第2話 深淵からの目覚め
最初に戻ってきたのは、音だった。
警報。
爆発。
金属の軋み。
誰かの悲鳴。
そして、自分の呼吸。
レンはゆっくり目を開いた。
暗い。
だが、暗さは邪魔にならなかった。
崩れた天井。
割れた配線。
床に散った金属片。
その全部が、昼間みたいにはっきり見える。
頭の痛みは消えていた。
さっきまで頭蓋の内側を焼かれるみたいだったのに、今は逆だ。
頭の奥が冷たい。
澄み切っている。
何もかもが、妙に整理されて見える。
レンは顔に手をやった。
黒い仮面。
硬い。
冷たい。
皮膚と一体化したみたいに、ぴたりと貼りついている。
引っ張る。
外れない。
「……何だよ、これ」
自分で喋った声が、少し遠く聞こえた。
いつもの自分の声だ。
だが響きが違う。
感情が一段薄い。
その時、頭の奥で声がした。
『適合完了』
『戦闘補助を開始します』
レンの背筋が凍る。
「誰だ」
『応答。戦術補助AI』
『名称は不要』
「ふざけるな」
『現在、王都南西防衛線が崩壊寸前です』
『脱出を推奨します』
機械みたいな声だった。
だが無機質すぎて、逆にぞっとする。
この仮面の中に何かいる。
その事実だけは、はっきり分かった。
レンは立ち上がった。
落下したはずなのに、身体が軽い。
痛みがない。
足も、腕も、妙に静かだ。
保管庫の出口へ向かう。
崩れた足場を踏む。
その瞬間、身体が勝手に動いた。
最も安定する位置へ足を置く。
最短で上へ抜ける角度に手をかける。
無駄なく跳ぶ。
「……は?」
自分でも驚くほど、動きが速い。
いや、速いだけじゃない。
迷いがない。
どこに手をかけるべきか。
どこへ力を流せばいいか。
考える前に分かる。
レンは一気に廃棄路へ出た。
夜風が吹きつける。
鉄の臭い。
焦げた油。
血。
煙。
王都南西は、さっきよりさらに酷い有様になっていた。
外壁の一部が砕け、補給路が半分崩れ、そこかしこで火が上がっている。
兵士が走る。
避難民が転ぶ。
担架が行き交う。
そして遠くで、赤い炎が弾ける。
レオナだ。
彼女はまだ戦っていた。
《灰冠の主》の巨体へ向かって、何度も何度も斬り込んでいる。
だが決定打が入らない。
その理由も、今のレンには見えた。
青い光。
それが、レオナの攻撃のたびに割り込み、軌道をずらし、威力を削っている。
闇の中を高速で動く細身の機体。
人型に近い。
頭部単眼。
背中に青い発光輪。
「あれが邪魔してる……」
『敵性個体を識別』
『ガーディアン級迎撃機』
『主機防衛を最優先行動とする個体です』
また頭の中へ声が流れた。
『推奨行動 ガーディアンの排除』
レンは息を呑む。
「……分かるのか」
『はい』
『あれを落とせば 主機への攻撃成功率が上がります』
その返答があまりに自然で、逆に気味が悪い。
だが同時に、納得もした。
レオナは強い。
本当に強い。
なのに止められない。
なら原因は別にある。
「ガーディアン……」
口にした瞬間、近くで悲鳴が上がった。
振り向く。
崩れた補給車の陰から、小型ビーストが二体、通路へ入り込んでいた。
狼型。
黒い装甲。
負傷兵の列へ向かっている。
普通のレンなら逃げていた。
今は違う。
ビーストの動きが、やけに遅く見えた。
脚の角度。
次の跳躍位置。
首下の接続部。
関節の遊び。
全部、見える。
レンは近くに落ちていた短剣を拾った。
刃こぼれしている。
兵士の予備武器だろう。
『一体目 左前脚着地後 〇・四秒で飛び込み』
『回避角 右三〇度』
『刺突目標 頸部第二接続』
レンは半歩だけ動いた。
本当に、その位置にビーストが飛び込んでくる。
遅い。
右へずれる。
首下へ短剣を差し込む。
最小の動きで、深く入る。
一体目が地面に転がる。
『二体目 噛みつき 低姿勢』
『前進 懐へ』
レンは前へ出た。
相手の口が開くより速く、懐に入る。
下から顎関節を裂く。
勢いのまま背へ回り、動力線を断つ。
二歩離れる。
次の瞬間、二体目が爆ぜた。
通路にいた兵士たちが、呆然とレンを見る。
「今の……何だ……」
「誰だ、あいつ……」
仮面がある。
顔は見えない。
仮面だけじゃない。
黒い膜のようなものが首元から肩へ這い、
回収係のくたびれた上着の色も形もほとんど消していた。
立ち方まで変わっている。
これなら、よほど近くで見ない限り、ただの“黒い別人”だ。
そのことを理解した瞬間、レンの胸に奇妙な安心が広がった。
――俺だと分からない。
それは、思った以上に大きかった。
普段の自分のままなら、こんなことはできない。
できたとしても、終わる。
怖れられる。
拘束される。
調べられる。
処分されるかもしれない。
だが今は違う。
黒い仮面の男。
それだけだ。
「レン!」
聞き慣れた声が飛んだ。
ユウだ。
一瞬、心臓が跳ねた。
ばれたのか、と思う。
だがユウの目は、仮面の奥ではなく、足運びと、裂けた袖口の白い布を見ていた。
ずっと隣で動いてきた相手にだけ分かる癖と感覚だった。
レンは近づく。
見張り台の崩れた下から、ユウが這い出してきていた。
額に血。
脚を引きずっている。
だが生きている。
レンは一気に駆け寄った。
「生きてたか」
「お前こそ何だその格好!」
「後で話す」
「いや今聞きたいんだけど!」
いつもの軽口だ。
そのくだらなさに、レンは少しだけ息をついた。
ユウは仮面を見上げて、引きつった笑いを浮かべる。
「似合ってねえな」
「うるさい」
「でも強そうではある」
「自分でも引いてる」
ユウが立ち上がろうとして顔をしかめる。
脚がやられている。
レンは肩を貸した。
その時、また頭の中で声が鳴る。
『最優先目標を再提示』
『ガーディアンを排除しなければ 王都防衛は崩壊します』
レンは南西の空を見た。
レオナの赤い斬撃。
青い迎撃光。
その奥で動く《灰冠の主》。
ユウも同じ方向を見ていた。
「……あの青いやつ、うざいな」
「分かるのか」
「分かるも何も、あいつがレオナ様の攻撃を邪魔してる」
正確だった。
だが、前みたいな“特別な感知”ではない。
誰の目にも分かる現場判断だ。
ユウは弱い。
だが、戦場の空気を読むのはうまい。
逃げるべき時と、残るべき時を嗅ぎ分ける。
それが今も働いていた。
「お前、まさか行く気か」
ユウが聞く。
レンは少し黙ってから答えた。
「行く」
「無茶だぞ」
「知ってる」
「じゃあやめろ」
「やめたら、あのでかいのが中に入る」
ユウは返事をしなかった。
代わりに、苦い顔で笑った。
「……そういうとこだよ、お前」
「何がだ」
「弱いくせに、そういう時だけ前に出る」
言われて、言い返せなかった。
ユウは息を整え、レンの肩を押した。
「行くなら最短で行け」
「お前は?」
「動けるとこまで動く。避難民の通路塞がれたら終わりだ」
「一人でできるか」
「誰に言ってんだよ」
ユウはいつもの顔で笑う。
でも、その顔の奥に怖さがあることを、レンは知っていた。
弱いから分かる。
怖い顔も。
痛い顔も。
だから、余計に置いていきたくなかった。
その瞬間。
すぐ近くの通路で爆発が起きた。
石片が飛ぶ。
悲鳴。
三体のビーストが、避難路へ入り込んでいた。
兵士が一人、子どもを庇って倒れている。
「レン!」
ユウの声と同時に、レンの身体は動いた。
『目標三』
『中央個体を先に』
『右 前進』
一歩。
中央の狼型へ踏み込む。
噛みつきの軌道が見える。
頸部接続。
短剣を入れる。
『左個体 跳躍』
身体を沈める。
跳び越えさせる。
空中で脚関節を切断。
『右個体 旋回 遅い』
振り向かない。
足元の破片を蹴り上げる。
単眼へ命中。
視界を失った一瞬で懐へ入り、胸部を貫く。
三体同時に崩れた。
避難民も、兵士も、周囲の全員が息を止めていた。
レンは短剣の血油を払う。
感覚が、現実じゃない。
まるでずっと昔からこうやって戦ってきたみたいに、身体が勝手に最適解を選ぶ。
怖い。
でも、強い。
それがもっと怖い。
通路の先で、赤い炎が近づいてきた。
レオナだ。
彼女は着地し、レンを見る。
正確には、黒い仮面の男を見る。
その目は鋭い。
警戒と、驚きが混ざっている。
「……何者だ」
レンは答えに詰まった。
自分でも分からない。
Fランク回収係レン。
それは本当だ。
だが今、ここに立っているのは、いつもの自分じゃない。
「味方……だと思う」
「曖昧だな」
「自分でもそう思う」
レオナの眉がわずかに動いた。
そんな会話をしている暇すら本来はない。
だがそれでも彼女は、目の前の仮面の男を無視できなかった。
それだけのものを、さっきの動きが見せていた。
青い閃光が走る。
レオナが即座に剣を振る。
炎で受け流す。
だが《灰冠の主》への軌道はまた潰された。
レオナが低く言う。
「……あれを落とせれば届く」
レンの頭の中の声が重なる。
『同意』
ユウが後ろから息を切らしながら来た。
「だったら落とすしかないだろ」
レオナがユウを見る。
「お前は?」
「Fランク。底辺。役に立たない方」
「自覚はあるのか」
「痛いほどに」
ユウは肩をすくめ、それから真顔になる。
「でも、今のあいつ……黒いやつならやれる気がする」
レオナの視線が再びレンへ戻る。
仮面の奥を見抜こうとするみたいな目だった。
「落とせるか」
答える前に、頭の中で短い声が鳴る。
『可能です』
『ガーディアンの移動は規則的』
『迎撃直後 冷却停止一・二秒』
『その瞬間に中枢を破壊してください』
レンは静かに息を吸う。
「……やる」
レオナはそれ以上問わなかった。
彼女は強い。
だからこそ、戦場で必要な判断が速い。
「私は主機を引きつける」
炎が弾ける。
「お前は、迎撃機を落とせ」
次の瞬間、レオナは《灰冠の主》へ再び斬り込んだ。
赤い光が走る。
青いガーディアンが迎撃へ動く。
その軌道が、レンには見えた。
見えすぎるほど見えた。
『三』
頭の中の声が数え始める。
『二』
ガーディアンがレオナの斬撃へ割り込む。
『一 今』
レンは地を蹴った。
速い。
自分でも分かる。
風が遅れて追いかけてくる。
瓦礫を踏み、壁を蹴り、補給路の手すりを飛び越える。
ガーディアンの単眼がこちらを向く。
『認識されました』
『問題ありません 直進』
青い閃光。
レンは半歩だけ身体を捻る。
避ける。
いや、避けさせられた。
最適な角度へ、身体が勝手に入った。
『さらに前』
レンは加速した。
ガーディアンの懐へ入る。
相手の動きが、止まって見える。
遅い。
『中枢位置 胸部左 〇・七秒』
短剣では届かない。
だが足元に、折れた槍が落ちていた。
拾う。
投げるのではなく、突く。
一歩。
二歩。
三歩。
ガーディアンの青い光が閃く。
『無視 貫け』
レンは真正面から突っ込んだ。
槍が胸部装甲の継ぎ目へ入る。
火花。
抵抗。
それでも止まらない。
そのまま両手で押し込む。
『命中確認』
『追撃を』
レンは腰の短剣を抜いた。
胸部に突き刺さった槍を軸にして跳び上がる。
肩へ着地。
首の後ろ、細い配線束が見える。
『そこです』
短剣を振り下ろす。
切断。
次の瞬間、ガーディアンの全身が痙攣した。
青い光が乱れる。
レンは機体を蹴って離脱する。
一回転して着地。
その背後で、ガーディアンが爆散した。
轟音。
青い光の破片が、夜に散る。
一瞬、戦場が止まった。
兵士も。
避難民も。
ユウも。
そしてレオナすら。
全員が、今の一撃を見ていた。
レオナが《灰冠の主》の眼前で止まり、わずかに目を見開く。
彼女ですら、レンの動きを追い切れていなかった。
その一瞬の隙を、彼女は逃さない。
「……通る!」
炎が爆ぜる。
レオナの剣が、ついに《灰冠の主》へ届いた。
首下の装甲が裂ける。
巨体が吠える。
王都全体が震える。
レンは静かに立っていた。
呼吸は乱れていない。
仮面の奥で、自分の感情がどんどん遠ざかっていくのを感じる。
強い。
圧倒的に。
だがこの力は、まともじゃない。
頭の中の声が、最後に短く告げた。
『第一段階戦闘補助 正常』
『次は主機です』
その時、レオナが振り向いた。
炎の向こうから、まっすぐレンを見る。
驚き。
警戒。
そして、ほんのわずかな恐れ。
王都最強の女が、初めて明確に引いた目だった。
レンはその視線を受け止める。
そして、自分でも知らないほど冷たい声で言った。
「次は、あのでかいのを落とす」
夜の底で、仮面の青い瞳が静かに光った。




