第4話 touch one’s heart
帝東藝術大学の学園祭は通称【帝藝祭】と呼ばれ、毎年九月の第一週目の金曜日から日曜日にかけて三日間行われる。芸術学部にとっては作品を展示する場であり、音楽学部にとっては演奏を披露する場でもある為、この日に向けて励む生徒たちは多い。
綾子もピアノ専攻としての参加はなくとも、スポーツ同好会として今年も模擬店に参加していた。
「いらっしゃ……」
「綾子、買いに来た」 「大盛況だねーー」
「詩織、理花、ありがとう」
綾子の友人と分かり、焼きそばを多めに盛るのは淳一だ。顔見知りではあるため会釈をする彼に、心の奥が温かくなるようだ。
スポーツ同好会は毎年のように焼きそばやお好み焼き等の鉄板焼きをメインに出店していて、昨年は親友が彼氏と共に買いに来てくれた事が思い出される。
「今日の午後の部、楽しみだね」
「うん!」
「早く四時半にならないかなぁーー」
「待ち遠しいよね」
揃ってwater(s)のライブが楽しみな様子だ。
昨年よりも公演回数が増え一日二回になり、構内で一番広いAホールで二日間に渡って行われる。専攻仲間には優先的にチケットが配られたが、在校生であっても抽選のため必ずしも観れるとは限らないほどにその倍率は高い。親友がバンドメンバーでなければ、たとえwater(s)が好きでも観戦できなかった可能性の方が高いだろう。だからこそ、タイミングを見計らったかのように現れた親友たちに瞬かせた。
「綾ちゃん、焼きそばくださいな!」
「奏! ミヤ先輩!」
「綾ちゃん、お疲れさま。フランクフルトも追加で」
「は、はい!」
相変わらずの二人だが、作業中の淳一にまで声をかける気やすさだ。淳一自身はあまり交流がなかったとはいえ綾子を通して知っているし、miyaもまた彼女を通して後輩という認識があるからだろう。綾子以上に瞬かせた淳一だったが、元クラスメイトのおかげもあり彼との会話を喜んでいると分かる。
騒ぎにならないように話し込むことはせず、手を振り去る姿からも周囲に対する配慮がみえた。
「…………ミヤ先輩……やっぱり、オーラがあるよな」
「分かる……目立つよねー……」
「ああ……上原もな」
「うん……奏はいまいち分かってないけどねー」
「上原らしいな」
「でしょ?」
water(s)のhanaとmiyaが揃って購入したことで、スポーツ同好会の売り上げが急激に伸びた為、早々と店仕舞いになったが、それはまた別の話だ。
綾子の意識は四時半から行われるライブに向いていた。抽選チケットは音楽学部の生徒であってもなかなか当たらない倍率だ。hanaによって確保されたピアノ専攻のチケットに、親友の彼氏ということで淳一の分も確保されたに過ぎない。友人全員分を確保していたら、すべての席が埋まってしまうからだろう。
見慣れたはずの会場の空気が変わったと肌で感じる。アカペラから始まり、音が重なる瞬間に高鳴らないはずがない。
「すごっ……」
思わず漏らした淳一の想いはよく分かる。これだけの会場を一瞬で魅了する力も、心を揺さぶるような音色も、そのどれもが届かないものという自覚も、儚い夢で終わる感覚もあった。変わらない彼女を間近で見てきたからこそ、彼女の努力の賜物であると知っているし分かっていた。彼女のような人を歌をうたう為に生まれてきたというのだと。
押し寄せる感情の波に心が揺れる。
「…………綾子、はい」
「ありがとう……」
淳一からハンカチを受け取り、涙を拭う。初めて聴く曲に涙が溢れていた。
「ーーーー【雨上がりの空に】か……」
「うん……」
綾子だけでなくhanaの圧倒的な歌唱力と表現力に、思わず涙を流している人達がいる。心を捕らえて離さないからこそ、多くの聴衆を魅了し続けていると実感すると共に鳥肌が立つ。生演奏にも関わらず、少しも乱れを感じなかったからだ。
歓声に包まれ、スタンディングオベーションが沸き起こる中、放心状態のままステージを眺めていた。
「……子、綾子?」
耳元で呼ばれようやく気づく、座ったままでいた事に。見上げれば、間近に迫る顔よりも周囲の歓声が響く。
「…………すごいな……」
「うん…………」
即答できる素直さに微笑んだかと思えば、手を取られて並ぶ。ステージとの距離は近くともその距離を遥か遠くに感じたのは一瞬だ。確実に綾子たちに向けて笑みを見せた彼女に、周囲が沸かないはずがない。
「い、今、こっち見たよね?!」 「やばっ……」
「うん、うん!!」 「hana、めっちゃ可愛い!」
「顔面つよ!」 「マジで同じ学部なんだよな」
夢見心地から現実に引き戻される。彼女の凄さを目の当たりにして平然としていられる生徒がいるとすれば、芸術学部の一部の学生くらいだろう。音楽学部の在校生にとって彼らは憧れの的だ。ごく自然な演奏に含まれる高度な技術に気づくからこそ、難関大学に通っているのだ。
綾子だけでなく淳一も、聴き分けられるからこそ理解していた。どれだけ費やしても届かないと。
「……贅沢だな…………」
「うん……」
……大学で聴けるなんて、なんて贅沢な時間なんだろう……
変わらない歌声に涙が溢れる。
高校生の頃にプロデビューを果たし、順風満帆に見えても人一倍努力を重ねてきたと知っているからこそ、手放しには喜べない。学業と両立させる姿は尊敬に値するし、コンクールで優勝する実力は賞賛に値するだろう。ただ溢れた理由は分かっていた。
心の奥に……届くような歌…………奏が紡いだ言葉が、響かないはずがない。
同級生であるからこそ、その多彩さを羨んだ事はあるが、それは綾子に限った話ではない。同じ教室で過ごした仲間だからこそ、彼女の凄さを目の当たりにしてきた。初めて聴いた日が想い起こされる。
扉越しに聴こえた音色に瞬いたかと思えば、澄んだ声色が響いた。
あの時の衝撃は忘れられない。
理想の音色に歌声まで加わって、リサイタルのような感覚だった。
照れた表情で無意識に歌っていたと綾子にも分かったが、それよりも響いた歌声が鮮明に残った。高校に入学してから間もなかった事を考慮したとしても、彼女のように印象に残るクラスメイトはいなかったからだ。
「……すごかったな…………」
「うん……」
見上げる余裕もなく頷く。思い出すと、また泣いてしまいそうだからだ。
「…………奏……わざわざ買いに来てくれたんだよね」
「だろうな……本番前だってのに、変わらなかったしなーー……」
「うん……」
本番前に平常心を保つ難しさを知るからこそ、変わらない彼女に羨望の眼差しが向かう事さえも、ごく自然な事のようだ。
「…………新曲……よかったね……」
「ああ……発売されたら買いに行くか?」
「うん!」
彼女のファン歴はデビューして間もないの頃から続き、今では本棚の一部がwater(s)のCDが占領するほどだ。
「綾子のちょっとしたコレクションだよな」
「うん! やっぱり音源でも持って置きたくて」
「分かるなーー……明らかにレベルが違うし」
「そうそう」
音大生の二人が聴いてもレベルが違うと感じずにはいられない。それほどまでにwater(s)は秀逸で多彩な音色だ。プロが選ぶ今期の楽曲に毎年のように選出されるほどの完成度であるし、また売上枚数からもその実力は明らかであった。
「三月で四周年だっけ?」
「うん! 楽しみだよねー!」
「ああ」
ファンクラブには淳一も加入していたが、チケットは変わらずに高い倍率で当選した回数は数えるほどだ。綾子に付き添う形で参戦していた淳一も、今ではすっかりとwater(s)のファンだ。彼のラックにも綾子に負けず劣らずコレクションが並んでいた。
同じ想いを抱えていたからこそ彼女の想いが分かる。同世代にいるだけでも驚異的だが、同じ専攻でピアノを学ぶ仲間に中心人物であるボーカルが在籍している。いい刺激になってはいるが、ある意味では遠すぎる存在だと認識せざるを得ない。【親友】と笑って告げる彼女の瞳が曇る事はなく、その心持ちこそが淳一が惹かれた理由かもしれない。
並んで電車に乗り込み、先に降りる淳一を見送る。それは高校生の頃から続いていた。
「…………進路か……」
近いうちに離れる日が来る予感があった。彼が指揮者になりたいと知っていたし、綾子自身も応援してきたからだ。ただ夢を叶える為に邁進する彼に対し、少しも進めていないように感じる。特に彼女の歌声を聴いた後に、その想いは強くなるばかりだ。
…………院で、さらに学ぶ発想はないから……
心に響くからこそ、見透かされたような感覚があった。
……来年の今頃は、就職活動に励まなきゃだよね……
自身の置かれた状況は理解していた。ピアニストになれないなら、他の道を模索するしかない。ただ見切りをつけるのは早過ぎるだろう。まだ綾子は大学二年生だ。これから開催されるコンクールで結果を残し、師事してプロになる選択も不可能ではない。自身が諦めなければ、まだ道は繋がっているだろう。ただ彼女にとって、それは非現実的であった。
当たり前のように鍵盤に触れ、指先を滑らかに動かす。その音色は柔らかで淳一が贔屓目なしに好きだというのも頷けるが、本人に納得がいかなければ仕方がない。他人がいくら展望を告げたところで、本人にその意思がなければ無意味である。
練習を欠かしたことのない彼女だからこそ分かる未来があった。




