第10話 黒い騎士の噂
黒い騎士の噂は、もう王都の一部になっていた。
最初は南西区だけだった。
灰冠迷宮の夜に、王都を救った正体不明の剣士がいた。
黒い仮面をつけ、レオナと並んで戦った。
そんな話だった。
だが今は違う。
北区で子どもを助けた。
南第三補給路で混成個体を斬った。
炊き出し場で行方不明の家族を探す手伝いをした。
夜更けに崩れた通路で老人を抱えて走った。
噂は勝手に肉付けされ、勝手に広がっていく。
「聞いたか? 黒い騎士、また出たらしいぞ」
「今度は北門だってよ」
「いや、昨夜は東の市場でも見たって話だ」
「本当に一人なのか?」
「二人いるんじゃないか?」
「いや、神様の使いとかだろ」
朝の市場。
昼の炊き出し。
夕方の酒場。
どこへ行ってもその話が聞こえる。
レンは、荷車の横で木箱を積み上げながら、その声を聞いていた。
顔には出さない。
手も止めない。
だが、耳だけはどうしても拾ってしまう。
黒い騎士。
もう、王都の誰もがその名を知っていた。
『対象呼称の定着を確認』
頭の奥の声が言う。
レンは木箱を荷台へ押し込みながら、小さく息を吐いた。
「誇らしそうに言うな」
『現象の報告です』
「誰もお前を褒めてない」
『あなたも褒められていません』
「……そういうとこだぞ」
無機質な返し。
最近は、こうしてくだらない言い合いをしている自分にも少し慣れてきたのが嫌だった。
黒い仮面は使っていない。
だから今のレンは、ただのEランク後方支援兵だ。
強くはない。
戦えばまだ雑魚。
十傑の壁は高く、レオナは遠い。
それでも、少しだけ立ち位置は変わった。
Fランクだった頃より、名前で呼ばれることが増えた。
市民に顔を覚えられるようになった。
仕事を頼まれる時の声も、前よりは柔らかい。
それが嬉しいかと聞かれれば、単純には答えられない。
嬉しい。
でも痛い。
その評価を、本来一番見てほしかった相手は、もういないからだ。
◇ ◇ ◇
その日、レンは北区の仮設住区へ薬品箱を運んでいた。
灰冠迷宮の戦いで家を失った住民たちが、簡易天幕で暮らしている区域だ。
木柵で区切られ、炊き出し場と簡易診療所が並んでいる。
「レン兄ちゃん!」
呼ばれて振り向くと、ミナが両手を振っていた。
灰冠の夜に助けた女の子だ。
最近はすっかり顔見知りになっている。
「また来たの?」
「仕事だよ」
「じゃあ終わったらこっち来て」
「何で」
「秘密」
秘密と言われても困る。
だが、ミナの母親も少し申し訳なさそうに笑っているのを見ると、無視もしづらかった。
薬品箱を診療所へ運ぶ。
中ではフィオナが負傷者を見ていた。
白い外套。
整った横顔。
静かな声。
「ありがとう、レン」
「いえ」
「今日は顔色が少しだけいいわね」
「……そうですか?」
「ええ。昨日よりずっといい」
フィオナは包帯を結びながら、さらりと言った。
この人は人の顔色を見るのが上手すぎる。
レンは曖昧に頷いて、箱を下ろした。
「無理はしないで。最近、北区の子たちがみんなあなたを頼りにしているから」
「頼られても、俺はそんな――」
「そういうことを言っている時点で、向いているのよ」
フィオナは微笑む。
穏やかなのに逃げ場がない。
レンはそれ以上言い返さず、診療所を出た。
外ではミナと、その周りの子どもたちが待っていた。
「こっち!」
半ば引っ張られるように、仮設住区の奥へ連れていかれる。
そこには、小さな布の天幕がいくつか並んでいた。
その一つの前に、ぎこちない木札が立てられている。
れんにいちゃん ありがとうのかい
レンは思わず足を止めた。
「……何これ」
「みんなで作ったの!」
ミナが胸を張る。
横では、別の子どもが紙の花飾りを持っていた。
さらに小さな子が、歪んだ木彫りの剣を差し出してくる。
「黒い騎士さまじゃなくて、レン兄ちゃんのだから」
その一言に、レンの胸が少しだけ詰まった。
黒い騎士じゃなくて。
レンのだから。
子どもたちは、黒い騎士の噂も好きなのだろう。
でも目の前にいる相手へ向けてくる感謝は、別のものだった。
「あのね」
ミナが小さな声で言う。
「みんな、おうちなくなったり、けがしたりして、ちょっとだけこわいの。でも、レン兄ちゃんくると、だいじょうぶって思う」
レンは何も言えなかった。
そういうのは、反則だ。
戦場で助けられたという感謝よりも、こうして日常のそばに置かれる期待の方が、よほど重い。
『人間の情緒結びつきが強まっています』
脳裏で無機質な声が響く。
レンは眉をひそめる。
「今は黙れ」
返事はなかった。
だが、黙った気配だけはあった。
子どもたちは、レンの顔色の変化など気にせず笑っている。
その笑顔を見ていると、ユウの言葉が勝手に浮かぶ。
弱い奴ほど、痛い顔を見逃さない。
あいつなら、きっとこういう時の対処がうまかった。
笑って、茶化して、最後にちゃんと優しくする。
レンはまだ、そこまで上手くない。
「……ありがとう」
やっと出せた言葉は、それだけだった。
だが子どもたちは満足そうに笑った。
それでいいらしい。
◇ ◇ ◇
その頃、王都守備本部では別の話が進んでいた。
「黒い騎士に関する報告を整理しました」
軍務官が巻物を広げる。
長机を囲んでいるのは、王都守備隊幹部と十傑の一部。
ヴァルク。
フィオナ。
ダリオ。
そして壁際に腕を組んで立つレオナ。
「南西区、北区、南第三補給路、東市場跡。いずれも正体不明の黒い仮面をつけた剣士が出現。共通項は、市民または後方要員が危機に陥った瞬間に現れること。助けた後は短時間で離脱」
軍務官が顔を上げる。
「民衆の支持は急速に高まっています」
「支持、ねえ」
ダリオが鼻を鳴らした。
「得体の知れん奴を神輿に乗せてどうする」
フィオナは静かに言う。
「少なくとも、助けられた人たちにとっては、救いそのものだったのでしょう」
ヴァルクが机を指で叩いた。
「問題はそこじゃない。こいつが王国側の戦力なのか、それとも別の何かなのかだ」
「敵ではないでしょう」
フィオナが即座に返す。
「少なくとも現時点では」
ダリオが唸る。
「現時点では、な」
重い沈黙。
レオナは黙って資料へ目を落としていた。
報告書の末尾には、小さく書かれている。
戦場離脱後の追跡、全て失敗。正体不明。
黒い騎士は、いつもギリギリで現れて、消える。
助ける。
だが名乗らない。
何も求めない。
その在り方そのものが、レオナの胸を妙にざわつかせる。
ヴァルクが横目で見る。
「何か言いたそうだな」
「別に」
「そういう顔をしてる」
レオナは少しだけ黙り、それから吐き捨てるように言った。
「……助け方が気に食わん」
ダリオが首をかしげる。
「助け方?」
「誰も間に合わない場面にだけ来る。全部持っていくような助け方だ」
その言葉に、ヴァルクの口元がほんの僅かに動いた。
レオナは気づかず続ける。
「しかも、あいつが出るたびに、市民の目が変わる。王国の騎士団でも十傑でもなく、正体不明の誰かを待つようになるのは面白くない」
フィオナはそこでふっと笑った。
「面白くない、ね」
「何だ」
「いえ。ただ、それだけではない顔をしているから」
レオナが睨む。
フィオナは平然と受け流した。
「少なくとも、黒い騎士が民衆に希望を与えているのは事実です。排除する理由はないでしょう」
「……今のところはな」
ヴァルクが低く言う。
その一言で、再び空気が冷える。
「敵は灰冠の夜に、黒い騎士を明確に狙った。つまり、敵は何かを知っている。こっちが知らないことをな」
レオナの指先がわずかに強ばる。
敵は知っている。
自分たちは知らない。
その差が気に入らなかった。
◇ ◇ ◇
夕方。
レンは仮設住区から戻る途中、南の石橋で足を止めた。
橋の下には細い水路が流れている。
王都の中でも比較的静かな場所だ。
子どもたちにもらった木彫りの剣を、手の中で転がす。
粗い。
形も歪だ。
でも、妙にあたたかい。
「似合わんな」
声に振り向く。
橋の欄干に寄りかかっていたのは、レオナだった。
赤金の髪が夕日に染まっている。
剣は帯びていない。
珍しく、少しだけ力の抜けた格好だ。
レンは慌てて木彫りの剣を隠しかけて、途中でやめた。
どうせ見られている。
「……何か用ですか」
「通りかかっただけだ」
嘘だ。
この人は通りかかっただけで話しかけるような性格ではない。
レオナは欄干から背を離し、レンの手元を見る。
「それ、子どもにもらったのか」
「……まあ」
「人気者だな」
嫌味には聞こえなかった。
むしろ少しだけ不機嫌そうだ。
レンは答えに困る。
「別に、人気とかじゃないです」
「そうか」
短い返事。
なのに会話が終わらない。
妙な沈黙が落ちる。
橋の下の水音だけが聞こえた。
レオナが先に口を開く。
「市民の前で、よく動いているらしいな」
「仕事です」
「仕事以上だ」
その言葉に、レンは少しだけ息を詰めた。
黒い騎士のことを言われるのかと思った。
だがレオナの視線は、今のレン自身を見ている。
「お前は無理をしすぎる」
「……よく言われます」
「直せ」
「難しいです」
「だろうな」
そこで、レオナの口元がほんの少しだけ緩んだ。
笑った。
それだけで、妙に橋の上の空気が変わる。
レンは目を逸らす。
この人はこういう時だけずるい。
ずっと男勝りで強くて、近寄りがたいくせに、たまに少しだけ柔らかい顔をする。
「市民に好かれているのは悪くない」
レオナが言う。
「お前みたいな奴がいると、あいつらも少しは息がしやすいだろう」
「……褒めてます?」
「違う」
答えは即座だった。
レンは思わず少しだけ笑う。
するとレオナが、わずかに目を細めた。
その表情は、戦場で見るものとはまるで違う。
鋭さの奥に、迷いがある。
「……レン」
名前を呼ばれる。
不意打ちだった。
「はい」
「お前は、自分が弱いと思ってるだろ」
レンは少しだけ黙った。
否定できない。
「はい」
「それでいい」
レオナは夕空を見る。
「最初から強いと思い込んでる奴は、簡単に折れる」
その横顔は、何かを思い出しているようにも見えた。
過去の誰かか。
昔の自分か。
レンには分からない。
「だが」
レオナが視線を戻す。
「弱いと思いながら前に出る奴は、たいてい厄介だ」
「褒めてますよね、それ」
「違う」
また即答。
でも今度は、ほんの少しだけ耳が赤かった気がした。
レンは見なかったことにした。
見たらまずい気がしたからだ。
その時、頭の奥で声が鳴る。
『感情変化を検知』
レンは眉をひそめる。
「今出てくるな」
「何だ」
レオナが反応する。
まずい。
レンは咳払いしてごまかした。
「いえ、ちょっと……喉が」
レオナは怪しむように見る。
だが追及はしなかった。
代わりに一歩だけ近づき、レンの手の中の木彫りの剣を軽く指で叩いた。
「なくすなよ」
「え?」
「もらったんだろ」
その声が、予想よりずっと優しかった。
レンは頷くしかなかった。
レオナはそれ以上何も言わず、背を向ける。
橋の中ほどまで歩いてから、止まった。
「……黒い騎士の噂、聞いているか」
レンの心臓が、一瞬だけ大きく打つ。
「まあ、少しは」
「そうか」
それだけ。
振り向かないまま、レオナは続けた。
「次にあいつが出たら、私は必ず見失わない」
夕日に照らされた背中は、炎みたいだった。
レンは答えない。
答えられない。
レオナはそのまま去っていく。
残されたレンは、しばらく橋の上で動けなかった。
『警戒を推奨します』
頭の奥の声が言う。
「分かってる」
『ですが』
少し間を置いて、続く。
『彼女は敵ではありません』
レンは木彫りの剣を握り直した。
「……それが一番厄介なんだよ」
水の音がする。
空はもう、夕暮れから夜へ変わり始めていた。
黒い騎士の噂は、明日にはもっと広がるだろう。
レオナの目は、もっと鋭くなるだろう。
そして、自分の中の仮面の声も、少しずつ深く沈んでくる。
王都は静かだ。
だがその静けさは、嵐の前のものに近い。
レンは橋を渡りながら、ふと思った。
次に黒い仮面を被る時。
その時はきっと、また今までより深い場所まで行くことになる。
知られたくない。
でも、助けたい。
その矛盾ごと抱えたまま、夜は静かに王都へ降りていった。




