第19話 王都警戒線
南区旧貯蔵路から戻った頃には、王都の空はもう赤く染まりきっていた。
夕焼けというには、少し色が濃すぎる。
石壁も、白い塔も、薄く血の色を帯びて見える。
レンは南兵舎裏の水場で、手についた煤と血を洗い流していた。
肩を掠めた砲撃の跡がまだ熱い。
地下の湿気と鉄の匂いが、肺の奥にまで残っている気がした。
『体温上昇 軽度』
『安静を推奨します』
「その前に報告だろ」
『効率は悪いです』
「知ってる」
水へ手を沈める。
冷たさが少しだけ気持ちいい。
地下での戦闘は、短かった。
だが中身は重い。
強化型ガーディアン複数。
旧文明配線が生きたままの深層区画。
ただの市民苦情から始まったはずの“面倒処理”の先で、結局また本物に行き当たった。
そして何より、ガロの顔がまだ頭に残っている。
「……お前みたいな若いの見てると、さすがに腐ったままじゃいられねえな」
地上へ戻る石段の途中、前を向いたままそう言った時の、あの少しだけ照れくさそうな横顔。
荒くて、酒臭くて、投げやりな男だと思っていた。
でも、その奥にはまだ火が残っていた。
「おい、レン」
振り向く。
ガロだった。
大鉈を肩に担いだまま、いつもの不機嫌そうな顔でこちらへ来る。
だが朝よりは、少しだけ目が澄んでいる。
「洗いもん終わったなら来い。報告だ」
「はい」
「あと、その肩」
ガロの視線が掠め傷へ落ちる。
「思ったより深いぞ。後でちゃんとフィオナに見せろ」
「隊長がそんなこと言うんですね」
「俺が言ってるんじゃねえ。死にかけの部下を上に返すと、あとが面倒なんだよ」
ぶっきらぼうだ。
でも、それがいまは少しだけ柔らかく聞こえる。
レンは立ち上がった。
「じゃあ、その台詞、隊長こそ守ってくださいよ」
ガロが鼻を鳴らす。
「生意気だな」
「似てきたのかもしれません」
「そりゃ困る」
また同じようなやり取りを繰り返しながら、二人は少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
報告室には、すでにヴァルクとフィオナがいた。
机の上には、地下で回収した装甲片、砕けたセンサー、古い配線片が並べられている。
セツナはいない。
白鷺宮側で、昨夜から回収された擬態繊維や転送痕を優先しているのだろう。
ガロは椅子へ座る前に言った。
「結論から言う。南区旧貯蔵路は当たりだ。
ただの不法侵入でも野良ビーストでもねえ。
強化型ガーディアンが複数、待ち伏せる形で配置されてた」
ヴァルクの眉がわずかに動く。
「数」
「大型一、中型三。全部潰した」
「損耗は」
「軽傷三。重傷なし」
そこでフィオナが顔を上げた。
「……重傷なし?」
明らかに疑っている声だった。
ガロは肩をすくめる。
「結果論だ。紙一重だったのは認める」
「認める、で済ませないで」
フィオナの声は静かだ。
だが、その静けさが逆に怖い。
「紙一重の現場を“重傷なしで帰した”なら、それは幸運じゃなくて、誰かが無茶したのよ」
その視線が自然とレンへ向く。
逃げ道がない。
ガロが先に言った。
「無茶はした。だが正解だった」
「隊長」
レンが止めるより早く、ガロは続けた。
「大型の砲口が後衛に向いた時、こいつが兵を突き飛ばして前へ入った。
膝を落としたあと、俺が上から割った。
どっちが欠けても死人が出てた」
ヴァルクがレンを見る。
短い沈黙。
「……そうか」
たったそれだけ。
だが、その一言に重みがあった。
フィオナはため息をついた。
「大きい怪我がないなら今はそれでいいわ。けど後で診るから」
「はい」
「返事が軽い」
「ちゃんと行きます」
「当然よ」
ぴしゃりと切られる。
ヴァルクが回収物へ目を落とした。
「配置が出来すぎてる。
地下に湧いたんじゃない。誰かが待ち伏せ前提で置いた形だ」
ガロも頷く。
「通路幅まで計算してた感じだ。
手前で視界を切って、奥で大型が仕留める。
獣じゃない。罠だ」
「旧文明経路の深部に、敵側の座標管理点がある可能性が高いわね」
フィオナが言う。
「白鷺宮の転送痕と繋がると思うか」
ヴァルクが問う。
「断定はできない。でも、別系統ではないと思う」
部屋の空気が重くなる。
南区地下。
白鷺宮。
擬態侵入。
強化型ガーディアン。
全部がどこかへ繋がっている。
「外へ漏らす話じゃねえな」
ガロが低く言う。
ヴァルクは頷いた。
「門と物資搬送路の警備を一段上げる。
完全封鎖じゃない。だが、出入りの確認は厳しくなるだろう」
レンは小さく息を呑んだ。
王都を閉じるのではない。
だが、王都の内側へ何かが入り込んでいる可能性を、上がもう軽くは見ていない。
その変化だけで十分に重い。
ふと、ダリオ・グランツのことが頭をよぎる。
アルディア十傑。
大盾と杭打ち槍の重装型。
黒い騎士を敵視していた男。
最近まったく顔を見ていない。
その気配を読んだみたいに、ヴァルクが言った。
「ダリオは外壁側だ。門と避難導線、あと物資搬送路の防衛に張りついてる」
レンが顔を上げる。
「ずっとですか」
「白鷺宮が荒れた分、あっちは人手が薄い。
あの硬い男は、ああいう地味で崩せない持ち場に置くのが一番効く」
なるほど、とレンは思う。
確かに、ダリオは会議室より門の前にいる方が似合う。
もし本格侵攻が来るなら、最初に市民を守る壁になるのも、たぶんあの男だ。
ヴァルクは続けた。
「白鷺宮へも上げる。この件は追加案件だ」
そこまで言って、視線がレンへ戻る。
「お前はしばらく南区の現場から外れるな」
「え」
ガロが先に眉を寄せた。
「何でだ」
「理由は二つだ」
ヴァルクの声は変わらない。
「一つ、地下深部に敵の罠があると分かった。
二つ、今、お前を雑に減らすのは惜しい」
レンはすぐには意味が飲み込めなかった。
自分が?
惜しい?
ガロが鼻を鳴らす。
「ずいぶん期待されてるじゃねぇか」
ヴァルクが低く言う。
「勘違いするな。期待してるんじゃない。使える駒を、安い罠で失いたくないだけだ」
「それ、だいたい同じことじゃないですか」
思わず口から出た。
フィオナが小さく笑いそうになり、ガロは露骨に吹き出し、ヴァルクはあからさまに顔をしかめた。
「生意気になったな」
「最近よく言われます」
「なら、言われるだけの理由があるんだろう」
その返しは、妙にヴァルクらしかった。
それで少しだけ、部屋の空気が緩む。
◇ ◇ ◇
報告が終わったあと、レンは約束通りフィオナの診療室へ連行された。
「座って」
「はい」
「服、少しずらして」
「その言い方だと誤解が」
「誤解する元気があるなら大丈夫そうね」
容赦がない。
肩の傷は浅い。
だが熱を持っている。
フィオナは傷口へ薬液を落としながら、ちらりとレンを見た。
「地下で無茶したでしょう」
「少しだけ」
「少しで済むなら、あの傷にはならない」
図星だった。
「……でも、あそこで止まったら後ろが危なかったんで」
フィオナの手が一瞬だけ止まる。
「そういう理屈で前へ出るの、やめなさいとは言わない」
「言わないんですね」
「言って止まるなら、とっくに言ってる」
その返答に、少しだけ笑いそうになる。
フィオナは包帯を巻き終え、今度は額へ手を当てた。
「熱はまだ少し高い。臨界域は?」
レンは一瞬だけ迷う。
だが今は、隠すより先に答える方が楽だった。
「……今は二十九です」
フィオナの目がわずかに細くなる。
「よろしい。七十を超えたら戻れる前提で考えるなって、言ったのは覚えてる?」
「覚えてます」
「ならいい」
そう言いながらも、手は止まらない。
脈。
瞳孔。
呼吸。
いつも通り、容赦なく診られる。
「小さい欠損を軽く見ないで」
静かな声だった。
「会話の途中。朝の景色。誰かの声色。
そういう“どうでもいいはずのもの”から落ちていく。
気づいた時には、かなり削れてる」
レンは目を伏せた。
そうだ。
いま失い始めているのは、そういうものだ。
「……気をつけます」
「気をつけるだけじゃ足りない」
「じゃあ、どうすれば」
「誰かに繋いでおくの」
「誰か?」
「あなたが削れた時、“変だ”って言える人」
その瞬間、頭に浮かんだのはユウだった。
もういない。
だから余計に胸が痛む。
次に浮かんだのは、レオナ。
フィオナ。
セツナ。
ガロ。
意外な顔まで混ざる。
「……増えてきたかもしれません」
思わずそう言うと、フィオナは少しだけ口元を緩めた。
「なら、まだ大丈夫」
その言葉に、少しだけ救われる。
◇ ◇ ◇
診療室を出ると、外廊下の窓際にレオナが立っていた。
今日もしっかり鎧をまとい、強くて、近寄りがたいほど整っている。
だが、レンが出てきたのを見ると、その目がほんの少しだけ揺れた。
「……終わったのか」
「はい」
「傷は」
「浅いです」
「本当か」
「フィオナさんがそう言うなら」
レオナは少しだけ黙る。
それから、視線を逸らしたまま言った。
「朝のことは忘れろ」
唐突だった。
「え」
「忘れろ」
「いや、でも」
「忘れろ」
三回目は、少しだけ赤かった。
レンは思わず吹き出しそうになるのを堪える。
「……努力します」
「努力じゃ足りない」
「じゃあ、どうしろって言うんですか」
「何も言うな」
完全に照れている。
そこまで分かりやすいのも珍しい。
少しだけ黙ってから、レンは小さく言った。
「……意外でした」
「何がだ」
「そういう顔、するんだなって」
レオナがぴたりと止まる。
「言うなと言っただろう」
「はい」
「分かってない顔だな」
「分かったら、たぶん今みたいに話せなくなります」
口にしてから、少しだけ失敗したと思った。
だがレオナは怒らなかった。
むしろ、一瞬だけ目を細めたあと、小さく鼻を鳴らす。
「……余計なことを言うな」
それが妙に可笑しくて、レンの肩から少しだけ力が抜けた。
しばらく並んで無言で立つ。
窓の外では、王都の門へ向かって兵の列が動いているのが見えた。
「始まりますね」
レンが言う。
レオナは短く頷いた。
「まだ何が、どこから、いつ来るかは分からない。
だが、平時のままではいられない」
その声は静かだった。
怒りでも焦りでもない。
覚悟に近い声だった。
レンは窓の外を見る。
門。
兵。
検分。
騎馬。
いつもの王都なのに、もう少しずつ違う。
そして、この違いはきっと、これからもっと濃くなる。
「……レオナさん」
「何だ」
「死ぬな、って言いましたよね」
「言った」
「じゃあ、そっちも守ってくださいよ」
レオナは一瞬だけ目を見開く。
それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「お前に言われる筋合いはない」
「ありますよ。困るんで」
「何がだ」
その問いに、レンは少しだけ言葉を止めた。
困る。
それは本当だ。
でも、どう困るのかを今ここで言葉にするのは、たぶん違う。
「……いろいろです」
曖昧な返しだった。
だがレオナは、それ以上追及しなかった。
ただ、ほんの少しだけ顔を背けて言う。
「お前もだ」
短い。
でも、それで十分だった。
◇ ◇ ◇
その夜、兵舎へ戻る前にレンは一度だけ空を見上げた。
王都の上空は静かだ。
風も弱い。
雲も薄い。
なのに、静かすぎる。
地下の敵。
白鷺宮の襲撃。
擬態。
転送。
警備強化。
全部が少しずつ噛み合って、王都を大きな戦場へ変えようとしている。
それでも今日一日は、少しだけ違った。
ガロと肩を並べて地下を抜けて。
フィオナに繋がれて。
レオナが赤くなって。
そういう、小さな熱があった。
その熱があるからこそ、これから来る冷たさの輪郭もよく見える。
レンは小さく息を吐く。
『本日の総合負荷は高めです』
「最後までうるさいな」
『事実です』
「知ってる」
『ですが 生存率は向上しています』
その言葉に、レンは少しだけ目を細めた。
「……そうならいいけどな」
王都の夜は静かだった。
けれどその静けさの下で、確実に何かが動いている。
その中心へ、自分ももう半歩以上踏み込んでいる。
なら、もう止まれない。
レンは兵舎へ向かって歩き出した。
次に来る死闘の前に、今日の熱だけを胸の奥へ残したまま。




