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俺だけ【リミットブレイク】―最底辺Fランクが黒仮面で無双するたび壊れていく―  作者: スドタケ


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第15話 壊れていく輪郭

白鷺宮に張りつめた空気は、その日を境に明らかに変わった。


目に見えない侵入者。

擬態の痕跡。

地下資料庫へ残された人影。

そして、各国会合の最中に起きた同時多発の不審行動。


敵はもう、壁の外だけにいるわけではない。


その認識が、ようやく全員の中で共通になったのだ。


宮殿内では、歩哨の数がさらに増えた。

通路ごとに検問。

使節随員の再確認。

荷物の封緘。

夜間巡回の強化。


緊張は高い。

だが、人はその高い緊張にも少しずつ慣れてしまう。


それが一番危ない、とレンは思った。


朝。

白鷺宮の裏手にある小訓練場。


レンは一人で木剣を振っていた。


以前より、ずっと体は動く。

Dランクに上がったのは伊達ではない。

足運び。

踏み込み。

体幹。

全部が少しずつ洗練されてきている。


『右肩が開いています』

『視線が先に流れています』

『修正』


頭の奥で声が鳴る。


うるさい。

でも正しい。


レンは木剣を一度下ろし、息を整える。


半年近く続いた鍛錬の中で、仮面AIの助言は確実に役立っていた。

仮面を出さずとも、体の使い方そのものが変わってきている。


それ自体は良い。

良いはずだ。


なのに最近、少しずつ嫌なことが増えていた。


昨日の昼。

運んだ荷箱の数を、思い出せなかった。


おとといの夜。

ミアと何を話したか、途中が抜けていた。


三日前。

レオナに呼び止められた瞬間、一瞬だけ彼女の名前が喉まで出てこなかった。


どうでもいい記憶。

細かな会話。

何でもない日常の断片。


そういうものが、少しずつ薄くなっている。


『記憶欠損は軽度です』


「その“軽度”が嫌なんだよ」


小さく呟く。


『重要な記憶は保持されています』


「何が重要かを決めるのはお前じゃない」


一拍。


『……記録しました』


ほんのわずかだが、間があった。

最近、このAIは時々そういう沈黙を作る。


前なら即答した。

今は、ほんの少しだけ考える時間がある。


それが学習なのか、別の何かなのか、レンにはまだ分からなかった。


その時、小訓練場の入口から声が飛んだ。


「朝から熱心ね」


フィオナだった。


白衣戦装。

短杖セレスハンド

今日も変わらず、整いすぎていて隙がない。


レンは木剣を肩へ担ぐ。


「やれる時にやっておかないと」


「倒れるまでやるのは違うわよ」


「最近みんなそれ言いますね」


「最近みんなが言うなら、あなたが悪いの」


返答が早い。


フィオナは訓練場へ入ってくると、レンの顔を見て少しだけ眉を寄せた。


「……寝不足?」


「少し」


「嘘ね。かなり」


言い返せない。


フィオナは距離を詰め、レンの顎に軽く指を添えた。

不意打ちだった。


「ちょ、何ですか」


「目を見るの」


近い。

近すぎる。


白い指先。

静かな香り。

濡れたような瞳。

レンは思わず息を止める。


フィオナは真面目な顔のまま続けた。


「瞳孔反応が少し鈍い。疲労だけじゃないわね」


「……分かるんですか」


「医療系十傑を舐めないで」


指が離れる。


たったそれだけなのに、妙に心臓がうるさい。


「今日、午後は私の診療所に来なさい」


「怪我してませんけど」


「怪我の話はしてない」


フィオナは少しだけ笑った。


「頭の方」


レンは言葉を失った。


見抜かれている。

全部じゃない。

でも確実に、隠しきれていない部分がある。


その時、小訓練場の外から苛立った声がした。


「朝から何をしている」


振り向く。


レオナだった。


赤外套。

軽装耐熱鎧。

紅蓮大剣アシュラ

相変わらず無駄なく格好いい。


そして、今の声は明らかに不機嫌だった。


フィオナが平然と返す。


「診察前よ」


「顔を近づける必要があるのか」


「ある場合もあるわ」


レオナの眉間のしわが深くなる。


レンは心の中で頭を抱えた。


始まった。

これはもう、始まっている空気だ。


フィオナはそれを面白がるでもなく、ただ淡々と言う。


「レオナ、あなたも少しは落ち着きなさい」


「落ち着いている」


「その顔で?」


レオナは答えない。

答えないが、視線だけはレンの方へ来ている。


その圧が、前より少しだけ近い。


以前なら黒い騎士に向けていた種類の熱が、少しずつレン個人にも向き始めている。

それがレンにも分かるから、余計に困る。


『情緒干渉の増大を確認』


「黙れ」


思わず漏れた。


レオナが目を細める。


「また独り言か」


「……違います」


「いや、違わないだろ」


そこへさらに別の声が割り込んだ。


「違わないと思いますけどね」


カイ・フェルナーだった。


軽装コート。

双剣リベル《オルト》。

明るい髪。

人を食ったような笑み。


ルクス側の、やたら目立つ同年代の双剣使い。

Aランク候補と呼ばれる実力者で、顔も良く、女と子どもに妙に人気がある。


「何でお前までいる」


レオナが嫌そうに言う。


カイは肩をすくめる。


「会合中の合同訓練に呼ばれただけですよ、レオナさん。俺に八つ当たりされても困ります」


軽い。

だが敬意はある。

ちょうどいい距離感だ。


そのままレンの方を見て、笑う。


「へえ。最近の王都じゃ、お前がちょっとした有名人なんだって?」


「悪い意味ならそうかも」


「いや、女と子どもに人気があるって話」


やめてほしい。

その話題は本当にやめてほしい。


フィオナは小さく笑い、レオナはあからさまに眉を寄せる。


「何だそれ」


「何だって、事実でしょう」


カイは楽しそうだ。


「北区の仮設住区じゃ“レン兄ちゃん”ですよ。けっこうモテるらしい」


「モテてない」


レンは即座に否定した。


だがその否定が、あまり意味を持たないことを自分でも分かっていた。


フィオナは涼しい顔のまま言う。


「優しいからでしょう」


レオナが腕を組む。

視線がさらに鋭くなる。


「……ふん」


何その反応。

と言いたいが、言ったらもっと面倒になる。


カイはそんな空気にまったく怯まず、レンの肩を軽く叩いた。


「今度、街を案内してくださいよ。人気者の歩き方ってやつを見てみたい」


「何で俺が」


「面白そうだから」


軽い。

本当に軽い。


だが、そういう軽さが人をいらつかせる。


案の定、レオナの機嫌はさらに悪くなった。


「勝手に絡むな」


「別にいいでしょう。減るもんじゃないし」


「減る」


「何がです?」


「……何でもない」


レオナ自身も、言ってから少しだけ止まった。

その顔を見て、カイが目を丸くする。


「へえ?」


この男、余計なところだけ勘がいい。


レンは本気で胃が痛くなってきた。


◇ ◇ ◇

午後。


白鷺宮西棟の診療室。


結局、レンはフィオナに捕まった。


簡易寝台へ座らされ、灯りを向けられる。

瞳孔反応。

指先の震え。

脈。

短期記憶の確認。


診療というより、尋問に近い。


「昨日の朝食は?」


「……パンと、スープ」


「中身は」


「……分かりません」


フィオナは記録板へ何かを書き込む。


「三日前の夕方、誰と話した?」


「ミアと……たぶん、ゴードン班長」


「何を話した?」


レンは詰まる。


覚えていない。

言葉の断片はある。

でも会話そのものが抜けている。


フィオナはそこでペンを置いた。


「レン」


「はい」


「あなた、記憶が抜けてる自覚はあるのね」


「……あります」


「いつから」


「少し前から」


「少し前じゃ分からない」


「じゃあ……黒い仮面を使ってから、少しずつ」


言ってから、レンの身体が固まった。


しまった。

口が滑った。


診療室の空気が静かに沈む。

フィオナはすぐに問い詰めなかった。

その代わり、記録板を閉じて、静かに椅子へ座り直した。


「今のは、無理に続きを言わなくていい」


優しい声だった。

だからこそ、余計に逃げられない。


レンは視線を落としたまま動かない。


フィオナは続ける。


「でも一つだけ覚えておいて。私は、患者を上へ売るために診ているわけじゃない」


レンの指先がわずかに強ばる。


フィオナの声は静かだった。


「昔、一人だけ救えなかった人がいるの」


そこで初めて、彼女の目にほんの少しだけ影が落ちた。


「危険な力を持っていた。上は“管理が必要だ”と言って連れて行った。私は止められなかった」


短い言葉。

でも、それだけで十分だった。


「その人は、患者じゃなくて兵器として扱われた」


レンはゆっくり顔を上げる。


フィオナの表情は変わらない。

それでも、この人が今の言葉を軽く言っていないことだけは分かった。


「だから今度は、黙って壊れる方を見逃さない」


沈黙。


レンはすぐには答えられなかった。


全部を話すのは無理だ。

でも、この人なら――そう思ってしまう理由が、今はあった。


「……全部は言えません」


「それでいいわ」


「でも、頭が抜ける感じは、あります」


フィオナが小さく頷く。


「体温が急に上がることは?」


「……あります」


「視界のノイズは」


「時々」


「分かった」


それだけで、レンの肩からほんの少しだけ力が抜けた。


全部は言っていない。

でも、誰にも言えなかったことを、少しだけ預けた。


直後だった。


診療室の扉が勢いよく開く。


「レン!」


レオナだった。


珍しく、呼吸が少し荒い。

本当に急いできたのだろう。


だが、入った瞬間に固まる。


寝台へ座るレン。

その膝元へやや屈み込むフィオナ。

距離が近い。


誤解を生むには十分な絵面だった。


「……何をしている」


レオナの声が低い。


フィオナが平然と振り向く。


「診察」


「それは見れば分かる」


「じゃあ聞かなくていいでしょう」


一歩も引かない。


レンは頭を抱えたくなった。


まただ。

また余計に空気が悪くなる流れだ。


レオナは一瞬だけ黙り、それからレンへ視線を戻す。


「会議室前で騒ぎだ。来い」


声が少しだけ硬い。


レンは寝台から立ち上がる。


「何があったんです」


「ルクス側の文官が一人、消えた」


またか。


宮殿の空気がさらに悪くなるのが、ここにいながら分かった。


◇ ◇ ◇

会議室前の回廊には、すでに人が集まっていた。


ヴァルク。

セツナ。

カイ。

ミレーヌ。

そして数名の十傑と護衛。


ミレーヌだけは、表情をほとんど変えていない。

だが、その目の奥だけは冷えていた。


「随員が消えた」


ヴァルクが短く言う。


「最後に確認されたのは西棟回廊。つい十分前だ」


セツナが続ける。


「足取りは途中で消えてる。壁内から抜けたとは考えにくい」


「つまり、また中にいるのか」


カイが眉を寄せる。


「そう考える方が自然」


重い沈黙。


ミレーヌがその中で、静かに笑った。


「ルクスの人間を狙うなんて、趣味が悪いわね」


「敵に趣味を求めるな」


レオナが返す。


その時、頭の奥で声が鳴った。


『警戒水準 上昇』


レンはわずかに息を止める。


『熱源反応 近い』


近い?


その一言に、全身が先に反応した。


「下がって!」


レンが叫ぶ。


直後、回廊天井の装飾板が内側から破れた。


黒い影が落ちる。


人型。

だが、人ではない。


顔のない仮面めいた頭部。

細い四肢。

刃のように尖った前腕。


「っ!」


全員が散る。


落下した影は床へ着地すると同時に、最も近くにいた文官へ腕を振った。


速い。


だが、レオナの方が先だった。


「《ブレイズクラウン》!」


炎が弾ける。


赤い剣が横から走り、刃腕を弾き上げる。

金属音。

火花。


人型が半歩下がる。


「《雷装》」


シオンの低い声が落ちた次の瞬間、白と紺の残像が反対側から走った。

いつの間にいたのか分からないほど速い。

雷装の踏み込みが、人型の脇腹を裂く。


だが浅い。


影は捻れるように飛び退く。

仮面のような顔が、ゆっくりとこちらを向いた。


空気が凍る。


『識別個体 ノクス』


頭の奥で、仮面AIが冷たく個体名を告げた。

一般にはまだ名前のない、人型の異形。

だがレンの中では、もうそれは“ノクス”だった。


ノクスは周囲の強者たちを見回し、最後にレンへ視線を止めた。


その一瞬だけで、血の気が引いた。


やはり見ている。

やはり知っている。


「レオナ!」


ヴァルクの怒声。


次の瞬間、ノクスの腕部が開いた。


黒い粒子が、花粉みたいに回廊へ広がる。


『認識攪乱を確認』


頭の奥で警告が走る。


直後、白鷺宮の水晶灯が一斉に弾けた。


視界が白く飛ぶ。

悲鳴。

足音。

炎。

雷。

誰かの怒声。


距離感が狂う。

輪郭が滲む。


ノクスは最初からこれを狙っていたのだ。

誰がどこにいるのか、一瞬だけ分からなくなる混乱を。


その一瞬で、レンは倒れた長机の影へ滑り込んだ。


フィオナだけが、それを見ていた。

見てしまった。


レンの手が影へ沈み、黒い液体が音もなく這い上がるところを。


だが彼女は何も言わない。

叫ばない。

視線さえ動かさない。


今、この場でその名を呼べば、終わる。

患者として守るべき相手を、自分の手で差し出すことになる。


だからフィオナは、ただ文官を庇うように一歩前へ出た。


黒い液体が頬を覆う。

瞳を包む。

冷たさが顔へ張りつく。


『再装着 開始』


世界が切り替わる。


遅い。


ノクスも。

レオナも。

シオンも。

全部が、少しずつ遅くなる。


『臨界域 31/100』


『継戦可能』


白く飛んだ視界を裂いて、黒い騎士が現れる。


周囲には、そうとしか見えなかった。


レオナの目が一瞬だけ揺れる。

シオンの視線が鋭く細まる。

ヴァルクは舌打ちする。


「《ミラーミミック》」


ミレーヌの甘い声と同時に、文官たちの前へ薄い膜のような幻惑が広がった。

認識をずらし、狙いを散らして守る防御寄りの異能だ。

その向こうで、ミレーヌは細い目のまま戦況を見ていた。


まるで、何かを楽しむみたいに。


だが今は、そんなことに構っている暇はない。


レン――黒い仮面は地を蹴った。


セツナへ伸びるノクスの腕を、横から斬り払う。

火花。

衝撃。

浅い。

だが軌道はずれる。


セツナが転がって距離を取る。


「黒い騎士……!」


誰かが叫ぶ。


その声が、もう遠い。


『前』

『さらに低く』

『ノクスの左膝 損傷あり』


黒い仮面は従う。


踏み込む。

回る。

膝を狙う。


ノクスが半身で避ける。

そこへレオナの炎が被さる。

さらにシオンの刀が最短で急所を断ちに来る。


三方向。


普通の敵なら終わっている。


だがノクスは違う。

紙一重で逃れ、壁を蹴り、天井まで使って逃げる。


「……面倒だな」


シオンが初めて低く呟いた。


その横顔に、戦場でしか見せない冷たい熱があった。


黒い仮面は何も言わない。

ただ、ノクスだけを見る。


『臨界域 39/100』


『追いつけます』


追いつける。

だが、少しずつ熱が上がる。


脳の奥がじりじりする。


ミレーヌは回廊の外縁で、わざと一歩引いたまま戦況を見ていた。

文官を守るための幻惑膜は維持している。

加勢していないわけではない。

だが本気で前へ出てもいない。


その口元に、ほんのわずかな笑みが浮かぶ。


見たのか。

気づいたのか。

それとも、ただ面白がっているだけなのか。


レンには分からない。

それがこの女の一番嫌なところだった。


ノクスが後ろへ跳ぶ。

回廊の窓を蹴って庭園側へ飛び出した。


「追うぞ!」


ヴァルクが怒鳴る。


レオナが先頭で走り、シオンがその横へ並ぶ。

黒い仮面はそのさらに前へ出た。


視界の端で、全員が遅い。


庭園へ出る。


白砂。

低木。

石畳。

夜へ移り変わる薄明かり。


ノクスが振り返る。


その顔のない仮面が、ほんの少しだけ笑ったように見えた。


『警告』


頭の奥の声が鋭く鳴る。


『熱暴走 脳内温度上昇中』


『臨界域 47/100』


数字が浮かぶ。


高い。

まだ限界ではない。

だが、前より確実に深い。


黒い仮面は走る。


レオナの炎が庭園を赤く染める。

シオンの雷装が白い残光を引く。

二人とも強い。

圧倒的だ。


それでもノクスは落ちない。


レンの胸に、嫌な確信が宿る。


このままでは、また逃げられる。


また終われない。

またユウのところへ帰れない。


『臨界域 上昇』


『51/100』


熱い。


脳が焼けるように熱い。

でも同時に、世界はさらに澄んでいく。


レオナが叫ぶ。


「黒い騎士!」


その声に、一瞬だけ意識が揺れる。


炎の女。

強くて、眩しくて、ずっと遠かった背中。

ずっと追いかけてきたその背中。


全部が一瞬で脳裏をかすめる。


次の瞬間、ノクスが木々の陰へ消えた。


追う。

止まれない。

止まる理由がもうない。


黒い仮面は、さらに深い場所へ踏み込んでいった。

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