第二章 プロローグ 静かな一年、戦の前
あの王都決戦から、まもなく一年が過ぎようとしていた。
オーバーロード級が王都へ現れ、炎と雷と、名前のない黒い騎士がようやくその暴威を押し返した、あの夜から。
聖王国アルディアは、表向きには立ち直りつつあった。
砕けた外壁は大半が積み直され、焼け落ちた補給塔は仮設ながら実用へ戻り、南西区の瓦礫も一通りは片づいた。朝になれば市場は開き、商人の声が石畳へ流れ、夕方には職人区から槌の音が聞こえる。
夜になれば、戦のあとしばらく閉じていた酒場にも灯りが戻った。
人の暮らしは、思っていたよりしぶとい。
だが、誰も本気で「平和になった」とは言わない。
敵が来ていないのは、諦めたからではない。
来るために黙っているだけだと、皆が知っているからだ。
アストレウスを落とされたAI側が、そのまま引き下がるはずがない。
王都最強レオナ・ヴァレンハイトの炎。
霧島シオンの雷装。
十傑たちの連携。
そして何より、あの夜、戦場の理屈そのものを踏み越えて割り込んできた黒い騎士。
人類側が敵を測っていたように、敵もまた、あの王都決戦で人類側の“限界”を測ったはずだ。
ならば次は、前と同じ形では来ない。
その予感は王城の上層だけでなく、いまでは現場の兵士や補給係にすら共有されていた。
だから、この一年は休戦ではない。
静かに包囲されていた一年だ。
王都南区の訓練場に、朝から怒声が響く。
「違う! 足を置く場所を先に殺すな!」
乾いた土を蹴って、一人の若い兵士が転がる。
木槍が手を離れ、情けない音を立てた。
その前に立っているのは、無精髭と獣みたいな肩幅をした男だった。
ガロ・ベネット。
王都守備隊の実戦教導官。
今は若い兵士や昇格組の叩き直しを任されている。
前線あがりの武骨な男で、口も悪いし、教え方もだいたい乱暴だ。だが、死ぬ場所と、まだ死ななくていい場所の見分けだけは異様に正確だった。
「次」
ガロが顎をしゃくる。
転んだ兵士の横から、一人の青年が前へ出た。
レン・ノワール。
王都決戦の少し前まで、最底辺Fランクの回収係だった少年は、いまCランク小隊長になっている。
表では王都南区混成小隊を率いる現場指揮官。
裏では、いまだ正体を隠したままの黒い騎士。
階級だけ見れば、かなり上へ来た。
だがレン自身は、自分が強くなったと胸を張れるほど楽観的ではない。
黒仮面がない時の自分は、まだまだ足りない。
それを本人以上に理解しているのが、目の前のガロだった。
だからガロは、レンに一から叩き込んでいた。
地形の読み。
背中に人を抱えた時の逃げ方。
武器を捨てる判断。
隊が崩れた時、誰を先に拾うか。
力ではなく、土台。
一瞬の閃きや勢いに身体を任せるのではなく、いまの実力で生き残るための足場を作る訓練だ。
「来い」
ガロの声が短く落ちる。
レンは木剣を握り直し、呼吸を整えて踏み込んだ。
最初の一太刀は見切られる。
想定内だ。
返しの横薙ぎを半歩で外し、懐へ入る。ここで足払いが来ると読んでいた。
だから重心は前に残す。転ばない。
そのまま脇腹へ木剣を――と思った瞬間、喉元に別の木剣が止まった。
「浅い」
ガロが言う。
「今のは、一人で生き残ろうとする動きだ」
レンは木剣を下ろし、短く息を吐いた。
「……分かってます」
「分かってんなら次だ」
ガロはぶっきらぼうに言うが、レンの足運びが前より崩れていないことも、もう何度も見ている。
訓練場の端では、レン率いる小隊の四人が別メニューをこなしていた。
副長のリアム・ハースはDランク。
レンより年上で、槍と盾を扱う実務屋だ。階級はレンより下だが、兵士としての年季は上。
だから最初からレンに対して妙に距離が近く、フランクに接してくる。
索敵手ニア・セルはEランク。
レンより年下で口数は少ない。だが、音と気配に関しては異様に鋭い。
誰より先に危険へ気づき、誰より静かに動く。目立たないが、こういう人間がいない隊は長く保たない。
ティナ・ベルもEランク。
治療補助と後方支援が持ち場で、明るさと図太さを持っている。場の空気が沈みきる寸前で変な冗談を投げ込み、誰かの顔色が危ないと見ると、それとなく食べ物を押しつけてくる。
重い隊を少しだけ軽くする才能がある。
グラム・ロートはDランク。
レンより年上の重装兵で、ほとんど喋らない。だが大盾を持って前へ出た時の安心感だけは別格だった。
言葉より行動で示す男で、小隊の中で一番“兵士らしい兵士”かもしれない。
四人は、それぞれ異なる役割を持っている。
そして、もう“ただの部下”ではない。
レンはそれぞれの欠点と、守るべき順番を、かなり把握していた。
小隊長というのは、強い順に立つ役ではない。
崩れた時に、誰をどこへ残すかを決める役だ。
その重さを、レンは最近ようやく身体で理解し始めていた。
その時だった。
訓練場の入口から、早足で兵士が駆け込んでくる。
「教導官! ヘリオスから急報です!」
ガロが振り向く。
訓練場全体の空気が変わる。
伝令は息を切らしたまま叫んだ。
「王都決戦で破砕された《アストレウス》残骸の解析が進み、上位司令級の同系統反応が他にも確認されました! さらに後続回収した混成個体の中枢部から、人型司令級――ノクス級の識別コードも複数検出! 両系統を照合した結果、さらに上位の統括司令級存在が示唆されています!」
訓練場が静まり返る。
ノクス級。
あの王都決戦の終盤、黒い騎士だけを執拗に狙った人型AI。その呼称は今では、同系の人型司令級全体を指す言葉として定着していた。
それが複数。
さらに、アストレウス級や、それらを束ねる統括司令級。
誰かが小さく「冗談だろ」と漏らした。
ガロは一歩だけ前へ出る。
「確定か」
「まだ可能性が高い段階ですが、セツナ技官は、今のうちに各国で対策が必要だと」
「そりゃそうだ」
ガロの顔が険しくなる。
「アストレウス一体で終わりじゃねえってことだな」
伝令が頷く。
「はい。敵側は、王都決戦の戦闘ログを踏まえて、運用思想そのものを更新している可能性がある、と」
レンは無意識に拳を握っていた。
アストレウス。
レオナとシオンでも正面からは押し切れず、黒仮面を被った自分がようやく食らいつけた相手。
あれで終わりではない。
頭の奥で、ごく小さな電子音が鳴った。
『敵戦力更新を確認』
冷たい声。
『次の接触では、以前と同じ優位は期待しないでください』
レンは返事をしない。
最近、この声は前ほど頻繁には割り込んでこない。
消えたわけではない。
むしろ、レンの方が“無視する術”を少し覚えただけだ。
常に喋られると、自分の思考まで持っていかれそうになる。だから普段は意識的に距離を置く。だが、危機や戦闘の予兆にはこうして短く割り込んでくる。
王都の朝は晴れていた。
晴れすぎていて、かえって信用できなかった。
嵐の前の空ほど、きれいな色をしている。




