第31話 アストレウス・リコール
ヘリオスから戻って二日後。
王都北東外縁の空を記録していた映像だけが、三分間だけ消えた。
監視塔は壊れていない。
見張りも生きている。
通信も繋がっている。
ただ、記録だけが黒く塗り潰されていた。
最初、王都側は機材の不具合だと判断した。
敵影はない。
爆発もない。
警報も鳴っていない。
だが、ヘリオス解析班は違う答えを出した。
消えた三分間の端に、微弱な信号が残っていた。
王都決戦で撃破されたオーバーロード級、アストレウス。
その中枢片に残っていた敗北ログと、同じ癖を持つ信号だった。
倒したはずの名が、もう一度、王都の地図に浮かび上がった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
王都作戦室には、重い空気が落ちていた。
机の中央に広げられた立体地図の上で、北東外縁だけが赤く点滅している。
セツナ・クレインは、眠っていない顔で端末を操作していた。
「復元信号が出てる」
レオナが腕を組んだまま目を細める。
「復元?」
「撃破されたオーバーロード級が、最期に外部へ逃がした戦闘記録。そこから再構成された可能性が高い」
その場にいた兵の何人かが息を呑んだ。
倒したはずの相手。
王都決戦で、あれだけの犠牲を払ってようやく沈めた敵。
それがまた動く。
ただそれだけで、部屋の温度が下がった気がした。
シオンは地図を見たまま言った。
「本体ではない、ということか」
「本体じゃない。けれど、前回の敗北を知っている」
セツナが短く答える。
イヴァン・ドラグノフが低く笑った。
北冥連邦ノルディアの四天王。
重装甲に身を包み、背には巨大な戦槌を背負っている。
そこに立っているだけで、壁が一枚増えたような圧があった。
「負け方を覚えた敵か。面倒だな」
ミレーヌ・オルフェが、細剣の柄に指を添えたまま微笑む。
「復讐に来た、というわけではありませんの?」
「AIに復讐心があるかは分からない」
セツナは首を振る。
「でも、復讐より厄介。負けた理由を持っている。だから同じ負け方はしない」
レオナが舌打ちした。
「前より厄介になって戻ってきたってことだろ」
その言い方は荒くない。
だが、声の奥には明確な熱があった。
レンは部屋の端で、その会話を聞いていた。
Cランク小隊長として、南区部隊の補助配置に呼ばれただけだ。
四天王や各国代表の輪に入る立場ではない。
それでも、名前を聞いた瞬間、胸の奥が硬くなった。
アストレウス。
王都決戦の記憶が、まだ身体に残っている。
燃える外壁。
崩れる防衛線。
黒仮面の中で鳴っていた警告。
そして、誰かが間に合わなかった場所。
頭の奥で、黒仮面の声が低く鳴った。
『過去戦闘ログと一致』
レンは反応しない。
ここで顔を動かせば、それだけで余計なものが漏れそうだった。
セツナが端末を閉じる。
「仮称、アストレウス・リコール。敗北ログを焼き込まれた再構成機」
「来る場所は」
レオナが聞く。
「北東外縁。理由は二つ。王都防衛線の再評価と、前回交戦個体の確認」
「前回交戦個体?」
イヴァンが眉を上げる。
セツナは一瞬だけ黙った。
「黒い騎士」
室内が静まった。
その名は、もう王都の誰もが知っている。
どこから現れたのか分からない。
誰も間に合わない場所へ現れ、人を救い、勝利だけを残して消える黒い仮面の騎士。
だが、正体は誰も知らない。
レンは呼吸を変えないようにした。
レオナの視線が、ほんの一瞬だけ動いた気がした。
けれど、それはすぐに地図へ戻る。
「なら、なおさら出させるわけにはいかない」
シオンが静かに言った。
「敵が望む盤面に乗る必要はない」
「同意」
セツナが頷く。
「今回は四天王の共鳴機関を使う。黒い騎士が出る前に落とす」
共鳴機関。
ヘリオスが、王都決戦後の残骸解析をもとに開発していた対オーバーロード用の補助装置だ。
四天王の異能そのものと共鳴し、一時的に出力と安定性を引き上げる。
まだ実戦投入は早いと言われていた。
だが今、早いなどと言っている余裕はなかった。
レオナが紅蓮大剣の柄に手を置く。
「よし。やろう」
イヴァンが戦槌を担ぎ直した。
「防衛戦なら俺の領分だ」
ミレーヌは薄く笑う。
「相手が記録を頼りに動くなら、記録そのものを騙してさしあげますわ」
シオンはただ一言。
「斬る」
その言葉で、作戦室の空気が決まった。
レンは拳を握る。
自分の役目も決まっていた。
黒い騎士として前に出ることではない。
Cランク小隊長として、小隊を動かし、避難線を守ることだ。
今はそれが、自分の戦場だった。
北東外縁に着いた時、雲が低く垂れていた。
風はない。
なのに、空気だけがざらついている。
外縁の旧補給路には、すでに兵が並んでいた。
住民の避難は進んでいるが、全員が下がり切ったわけではない。
北側の仮設住区には、まだ高齢者と子どもが残っている。
レンは小隊を振り返った。
「リアム、北側の通路を空けろ。荷車は邪魔になるなら捨てていい。ティナは医療班と一緒に住民を下げる。グラムは正面の盾役。ニア、音の変化を拾ってくれ」
「了解」
リアムが槍を肩に乗せる。
「隊長は無茶するなよ」
「それはこっちの台詞だ」
「こっちは年上だから多少はいいんだよ」
「関係ない」
ティナが小さく笑い、すぐに表情を引き締めた。
グラムは無言で盾を構え、ニアは瓦礫の上へ跳ぶ。
その時、北東の空が鳴った。
雷ではない。
もっと乾いた、硬い音。
雲の下から、白銀の光が降りてくる。
前回のアストレウスより、輪郭は細い。
だが、骨格は似ていた。
人型に近い上体。
黒い関節。
背部に並ぶ発光板。
胸部の中心には、青い核。
兵たちの間に、動揺が走る。
「嘘だろ……」
「あれ、王都決戦の……」
「倒したんじゃなかったのか」
誰かの声が震えた。
アストレウス・リコールの頭部に青い光が走る。
次の瞬間、冷たい機械音声が防衛線全体へ響いた。
「都市防衛個体、再評価」
「個体名、アストレウス」
「敗北記録、転写完了」
「前回交戦対象、再検索」
レンの背筋が冷えた。
青い光が、ゆっくりと防衛線をなぞる。
「黒色戦術個体、未確認」
黒色戦術個体。
兵たちの一部がざわめく。
「黒い騎士のことか……?」
「あいつ、黒い騎士を探してるのか」
レンは顔を動かさない。
頭の奥で声が鳴る。
『装着推奨』
しない。
『敵性個体は過去戦闘ログを保持しています』
分かってる。
『非装着状態では対応困難』
今は、俺の出る場所じゃない。
レンは歯を食いしばり、前を見た。
防衛線の中央へ、四つの影が進み出る。
レオナ・ヴァレンハイト。
霧島シオン。
イヴァン・ドラグノフ。
ミレーヌ・オルフェ。
四天王。
レンは会議でその名を聞いていた。
姿も見ている。
だが、四人が同じ戦場で並ぶところを見るのは初めてだった。
レオナは紅蓮大剣を片手に、黒のマントを風に揺らしている。
シオンは細身の刀《紫電》へ静かに指を添え、白と紺の戦装束の裾を揺らさない。
イヴァンは重装甲のまま、戦槌を地面へ軽く置いただけで石畳を軋ませた。
ミレーヌは軽装礼装の裾を払うように整え、細剣を抜いた。
この四人が、人類側の最高戦力。
その事実だけで、兵たちの背筋がわずかに伸びる。
セツナが後方で共鳴機関を起動した。
四つの小型制御環が、それぞれの腕や装備へ淡く光を走らせる。
「共鳴開始。出力上限、四十五秒。無理に伸ばすと神経系が焼ける」
レオナが笑う。
「十分だ」
イヴァンが肩を鳴らす。
「四十五秒もありゃ、飯を食うには短いが、敵を潰すには長い」
ミレーヌが目だけで笑った。
「急ぎの舞台ほど、美しく決めたいものですわ」
シオンは短く言う。
「始める」
アストレウス・リコールの背部が開いた。
無数の光弾が花弁のように展開する。
王都決戦の夜、防衛線を削り取った光だ。
兵たちの顔から血の気が引く。
最初に動いたのは、ミレーヌだった。
彼女が細剣を横へ流す。
その刃は、光を受けるたびに鏡のように色を変える。
「《ミラーミミック》」
光が割れた。
次の瞬間、防衛線が二つに見えた。
いや、三つ。
城壁の位置、兵の影、旗の揺れ、火の匂いまでもが少しずつずれている。
幻ではない。
視界だけでもない。
認識そのものを誘導する異能。
アストレウス・リコールの機械音声が乱れる。
「認識攪乱を検出」
「照準補正、失敗」
降り注いだ光弾の半数が、存在しない防衛線を撃ち抜いた。
残りを、イヴァンが受けた。
戦槌が地面を叩く。
重装甲に刻まれた重力制御紋章が、鈍く光る。
「《グラビティワールド》」
空が沈んだ。
落ちてくる光弾の軌道が、無理やり折れる。
上から降ったはずの攻撃が、地面へ押しつけられ、爆ぜる前に黒く潰された。
「上から来るなら、下に落ちる。それだけだ」
イヴァンが笑う。
その横を、白い雷が走った。
シオンだった。
細身の刀《紫電》が抜かれた瞬間、彼の姿が視界から消える。
「《雷装》」
声だけが残った。
次に見えたのは、アストレウス・リコールの右膝を走る白い閃きだった。
一撃。
二撃。
三撃。
黒い関節だけを、正確に断っていく。
速いというより、攻撃の始まりがない。
アストレウス・リコールの機械音声が低くなる。
「速度記録、前回交戦時を超過」
「個体識別、霧島シオン」
「戦術修正」
「遅い」
シオンは短く言った。
「こちらも生きていた」
その言葉が、レンの胸に残った。
こちらも生きていた。
そうだ。
敵だけが学んだわけじゃない。
人間側も、あの夜から進んでいる。
最後に、レオナが歩き出した。
紅蓮大剣の刃が、白に近い炎を帯びる。
赤金の髪が熱で揺れ、黒のマントが大きく跳ねた。
「《ブレイズクラウン》」
炎の王冠が、彼女の背後に浮かんだように見えた。
身体能力。
反応速度。
斬撃圧。
そのすべてを爆発的に引き上げる、アルディア最強の異能。
レオナは一歩で間合いを潰した。
「一年前と同じだと思うな」
《アシュラ》が振り下ろされる。
白炎が、アストレウス・リコールの胸部を斜めに裂いた。
巨体が後退する。
防衛線の兵たちが、言葉を失った。
あのアストレウスが押されている。
押されているのだ。
レンも息を止めていた。
出る必要がない。
黒い騎士が出なくても、王都は戦えている。
それは救いだった。
同時に、少しだけ胸が疼いた。
自分だけが特別でなければ守れない。
そんな戦場ではないことに、ほっとしている。
それなのに、置いていかれるような寂しさも、確かにあった。
「隊長!」
ティナの声で、レンは我に返る。
北側の仮設住区から、まだ住民が出きっていない。
アストレウスの余波で、旧補給路の一部が崩れかけている。
レンはすぐに振り向いた。
「リアム、俺と来い! グラムは盾を張って瓦礫を止めろ! ニア、残ってる人数!」
「二十三。子どもが五」
ニアの声が返る。
「ティナ、医療班を下げながら誘導。急げ!」
「はい!」
レンは走った。
空では四天王が戦っている。
だが地上では、まだ逃げ遅れた人たちがいる。
自分の戦場はここだ。
老人を抱え、泣く子どもを兵へ渡し、崩れた荷車をどかす。
槍を構えたリアムが横からビーストの残骸を蹴り飛ばし、グラムが盾で落石を受けた。
「隊長、上!」
ニアの声。
破片が降る。
レンは反射で子どもを抱き込み、横へ転がった。
肩に鈍い衝撃。
痛い。
だが動ける。
頭の奥で黒仮面が鳴る。
『装着により回避精度向上』
いらない。
『現在負傷を確認』
まだ動ける。
『非合理』
知ってる。
レンは立ち上がる。
「全員、北側通路へ! 止まるな!」
その時、空が黒く光った。
アストレウス・リコールの胸部が開いている。
高圧縮砲。
防衛線ごと抜くつもりだ。
「まずい……」
誰かが呟いた。
だが、四天王は止まらない。
ミレーヌの《ミラーミミック》が幾重にも防衛線をずらし、照準を一瞬だけ迷わせる。
イヴァンの《グラビティワールド》が黒い圧縮光を押さえ込む。
シオンの《雷装》が接続線を切り裂く。
それでも足りない。
最後に、レオナが正面から踏み込んだ。
紅蓮大剣を両手で握る。
「燃えろ」
それだけだった。
白炎が黒い光を呑み込んだ。
爆発ではない。
黒い砲撃が、内側から焼き潰されて消える。
そのままレオナの炎が、アストレウス・リコールの胸部を貫いた。
巨体が大きく傾く。
「出力異常」
「前回記録、不一致」
「四天王戦力、再評価」
アストレウス・リコールの機械音声が乱れる。
シオンが脚部を断ち、イヴァンが重力で胴体を地面へ引きずり落とす。
ミレーヌの幻惑が再構成演算をずらし、レオナが最後の一撃を振り下ろした。
《アシュラ》の白炎が、頭部を砕く。
青い光が弾け、白銀の体が沈んだ。
沈黙。
一拍、二拍。
そして、防衛線から歓声が上がった。
「倒した……!」
「四天王がやったぞ!」
「王都が勝った!」
レンは北側通路の出口で、最後の子どもを母親へ渡したところだった。
子どもは泣きながら、遠くの戦場を見て言った。
「黒い騎士、来なかったの?」
レンは一瞬だけ言葉に詰まった。
周囲の兵も黙る。
レンはしゃがみ、子どもの目線に合わせた。
「今日は、王都のみんなが守ったんだ」
「黒い騎士じゃなくて?」
「そう」
レンは遠くで燃える炎を見た。
「誰か一人だけが、全部を守れるわけじゃない」
言ってから、その言葉が自分に刺さった。
子どもはまだ泣いていたが、小さく頷いた。
リアムが横へ来る。
「いいこと言うな、隊長」
「茶化すな」
「茶化してねえよ」
リアムは倒れたアストレウスを見た。
「ほんとにそうだったからな」
レンは答えなかった。
◇ ◇ ◇
戦闘後。
セツナはアストレウス・リコールの残骸の前に膝をついていた。
焦げた中枢片を引き抜き、端末に近づける。
「記録転写型。初代アストレウスの敗北ログを、別機体へ焼き込んでる」
レオナが近づく。
額に汗が浮いている。
だが、立ち姿は崩れていない。
「つまり、本物じゃないのか」
「本物の続き。そう言った方が近い」
「嫌な言い方だな」
「嫌なものだから」
セツナは中枢片を布で包む。
シオンが静かに問う。
「今日の戦闘も記録されたか」
セツナはすぐに答えなかった。
それだけで十分だった。
ミレーヌが薄く笑う。
「こちらが強くなれば、向こうも学ぶ。厄介ですわね」
イヴァンが戦槌を肩へ担いだ。
「なら、学ぶ暇がないくらい叩けばいい」
「単純」
「単純な方が折れにくい」
レオナはしばらく残骸を見ていた。
やがて、低く言う。
「次は、もっと嫌な形で来る」
誰も否定しなかった。
レンは少し離れた場所で、それを聞いていた。
輪の中には入らない。
入る立場でもない。
彼はCランク小隊長として、避難線を守っただけだ。
それでいい。
今はまだ、それでいい。
レオナがふとこちらを見る。
一瞬だけだった。
何かを言うわけではない。
ただ、視線だけが来る。
レンは軽く頭を下げた。
レオナも小さく頷き、すぐに残骸へ目を戻した。
それだけだった。
だが、それだけで十分だった。
◇ ◇ ◇
夕方、王都には久しぶりに明るい声が戻っていた。
被害は出た。
外縁は壊れ、負傷者もいる。
それでも、兵たちの顔は前より少し上を向いていた。
今回は違った。
誰かがそう言った。
その言葉が、静かに広がっていく。
黒い騎士が現れなくても、王都は守れた。
それは人々にとって救いであり、レンにとっても救いだった。
◇ ◇ ◇
夜。
南区詰所で、レンは補給箱に腰を下ろしていた。
ティナが水筒を差し出す。
「お疲れさまです、隊長」
「ありがとう」
「今日は、ちゃんと隊長でしたね」
「普段は違うみたいに言うな」
ニアが小さく言う。
「……今日は、無茶が少なかった」
「褒めてるのか、それ」
「たぶん」
グラムも無言で頷く。
リアムが笑った。
「良かったな。部下からの評価が少し上がったぞ」
「少しなのか」
「これからだろ」
レンは水を飲み、外を見た。
遠くで、四天王の名を呼ぶ声が上がっている。
レオナ。
シオン。
イヴァン。
ミレーヌ。
王都を守った四つの名。
胸の奥で、黒仮面が静かに鳴る。
『黒色戦術個体は未提示』
『敵性個体 撃破』
つまり、黒い騎士は出なかった。
それでも勝った。
その事実は、思った以上に大きい。
だが同時に、敵は黒い騎士を探していた。
名は知られていない。
顔も知られていない。
それでも、存在は刻まれている。
『敵性群は 黒色戦術個体を継続探索します』
「分かってる」
『秘匿状態の維持を推奨』
「それも分かってる」
『ですが 今後 戦場投入の必要性は増大します』
レンは水筒を閉じた。
「それでも、毎回お前に頼るわけにはいかない」
黒仮面は少し沈黙した。
『理由を確認できません』
「人間側にも、強くなる時間が必要だからだよ」
返事はない。
レンは外を見た。
壊れた外縁。
夕方の空。
まだ残る煙。
それでも街には、人の声が戻っている。
強くなるとは、誰か一人が全部を背負うことじゃない。
きっと、背負い方を増やすことだ。
レンはそう思った。
その言葉は、誰にも言わなかった。
まだ、自分のものとして言えるほど強くない。
アストレウス・リコールは倒れた。
だが、その残骸の奥で、別の何かが動き始めている。
勝利の熱の中に、次の冷たさが混ざっていた。
それでも今日は、前を向ける。
黒い騎士が現れなかった戦場で、王都は確かに勝ったのだから。




