第35話 カイを救った一閃
王都に戻ってから、レンはほとんど眠れていなかった。
眠ろうとすると、温室第三棟の白い炎が瞼の裏に戻ってくる。
ニアが開けた出口。
グラムの飛んだ腕。
ティナの叫び。
リアムの何も言えない顔。
そして、あの一拍。
黒仮面になることをためらった一拍。
机の上には、ニアの索敵鈴が置かれていた。
小さな鈴だ。中に布が詰められていて、強く振ってもかすかにしか鳴らない。
レンはそれをただ見つめていた。
扉が開いた。
「まだその顔か」
レオナだった。
今日は戦闘装備で、扉のそばに立っている。
そこにいるだけで、部屋の空気が少し熱を持った。
「任務だ」
レオナは一枚の命令書を机に置いた。
レンは視線だけを落とす。
北方山道に再生派の補給線。
ルクス、カグラ、アルディアの共同索敵隊。
移送対象がいる可能性あり。
ネレイス反応が出た場合、即時撤退。
最後の一文で、指が止まった。
「俺は、外されているはずです」
「休ませるためだ。腐らせるためじゃない」
レオナは短く言った。
「今のお前を単独で前線に出す気はない。だが、補助なら出られる」
「俺が行けば、また誰かを巻き込むかもしれません」
「お前が行かなくても、誰かは死ぬ」
胸を刺す言葉だった。
「だから選べ。何もしないで後悔するか、動いて後悔するか」
レンは何も言えなかった。
レオナは机の上の索敵鈴を見る。
「ニアが最後に開けた道を、お前が閉じるな」
その一言だけが、深く残った。
レンは命令書を握る。
「……行きます」
「それでいい」
レオナは踵を返しかけ、ふと足を止めた。
「レン・ノワールとして行け。今のお前にできることをしろ」
「はい」
「それと、カイ・フェルナーも来る。あいつは軽いが、目は悪くない」
「知っています」
「なら、見られてこい」
「何をですか」
「お前がまだ終わってないところを」
レオナはそれだけ言って出ていった。
残されたレンは、索敵鈴へ指を伸ばした。
触れる。
かすかに鳴った。
それは、行け、と言っているように聞こえた。
北方山道の空気は冷たかった。
任務は昼前に始まった。
アルディア側はレオナ指揮下の機動兵。
ルクス側はカイ・フェルナーを中心にした高機動隊。
カグラからも数名の斥候が入っている。
レンは補助要員として加わった。
小隊長ではない。
もう、あの隊はない。
その事実は、歩くたびに足首へ絡みついた。
集合地点で、カイが手を上げた。
「よう、王都の人気者」
「その呼び方やめろ」
「じゃあ、元気ない王都の人気者」
「もっと悪い」
カイは少し笑った。
双剣《オルト》を腰に吊り、いつもの軽装コートを着ている。軽い笑みは変わらない。だが、目は前より少しだけ静かだった。
「聞いた。カグラの件」
レンは答えなかった。
カイもすぐには続けない。
山の風が二人の間を通り抜ける。
「悪かったな」
その言葉は、思ったよりまっすぐだった。
レンは少しだけ視線を落とす。
「お前が謝ることじゃない」
「知ってる。でも、言わないのも違うだろ」
「……面倒な性格だな」
「よく言われる」
前なら、もう少し軽く返せたかもしれない。
今はそれが精いっぱいだった。
カイはレンの顔を見て、ふっと息を吐く。
「今日は無理すんなよ」
「そっちこそ」
「俺は強いから大丈夫」
「そういうところが嫌いだ」
「知ってる」
そのやり取りだけ、少しだけ昔の調子に戻った。
先行斥候から合図が来る。
荷車跡。
北へ向かっている。
車輪が沈みすぎている。
中身が重い。
人か、機材か。
レオナが短く指示を出した。
「距離を詰める。罠を警戒しろ」
森の中へ進む。
木々が深く、道は狭い。
足元には古い石畳が残っているが、ところどころ崩れていた。
レンは周囲の音を拾おうとした。
だが、うまくいかない。
ニアなら先に気づいた。
そう思った瞬間、胸が痛む。
その時、鳥が飛んだ。
一斉に。
遅れて、地面の下から金属音が響いた。
「罠!」
レンが叫ぶ。
石畳が割れた。
細い金属脚の混成個体が飛び出してくる。六体。旧式AIの外殻に、再生派の制御針が足されている。
レオナが即座に前へ出た。
「私は正面を潰す。カイ、右の荷車へ。レン、補助につけ」
「了解!」
カイは返事と同時に走った。
速い。
軽い足取りで木々を抜け、谷側へ回る。レンも追ったが、差はすぐに開いた。
右手の谷間に、荷車が半分落ちかけている。
中には縄で縛られた人影。
被験者か、連れ去られた村人か。
周囲には混成個体が四体。
カイが飛び込む。
《リベル》が首を落とす。
《オルト》が脚を断つ。
身体を半回転させ、三体目の腕を払って胴を裂く。
速い。
派手に見えるのに、動きに無駄がない。
レンは荷車へ走り、縛られた人々の縄を切った。
「下がってください!」
「た、助け……」
「喋らなくていいです。動ける人から後ろへ!」
兵たちが被験者を引きずり出す。
カイは最後の一体を斬り伏せた。
その瞬間、谷底から青い光が跳ねた。
レンの背筋が冷える。
「カイ!」
カイは反応していた。
双剣を交差させる。
青い刃を受ける。
火花が散る。
谷底から上がってきたのは、細身の黒い個体だった。
ノクス級。
ネレイスではない。
だが、間違いなく人型暗殺特化の司令級に近い。
顔の中央に青い線。
長い腕。
低い姿勢。
外部音声が響く。
「高速戦闘個体、確認」
「排除開始」
カイの笑みが消えた。
「……ノクス級かよ」
黒い個体が消える。
いや、消えたように見えた。
カイの右へ現れる。
斬撃。
カイが受ける。
左からもう一撃。
かわす。
踏み込む。
《リベル》《オルト》が左右から閃いた。
だが、届かない。
ノクス級は半歩だけずれていた。
まるで、カイの初手を知っていたみたいに。
「読んでくるタイプか」
カイが低く言う。
次の瞬間、ノクス級の腕が分裂した。
細い刃が三本、同時に伸びる。
カイは二本を弾いた。
三本目が肩を裂く。
血が飛ぶ。
レンは駆け出そうとして、止まった。
荷車のもう一台に、混成個体が迫っている。
ここを離れれば、縛られた人たちが殺される。
「くそ……!」
レンは荷車側へ戻り、混成個体の膝を斬った。
倒す。
もう一体。
剣で受け、体をずらし、関節へ刃を入れる。
焦るな。
怒りを先に走らせるな。
サナの声が頭をよぎる。
助けるのが先。
レンは最後の縄を切った。
「走れ!」
被験者たちが兵に支えられ、後方へ下がる。
その間も、カイは戦っていた。
速い。
強い。
でも、押されている。
一度見せた角度は読まれる。
二度目の踏み込みは潰される。
三度目には、先に刃が置かれている。
カイの脇腹が裂けた。
それでもカイは笑った。
「おい、レン!」
「何だ!」
「こいつ、ちょっと強い!」
「見れば分かる!」
「だよな!」
馬鹿みたいな会話だった。
けれど、その声でレンの胸の奥にあった固まりが少しだけ割れた。
カイは助けを待っているわけじゃない。
隣に来いと言っている。
レンは剣を握り直した。
頭の奥で、黒仮面は沈黙している。
いや、レンが聞こうとしていない。
今使えば早い。
それは分かっている。
でも、また迷うのか。
正体を守るか。
目の前の誰かを守るか。
温室での一拍が、喉元に戻ってくる。
レンは息を吐いた。
違う。
今度は、仮面を使うか使わないかで止まるな。
まず動け。
自分の足で。
ガロに叩き込まれた言葉が蘇る。
速く動くな。
間に合う場所へ先に入れ。
ノクス級がカイの背後へ回る。
カイは気づいている。
だが正面の刃を受けていて、身体が間に合わない。
レンは踏み込んだ。
正面から走れば、間に合わない。
だから、まっすぐ行かなかった。
崩れた石の欠けに右足を置く。
谷から吹き上げる風に逆らわず、肩の力を抜き滑り込む。
ガロに何度も叩き込まれた足運びだった。
速く動くな。
間に合う場所へ、先に入れ。
その声が、今さらのように骨の奥で鳴った。
ノクス級の刃が、カイの背へ伸びる。
レンは剣を抜かなかった。
抜けば遅い。
振れば重い。
斬ろうとすれば、間に合わない。
左手が、腰の短剣を抜いていた。
視界の端で、青い線が光る。
右耳の下。
温室で見た制御針と、ほとんど同じ位置。
そこだけが、やけにはっきり見えた。
レンは最後の半歩を、地面ではなく相手の影へ置く。
ノクス級がこちらを向くより早く、短剣が右耳の下へ吸い込まれた。
深く刺さない。
首を断たない。
命を奪うための一撃じゃない。
動きを奪うための一閃。
青い制御線が、音もなく切れた。
ノクス級の身体が、空中で止まる。
一瞬。
けれど、その一瞬を、カイが逃すはずがなかった。
《リベル》と《オルト》が交差した。
黒い胴が裂ける。
青い光が弾け、外殻が崩れた。
遅れて、風が戻ってきた。
レンは短剣を握ったまま、荒く息を吐く。
自分でも何をしたのか分からない。
仮面は使っていない。
声も聞いていない。
それなのに、あの一瞬だけ、Aランクの戦場へ手が届いた。
カイは血を拭い、短く息を吐いた。
「助かった」
「別に、礼を言われるほどじゃない」
「そういう返し、嫌いだな」
「何で」
「借りを軽くされた気がする」
カイは倒れたノクス級を見た。
「今の一閃は、軽く流すには惜しい」
レンは返事に詰まる。
カイはそこで、いつものように笑った。
「お前、やっぱ嫌なやつだ」
「助けた相手に言うことか」
「褒めてる。今回は本当に」
短い沈黙が落ちた。
前より、悪くなかった。
遠くでレオナの炎が上がる。
正面の混成個体は片づいたらしい。
共同部隊の兵たちが、救出対象を下げ始めている。
任務は終わっていない。
でも、この場は守れた。
カイが双剣を鞘に戻す。
「レン」
「何」
「そのうち、ちゃんと手合わせしようぜ」
「嫌だ」
「即答かよ」
「今の俺じゃ勝てない」
「そういうこと言うやつ、嫌いじゃない」
カイは笑った。
だが、その笑みの奥は本気だった。
「今日で少し変わった」
「何が」
「お前の見方」
風が谷を抜ける。
血と煙と、焦げた金属の匂いが流れた。
カイはまっすぐ言った。
「面白いやつじゃなくて、いつか同じ高さでやるかもしれないやつとして見る」
レンは返せなかった。
同じ高さ。
まだ遠い。
今の一度だけでは、そこへ届いたとは言えない。
でも、誰かにそう見られたことが、胸の奥で小さく鳴った。
「……勝手にしろ」
「そうする」
カイはいつもの調子へ戻る。
「次は俺が助ける番な」
「来なくていい」
「行く。借りは返す主義だから」
「面倒だな」
「お互い様だろ」
それだけは、否定できなかった。
任務終了後、レオナはレンの肩の傷を見て眉を寄せた。
「また怪我か」
「浅いです」
「お前の浅いは信用していない」
「本当に浅いです」
レオナは少しだけ目を細める。
「カイを助けたそうだな」
「結果的にです」
「Aランクハイランカー候補の背中を守れるなら、上出来だ」
褒められたのだと、少し遅れて分かった。
レンが黙っていると、レオナは遠くのカイを見た。
「あいつは目がいい。嫌なところも、良いところも見逃さない」
「そうですね」
「見られたなら、逃げるな」
それだけ言って、レオナは歩き出した。
少し進んでから、振り返らずに言う。
「今日は、よく動いた」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
夜、王都に戻ったレンは、南区詰所の空き部屋に座っていた。
小隊はない。
机は広く、部屋は静かだった。
けれど今日は、完全な空白ではなかった。
カイを救った一瞬の感覚が、まだ足に残っている。
仮面ではない。
自分の足で届いた。
ほんの一瞬。
次に同じことができる保証もない。
それでも、確かに届いた。
頭の奥で、久しぶりに黒仮面の声が鳴る。
『非装着状態での瞬間判断速度に異常値を確認』
レンはしばらく黙っていた。
『応答を要求』
「……そうか」
久しぶりに返事をした。
黒仮面が一拍、沈黙したように感じた。
『応答を確認』
「うるさい」
『状態改善と判断』
「勝手に判断するな」
声は冷たい。
でも、前ほど遠ざける気にはならなかった。
ニアは戻らない。
グラムの腕も戻らない。
ティナとリアムも、前と同じ場所にはいない。
今日、カイを救えたからといって、何かが許されるわけではない。
それでも、レンは知った。
自分はまだ、前へ出られる。
黒仮面だけではない。
レン・ノワールとして、届く場所がある。
机の上の索敵鈴に触れる。
今度は、鳴らした。
かすかな音。
寂しくて、澄んだ音だった。
「ニア」
声にはならなかった。
けれど、胸の奥でだけ呟いた。
今日は、一人だけ守れた。
それを許してほしいとは思わない。
ただ、次も守る。
守れなかったものを背負ったまま、次へ行く。
そうでなければ、開けてもらった道を歩く資格がない。
黒仮面が静かに言う。
『次回戦闘に備え、非装着時の動作解析を推奨』
「好きにしろ」
『許可と判断』
「違う。使えるものは使うだけだ」
『了解』
レンは窓の外を見た。
遠くで、訓練場の灯りがまだ残っている。
明日、ガロに報告しなければならない。
たぶん褒めない。
「たまたまだ」と言うかもしれない。
「次もできなきゃ意味がない」と叩かれるかもしれない。
それでいい。
たまたま届いた一閃を、次は自分のものにする。
カイの言葉が残っている。
同じ高さでやるかもしれないやつ。
まだ、そこにはいない。
でも、そこへ行く理由が一つ増えた。
レンは索敵鈴を握り、ゆっくり息を吐いた。
失ったものは戻らない。
だからこそ、残ったものまで手放すわけにはいかなかった。




