第32話 妖艶なる火邑サナ
日輪皇国カグラは、王都アルディアとは空気から違っていた。
山が近い。
黒い稜線が幾重にも重なり、谷から白い湯気が立ち上っている。
道は細く、家々は斜面に沿って段々に並び、黒瓦の屋根の下には赤い紙灯りが揺れていた。
王都のような広さはない。
だが、どこを歩いても刃物の上にいるような緊張があった。
門番は腰に刀を帯びている。
通行人は声を荒げない。
遠くからは、水の音と、竹が鳴る音と、誰かが刀を振る稽古の音が聞こえてくる。
「静かな国ですね」
ティナが小さく言った。
「静かっていうより、全員が音を殺してる感じだな」
リアムが荷物を担ぎ直す。
レンも同じことを思っていた。
王都の兵は、壁になる。
カグラの兵は、線になる。
踏み越えた瞬間に斬られる。そういう気配がある。
「外の人間が大声を出すと、三秒で嫌われる」
横からセツナが言った。
「経験談ですか」
「統計」
「どういう統計ですか」
「ヘリオス職員の失敗例」
「それ、だいたいセツナさんじゃないですか?」
「違う。半分だけ」
半分は自分なのか。
レンは聞かなかった。
今回、レンたちがカグラへ来たのは、アストレウス・リコール戦の後処理と、カグラ南部で見つかった不審な物資移動の確認を兼ねていた。
火薬術式に関係する鉱石。
ヘリオス製の防振材。
記憶を混濁させられた巡回兵。
それらが、旧坑道周辺でまとめて見つかった。
再生派の匂いがする。
セツナはそう言った。
カグラ側も同じ判断だったらしい。
だから、関所の奥で待っていたのは、ただの案内役ではなかった。
黒髪を高くまとめた女が、赤い羽織を片側だけ肩にかけて立っていた。
腰には短槍。
柄の先には、赤い飾り紐。
彼女が一歩近づくたびに、香の甘さと、乾いた火薬の匂いが混ざって届く。
火邑サナ。
カグラ十傑。
火薬術式と短槍《紅煙》を使う、勝ち気で妖しい女。
「ようこそ、カグラへ」
サナはレンを見るなり、目を細めた。
「また会ったわね。アルディアの噂の子」
「お世話になります。レン・ノワールです」
「ちゃんと敬語なのね」
「相手を選んでいます」
言ってから、少し失敗したと思った。
サナが笑ったからだ。
「いい返し。可愛い顔のわりに、少し棘がある」
「からかわないでください」
「からかってないわ。半分しか」
「残り半分は?」
「値踏み」
悪びれない。
この女は苦手だ。
距離が近い。言葉も近い。なのに、踏み込めそうで踏み込ませない。
サナの後ろから、黒い和装戦衣の男が歩いてきた。
長い刀を腰に差し、無駄な動きが一切ない。
鵺坂トウマ。
カグラ十傑。
妖刀《霞断》を使う居合の達人。
トウマはレンたちへ軽く頭を下げた。
「鵺坂トウマだ。必要なことだけ話す」
それで終わった。
リアムが小声で言う。
「会話、短っ」
「聞こえている」
トウマが返す。
「すみません」
「事実だから構わない」
レンは少しだけ胃が重くなった。
サナは面倒。
トウマはやりづらい。
カグラは、歓迎の段階から難しい。
「シオン様は不在よ」
サナが先を歩きながら言った。
「東方境界の異常反応を見に出てる。だから今回は、私とトウマがあなたたちの相手」
「四天王がいない状態で大丈夫なんですか」
「失礼ね」
サナが振り向く。
「十傑二人で不足?」
「そういう意味では」
「ふふ。そういう意味に聞こえたけど」
「すみません」
「素直でよろしい」
完全に遊ばれている。
カグラの宿は、山腹にあった。
黒い木造の湯宿。
赤い葉の庭。
奥には、湯気を上げる露天風呂がいくつもある。
「ここが拠点ですか」
「表向きは湯治場」
セツナが答える。
「裏では旧坑道の監視拠点。湯に浸かる人間は、口も緩む。情報も流れる」
「それ、温泉を楽しめなさそうですね」
「楽しむ必要はない」
「セツナさんらしいです」
サナが横から笑う。
「そう言わずに楽しみなさい。カグラの湯はよく効くわよ。疲労にも、怪我にも、余計な緊張にも」
最後の言葉だけ、レンへ向いていた。
嫌な予感がした。
「この国では、混浴も珍しくないから」
リアムが咳き込んだ。
ティナが固まった。
レンは一瞬だけ言葉を失う。
「……任務中ですよね」
「任務中よ。だからこそ、現地の流れに混ざるの。あからさまに避ければ、逆に目立つ」
理屈は分かる。
分かるが、納得は別だった。
セツナが淡々と言う。
「入る。体温調整にもなる」
「セツナさんまで」
「合理的」
この人は本当に、それで全部済ませるつもりらしい。
サナは満足そうに笑った。
「じゃあ決まりね。夜まで旧坑道は動かない。まずは湯」
「……分かりました」
「その顔、覚えておくわ」
「忘れてください」
「嫌」
本当に、苦手だ。
夜の露天風呂は、湯気で白く煙っていた。
竹垣の向こうに山の黒い影がある。細い月が出ていて、湯面には薄く光が揺れていた。
レンはなるべく端にいた。
視線を上げない。
余計な方向を見ない。
石の模様だけを見ている。
そう決めていた。
「そんな端で固まってたら、逆に目立つわよ」
湯気の向こうから声がした。
レンは反射的に肩を跳ねさせた。
サナだった。
昼間の羽織も軽戦装もない。
髪はほどかれ、濡れた黒髪が肩へ流れている。
身につけているものは、湯を含んだ白いタオルだけだった。
胸元から膝上までを辛うじて隠している。
隠しているのに、湯気と月明かりのせいで、見えないところまで意識させられる。
レンは即座に目を逸らした。
「……先に言ってください」
「言ったら面白くないでしょう」
「面白さを求めないでください」
「無理ね」
サナは当然のように近くへ入ってくる。
湯が揺れる。
近い。
レンは石の縁を見つめたまま、呼吸を整えようとした。
「本当に真面目ね。レオナ様が好きそう」
「そこでレオナさんの名前を出さないでください」
「あら、今の反応」
「何でもありません」
「何でもない顔じゃなかったわよ」
湯気の向こうで、サナが笑う。
楽しそうだ。
ものすごく楽しそうだ。
そこへ、セツナが入ってきた。
彼女はきっちり湯浴み着を着ていた。
首元まで整え、髪もまとめている。
表情はいつも通り無表情。
だが、湯に足を入れた瞬間だけ、ほんの少し眉が動いた。
「熱い」
「温泉ですから」
レンが言う。
「理解はしてる。でも熱い」
「セツナさんでもそういうこと言うんですね」
「熱さに人格は関係ない」
サナが笑う。
「氷人形さん、湯気で溶けそうね」
「溶けない」
「頬、赤いわよ」
「温度反応」
「便利な言い訳」
サナはそう言って、今度はレンへ視線を戻す。
「で、あなたはいつまで下を見てるの?」
「任務中なので」
「今は湯の中よ」
「なおさらです」
「ふふ。いいわね。からかい甲斐がある」
サナがさらに近づく。
湯面が揺れ、タオルの端がずれかける。
レンはほとんど反射で目を閉じた。
「そこまで警戒されると、逆に傷つくわ」
「絶対に傷ついてないですよね」
「少しは」
「嘘です」
「嘘は嫌いよ。使うけど」
最悪だ。
その時、竹垣の向こうから小さな声が落ちた。
「……山の上。金属音」
ニアだった。
空気が変わる。
サナの笑みは消えていない。
だが、目だけが戦場のものになった。
「何拍?」
「三つ。止まって、二つ。人の歩き方じゃない」
「当たりね」
サナは湯から上がった。
タオル一枚のまま、ためらいもなく立つ。
湯気をまとった背中に、水滴が落ちる。
レンは見ないように必死で横を向いた。
「着替えるわよ。覗いたら刺すから」
「見ません」
「残念」
「残念じゃないです」
サナの笑い声が、湯気の中で短く跳ねた。
旧坑道へ向かう山道は、夜になると一気に暗くなる。
昼間の赤い灯りは消え、木々の間を湿った風が抜けていた。
先頭はトウマ。
足音がない。
その後ろをサナが歩く。
すでに軽戦装に戻り、短槍《紅煙》を手にしていた。さっきまで湯気の中で笑っていた女と同じ人物とは思えない。
「シオン様がいなくて良かったわ」
サナが小声で言う。
「なぜですか」
「いたら早く終わりすぎるもの。敵が喋る前に死ぬ」
「それは調査に向かないですね」
「でしょう?」
坑道の入口は、崩れた鳥居の奥にあった。
錆びた鉄柵。
破れた立入禁止の札。
その内側に、薄い赤い光が揺れている。
火薬術式の反応。
サナが短槍《紅煙》を回した。
柄の中で、小さな火薬筒が鳴る。
「ここからは、私の庭」
トウマが先に消える。
数秒後、奥で鈍い音がした。
「一人」
短い報告。
サナが踏み込む。
《紅煙》の穂先から赤い煙が弧を描いて流れた。
煙はただ広がるのではなく、坑道の壁を舐めるように走り、奥にいた人影の視界を奪う。
三人。
再生派の信徒らしき男たちが、同時に動きを乱した。
「見えない場所で息をするから、死ぬのよ」
サナの声は甘い。
だが、槍の動きは容赦がない。
一人目の膝裏を石突きで砕く。
二人目の手首を刃で跳ね上げる。
三人目が術式銃を構えた瞬間、赤い煙が顔の前で弾けた。
悲鳴。
男が転がる。
「殺すな」
トウマが言う。
「分かってるわよ」
「今、少し楽しそうだった」
「少しだけね」
「否定しないのか」
「嘘は嫌い」
レンは、その戦いを見ていた。
サナは軽い。
だが軽いだけではない。
煙で視界をずらし、火薬で反応を奪い、短槍で急所ではなく動きを殺す。
レオナの炎が真正面から焼き尽くす火なら、サナの火は肌へ忍び込む火だ。
気づいた時には、もう逃げ道がない。
「隊長、奥」
ニアが低く言う。
坑道の奥から、低い駆動音が聞こえてきた。
セツナの端末が反応する。
「神経遮断針。保存薬。あと、ヘリオス製の防振材」
「保存薬?」
ティナが聞く。
「人体実験用。生かしたまま壊す時に使う」
ティナの顔が青ざめた。
奥の保管室には、薬瓶と金属箱が並んでいた。
壁には、培養槽の図面。
その下に、綺麗すぎる文字で記されている。
温室・第三棟。移送準備完了。
レンは、その文字を見た瞬間に嫌なものを感じた。
温室。
人を助ける場所の名前じゃない。
人間を材料として扱う者たちが、そう呼んでいる。
「カグラの山で、こんなものを育てていたわけ」
サナの声から、笑みが消えた。
奥で、何かが動いた。
人間の形をしている。
だが、もう人間とは言い切れない。
半分は肉。
半分は金属。
胸には赤い火薬術式の筒。
顔の片側だけが鉄に覆われ、目の奥で赤い光が滲んでいる。
試作兵。
そいつが、かすれた声を出した。
「移送……妨害……排除」
ティナが息を呑む。
レンは剣を抜こうとした。
だが、サナが片手で止めた。
「下がって」
「でも」
「これは、うちの火を汚した相手」
サナは一歩前へ出た。
「私がやる」
試作兵の胸部筒が開く。
火薬術式が暴走寸前まで赤く光る。
セツナが鋭く言う。
「爆縮型。坑道ごと吹き飛ぶ」
「聞こえてる」
サナは《紅煙》を構えた。
試作兵が跳ぶ。
速い。
補助脚が壁を蹴り、天井すれすれから落ちてくる。
サナは避けない。
「《紅煙》」
赤い煙が輪を描いた。
試作兵の視線が一瞬だけずれる。
見ているサナと、実際のサナの位置が違う。
刃が空を切る。
その瞬間、サナは懐へ入っていた。
石突きが胸部筒の根元を打つ。
火薬術式の流れが乱れる。
試作兵が叫ぶ。
「排除、排除、排除」
「うるさいわね」
サナは耳元で囁くように言った。
「火はね、怒らせるより、誘った方が綺麗に燃えるの」
短槍の刃が、筒の継ぎ目へ入る。
引き抜く。
赤い火薬が噴き出す。
サナはそれを煙で包んだ。
爆発は起きた。
だが、広がらない。
赤い煙の内側だけで、火が花みたいに開き、すぐに潰れた。
試作兵の胸部が砕ける。
膝が落ちる。
サナは最後に、槍の柄で首裏を打った。
動きが止まった。
殺してはいない。
完全に制圧している。
リアムが小さく呟いた。
「……十傑って、やっぱ化け物だな」
「聞こえてるわよ」
「褒めてます」
「なら受け取っておくわ」
サナは笑った。
だが、目は笑っていなかった。
◇ ◇ ◇
夜明け前、湯宿へ戻る頃には、山の空が薄く白み始めていた。
捕縛した信徒と試作兵は、カグラ側へ引き渡された。
セツナは押収資料を読み、トウマは壁際で目を閉じている。眠っているのではない。たぶん、音を聞いている。
サナは縁側で《紅煙》の穂先を拭いていた。
レンは庭に立ち、湯気の流れる山道を見ていた。
「疲れた顔」
横にサナが来る。
「疲れてます」
「あら、正直」
「サナさん相手に取り繕っても、無駄な気がします」
「賢い」
サナは少しだけ笑い、すぐに真顔へ戻った。
「温室は危ないわ」
「分かっています」
「分かってる顔じゃないわね」
「どういう顔ですか」
「今すぐ踏み込みそうな顔」
レンは黙った。
当たっている。
セツナが資料から目を上げた。
「温室第三棟。場所は旧薬草園跡。地下施設あり。再生派の人体実験施設である可能性が高い」
ティナの表情が強張る。
リアムが槍の柄を握る。
グラムは無言で立ち上がり、ニアは山の方角を見た。
「夜明け前なら、まだ間に合うかもしれない」
レンが言うと、サナが《紅煙》の柄で軽く肩を叩いた。
痛くはない。
だが、止められた。
「焦る男は嫌われるわよ」
「嫌われるかどうかの話じゃありません」
「そうね」
サナの声が低くなる。
「だから、なおさら焦っちゃ駄目」
レンは彼女を見る。
サナは笑っていなかった。
「助けたいなら、間に合うことだけ考えなさい。怒りを先に走らせると、助かる人間まで置いていく」
軽い言葉ではなかった。
この人は、きっと見ている。
間に合わなかった人間を。
焦って、走って、それでも届かなかった背中を。
レンは小さく頷いた。
「覚えておきます」
「いい返事」
サナは少し笑う。
「でも、たぶん破るわね」
「信用ないですね」
「信用してるから言ってるの。あなた、放っておくと前へ行くでしょう」
レオナにも、そんな目で見られたことがある。
言葉ではない。
けれど、似た視線だった。
サナは湯気の向こうを見たまま言う。
「レオナ様が気にする理由、少し分かったわ」
レンは答えなかった。
聞き返せば、面倒なところへ行く気がした。
サナはそれを見て、満足そうに笑った。
「そういう顔も悪くない」
「からかわないでください」
「からかってるわよ」
「認めるんですね」
「嘘は嫌いって言ったでしょう」
その時、セツナの端末が短く鳴った。
彼女の表情がわずかに変わる。
「まずい。移送予定、今日の夜じゃない」
「いつですか」
レンが聞く。
「一時間後」
空気が凍った。
トウマが目を開けた。
「俺が本隊への連絡に回る」
「お願い」
サナは短槍《紅煙》を手に取った。
「レン」
「はい」
「準備するわよ。怒りじゃなく、足を先に出しなさい」
レンは剣の柄を握る。
頭の奥で、黒仮面が短く鳴った。
『危険度、上昇』
分かってる。
温室。
その言葉が、朝の湯気の中で冷たく残っている。
助けたいなら、間に合うことだけ考えろ。
レンはその言葉を胸の奥に押し込み、戦いの準備を始めた。
次に踏み込めば、何かが変わる。
それでも、見なかったことにはできなかった。




