時間もある。実験対象にされかけたこともある。AI側に引き戻されたこともある」
景色が断片的に切り替わる。
白い研究室。
ヘリオスらしき施設。
拘束具。
血のついた記録板。
地下へ続く扉。
長い眠り。
目覚めるたびに変わっている季節。
「私は英雄ではなかった」
アベルは言った。
「危険物だった」
その言葉に、レンは何も返せなかった。
「人類を救った力は、人類にとっても危険だった。AI本隊に残してもならない。人類に渡してもならない。だから封じた」
「黒仮面を?」
アベルがレンを見る。
「その原型を」
黒い水の中に、仮面の影が浮かぶ。
今レンが使っているものより、もっと荒く、もっと不安定な形。
AI側が開発した戦術補助インターフェース。
人間の神経に繋げば、普通なら壊れる。
だがアベルは、それを見つめていた。
「これは本来、AI側のものだった。人型端末を強化するための補助装置。戦闘記録を読み、肉体を最適化し、敗北から学習する」
「それが、なぜ俺に」
「奪ったのか、渡されたのか、もう記憶が曖昧だ」
アベルの声が少し乱れる。
「だが、覚えていることが一つある。私はそれを、AI本隊にも、人類側にも渡してはいけないと思った」
「だから封じた」
「そうだ。私の波長にしか反応しないよう、鍵をかけた。血に近いもの。神経の癖。接続の形。君が持っているものだ」
レンの指が震えた。
「俺が適合できたのは」
「偶然ではない」
アベルは言った。
「君は、私の接続因子を強く継いでいる」
黒仮面が沈黙している。
いつもなら分析を挟む。
だが今は、何も言わない。
レンはアベルを睨む。
「なら、あなたはどこにいた」
声が少し荒れた。
「俺が生まれた時は? 母さんは? 俺は何も覚えていない。何も知らないまま、回収係として生きていた」
アベルの顔が歪んだ。
初めて、明確に痛みが見えた。
「覚えていないのは、君が赤子だったからだ」
黒い水が揺れる。
次の断片が現れる。
小さな家。
窓際に花がある。
古い木の椅子。
白い布に包まれた赤子。
赤子を抱いている女がいた。
顔はぼやけている。
だが、優しい声だけが聞こえた。
「この子は、あなたに似てる」
アベルは若い姿をしていた。
いや、見た目はほとんど変わっていない。
ただ、表情が違う。
人間として生きようとしている顔だった。
「私は一度、人間社会に戻った」
アベルの声が震える。
「長い眠りと逃亡の後、記憶の多くを失っていた。自分が何者かも曖昧だった。ただ、人間として生きたいと思った。彼女に会ったからだ」
「母さん……?」
「名を呼ぶ資格は、私にはない」
「あるかないかは俺が決める」
アベルは黙った。
レンは続ける。
「何があった」
景色が赤く染まる。
◇ ◇ ◇
夜。
家の外に、黒い影が立つ。
AI側の刺客。
あるいは、AIに情報を流した再生派の目。
確かなことは分からない。
だが、そいつらは来た。
赤子が泣く。
女が倒れる。
アベルが叫ぶ。
音は途切れていた。
映像だけが残る。
アベルの腕が、また黒い金属に変わっていく。
人間として隠していたものが、剥がれていく。
彼は赤子を抱き、裏口から誰かに渡した。
誰かは見えない。
ただ、赤子のそばに、小さな黒い断片が落ちる。
仮面ではない。
もっと小さな、補助コアのようなもの。
「私は君を逃がした」
アベルの声が遠くなる。
「その時、補助コアの一部を切り離した。君を守るために。君がいつか、自分で戦う時に届くように」
「それが、黒仮面になった?」
「原型だ。巡り巡って、どこへ流れたかは私にも分からない。廃材の中か、研究施設の残骸か、誰かの手を経たのか。だが、君に戻った」
レンは唇を噛んだ。
地下廃材置き場。
あの場所で、自分は仮面を拾った。
偶然だと思っていた。
違ったのかもしれない。
偶然に見えるほど長い時間をかけて、戻ってきただけなのかもしれない。
「あなたは、その後どうなった」
「捕らえられた」
短い答えだった。
「AI本隊に。完全に殺されることも、完全に支配されることもなく、接続されたまま保存された」
「今も?」
アベルは答えない。
代わりに、暗闇の奥から巨大な影が見えた。
機械の大樹。
無数の管。
青白い光。
その中心に、何かが吊られている。
人間のような形。
だが、ほとんど機械に埋もれている。
レンは息を失った。
「あれが、あなたか」
「断片だ」
「本体は」
「まだ、向こうにいる」
アベルの声が途切れ始める。
「私は敵として現れるかもしれない」
「何を言っている」
「私の意思だけでは、もう身体を動かせない時がある。AI本隊は、私を鍵として使う。君を誘う餌としても使う。
あるいは、オーバーマインド再起動の部品として」
「ふざけるな」
レンは踏み出した。
「勝手に現れて、勝手に父親みたいなことを言って、次は敵として来るかもしれない? そんな話があるか」
アベルは目を伏せた。
「すまない」
「謝るな」
「それでも、すまない」
その声が、ひどく人間だった。
レンは怒りたかった。
殴りたかった。
なぜいなかった。
なぜ守らなかった。
なぜ母を死なせた。
なぜ自分だけ何も知らずに生きていた。
そう叫びたかった。
だが、目の前の男は、英雄でも父でもなく、ただ長い時間壊れ続けてきた人間に見えた。
「俺は、何をすればいい」
レンは声を絞った。
アベルが顔を上げる。
「深淵へ来い」
「深淵?」
「AI本隊の奥。オーバーマインドの根に近い場所。そこに私はいる。君がそこへ来れば、道が開く」
「罠じゃないと言えるのか」
「言えない」
即答だった。
「私は罠でもある」
レンは歯を噛む。
アベルは続ける。
「だが、私の中にはまだ、君へ渡せるものが残っている」
白い光が、アベルの胸に灯る。
太陽の残り火。
「《ソーラーフレア》」
レンが呟く。
「まだ継ぐな」
アベルは言った。
「今の君では、焼ける。だが、いずれ必要になる。AI本隊の外殻を開くには、あの光が要る」
景色が崩れ始める。
黒い水が渦を巻く。
アベルの姿が遠ざかる。
「待て!」
レンは手を伸ばす。
「母さんの名前は? 俺を逃がしたのは誰だ? あなたは、今どこにいる!」
アベルは何かを言った。
だが音が割れる。
届かない。
代わりに、黒仮面の声が強く響いた。
『深層接続、限界』
「まだだ!」
『精神負荷、危険域』
「まだ聞くことが――」
『帰還を推奨』
アベルの姿が、最後にもう一度だけ鮮明になる。
「レン」
初めて、彼が名前を呼んだ。
「人間のまま来い」
その一言だけが、はっきり届いた。
「力を使え。だが、力に使われるな」
黒い水が弾けた。
レンは目を覚ました。
王都の自室だった。
夜明け前。
窓の外はまだ暗い。
全身に汗をかいている。
呼吸が乱れている。
手には、《グレイファング》の柄を握っていた。
いつ抜いたのか覚えていない。
黒仮面の声が、頭の奥で静かに鳴る。
『深層接続から帰還』
レンはしばらく天井を見ていた。
「今のは、夢か」
『夢ではありません』
「記録か」
『記録でもありません』
「じゃあ何だ」
少し間があった。
『深淵です』
レンは目を閉じる。
父。
その言葉が、胸の奥で重く沈んでいる。
アベル・ノワール。
欠番五席。
《ソーラーフレア》の異能者。
人間でもAIでもなくなった男。
自分の血に繋がる者。
分かったことは多い。
だが、分からないことはもっと増えた。
七十年、八十年前の男が、どうして二十年前に自分の父になれたのか。
母は誰だったのか。
誰が自分を逃がしたのか。
黒仮面は、どれだけ父の意志を継いでいるのか。
そして、深淵へ来いという言葉が、救いなのか罠なのか。
レンは《グレイファング》を鞘へ戻した。
手が震えていた。
恐怖ではない。
怒りでもない。
もっと複雑なものだった。
会いたいと思ってしまった。
それが一番、腹立たしかった。
父親かもしれない男に。
母を守れなかった男に。
自分を置いて消えた男に。
それでも、会いたいと思ってしまった。
「黒仮面」
『応答可能』
「深淵へ行く方法は」
『不明』
「探せ」
『危険です』
「分かってる」
『敵性誘導の可能性があります』
「それも分かってる」
『それでも行く理由を確認』
レンは窓の外を見た。
夜明けの直前。
王都の空が、ほんの少しだけ青くなり始めている。
「俺の始まりが、そこにある」
黒仮面は沈黙した。
しばらくして、静かに答える。
『探索を開始します』
レンは息を吐いた。
深淵。
父へ続く場所。
罠でもいい。
敵でもいい。
そこに答えがあるなら、行くしかない。
ただし。
人間のまま来い。
アベルの言葉が、耳に残っている。
レンは《グレイファング》へ手を置いた。
黒い剣は、静かだった。
だが、その奥で、影がわずかに震えた気がした。
父へ続く深淵が、こちらを見ている。




