第26話 ガロの教え、血の出る足場
ガロの訓練は、だいたい人を腹立たせるところから始まる。
その日も例外ではなかった。
王都南東、旧貯水路跡。
石造りの水路は半ば崩れ、底には乾いた泥と瓦礫が溜まり、ところどころに錆びた鉄骨が突き出している。陽が高くなると石壁が熱を持ち、逆に朝のうちは夜露で足元がいやに滑る。
訓練場としては最悪だ。最悪だからこそ、ガロは好んでここを使う。
レンが着いた時には、すでに荷袋が五つ、地面に転がされていた。
「背負え」
開口一番それだった。
レンは荷袋とガロの顔を見比べる。
「中身、何ですか」
「聞いてどうする」
「心の準備です」
「いらん」
ガロは無精髭を指で掻きながら、荷袋の一つを蹴った。ごろ、と嫌な重さの音がする。
「砂と鉄片だ。死ぬほど重くはねえ。死ぬほど邪魔なだけだ」
「最悪ですね」
「戦場はそういうもんだ」
それを言われると反論しづらい。
結局、レンは二つの荷袋を背に括りつけられ、そのうえで木人形を片腕に抱えさせられた。人形は子どもほどの大きさで、木製のくせに妙に重い。
抱え心地が悪く、腕の収まりも悪い。これを考えた奴は性格が悪いと本気で思ったが、目の前にいる男が考えたに決まっているので、口には出さなかった。
「端から端まで行って戻れ」
ガロが崩れた水路の先を顎で示す。
「落としたらやり直し。転んでもやり直し。自分だけ無事でも、抱えてるそいつの頭を壁に打ったらやり直しだ」
「それ、ほぼ全部やり直しじゃないですか」
「そうだ」
ガロはあっさり言った。
「一発で抜けられるなら才能ある。抜けられねえなら身体に覚えさせろ」
レンは小さく息を吐き、人形を抱え直した。背中の荷袋が肩へ食い込み、まだ一歩も動いていないのに嫌な重さが広がる。
「……行きます」
「どうぞ」
言い方が腹立つ。
一歩目で分かった。これは単に重いだけの訓練じゃない。
重心がひどくずれる。背中に引かれ、片腕が塞がり、視界も狭い。
普段の歩き方のまま進むと、その時点で足場を見誤る。
最初の崩れた斜面で、レンはさっそく足を滑らせた。
「っ」
転びきる前に、身体だけは捻った。だが抱えていた木人形の頭が、石壁へごつんと鈍い音を立てて当たる。
上からガロの声が落ちてくる。
「死んだ」
「言い方」
「事実だ」
レンは舌打ちを飲み込みながら立ち上がった。まだ始まったばかりなのに、もう腕がだるい。
二回目は、斜面を越えたあとの細い通路でつまずいた。最短で抜けようとして、荷袋が壁に引っかかったのだ。
足元だけ見れば通れる。だが、人を抱え、荷を背負った状態で通れる幅ではなかった。
「死んだ」
「うるさいです」
「今のはお前も死んだし、後ろも詰まって全滅だな」
「後ろいませんけど」
「いる想定で動け」
三回目は段差で失敗した。
四回目は戻りの角度を誤った。
五回目になる頃には、汗が首筋を流れ始めていた。
「……これ、いつ終わるんですか」
息を切らしながら言うと、ガロは木剣を肩に担いだまま答えた。
「お前が“今の身体で踏める場所”を信用するまでだ」
レンは少しだけ目を細めた。
「それ、前にも言いましたよね」
「大事だからな」
ガロは壁にもたれたまま続ける。
「お前、先を読もうとしすぎる時がある」
「悪いことですか」
「悪くねえ。だが、いまの足で届かねえ場所へ、頭だけ先に飛ぶ時がある」
レンは言葉を失った。
それは妙に図星だった。
ガロは黒仮面のことなど知らない。知らないまま、レンの動きの妙な癖だけを嗅ぎ取っている。
黒仮面を使っている時、レンの頭には情報が流れ込む。敵の軌道、弱点、次の動き、入るべき位置。
自分で考えるより先に、答えに近いものが与えられる感覚。あれを知ってしまったせいで、仮面のない時の自分が時々、やけに鈍く感じることがある。
そのズレが、一番危ない。
ガロはそこを別の言葉で言い当てているのだ。
「読めるつもりで身体が追いついてねえと、足場だけ先に裏切る」
「……」
「逆に言えば、身体で間に合う位置を覚えりゃ、読めなくても死なねえ」
レンは黙って、もう一度木人形を抱え直した。
「土台がねえ奴が、上だけ伸ばしても崩れるぞ」
ガロのその言い方は、何度聞いても腹が立つ。
でも腹が立つ分、頭にも残る。
「分かってます」
「なら走れ」
容赦がない。
午前の間、レンはひたすら崩れた水路を往復した。
一人なら飛び越えられる段差も、人を抱えていれば角度を変えないと無理だ。狭い場所は、自分の肩が通るだけでは足りない。
背中の荷物、腕の中の重さ、その全部を含めて抜けられるかを見なければならない。
何より腹立たしいのは、考えてから動くと遅れることだった。
足場は待ってくれない。石は落ちるし、泥は滑るし、崩れる壁はこっちの都合なんて見ない。
そこで必要なのは、頭で正解を探す速さじゃなく、身体が勝手に「そこじゃない」と知ることだった。
六回目、レンはようやく崩れた中央斜面を抜けた。
だが戻りで、荷袋の重さに引かれて身体が流れ、人形の脚を鉄骨にぶつけた。
「骨折」
「木ですけど」
「想像力が足りねえ」
七回目、八回目。
汗はとうに背中まで染み、腕は痺れ、脇腹はひどく痛い。
それでも、十回目を過ぎたあたりから、少しずつ“見え方”が変わり始めた。
いや、見え方というより、踏み出す足が変わった。
ここは滑る。
ここは通れる。
ここで一度捨てていい。
ここだけは絶対に落とせない。
言葉になる前に、身体が先にそう判断する瞬間が出てくる。
午前の最後、崩落音が真上で鳴った時、レンの足は考えるより先に半歩左へ逃げた。落ちてきた石塊が右肩のすぐ横を掠め、乾いた音を立てて砕ける。
「……お」
ガロが小さく漏らした。
レン自身、その一歩には驚いた。
黒仮面の時みたいに、答えが頭へ流れ込んだわけじゃない。
ただ、そこへ立てば死なないと、身体が先に知っていた。
木人形を下ろし、レンは大きく息を吐く。喉が焼けるみたいに熱い。
ガロが近づいてきた。
「今のは何だ」
「分かりません」
「嘘つけ」
「本当に分かりません。ただ……そこだと間に合う気がしただけです」
ガロはしばらくレンを見下ろし、それから鼻を鳴らした。
「やっと骨が見えた」
褒め言葉にしては最低だ。
だが、ガロがこういう時に適当を言わないことは、もう分かっている。
◇ ◇ ◇
昼の休憩は短かった。
貯水路の縁に腰を下ろし、水筒を受け取って飲む。ぬるい。ぬるいが、生き返る。
「……ほんと、容赦ないですね」
レンが言うと、ガロは空を見たまま鼻を鳴らした。
「今さら何言ってやがる」
「この一年で一番効いた気がします」
「その一年で死ななかったなら、文句言うな」
レンは水筒を膝の上で転がした。
一年前、地下で初めて会った頃のガロは、今みたいに人を鍛える側の顔をしていなかった。
酒と喧嘩で自分を潰しかけていた、腕の立つだけの荒れた兵士。
それが今では、こうしてレンの足場を叩き直している。
「……変わりましたよね、ガロ教導官」
ガロは少し黙ってから、面倒くさそうに言った。
「お前に言われたくはねえな」
「何でです」
「地下で死にかけてたDランクが、今じゃCの小隊長だろうが」
そう言われると、言い返しづらい。
「互いに、少しはましになったってだけだ」
レンは水筒を握ったまま黙った。
その言い方は、奇妙に胸へ残る。
たしかにそうだ。
レンはまだ全然足りない。BやAと並ぶには、実力が追いついていない。
それでも前へ出なければならない時がある。
その時に、以前より少しでも“ましな形”で立てるなら、それは前進なのかもしれない。
◇ ◇ ◇
午後は武器の訓練だった。
短剣。
槍。
斧。
どれも自分の本命ではない。
「何でも使え」
「俺の得物、まだ決まってないんですけど」
「だからだ」
ガロは即答した。
「戦場で一番いい武器が、いつも手元にあると思うな。落ちてるもんを使え。生き残れるもんを選べ」
最初は散々だった。
短剣では入りきれない。
槍では遠さを測り損ねる。
斧は重さに振られる。
そのたびにガロの木剣が飛んでくる。
「遅い!」
「いま拾う武器が違う!」
「見栄張るな、勝つ前に戻る形を作れ!」
腹が立つ。
だが、数を重ねるうちに、少しずつ分かってくるものがある。
武器は違っても、根っこは同じだ。
相手との間。
足の置き方。
崩したあとの逃がし方。
一撃で決めるより、次へ繋ぐ位置へ立つこと。
ガロが叩き込んでいるのは剣技ではなく、生き延びる設計図そのものだった。
日が傾き始めた頃、最後の模擬で、レンはようやく一つ掴んだ。
訓練標的が突進してくる。
槍では遅れる。
斧では重い。
その瞬間、レンはわざと槍を捨て、足元に落ちていた短剣を拾った。真正面から迎えず、一歩外へ流す。
標的の動線がずれた、その懐へ滑り込み、喉元へ短剣を突きつける。
止まる。
「……お」
ガロがまた小さく漏らした。
レンは肩で息をしながら短剣を下ろす。
「今のは」
「悪くない」
珍しく、はっきりした評価だった。
「一瞬だけでしたけど」
「一瞬でいい」
ガロは近づいてくる。
「生きるか死ぬかってのは、大抵、一拍で決まる。その一拍を拾えるかどうかだ」
レンはその言葉を胸の内で繰り返した。
生きるか死ぬかの一拍。
それなら、自分にもまだ掴める余地があるかもしれない。
訓練が終わり、兵舎へ戻る途中で、レンは中央広場の脇を通った。
夕方の市がまだ開いていて、露店の灯りが並んでいる。布飾り、香油、小物、軽装用の布地。
戦のあと物資が減ったとはいえ、王都の市場はまだ息をしていた。
その中に、見慣れた赤金の髪があった。
レオナだ。
以前のような鎧姿ではない。
今日も黒を基調にした軽装で、身体の線を硬く隠しきらない、柔らかな布をまとっている。
王都決戦の前なら、非戦闘時でもああいう格好はほとんどしなかったはずだ。
露骨に飾っているわけじゃない。
それでも近ごろのレオナは、妙に目を引く。
ふと、サナの顔が頭をよぎる。
あの女は、見せることを分かったうえで人を惑わせる。
王都決戦の時、自分があからさまに調子を崩しかけたのを、レオナもたしか横で見ていた。
まさか、と思う。
だが、無関係とも言い切れなかった。
サナみたいな露悪的な色気ではない。
けれど、近ごろのレオナには、以前にはなかった種類の艶がある。
意識しているのか、無自覚なのか、それはレンにも分からない。
ただ、目を逸らしにくいことだけは確かだった。
レンは足を止めそうになる。
その瞬間、頭の奥でごく短く黒仮面の声が鳴った。
『視線停滞を確認』
「黙ってろ」
心の中だけで返す。
『感情由来の硬直は隙になります』
「だから黙れ」
それきり声は消えた。
余計なお世話だ。
ちょうどその時、リアムとティナ、それからニアとグラムが追いついてきた。
「おい隊長」
リアムが言う。
「何だよ」
「見てるな」
「見てない」
「いや見てる」
ティナがすぐに乗る。
「でもちょっと分かります。最近のレオナ様、前より綺麗っていうか」
「おい」
「怖いのは怖いんですけどね」
ニアが小さく付け足した。
「……前より、近づきにくい感じは減った」
レンは思わず黙る。
その言い方は妙に正確だった。
前のレオナは、炎そのものだった。
近づけば焼かれそうな圧だけが先にあった。
今は違う。
強さはそのままなのに、その下に別の温度が混じり始めている。
それが余計に目を引く。
その時、レオナがこちらを向いた。
目が合う。
レオナは一瞬だけレンを見て、それから四人を含めた小隊全体を見た。
「……訓練帰りか」
「はい」
「まだ息が上がってるな」
「ガロ教導官に絞られました」
「そうか」
口元が、ごくわずかに動いた。
笑ったのか、呆れたのか、判別しづらい。だが以前より、表情の温度が少しだけ分かりやすい。
レオナはリアムの槍、グラムの盾、ティナの治療具、ニアの短剣を順に見て、最後にレンへ視線を戻した。
「その隊、まだ甘い」
「分かってます」
「でも、崩れてはいない」
そこまで言って、少しだけ顎を上げる。
「悪くない」
リアムが一瞬だけ目を見開く。
ティナは分かりやすく嬉しそうだ。
王都最強にそう言われれば、そりゃ効く。
レンも少しだけ息を止めた。
「……ありがとうございます」
「返事が固い」
「さすがに、それは……」
レンが言い淀むと、レオナは小さく鼻を鳴らした。
「まあいい」
別れ際、レオナは振り向かずに言った。
「……死ぬなよ、小隊長」
短い一言。
でも、レンの胸には思ったより深く残った。
兵舎へ戻る道すがら、ティナがさっそく言った。
「隊長、今のやばくなかったですか」
「何が」
「何が、じゃないですよ」
リアムも笑いを堪える顔になる。
「いや、まあ、分かるけどな」
「分かるって何がだよ」
「全部だよ」
グラムは黙って歩いている。
だが口元だけ、ほんの少し動いた気がした。
ニアが前を見たまま呟く。
「……分かりやすい」
「お前ら全員うるさい」
そう言い返しながらも、レンは自分の耳が少し熱いのを自覚していた。
厄介だと思う。
戦場よりこういう方が、むしろやりづらい。
それでも、胸の奥に残ったあの一言だけは、嫌ではなかった。
夜、兵舎の自室へ戻ったあと、レンは寝台へ腰を下ろした。
今日一日の疲れがどっと戻ってくる。肩も腕も脚も重い。
だが、不思議と気分は悪くない。
土台を作る訓練。
混成個体との小競り合い。
小隊の動き。
レオナの視線。
頭の中で今日の断片がゆっくり回る。
その時、黒仮面の声がまた短く鳴った。
『本日の総合行動、前日比で改善傾向』
「褒めてるのか」
『事実の報告です』
「そうかよ」
『ただし、感情起因による判断遅延が一件』
レンは眉をひそめた。
「広場のことか」
『はい』
「……やっぱり黙れ」
『了解』
それきり、本当に静かになる。
レンは寝台へ身体を倒した。
天井を見上げる。
王都決戦から、まもなく一年。
敵は止まっていない。こちらも立ち止まれない。
それでも今日は、一歩だけ前へ行けた気がする。
その一歩が、いつか誰かを守る足場になるなら悪くない。
目を閉じる直前、浮かんだのは剣でも敵でもなく、夕暮れの広場に立つ赤金の髪だった。
それを振り払う前に、意識がゆっくり沈んでいった。




