第9話 十傑の壁
墓地の外れに立っていた影は、ゆっくりと月明かりの下へ出てきた。
長身。
灰銀の髪。
黒い外套。
腰には見慣れた長剣。
ヴァルク・アシュグレイだった。
レンは肩の力を抜きかけて、すぐに気を引き締め直す。
安心していい相手ではない。
少なくとも、今の自分にとっては。
ヴァルクは墓標を一つ見て、それからレンを見た。
「……こんな時間までいるとは思わなかったな」
「そっちこそ」
レンは立ち上がる。
影へ沈みかけていた黒い液体も、音もなく戻っていく。
見られてはいない。
たぶん。
ヴァルクはユウの墓標へ視線を向けたまま、低く言った。
「灰冠の夜、死んだのはこいつだけじゃない」
「分かってます」
「なら、いつまでもそこに立ち止まるな」
冷たい言い方だった。
だが、言葉の刃先は不思議と鈍っていた。
前みたいな、見下すだけの響きじゃない。
レンはユウの墓を見た。
「……立ち止まってるつもりはないです」
「本当か?」
「Eには上がりました」
ヴァルクがわずかに眉を動かす。
「ああ」
「でも、戦えばまだ雑魚です」
それは自嘲ではなく事実だった。
護送任務のトカゲ型混成個体を思い出す。
仮面がなければ、間違いなく誰かが死んでいた。
ヴァルクは小さく息を吐いた。
「雑魚でいい」
レンが顔を上げる。
「え?」
「今はな」
月明かりの下で、ヴァルクの横顔はいつもより少しだけ疲れて見えた。
「強くなったつもりの雑魚が一番死ぬ。自分が雑魚だと分かってる奴の方が、まだ伸びる」
そう言ってから、ヴァルクはようやくレンへ正面を向けた。
「明日、南訓練場へ来い」
「何で」
「十傑直轄の選抜訓練をやる」
「俺が?」
「EだろうがF上がりだろうが関係ない。灰冠の夜以降、王都の戦力は足りていない。使える芽は拾う」
ヴァルクは一拍置く。
「それに、お前は気に入らん」
「……は?」
「だから見ておきたい」
相変わらず訳の分からない男だ。
だが断る理由もない。
むしろ、ここで逃げたくなかった。
レンは小さく頷いた。
「行きます」
「遅れるな」
それだけ言い残し、ヴァルクは背を向けた。
数歩進んでから、ふと思い出したように止まる。
「……市民の間で、お前の評判が妙にいいらしいな」
レンは目を細めた。
「何の話です」
「知らんふりをする顔じゃない」
ヴァルクは振り返らないまま続けた。
「戦場で評価される奴と、街で評価される奴は違う。だが、両方を持つ奴は厄介だ」
意味が分からない。
聞き返す前に、ヴァルクは闇へ消えていた。
墓地に残ったのは、風の音と、白い墓標だけだった。
『警戒対象です』
頭の奥で声がする。
レンはユウの墓標を見たまま、小さく答えた。
「分かってる」
『ですが 敵ではありません』
「それも、分かってる」
言ってから、自分で少し驚いた。
ヴァルクを信用したわけではない。
でも、あの男が簡単に人を切り捨てるだけの人間じゃないことも、少しずつ見えてきていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
南訓練場は、いつも以上に空気が重かった。
王都南側の外壁内に作られた広い石造りの訓練区画。
そこに、Dランク兵、Eランク支援兵、若いB・Cランク候補まで集められている。
十傑直轄の選抜訓練。
その言葉だけで、皆の顔つきが変わっていた。
「マジで十傑が来るらしいぞ」
「ヴァルク本人だってよ」
「ふざけんな、死ぬだろこんなの」
「Eも混ざってるじゃねえか」
「いや、Eは荷物持ちだろ」
その会話の中で、レンは列の端に立っていた。
新しいEランク腕章。
まだ硬い革の手袋。
支給された短剣と短槍。
装備は少しだけ増えた。
でも、それだけだ。
身体つきはまだ細いし、剣を握る手に圧もない。
ぱっと見では、黒い騎士の気配なんてどこにもない。
それが今はありがたかった。
「整列」
低い声が響く。
ざわめきが一瞬で止む。
ヴァルクが中央へ出る。
その後ろにはフィオナとダリオもいた。
十傑が三人。
それだけで訓練場全体が張り詰める。
ヴァルクは周囲を一瞥し、吐き捨てるように言った。
「ぬるい顔が多いな」
誰も笑わない。
「灰冠の夜を生き残った程度で、自分が選ばれた側だと思うな。王都は今、たまたま死に損なった人間を集めて戦力の穴を埋めようとしているだけだ」
容赦がない。
だが、その容赦のなさが逆に全員を黙らせる。
「今日は三つ見る。体力、判断、そして――壁だ」
「壁?」と誰かが小さく漏らした。
ヴァルクが聞こえないはずもないのに、説明を続ける。
「お前たちとAランクの間には、越えられない壁がある。その現実を知れ。知った上で、それでも前に出る奴だけ残れ」
その言葉に、訓練場の空気が少しざわついた。
強くなる訓練ではない。
現実を見る訓練だ。
レンは黙って前を見た。
そういうのは嫌いじゃない。
むしろ、希望だけ見せられる方が辛い。
◇ ◇ ◇
最初は持久走だった。
外壁沿いの段差路を三周。
途中に荷重区間あり。
さらに瓦礫越え。
Eランク支援兵にはきつい。
Dランクでも音を上げる者がいる。
それでもヴァルクは止めない。
「走れ」
「足を止めるな」
「そこで吐け。吐いたらまた走れ」
鬼かと思う。
実際、ほとんど鬼だった。
レンも途中で二度、足が止まりそうになった。
肺が熱い。
脇腹が痛い。
喉が焼ける。
それでも止まらない。
止まれば、またFに戻る気がした。
ユウの墓の前で、自分が言った言葉が嘘になる気がした。
最後の周回で、隣を走っていたミアが顔をしかめた。
「……あんた、ほんとに根性だけはあるね」
「褒めてる?」
「半分だけ」
彼女もきつそうだ。
それでも並んで走る。
そういう相手がいるだけで、少しだけ楽になる。
走り終えた時には、足が鉛みたいに重くなっていた。
だが、これで終わりじゃない。
次は判断試験。
崩れた訓練区画を模した迷路状の足場へ入り、負傷者役の人形を回収しながら、複数の選択肢の中から最適ルートを選ぶ。
「足が速いだけの馬鹿は死ぬ」
「力が強いだけの馬鹿も死ぬ」
「必要なのは、どこで誰を拾うかを決める頭だ」
ヴァルクの言葉は相変わらず刺々しい。
レンは迷路へ入った。
崩れた壁。
瓦礫。
狭い通路。
荷重感知板。
行き止まり。
三方向へ散った負傷者役人形。
この手の課題は嫌いじゃない。
いや、むしろ得意だ。
戦えなくても、どこから崩れるか。
どこが危ないか。
どこに人が取り残されそうか。
そういうのを見るのは、昔からやってきた。
回収係の仕事は、そればかりだったからだ。
レンは一つ目の人形を抱え、遠回りに見えて実は最短の斜路を選ぶ。
二つ目は見捨てて三つ目を先に拾い、最後に戻る。
途中で足場が崩れかけるが、事前に嫌な音を感じて別通路へ逃れる。
終了時、フィオナが記録板を見て少しだけ目を丸くした。
「……判断精度は高いのね」
レンは肩で息をしながら答える。
「戦えないやつは、危ない場所ぐらい読めないと死ぬんで」
フィオナは何も言わず、ただ静かに頷いた。
◇ ◇ ◇
三つ目の試験で、現実は容赦なく叩きつけられた。
模擬戦。
相手はCランク候補の若い剣士。
レンより二つほど上。
長身。
体幹が強く、木剣の握りも綺麗だ。
開始の合図。
レンは踏み込む。
だが、相手はその一歩外へ軽くずれただけだった。
次の瞬間、木剣が手首を打つ。
痛み。
剣がぶれる。
さらに胴。
足。
喉元寸前でぴたりと止まる切っ先。
「そこまで」
一方的だった。
訓練場の端から、押し殺した笑いが漏れる。
「Eだなあ……」
「判断は良くても、戦闘が駄目じゃ意味ねえ」
「やっぱり支援兵だろ」
耳に刺さる。
だが言い返せない。
その通りだからだ。
木剣を握り直しながら、レンは小さく息を吐いた。
悔しい。
悔しいが、まだこれが現実だ。
「次」
ヴァルクの声。
もう一戦。
今度はDランク兵。
槍使い。
少しは食らいつけるかと思ったが、甘かった。
初撃は見えた。
二撃目も何とか防ぐ。
だが三撃目で足元を払われ、そのまま尻もちをつく。
喉元に槍の穂先。
「そこまで」
レンは唇を噛んだ。
訓練場の空が、やけに高く見える。
黒い仮面があれば。
一瞬だけ、その考えが浮かぶ。
すぐに打ち消す。
こんなところで使えば終わりだ。
それに、使ったら意味がない。
普段の自分がどこまでやれるか。
そこから逃げてはいけない。
「……情けねえ顔だな」
ヴァルクが目の前まで来ていた。
レンは立ち上がる。
「分かってます」
「分かっている顔じゃない」
「じゃあ、どんな顔ならいいんです」
思わず返していた。
周囲が静まる。
十傑に口答え。
普通ならそれだけで怒鳴られる。
だがヴァルクは怒鳴らなかった。
じっとレンを見る。
そして、低く言った。
「その顔でいい」
「……は?」
「勝てなくて悔しい顔だ。自分が弱いと理解して、それでも前に出たい顔だ」
訓練場の空気が変わる。
ヴァルクは皆にも聞こえる声で続けた。
「勘違いするな。こいつは弱い」
容赦ない。
「だが、弱いことを誤魔化していない。そこは使える」
レンは言葉を失った。
褒められたのか、貶されたのか分からない。
たぶん両方だ。
「午後は実地だ」
ヴァルクが背を向ける。
「南第三補給路の監視へ出る。模擬戦で終わらせるほど暇じゃない」
実地。
その二文字だけで、訓練場に新しい緊張が走った。
◇ ◇ ◇
南第三補給路は、灰冠迷宮事件以降、小規模ビーストの目撃が増えている区域だった。
外壁沿いの狭い通路。
片側は石壁、反対側は崩れかけた旧倉庫群。
奇襲には最悪の地形だ。
レンを含む数名のD・Eランク兵が前へ出され、その後ろにヴァルクとダリオが控える。
「本当にやるのかよ……」
「訓練じゃねえだろこれ」
「十傑付きで実地なんて嫌な予感しかしねえ」
誰かが小声で言う。
レンも同感だった。
だが足を止めるわけにはいかない。
進む。
壁沿い。
崩れた倉庫。
風の向き。
足音。
その時、頭の奥で微かな声が鳴った。
『左前方 物音』
レンの心臓が跳ねる。
仮面は使っていない。
それでも声はある。
『低い』
ほとんど囁きみたいな指示。
レンは反射的に前へ手を出した。
「止まって!」
列が止まる。
次の瞬間、左の倉庫壁が内側から破れた。
トカゲ型ビーストが二体。
狼型が三体。
一気に飛び出す。
「敵襲!」
Dランク兵が前へ出る。
だが奇襲に一瞬遅れた。
最前列の兵が噛みつかれかける。
レンの体が動いた。
木剣ではなく、支給短剣を抜く。
怖い。
だが躊躇している暇はない。
狼型の横へ踏み込み、顔面ではなく脚へ刃を入れる。
浅い。
でも転ぶ。
そこへDランク兵の槍が刺さった。
「助かった!」
返事をする間もなく、トカゲ型が横から突っ込んでくる。
レンは咄嗟に身を低くする。
尾が頭上を掠める。
危ない。
だが、次の瞬間には黒い影がその前へ割り込んでいた。
ヴァルクだ。
長剣が一閃する。
トカゲ型の首が半ばまで裂ける。
さらに二撃。
狼型がまとめて吹き飛んだ。
速い。
重い。
そして無駄がない。
さっきまでの模擬戦で見せた剣とは、別物だった。
これがAランク。
これが十傑。
「見るだけで終わるな!」
ヴァルクの怒声。
「戦え!」
レンは歯を食いしばる。
狼型が一体、後方の補給兵へ回り込む。
レンは走る。
肩からぶつかって軌道をずらす。
そのまま短剣を首元へ突き込む。
浅い。
だが今度は狙いがぶれなかった。
狼型が崩れる。
息が上がる。
腕が震える。
それでも、午前中の模擬戦よりはずっと動けた。
死ぬ気で前へ出るしかない実地では、迷っている暇がないからだ。
戦闘は長くは続かなかった。
ヴァルクとダリオが前線を押し切り、残ったビーストもDランク兵たちが処理した。
それでも、奇襲に対して崩れなかったこと自体が一つの結果だった。
戦いが終わると、誰もが荒い息をついていた。
レンも膝へ手をつき、何とか呼吸を整える。
そこへヴァルクが近づいてくる。
「今のは悪くない」
レンは顔を上げた。
「……褒めてます?」
「気持ち悪い聞き返し方をするな」
いつもの調子だ。
だが目だけは本気だった。
「模擬戦では弱い。だが、実地では目が死なない」
レンは黙って聞く。
ヴァルクはさらに言う。
「お前はたぶん、敵を倒す才能より、誰かが死にそうな場所へ先に気づく才能の方が強い」
その言葉は、思ったより深く刺さった。
ユウにも似たようなことを言われた気がしたからだ。
「その目は捨てるな」
ヴァルクは背を向ける。
「強くなる奴は、最初から強い奴だけじゃない」
それだけ言って、前へ歩いていく。
レンはしばらくその背中を見ていた。
嫌な奴。
そう思っていた。
でも、あの男はあの男なりに、ちゃんと見ている。
弱さも。
伸びる場所も。
たぶん、レオナとは違う意味で、厄介な人間だ。
◇ ◇ ◇
訓練場へ戻ると、夕暮れが近づいていた。
空は赤い。
灰冠の夜を思い出させる色だ。
レンは水場で顔を洗う。
冷たい水が頬を打つ。
その時、背後から気配がした。
振り向く。
レオナだった。
赤金の髪が夕日に染まっている。
腕を組んだまま、少し機嫌の悪そうな顔で立っていた。
「……何ですか」
「何ですか、じゃない」
レオナは一歩近づく。
「お前、今日の実地で前に出すぎだ」
「出ないと死ぬ人がいたんで」
「それを決めるのはお前じゃない」
正論だ。
でも、レンも引かなかった。
「間に合うなら行きます」
レオナが眉を寄せる。
その顔は怒っているようでいて、少しだけ別の色が混じっていた。
苛立ち。
戸惑い。
心配。
「……そういうところが気に入らん」
「俺も、自分で面倒だと思ってます」
一瞬だけ、レオナの口元が緩みかける。
だがすぐ戻る。
「とにかく、死ぬな」
短い言葉だった。
レンはその響きに、少しだけ目を見開く。
命令口調。
でも、ただの命令ではない。
「……分かってます」
答えると、レオナはじっとレンを見る。
何かを探るような視線。
黒い騎士の影を重ねるみたいに。
だが彼女は何も言わない。
言えないのかもしれない。
まだ確信がないから。
「次の訓練も来い」
代わりにそう言った。
「ヴァルクに潰される前に、私が少しは整えてやる」
「……それ、優しいんですか」
「違う」
間髪入れずに返ってきた。
だが、去っていく背中は少しだけ軽く見えた。
レンは手に残った水滴を払い、空を見上げる。
十傑の壁は高い。
レオナはまだ遠い。
仮面の声は消えない。
ユウはいない。
それでも今日、少しだけ分かったことがある。
弱いままでも、前へ出る意味はある。
そして、弱さを知った上で伸びる道もある。
『学習効率が5%上昇しています』
頭の奥で声がした。
レンは小さく笑う。
「いちいち数値にすんな」
『事実です』
「分かってるよ」
夕焼けの中、王都の鐘が鳴る。
その音は終わりではなく、次の始まりみたいに聞こえた。




