第13話 同盟と疑心
秋の気配が、ようやく王都に降りてきていた。
灰冠迷宮の戦いから、半年近くが過ぎていた。
あれほど耳に刺さった槌音と悲鳴は、今では少しずつ日常のざわめきに紛れ始めている。
崩れた壁は半分以上が積み直され、仮設住区には木柵と簡易屋根が増え、市場にはまた小さな笑い声が戻っていた。
もちろん、全部が元通りになったわけではない。
傷は残っている。
墓標も増えたままだ。
人型AIの噂も、黒い騎士の噂も、消えたどころか王都の裏側に深く染みついている。
それでも、人は暮らし続ける。
レンもまた、その中にいた。
「次!」
訓練場に、乾いた声が響く。
王都南訓練場。
秋晴れの空の下、砂混じりの石地で、レンは木剣を構えていた。
対面には、Dランク兵の中堅。
背は高いが動きに無駄がある。
数か月前なら、相手にもならなかっただろう。
「来い」
言われる前に、レンは踏み込んでいた。
速い。
いや、まだ十分ではない。
だが前とは違う。
一歩目の位置。
重心の落とし方。
相手の肩と腰の微細なずれ。
そういうものが、以前よりずっと見える。
『左足が重い』
『踏み込みを半歩浅く』
『次は下から』
頭の奥で声が鳴る。
今ではもう、驚きもしない。
黒い仮面を出していない時でも、AIは時々こうして助言を送ってくる。
戦闘中だけではない。
朝の走り込み。
壁登り。
素振り。
体重移動。
呼吸の整え方。
まるで、無機質で嫌味な師匠が、脳の中に住みついたみたいだった。
レンは助言通り、踏み込みを半歩だけ浅くする。
相手の木剣が頭上を掠める。
そのまま懐へ入り、下から柄を弾き上げる。
「っ!」
相手の剣が浮く。
その一瞬で、喉元へ木剣の切っ先を突きつけた。
その場に沈黙が落ちた。
訓練場の端で見ていた兵たちが、少し遅れてざわめく。
「おい……今の」
「レンか?」
「また勝ったぞ」
「D相手にやるな……」
レンは木剣を下ろした。
肩で息をする。
だが以前ほど荒れていない。
体が、ようやく少しずつ追いついてきた。
対戦相手の兵が、悔しそうに眉を寄せながらも、苦笑した。
「前より嫌な動きするようになったな」
「褒めてます?」
「半分だけだ」
最近、その言い方をよく聞く。
訓練場の端では、ヴァルクが腕を組んで見ていた。
「そこまで」
低い声。
レンが一礼して下がると、ヴァルクが記録板を受け取って目を通した。
「レン・ノワール」
「はい」
「再測定の結果、Dランクに繰り上げる」
訓練場が少しどよめいた。
Dランク。
一般兵。
王都の中では、まだ決して上位ではない。
だがFランク回収係から考えれば、大きすぎる変化だ。
レン自身、すぐには実感が湧かなかった。
「……マジか」
横でミアが目を丸くする。
「おめでとうって言うべきなんだろうけど、ちょっとムカつく」
「どっちだよ」
「両方」
相変わらずだ。
ヴァルクは淡々と続ける。
「勘違いするな。Dは入口だ。一般兵扱いになっただけで、強者ではない」
「分かってます」
「本当に分かってる顔になったな」
それだけ言って、ヴァルクは視線を外した。
昔なら、そこに少しでも認める色が混ざるとは思えなかった。
だが今は分かる。
あの男なりに、ちゃんと見ている。
『通常戦闘能力の向上を確認』
『測定結果 Dランク相当 妥当です』
「お前に言われるとちょっと腹立つな」
小さく呟く。
『祝福の文化は理解していません』
「そこは無理して覚えなくていい」
レンは息を吐いた。
Dランク。
一般兵。
まだ雑魚寄りだ。
四天王や十傑から見れば、話にもならない。
でも、もう“戦場の外の人間”ではない。
ユウなら見ていてくれたはずの景色に、ほんの少しだけ近づいた気がした。
その事実だけで、胸の奥が静かに熱くなった。
◇ ◇ ◇
Dランク昇格から三日後。
王都では、各国会合の準備が本格化していた。
灰冠迷宮事件と人型AIの出現を受け、聖王国アルディアが主導して各国の使節団を集めることになったのだ。
議題はもちろん、対AI共同戦線と、再生派の浸透疑惑について。
会合の場は王都中枢の白鷺宮。
普段は貴族院と軍議が使う重厚な石造宮殿だ。
警備は厳重だった。
当然、会合全体の護衛と周辺警戒が必要になる。
だが、まさかそこへ自分が混ざるとは、レンは思っていなかった。
「何で俺なんですか」
南兵舎前。
支給された新しいDランク制式装備を手に、レンは目の前のレオナを見た。
軽装の赤外套。
炎紋の長剣。
太腿の補助ナイフ。
黒の短マント。
今日も無駄なく格好いい。
そのレオナが、いかにも当然という顔で答える。
「付き人が必要だからだ」
「付き人?」
「表向きはな」
「表向き……?」
レオナは少しだけ視線を逸らした。
実際には、彼女が半ば強引に人選へ口を出した結果だった。
元々、会合警備のDランク配置は、文官や解析班、使節随員の周辺警護へ振り分けられる予定だった。
四天王ほどの強者に本来、専属の護衛など要らない。
だがレオナが半ば強引に口を出し、レンを自分付きの雑務兼近接補助として引っ張ったのだ。
しかも理由は曖昧だった。
「雑務も補給も遅れず回せて、余計なところで足を止めないのがこいつだったからだ」
意味が分からない。
護衛補助に求められるのはそこだけじゃない。
ヴァルクには露骨に怪しまれ、フィオナにはにこにこしながら何も言わず見送られ、ミアには「出世したねえ」と半笑いで肩を叩かれた。
そして今、レンは本当にレオナの付き人として立っている。
「断るなよ」
レオナが言う。
「断れませんよ、もうここまで来たら」
「ならいい」
短い返事。
だが、その耳がほんの少しだけ赤いことに、レンは気づかないふりをした。
気づいたらまずい気がしたからだ。
「あと」
レオナが一歩近づく。
「会合中、余計な動きをするな」
「善処します」
「善処じゃない。するな」
「分かりました」
頷きながらも、内心では少しだけ苦笑していた。
自分をこの場へ連れてきたのは誰だ。
そう言いたくなったが、飲み込む。
言ったら機嫌が悪くなる。
最近それも、少し分かるようになってきた。
◇ ◇ ◇
白鷺宮は、王都の中でも特別な場所だった。
白い石で作られた巨大な宮殿。
高い天井。
長い回廊。
磨き上げられた床。
柱には各国との古い同盟紋章が刻まれている。
そこへ今日、各国の使節団が続々と入っていた。
聖王国アルディア。
主人公たちの母国であり、防衛と名誉を重んじる騎士国家。
日輪皇国カグラ。
東方の軍事国家で、刀剣術と速度特化の少数精鋭で知られる。
北冥連邦ノルディア。
寒冷地の軍政国家。重装兵と要塞戦に強く、守りの戦で真価を発揮する。
西海自由同盟ルクス。
海商国家群の連合。交易、諜報、傭兵運用に長け、味方にも敵にもなりうる。
中立都市ヘリオス。
旧文明技術者と解体師が集まる半中立都市。AI残骸研究の中心地だ。
国ごとに装束が違う。
武器が違う。
立ち方が違う。
一つの宮殿の中に、世界そのものが縮んでいるみたいだった。
『観測価値が高い状況です』
冷たい声が脳裏を打つ。
「お前はそういうの好きそうだな」
『事実の集積です』
「感動とかないのか」
『理解不能です』
そうだろうな、とレンは少しだけ思う。
正面の大階段から、ノルディア使節団が入る。
重装の兵。
毛皮外套。
戦槌。
長斧。
その中心にいる大男が、笑いながら声を張った。
「アルディアは相変わらず白い石が好きだな! まぶしくてかなわん!」
イヴァン・ドラグノフ。
北冥連邦ノルディア所属の四天王の一角。
異能を操り、一定範囲の重力・圧力・拘束を支配する、防衛戦最強の男だ。
豪放で、声が大きい。
だが、その図体に似合わず戦場全体を見る目を持っている。
噂通りの男だった。
その後ろには、ノルディア十傑らしき面々もいる。
重い空気の中で、彼らだけが少しだけ“戦場の匂い”をそのまま持ち込んでいる感じがした。
続いて、ルクスの使節が入る。
華やかだ。
無駄に綺麗だ。
でも、空気は冷たい。
細剣。
軽装礼装。
香水。
笑顔。
その中心にいる女が、こちらへ視線を流した。
ミレーヌ・オルフェ。
西海自由同盟ルクス所属の四天王の一人。
異能により、幻惑、分身、認識誘導、擬態を操る。
優雅で掴みどころがなく、味方か敵か最後まで読みづらい危険人物だ。
彼女はレオナを見るなり、口元を緩めた。
「相変わらず、燃えてる顔ね」
「お前は相変わらず、信用ならん顔だ」
「ひどい」
まるで傷ついていない声。
そして、その視線がすっとレオナの後ろへ移る。
レンだ。
「へえ。あなたが今の付き人?」
「……Dランク護衛補助です」
レンは礼をする。
ミレーヌは少しだけ目を細めた。
「面白い配置ね」
その一言だけで、背筋に嫌なものが走る。
この女は、言葉の端に必ず何かを混ぜる。
冗談とも本気ともつかないものを。
レオナが一歩前へ出た。
「用があるなら私に言え」
「ふふ。そんなに怖い顔をしなくても、取ったりしないわ」
「誰をだ」
「さあ?」
本当に面倒な女だ。
そのやり取りを、少し離れた位置からセツナが無表情で見ていた。
彼女は今回は解析補助としてヘリオス側の随伴扱いらしい。
中立都市ヘリオスは、技術提供と情報解析の名目で会合へ参加している。
セツナはレンと目が合うと、ほんの少しだけ顎を引いた。
挨拶代わりなのか、それとも警告なのか分からない。
◇ ◇ ◇
会合が始まると、レンは外側の回廊警備へ回された。
宮殿内は広い。
警備経路も複雑だ。
そのため、Dランクの護衛補助たちは一定間隔で配置されている。
レオナから離れるのは少しだけ不安だったが、これは仕事だ。
逆に、付き人としてずっと後ろに立っている方がやりづらい。
回廊には、大きな窓が並んでいる。
そこから庭園が見える。
風が抜け、静かだ。
だが静かすぎる気もした。
『警戒』
脳裏で、あの無機質な声が鳴る。
レンはわずかに眉を寄せる。
「何だ」
『人の流れが不自然です』
確かに、少しおかしい。
回廊の端。
本来なら侍従か兵が通る時間帯のはずなのに、今だけぽっかりと人の気配が薄い。
『右前方 扉の影』
レンは視線を滑らせる。
半開きの補助扉。
そこに、黒い裾が一瞬だけ見えた。
すぐ消える。
敵か。
使節か。
それともただの使用人か。
判断がつかない。
だが、嫌な予感だけは確かだった。
レンは近くの警備兵へ小声で告げる。
「少し見てきます」
「おい、一人で――」
最後まで聞かず、扉の方へ歩く。
走らない。
目立たない速度で。
だが足は自然と最短の位置を選んでいた。
『左へ半歩』
従う。
直後、足元の床石がわずかに沈んだ。
罠だ。
何もなかったように通り過ぎる。
扉を押し開く。
中は狭い補給通路だった。
暗い。
埃っぽい。
そして、奥に人影がある。
黒い外套。
細い体つき。
レンの喉が鳴る。
人型AI――とまではいかない。
だが、普通の使用人にしては立ち方が不自然すぎる。
「止まれ」
声をかける。
影が振り向く。
顔は、普通の若い男だ。
だが目が、妙に静かすぎる。
「何だ」
「そこ、立ち入り禁止だ」
「道に迷っただけだ」
平坦な声。
人間らしさが薄い。
『ミミックの可能性 17%』
ミミック――人間に擬態して内部へ潜り込む最新型AI。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、レンの背中に冷たい汗が流れた。
まだ低い。
だが、ゼロではない。
相手は一歩、こちらへ近づく。
レンは半歩だけ重心を落とした。
もし来るなら、ここだ。
だが、その前に後ろから声がした。
「何してるの」
セツナだった。
灰色の髪。
短銃と分解ナイフを腰に下げたまま、補給通路へ入ってくる。
その瞬間、男の視線が一度だけ揺れた。
ほんのわずか。
だがレンは見逃さなかった。
『反応異常』
次の瞬間、男は壁の非常窓を蹴破って外へ飛んだ。
「っ!」
レンが追おうとする。
だがセツナが腕を掴んだ。
「待って」
「逃げた!」
「罠の可能性が高い」
冷静な声。
レンは奥歯を噛んだ。
確かにそうだ。
今ここで飛び出すのは危険すぎる。
外ではすぐに警報が上がった。
兵たちの怒声。
足音。
だが結局、その男は見つからなかった。
ただ一つ残ったのは、割れた窓枠に引っかかった、黒い繊維だけだった。
セツナがそれを摘み上げ、目を細める。
「普通の布じゃない」
「何なんだ」
「人工繊維。しかも、旧文明系に近い」
レンの背中に冷たい汗が流れる。
人型AI。
ミミック。
再生派――AIと人の融合を進化と信じ、内通や人体実験すら辞さない危険集団。
どれでも嫌だ。
全部でも最悪だ。
セツナは布片を封筒へ入れながら言った。
「……会合の場に、何かが潜り込んでる」
『妥当な判断です』
声が言う。
レンは小さく息を吐いた。
「最近、お前とセツナの意見が合いすぎて怖い」
「何か言った?」
「……いや」
セツナがちらりと見る。
怪しんではいる。
でも今は追及しない。
仕事優先だ。
そこは助かった。
◇ ◇ ◇
夕方、会合は一時中断となった。
表向きの理由は“警備再確認”。
だが実際には、さっきの侵入者騒ぎが原因だ。
王都中枢に潜り込む何者か。
しかも足取りを完全には掴めない。
緊張が一段上がる。
レオナは回廊の窓際で、レンとセツナから報告を受けていた。
「……追わなかったのは正解だ」
短く言う。
レンは少しだけ意外に思った。
もっと怒鳴られるかと思っていたからだ。
「だが、面倒な流れだな」
レオナの眉間にしわが寄る。
セツナが布片を差し出す。
「解析はこれから。ただ、かなり嫌な感じ」
「再生派か、ミミックか」
「両方の可能性もある」
重い沈黙。
その時、少し離れた場所でミレーヌがこちらを見ていた。
扇子も何も持っていないのに、いるだけで場をかき回す雰囲気がある。
その隣ではシオンが静かに目を閉じている。
だが、意識は完全に周囲へ向いているのが分かった。
強者が揃っている。
それでも、見えない敵の方が不気味だ。
「レン」
レオナが低く呼ぶ。
「はい」
「今日は私の傍を離れるな」
一瞬だけ、空気が止まる。
セツナが無表情のままこちらを見る。
少し離れた位置のミレーヌは、分かりやすく楽しそうな顔をした。
レンは返事に困った。
「……護衛補助ですから」
「そういう意味じゃない」
レオナ自身、言ってから少しだけ固まる。
まずい、という顔だ。
でももう遅い。
ミレーヌがくすりと笑った。
「ふうん?」
レオナが睨む。
「笑うな」
「笑ってないわ」
嘘だ。
完全に笑っている。
レンは視線の置き場に困る。
セツナはそんな空気の中でも平然としていたが、目だけは妙に冷えていた。
そして、ほんの一瞬だけレオナへ向ける視線が鋭くなる。
無自覚な牽制。
たぶん本人にも自覚はない。
『情緒干渉の増加を確認』
頭の奥で声が鳴る。
レンは心の中で舌打ちした。
「今それ言うか?」
『重要です』
「重要じゃない」
『重要です』
腹立たしいぐらい即答だった。
◇ ◇ ◇
その夜、白鷺宮の一室で、レンは護衛補助用の簡易寝台へ腰を下ろしていた。
会合は明日も続く。
各国の思惑。
見えない侵入者。
再生派の影。
ミミックの可能性。
気が抜けない。
そして、それ以上に。
今日一日で、妙に人の感情が濃かった。
レオナの不意打ちみたいな言葉。
ミレーヌの探るような笑み。
セツナの静かな視線。
シオンの値踏みする目。
強者と策士と、放っておけない連中が増えると、こんなにも疲れるのか。
レンは寝台へ倒れ込み、天井を見る。
『睡眠を推奨します』
「……お前さ」
『はい』
「最近、ちょっとだけ人間っぽい返しするよな」
『学習の結果です』
「最悪だな」
『否定はしません』
レンは小さく笑った。
その笑いもすぐに消える。
会合は明日も続く。
そしてたぶん、今日の侵入者は終わりじゃない。
何かが、確実にこの場を覗いている。
王都の外だけじゃない。
壁の中にまで。
レンは目を閉じた。
黒い仮面はまだ出ない。
だが、その声だけは確かにここにある。
次に必要になった時。
その時はきっと、また今までより深い場所まで潜ることになる。
それでも――。
もう、止まる選択肢はなかった。




