第21話 オーバーロード級の影
青い閃光が走った直後、王都の空気は一変した。
ざわめきではない。
もっと深いところから来る、理屈の追いつかない怖れだった。
人は、本当に危ないものを見た時、最初の一拍だけ静かになる。
広場にいた誰もが、まさにその一拍を飲み込んでいた。
次の瞬間、鐘が鳴った。
一回。
二回。
三回。
間を置かず、さらに続く。
警戒鐘ではない。
街全体へ「今から非常事態へ入る」と叩きつけるような、重い連打だった。
「全員、灯りから離れろ!」
「広場中央を空けろ!」
「子どもを中へ! 荷車を寄せろ!」
兵たちが怒鳴り、住民が動く。
だがその声の裏には、いつもよりはっきりした焦りがあった。
レンは広場の真ん中で立ち尽くしかけた足を、無理やり前へ出した。
『オーバーロード級反応の可能性 大』
『推奨行動 待機ではなく移動』
「分かってる」
ミナと母親を、まず天幕の奥へ押し込む。
周囲の子どもたちもまとめて動かす。
泣き始めた子の背を押し、転びそうな老人の腕を取る。
いつもと同じだ。
やることは変わらない。
変わらないはずなのに、胸の奥だけが妙に冷たかった。
青い閃光は、ただの遠雷ではない。
あれは明らかに意志を持った光だった。
「レン兄ちゃん……」
ミナが不安そうに見上げてくる。
レンは一瞬だけしゃがみ込み、その肩を軽く叩いた。
「大丈夫だ。今は中にいろ」
その言葉を、今の自分がどこまで信じているのかは分からない。
でも、言わなければならなかった。
◇ ◇ ◇
南門寄りの仮設司令所は、数分で人で埋まった。
軍務官。
伝令。
地図を持った兵。
外壁線から駆け戻った偵察班。
怒号。
報告。
足音。
その中心で、ヴァルクが低い声を飛ばしている。
「青光の発生地点は」
「南西外壁外、さらに上空です! 高度不明!」
「落着は」
「未確認! だが外壁外の監視塔二基から信号断!」
その横にはダリオ・グランツがいた。
大盾を床へ立て、重い鎧のまま腕を組んでいる。
相変わらず、近寄るだけで空気が硬くなる男だ。
最近あまり表へ出ていなかったが、それも当然だった。
この男はずっと門と避難導線、物資搬送路の防衛に張りついていたのだ。
誰も見ない場所で、誰かが崩れないように支えている。
そういう役に、一番似合う男だった。
ダリオが短く言う。
「外壁外へ斥候を出す」
「遅い」
レオナが入ってきた。
赤外套の裾に、まださっきの煤が残っている。
「もう向こうは見ている。今から出す斥候は測られるだけだ」
「だからといって待つのか」
「待たない」
レオナの声は鋭い。
「見に行くのは私だ」
軍務官がすぐに首を振る。
「だめです。四天王を単独で外へ出す段階では――」
「なら十傑を付けろ」
言ったのはヴァルクだった。
部屋の空気が一瞬止まる。
「俺とダリオが南西外壁線へ出る。レオナは中央から跳べ。
フィオナは王都内に残して負傷者と結界。
それで足りる」
ダリオが鼻を鳴らす。
「勝手に決めるな」
「嫌なら降りろ」
「降りるわけがない」
短いやり取りだった。
だが、それだけで決まった。
レンは壁際でそれを聞きながら、小さく息を呑む。
これまでの襲撃とは違う。
王都側も、明らかに“本番の前触れ”として動き始めている。
その時、後方の扉が開いた。
灰色の髪。
無表情気味の顔。
濡れた外套。
セツナだった。
「遅い」
レオナが言う。
「走ってきた」
短い返答。
だが、その顔はいつも以上に白い。
セツナは机へ手をつき、濡れた紙束を叩きつけるように置いた。
「南西上空の青光、砲撃じゃない」
ヴァルクが目を細める。
「何だ」
「降下標識」
部屋が静まる。
セツナは早口にならない。
いつも通り、淡々と、だからこそ怖い声で続ける。
「旧文明の高高度投下兵装に使われてた光学マーカーに近い。
ただし規模が大きすぎる。
兵装一つの目印じゃない。もっと大きいものを通すための……座標杭みたいなもの」
「通す?」
ダリオの声が低くなる。
セツナは頷く。
「上から来る。しかもたぶん、一つじゃない」
その言葉が落ちた瞬間、誰もすぐには喋れなかった。
上から。
数十年前、人類から空を奪ったAI群。
その記憶は、史書の中だけの話ではない。
古い人間にとっては実感として残っている。
若い者にとっても、“空の脅威”は禁句に近い恐怖だ。
ヴァルクが最初に口を開いた。
「降下予測地点は」
「まだ絞れてない。でも、南西上空に出た最初の杭は、王都を測ったと思っていい」
「測った?」
今度はレンの口から出た。
セツナの目が、壁際のレンへ向く。
「どこが弱いか。どこへ人が集まるか。
反応速度、兵の動き、四天王の出方、黒い騎士が出るかどうか。
たぶん全部」
部屋の空気が、さらに冷えた。
黒い騎士。
その名が、こういう場で自然に混ざるようになっている。
それ自体が、もう事態の異常さだった。
ダリオが重く言う。
「なら向こうも、あれを戦力として数えてるわけか」
「灰冠の夜に一度狙ってる」
ヴァルクが答える。
「今さら外す方が馬鹿だ」
レンの胸の奥で、嫌な冷たさがじわりと広がる。
敵も見ている。
王都も見ている。
住民も待っている。
黒い騎士という存在が、少しずつ個人の手を離れていく。
それが、どうしようもなく危うい。
◇ ◇ ◇
外へ出ると、王都はもう完全に夜の顔を変えていた。
門の検分は止まり、代わりに兵が走る。
街灯の一部が落とされ、通路ごとに誘導灯だけが残される。
上を見すぎて足を止める者を、兵が怒鳴って動かす。
完全封鎖ではない。
だが明らかに、平時ではない動きだ。
レンは中央住区から北区へ続く導線へ回された。
Dランクとしての正式配置だ。
前より一段だけ、立つ場所が前になった。
「おい、そこのD! そっちの柵、起こせ!」
「はい!」
怒鳴られて走る。
崩れかけた木柵を起こし、流れを整える。
通路へ荷車を寄せ、子どもの列と負傷者の列を分ける。
手は動く。
身体も動く。
だが意識の半分は、ずっと空の気配を探していた。
『高高度反応 継続』
『接近速度 緩やか』
「見えるか」
『まだ』
「使えないな」
『現時点では』
腹立たしい。
だが、その“現時点では”が逆に嫌な含みを持っていた。
そこへ、また人の声が混ざる。
「黒い騎士は?」
「来てくれるよな……」
「今日も、絶対……」
住民の声だった。
祈りみたいな声だ。
期待。
縋り。
信仰に近い熱。
レンは無意識に拳を握る。
やめろ、と思う。
そんなふうに待たないでくれ、と。
でも同時に、その声を裏切りたくないとも思ってしまう。
『人間の期待値が上昇しています』
「知ってる」
その時、南西側から大きな衝撃音が響いた。
一つ。
では終わらない。
二つ。
三つ。
空から何か巨大なものが降りた、そんな音だった。
次の瞬間、伝令が血相を変えて駆け込んでくる。
「南西外壁外! 監視塔跡地に未知の構造物出現!」
「形状は」
「……槍です!」
誰かが眉をひそめる。
「槍?」
「地面に突き刺さったまま発光中! 周囲にビースト群集結! さらに上空反応、増加!」
セツナの顔色が変わった。
「中継杭……!」
レオナが剣の柄に手をかける。
ヴァルクはもう動いていた。
「ダリオ、外壁線。レオナ、上を見ろ。
レンたちD以下は住民導線維持、勝手に外へ出るな!」
命令が飛ぶ。
レンは反射的に返事をしかけて、飲み込んだ。
勝手に出るな。
その意味は分かる。
でも、本当にそうして済むのか。
南西外壁外。
監視塔跡地。
槍状の発光構造物。
集まるビースト群。
それがただの目印で終わるはずがない。
◇ ◇ ◇
王都南西外壁線は、数分で地獄に変わった。
レンは本来、中央住区から離れてはいけなかった。
だが、負傷者搬送の増援として南寄りへ引っ張られ、そのまま前線の熱を間近で感じる位置まで来てしまっていた。
外壁の向こうに、それは見えた。
黒い、巨大な杭。
いや、槍だった。
旧文明の金属で出来たような、異様に滑らかな長槍が、斜めに大地へ突き刺さっている。
全長は監視塔一基分に近い。
その表面を青い発光線が走り、空へ向かって脈打っていた。
見た瞬間に分かる。
あれは兵器だ。
しかも“壊すだけ”のものじゃない。
何かを呼ぶためのものだ。
槍の周囲には、狼型、トカゲ型、虫型のビースト群が湧くように集まっていた。
さらに、その上空を細身の飛行個体が何体も旋回している。
「近づけるな!」
「槍の周囲へ寄るな! 迎撃される!」
「西側、持たない! 補強!」
ダリオが前にいた。
大盾を正面へ立て、槍雨のような光弾を真正面から受け止めている。
その背後でD、Cランク兵が避難導線を維持し、負傷者を引きずって下がっていく。
レンは思わず足を止めた。
ダリオは本当に、壁そのものみたいだった。
黒い騎士を敵視していた男。
得体の知れない力を信用しない男。
だが今は、そんな感情を一切見せず、ただ前で耐えている。
「南側! 押されるな!」
ダリオの怒声が響く。
その時、上空の飛行個体の一体が急降下した。
狙いはダリオの背後だ。
つまり、市民の退避列。
誰も間に合わない。
「まずい!」
レンの足が前へ出る。
だが同時に、壁の上から赤い炎が落ちた。
レオナだ。
《ブレイズクラウン》をまとった斬撃が、急降下個体を真横から叩き割る。
火花。
破片。
歓声。
だが、それで終わらない。
槍状構造物の先端が強く発光した。
セツナの悲鳴に近い声が飛ぶ。
「来る!」
次の瞬間、槍の周囲に円環状の光が三つ展開した。
空間そのものがねじれるみたいな、嫌な歪み。
『転送反応』
頭の奥の声が低く鳴る。
『司令補助個体 複数』
円環から、黒い影が降りてくる。
人型。
だがノクスとも違う。
もっと細い。
もっと整っている。
槍を模した長い腕部。
顔の代わりに、縦一文字の青い光。
あれは兵ではない。
使者だ。
そう思わせる、異様な静けさがあった。
住民の列が凍りつく。
「何だあれ……」
「人……?」
「違う……!」
レンの背中を、またあの声が貫く。
「黒い騎士を呼べ!」
「頼む……!」
「もう一度……!」
今度は兵の声まで混ざっていた。
『現在のあなたでは対処困難』
『再装着を推奨します』
レンは歯を食いしばる。
「……くそ」
ダリオが正面で耐えている。
レオナが上から押し返している。
ヴァルクが槍状構造物へ回ろうとしている。
でも、もう一押し足りない。
その“もう一押し”が、自分に向けられている。
嫌になるほど分かった。
レンは半歩だけ後ろへ下がった。
崩れた石壁の影。
血と煙。
視線が一瞬だけ切れる。
『再装着を開始します』
『戦闘補助 起動』
冷たい液体が頬を這い、世界が静かに切り替わる。
次の瞬間、黒い騎士が前へ出た。
ざわめきが一拍遅れて爆ぜる。
「黒い騎士だ!」
「来た……!」
「来てくれた!」
「本当に……!」
熱狂に近い声だった。
ダリオが一瞬だけこちらを見る。
その目には、警戒と、怒りと、それでも否定しきれない安堵が混ざっていた。
「……またお前か」
仮面越しの視界で、ダリオの盾の角度、敵の踏み込み、槍状構造物の発光周期が全部見える。
『正面人型個体 三』
『槍本体へ至る経路を開きます』
黒い騎士は地を蹴った。
一体目。
槍腕を紙一重でかわし、脇腹の発光線を断つ。
二体目。
背後へ回り、首の基部へ短剣を突き込む。
三体目。
最も遅い。
そう感じるほど、世界が静かだった。
『右』
『さらに前』
『そこです』
一閃。
三体目の光が消える。
ダリオの前が、一瞬だけ空いた。
「今だ!」
仮面越しの声が飛ぶ。
ダリオが迷わず前へ出る。
大盾で光弾を受け、槍を叩き込む。
その一撃が、杭状構造物の根元の装甲を抉った。
初めて、槍が鈍い悲鳴みたいな音を立てた。
その瞬間、南西外壁線全体がどよめく。
「効いたぞ!」
「通る!」
「押せ!」
熱がさらに増す。
レオナの炎が上から走る。
ヴァルクの黒剣が側面へ食い込む。
ダリオが正面で支える。
黒い騎士がその間を縫う。
四人の呼吸が、ほんの数秒だけ噛み合った。
王都の兵たちが、その光景に息を呑む。
そして、住民の列から歓声とも祈りともつかない声が上がる。
「すごい……」
「黒い騎士様……!」
「お願いだ、壊してくれ……!」
「王都を守ってくれ!」
信仰に近い。
もう、完全にそうだった。
◇ ◇ ◇
だが、槍は簡単には折れなかった。
根元を抉られても、なお空へ向かって脈打っている。
発光周期が乱れ、逆に何かを急かしているみたいだった。
セツナが壁上から叫ぶ。
「だめ! 完全破壊前に次が来る!」
その声と同時に、上空の青い雲みたいな歪みがさらに広がった。
一つではない。
二つ。
三つ。
王都上空の、離れた位置にも小さな青い杭光が生まれ始めている。
転送杭は一つでは終わらない。
それを理解した瞬間、レンの背中を冷たいものが走った。
『オーバーロード級AIは 単独で来ません』
「知ってる!」
『いいえ あなたはまだ知りません』
珍しく、声が少しだけ強かった。
『これは侵攻前段階です』
その一言が、頭の芯を直撃した。
前段階。
つまり、まだ始まっていない。
今見ているこの地獄すら、ただの入口だ。
槍状構造物がさらに強く発光する。
『危険』
『本体破砕を最優先』
レンは迷わず前へ出た。
ダリオが吠える。
「行くな! 巻き込まれる!」
だがもう遅い。
黒い騎士は槍の根元へ潜り込み、短剣を深く突き立てる。
熱い。
振動。
青い光が腕を焼く。
『押し込め』
「分かってる……!」
レオナの炎が横から流れ込み、ヴァルクの斬撃が装甲線を広げ、ダリオの槍が最後の支えを崩す。
杭が、初めて大きく軋んだ。
そして次の瞬間、内側から青い光が暴発した。
「下がれ!」
誰の声だったか分からない。
たぶん全員だ。
黒い騎士は爆ぜる寸前の杭を蹴って離脱する。
レオナが炎壁を作り、ダリオが大盾を起こし、ヴァルクが残った破片を斬り払う。
轟音。
青い光柱が夜空へ吹き上がり、それから途切れた。
杭が折れる。
地面に沈む。
上空の歪みも、完全ではないにせよ一度崩れた。
一拍、すべてが静まり返る。
誰もが息を止めていた。
それから、遅れて歓声が爆発する。
「やった……!」
「止めたぞ!」
「黒い騎士だ!」
「レオナ様も!」
「助かった……!」
「まだ、戦える……!」
その歓声の中で、ダリオだけはすぐに笑わなかった。
大盾を下ろし、黒い騎士を見る。
その目にあるのは、まだ完全な信頼ではない。
でも、以前のような剥き出しの敵意でもなかった。
ようやく、認めざるを得ないところまで来た。
そんな顔だった。
「……今回は助かった」
低い声。
黒い騎士はそれに答えない。
答えようがない。
だがその沈黙を、ダリオはそれ以上追わなかった。
それだけで十分、変化だった。
◇ ◇ ◇
戦いが終わっても、王都の空は静かなままでは戻らなかった。
折れた杭。
増えかけた青い歪み。
司令補助個体。
侵攻前段階。
それぞれが、はっきり言葉になって全員の中へ残っている。
中央住区へ戻る道すがら、人々の間ではまた黒い騎士の名が飛び交っていた。
ただ今度は、前より強い。
「黒い騎士様がいれば……」
「次も来てくれる」
「絶対に来る」
「王都を守るのは、あの人だ」
期待。
羨望。
心酔。
レンは影へ戻り、仮面を外しながら、その声を聞いていた。
胸の奥が重い。
救えた。
でも、そのたびに“黒い騎士”が一人歩きしていく。
自分の正体と、自分の生活と、自分の感情から、どんどん遠い場所へ。
『臨界域 36/100』
「またそれか」
『必要です』
「……そうだな」
珍しく、素直に認めた。
数字は嫌いだ。
でも、いま自分がどれだけ危うい場所にいるか、それを誤魔化すよりはいい。
遠くで、また鐘が鳴る。
今度は警戒ではなく、全持ち場維持の合図だ。
つまり、今日はもう終わらない。
王都は今夜、眠れない。
レンは静かに目を閉じ、それから開いた。
黒い騎士として呼ばれること。
レンとして生きること。
その両方が、もう簡単には分けられなくなり始めている。
それでも、歩くしかない。
南西の夜空には、まだ消え切らない青い残光が薄く漂っていた。
オーバーロード級の影は、確かにそこにある。
次はもっと大きい。
次はもっと深い。
そんな予感だけが、王都全体をじわじわと締めつけていた。
そしてその夜、白鷺宮の最上階でセツナは、新しく回収された杭の破片を前に小さく呟く。
「……名前がある」
誰もいない解析室で、その声だけが落ちる。
青い破片の内側。
旧文明コードの断片。
そこに刻まれていたのは、まだ途切れたままの司令識別名だった。
王都の戦いは、次で確実に段階を変える。
その予感だけを残して、夜はゆっくりと更けていった。




