第33話 再生派の温室
本隊を待つべきだった。
後から思えば、その答えはあまりにも簡単だった。
けれど、その時のレンには簡単ではなかった。
温室第三棟の移送予定は、一時間後。
セツナがその数字を口にした瞬間、レンの中で何かが決まってしまった。
待てば、被験者は運ばれる。
運ばれた先は分からない。
次に見つけられる保証もない。
そして、見つけた時にはもう人間ではなくなっているかもしれない。
「行きます」
レンは言った。
湯宿の縁側に、一瞬だけ沈黙が落ちる。
サナが短槍《紅煙》を手にしたまま、目だけを細めた。
「本隊を待つべきよ」
「待ったら移送されます」
「だからって、少人数で人体実験施設に踏み込むのはあまりに無謀」
「分かっています」
「分かってない顔ね」
サナの声は軽くなかった。
レンは返せなかった。
セツナは端末を見たまま、低く言う。
「本隊到着まで最短で五十分。施設側の移送開始まで、おそらく四十分を切ってる」
「なら、なおさら――」
「助けられるとは限らない」
その言葉は冷たい。
だが、セツナの目は冷たくなかった。
「中にいるのが人間のままかも分からない。救出対象か、敵性個体か、あるいはその中間か。判断を間違えれば全員死ぬ」
「それでも、見つけたのに見捨てるんですか」
言ってから、少しだけきつすぎたと思った。
セツナの表情は変わらない。
ただ、まばたきが一度だけ遅れた。
「そういう言い方は、判断を鈍らせる」
「すみません」
「でも、気持ちは分かる」
それが、かえって胸に刺さった。
サナが短く息を吐く。
「レン。あなたが決めるなら、責任もあなたが持ちなさい」
「はい」
「いい返事だけじゃ、人は助からないわよ」
「分かっています」
サナはしばらくレンを見ていた。
それから、《紅煙》を肩へ乗せる。
「じゃあ、行くわ。怒りじゃなく、足を先に出す。さっき言ったこと、忘れないで」
「はい」
「忘れたら殴るわよ」
「分かりました」
「殴られる前提で返事しないの」
リアムが横で槍を担いだ。
「隊長が行くなら、俺らも行くしかないだろ」
「当然です」
ティナは医療鞄を抱え、顔を強張らせながらも前へ出る。
グラムは黙って盾を背負った。
ニアは山の方を見ている。
「……音、変」
「何が」
レンが聞くと、ニアは少しだけ首を傾けた。
「山の奥。泣いてる音がする」
誰も笑わなかった。
日輪皇国カグラの夜明け前は、青かった。
空も、木々も、石段も、全部が薄い青に沈んでいる。
旧薬草園跡へ向かう山道には、白い霧が絡んでいた。
先頭はサナ。
その少し後ろにレン。
リアム、グラム、ティナ、セツナが続き、ニアは木の上を跳ぶように先行する。
途中でサナが足を止めた。
「ここから声は落として」
目の前に、朽ちた木門がある。
看板には、かすれた文字で旧薬草園と書かれていた。
その奥に、温室が三棟並んでいる。
第一棟は屋根が抜け、第二棟は蔦に呑まれていた。
第三棟だけが、生きていた。
硝子の内側から、淡い赤い光が漏れている。
植物の匂いはしない。
薬品。
鉄。
焦げた皮膜。
そして、湿った布を放置したような、生き物の匂い。
レンは剣の柄へ手を置いた。
サナが横目で見る。
「まだ抜かない」
「……はい」
「焦ると音が出る」
指摘されて、レンは手を離した。
ニアが木の上から降りてくる。
「外に四。中に多い。奥に大きいの一つ。あと、ずっと鳴ってる音がある」
「機械音か?」
リアムが聞く。
ニアは首を振る。
「機械の下に、人の音」
ティナの喉が小さく鳴った。
突入は早かった。
サナの《紅煙》が赤い煙を流し、外の見張り二人を音もなく倒す。
裏口の二人は、リアムが銃を弾き、レンが首筋を打って落とした。
殺してはいない。
だが、見張りの首筋には金属管が刺さっていた。
セツナがそれを見るなり、顔をしかめる。
「神経補助じゃない。神経拘束」
「どう違うんですか」
「助けるためじゃなく、従わせるための管」
レンは奥歯を噛んだ。
第三棟の裏扉には、ヘリオス式の封印鍵が使われていた。
セツナが数秒で開ける。
しかし、手が止まった。
「これ……」
「どうしました」
「私の知ってる規格」
「ヘリオス製ということですか」
「もっと悪い」
セツナの声がわずかに低くなる。
「正規管理番号が残ってる。表の流通じゃない。研究区画から直接流れてる」
その言葉に、サナの目が冷えた。
「ヘリオスが噛んでる?」
「ヘリオス全部じゃない」
セツナはすぐに言った。
「でも、誰かが流した」
その顔は、初めて少しだけ揺れていた。
中へ入ると、温室という名前の意味が変わった。
硝子筒が並んでいる。
植物ではない。
人間だ。
若い兵士。
老人に近い男。
まだ少年に見える顔。
片腕だけが機械化された女。
胸や首に細い管が刺さり、身体のあちこちに銀色の金具が埋まっている。
一人は目を開けていた。
だが、こちらを見ていない。
目の焦点が、もう人の場所に合っていなかった。
「……うそ」
ティナが呟いた。
声が震えていた。
セツナは一番近い筒へ駆け寄る。
「勝手に開けないで。管が脊髄に入ってる。手順を間違えると死ぬ」
「生きてるんですか」
「生かされてる」
その言い方に、レンの胃が縮む。
サナは奥の棚へ歩き、書類箱を蹴り開けた。
「異能増幅記録。火薬術式、雷装模倣、重力耐性……なんでもありね」
「適性のない兵士に、無理やり異能を入れた?」
レンが聞く。
セツナが別の資料を拾い上げる。
「入れたというより、壊して反応だけ拾ってる。増幅じゃない。破壊試験」
セツナの声は淡々としている。
けれど、指先は白くなっていた。
棚の奥に、別の刻印があった。
西海自由同盟ルクスの商船組合印。
その横に、鏡面の花を思わせる小さな紋。
サナが目を細める。
「ルクスの印ね」
「偽装の可能性もあります」
セツナがすぐに言う。
「でも、印は本物に近い」
レンはその紋を見つめた。
ルクス。
ミレーヌ・オルフェ。
《ミラーミミック》。
直接繋がる証拠ではない。
それでも、嫌な連想だけは残った。
「今は考えない」
レンは自分に言い聞かせるように言った。
「救出が先です」
サナがわずかに笑う。
「そう。それでいいわ」
ティナはもう動いていた。
震えながらも、硝子筒の呼吸管を確認している。
「この人は出せます。こっちは……無理に動かすと危ないです。セツナさん、固定解除をお願いします」
「分かった」
グラムが入口に盾を立てる。
リアムが奥の通路を見張る。
ニアは天井近くの梁へ上がり、耳を澄ませた。
「……奥の音、消えた」
「消えた?」
レンが顔を上げる。
ニアの表情が変わる。
「違う。止まったんじゃない。聞かされてた音が、切れた」
次の瞬間、温室の灯りが赤から青へ変わった。
施設全体に、冷たい機械音声が流れる。
「証拠保全失敗」
「照合対象、侵入」
「温室第三棟、焼却処理へ移行」
セツナの顔色が変わった。
「まずい」
サナが短槍を構える。
「何が来る」
返事の前に、奥の扉が消えた。
壊れたのではない。
斬られた。
扉の縁が、音もなく滑り落ちる。
その向こうに、黒い人影が立っていた。
細い。
女のようにも見える輪郭。
黒い装甲。
長い腕。
単眼ではなく、青い縦線が顔の中央に一本だけ走っている。
ノクスに似ている。
だが、ノクスより静かだった。
静かすぎて、そこにいるだけで呼吸を奪われる。
セツナが低く言う。
「ノクス級……上位個体」
黒い人影の顔に、青い線が灯る。
外部音声が響いた。
「個体名、ネレイス」
「温室記録、焼却」
「被験体、焼却」
「侵入個体、排除」
レンの背中が冷えた。
ネレイスが一歩踏み出す。
それだけで、床に細い亀裂が走る。
サナが赤い煙を展開した。
「全員、下がって!」
《紅煙》の煙が温室内を満たす。
だが、ネレイスは迷わない。
煙の中で、腕が伸びた。
速い。
レンは反応が遅れた。
グラムが前に出る。
盾が黒い腕を受ける。
受けたはずだった。
次の瞬間、盾の縁ごと、グラムの左腕が飛んだ。
音が消えた。
一瞬だけ、誰も理解できなかった。
遅れて、血が床に散った。
「グラム!」
リアムが叫ぶ。
グラムは倒れない。
右腕だけで盾の残骸を押し込み、歯を食いしばって立っている。
「……下がれ」
それだけ言った。
ティナが悲鳴を上げた。
「いや……いや、グラムさん、腕、腕が……!」
「ティナ!」
レンが叫ぶが、声が届かない。
ネレイスの青い線が、温室の奥へ向く。
機械音声。
「焼却開始」
硝子筒の一つが、内側から白く燃えた。
中にいた人が、声にならない声を上げる。
ティナが走り出そうとした。
「駄目です! まだ中に!」
レンが腕を掴む。
「行くな!」
「でも! まだ生きてるんです! 生きてるんですよ!」
ティナの顔が涙で崩れていた。
ネレイスが二歩目を踏む。
サナが横から斬り込む。
《紅煙》が赤い煙を弾き、火薬粒が爆ぜる。
だが、ネレイスはわずかに首を傾けただけで、その攻撃を受け流した。
「冗談でしょ」
サナの声が、初めて硬くなる。
「こいつ、私の煙を読んでる」
セツナが叫ぶ。
「撤退! 今の戦力じゃ無理!」
「被験者は!」
レンが叫ぶ。
「全員は無理!」
その言葉を、聞きたくなかった。
だが、分かってしまった。
全部を助けるには、力が足りない。
レンの頭の奥で、黒仮面が鳴る。
『装着推奨』
『上位ノクス級への対抗には装着が必要です』
レンは動けなかった。
今なら使える。
使えば、ネレイスと戦えるかもしれない。
被験者も、隊のみんなも、救えるかもしれない。
でも、この場にはサナがいる。
セツナがいる。
ティナがいる。
リアムがいる。
グラムがいる。
ニアがいる。
全部見られる。
それでも使うべきか。
迷った。
その一拍が、致命的だった。
ネレイスの腕が、天井へ伸びる。
梁が切断され、温室の上部が崩れ始める。
ニアが叫んだ。
「右奥、出口! まだ抜けられる!」
ニアは梁から飛び降り、奥の非常扉へ走る。
鍵を外そうとしている。
「ニア、戻れ!」
レンが叫ぶ。
「出口、開ける」
ニアは振り返らない。
細い指が、旧式の鍵をこじ開ける。
その背後で、ネレイスの顔がニアへ向いた。
青い線が灯る。
「逃走経路、焼却」
レンは走った。
間に合わない。
サナも動いた。
リアムも叫んだ。
ティナが泣きながら手を伸ばした。
それでも、ネレイスの腕の方が速かった。
黒い刃が、ニアの背を貫いた。
時間が止まった。
ニアは少しだけ目を見開いた。
痛がる顔ではなかった。
驚いた顔でもない。
ただ、何かを聞き取るみたいに、耳を澄ませる顔だった。
「……開いた」
小さな声。
非常扉が、重く開く。
外の白い朝が見えた。
ニアの身体が崩れ落ちる。
「ニア!」
レンの喉が裂けそうになった。
走ろうとした瞬間、サナがレンの腕を掴んだ。
「行くな!」
「離してください!」
「今行ったら全員死ぬ!」
「ニアが!」
「分かってる!」
サナの声が、初めて荒くなった。
「でも今は、開けた出口を無駄にしないのが先!」
その言葉が、刃みたいに刺さった。
ニアが開けた出口。
そして最後に残した道。
グラムが片膝をつき、血を流しながら言う。
「……行け」
「グラムさん!」
ティナが錯乱したように首を振る。
「嫌です、嫌です、置いていかないで、ニアが、グラムさんが、まだ、まだ――」
リアムがティナを抱えるように引きずった。
顔が真っ白だった。
「行くぞ……行くしかねえだろ……!」
声が震えていた。
セツナは倒れたグラムの腕を止血帯で縛る。
手が速い。
だが、顔は硬い。
「グラムは運ぶ。リアム、肩を貸して」
「分かってる!」
サナが《紅煙》を床へ叩きつけた。
赤い煙が一気に広がり、ネレイスとの間を遮る。
「走って!」
その声で、全員が動いた。
レンは最後に、ニアを見た。
床に倒れている。
小さな身体。
いつも、必要なことだけを言う声。
音を聞いて、誰より先に危険を拾ってくれた声。
その口元が、ほんの少しだけ動いた気がした。
声は聞こえない。
でも、レンには分かった。
行って。
そう言ったのだと思った。
レンは足を動かした。
自分で動かしたのか、サナに引かれたのか分からない。
非常扉を抜ける。
外へ出た瞬間、温室第三棟が内側から白く燃え上がった。
爆発ではない。
焼却。
証拠も、施設も、被験者も、ニアも。
すべてを白い炎が呑み込んでいく。
ティナの叫びが、山に響いた。
「いやああああああっ!」
誰も止められなかった。
リアムはグラムを抱えたまま膝をつき、何も言えない顔で炎を見ていた。
グラムは意識が落ちかけている。
セツナは端末を握りしめている。
その画面には、ヘリオス正規管理番号が残っていた。
彼女はそれを見ていた。
自分の足場が、足元から崩れていくものを見る顔だった。
「……私たちの中に、いる」
小さな声だった。
「ヘリオスの中に、これを流した人間がいる」
サナは返事をしなかった。
ただ、山道の先を見ている。
「動くわよ。まだ追撃が来る」
「ニアが……」
レンの声は、自分でも聞いたことがないほど掠れていた。
サナは一瞬だけ目を伏せた。
「今は、生きてる人間を運ぶ」
それは、正しい。
正しすぎて、残酷だった。
レンは頷けなかった。
黒仮面が、頭の奥で何かを言っている。
『精神反応低下』
『応答してください』
『レン』
初めて、名前を呼ばれた気がした。
それでも、レンは返事をしなかった。
何も考えられない。
自分が決めた。
自分が、今行くと言った。
本隊を待たずに踏み込んだ。
助けるつもりだった。
間に合うと思った。
それなのに、あの瞬間、レンは黒仮面になることをためらった。
正体を守ることを、部下の命より先に置いた。
その結果、ニアが死んだ。
グラムの腕が飛んだ。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが壊れた。
ティナは壊れたように泣いている。
リアムは何も言えなくなっている。
レンは動けなかった。
サナがレンの肩を掴む。
「歩きなさい」
「……」
「レン」
返事が出ない。
サナの手に力が入る。
「ここで止まったら、ニアが開けた道まで死ぬわ」
その言葉だけが、かろうじて届いた。
レンは一歩、踏み出した。
足が重い。
剣よりも、仮面よりも、何よりも重い。
背後で、温室が燃えている。
白い炎の中で、証拠も命も、すべてが消えていく。
ネレイスの姿はもう見えなかった。
撤退したのか。
炎の中に残っているのか。
それすら分からない。
ただ、山の奥から冷たい機械音声だけが、最後に響いた。
「黒色因子、未確定」
「次回照合へ移行」
レンは振り返らなかった。
振り返れなかった。
朝日が昇り始めている。
カグラの山は、何も知らない顔で白く光っていた。
その光の中を、レンたちは逃げた。
勝利ではない。
撤退でもない。
ただ、生き残っただけだった。




