第3話 unrequited
試験は奏との練習成果もあって無事に合格した。不安がっていた心情が全く和らいだ訳ではないが、緩和したのは淳一のおかげであるとも理解していた。自信が欠けてもピアノの音色が好きな綾子は、高校生の頃と変わらずにいたのだから。
「すごいな…………」
思わず溢れた淳一に深く頷く。二時間近く立っていても疲れは微塵も見えない。
ただ目の前の光景が目に焼きついて離れず、言葉にならない。
「…………hana……」
親友の名前を口にするが周囲の歓声に掻き消される。アンコールの声が響き渡る中、綾子も同じように声を張れば、一瞬だけ視線が合ったような気がした。
「えっ、今こっち見てたよね?!」 「やばっ……」
「マジ?」 「見てなかった?!」 「hana!!」
近くにいたファンは自身と視線が合ったと感じただろう。あまりの人気ぶりにチケットが入手困難になるはずだと悟る一方で、綾子に気づいて微笑んだと淳一には分かった。耳のいい彼女なら招待客の場所を把握していれば、聴き分けられるかもしれないと。
実際に聴き取れたかどうかは分からないが、綾子に向かって微笑んだのは間違いではないだろう。
見上げる横顔に感動したと書いてあるほどに、分かりやすい反応だ。親友の歌声の虜になっていたのは綾子に限ったことではないのだから。
「…………明日は、カラオケ行くか?」
「うん!!」
春休み中にデートを重ねる綾子たちだが、新学期が始まればまた音楽漬けの日々だ。今も休みだからと離れている訳ではなく、毎日の練習を欠かした事はない。少しでも手を抜けば追いつけなくなるし、練習をサボればすぐにバレてしまうだろう。講師だけでなく親友にも簡単に分かってしまうからこそ、置いていかれないようにと重ねていた。
大学の長い休みもあっという間で理花や詩織と遊ぶ機会はあったが、親友と会う機会はない。water(s)のライブ鑑賞で視線が合ったと感じたのが最後だ。春休み中も多忙な親友の様子は、SNSを通して知るくらいであった。
「わぁー、初めて見た!」 「やば……」
振り向けば、親友がこちらに向かってくるところだ。
「奏!」 「いたいたー」
手を振ってアピールすれば、綻ぶ笑顔に見惚れる生徒が続出だと分かる。
「久しぶりー! 今日は寄って行けるんでしょ?」
「うん!」
「公園のカフェ、空いてるかな?」
「行ってみよう」
ピアノ専攻の仲間は揃って進級していた。
テラス席に案内されれば、公園の桜が遠くに見える。今日は気候がいい事もあり、公園内のベンチで最後のお花見を楽しんでいる人達もいるようだ。
「わぁー、美味しそう」
『いただきます』
テーブルには、紅茶のシフォンケーキやガトーショコラ等、四種類のケーキに、それぞれの飲み物が置かれていた。さすがは女子会だろう。一口ずつシェアしながら食べる姿からも仲の良さが分かる。
「美味しいー」
「本当、美味しそうに食べるよねー」
「食べてる時、幸せだもん」
「奏らしい」
「みんなだって、美味しそうに食べてるじゃない」
「甘いものは別腹」
「分かるー!」 「だよねーー」
会話が弾む細やかな進級祝いだ。明日から本格的に始まる授業を前に英気を養っていた。
「ライブ、めっちゃよかった!!」
「うんうん、感動した!!」
「……ありがとう……」
率直な感想に照れた様子が懐かしい記憶を呼び起こす。それはピアノの練習中に無意識に声を出してしまうほどに、歌がすきだと知った日でもあった。
週に何度もデートを重ねてきたが、授業が始まれば下校時間の僅かなひと時に逆戻りだ。美味しいケーキに仲の良い友人たちが揃っていても、ふとした時に感じるのは彼の事だ。今も淳一好みの味に一緒に食べれたらと、想いが巡る。
毎年のようにあるコンクールにすら応募できない自身に対し、彼は積極的にコンクールの類にも参加していた。中には銀賞に輝いたものもあり結果を残している。消極性になっている綾子にとって良い刺激であったが、それが必ずしも良い結果に繋がるとは限らない。自身の力量を痛いくらいに感じていたからこそ、毎日の練習を欠かせないほどに実力差を感じ、手を抜く事もできないでいた。
「ーーーーただピアノが好きなだけじゃね……」
「詩織も思うんだ……」
「思うよ……なんならコンクールに向けて、絶賛猛特訓中だし」
「個人レッスンしてるんだっけ?」
「そうそう、やっぱりね。どこに進むにしても必要だから」
「そっかぁーー……そうだよね……」
「理花は阿部っちがいるから大丈夫。永久就職はできる」
「ちょっと、真顔で言わないでーー」
冗談混じりの激励に言葉が出ないが、ネガティブな思考に首を振った。
「だからね……奏が羨ましく思うし、憧れる……」
「うん……あんな風に弾けたら楽しいだろうなぁーー……」
席から離れていた親友が戻れば、羨望の眼差しが向かう。綾子だけが感じていた訳ではなく、ピアノを志す者なら一度は抱いたことのある夢だ。ピアニストとして活動できる本物はほんの一握り、その一握りに届くであろう親友は別の道を歩んでいた。
「どうしたの?」
「ううん、奏は去年のコンクールどんな気持ちだった?」
「コンクール……久しぶりの緊張感だったかな……」
「生放送とはやっぱり違うの?」
「うん、バンドは仲間がいるから……それに、コンクールは独特の緊張感があるでしょ?」
「確かに……」 「うん」
緊迫感とでもいうべきか独特の緊張感が会場を包む。大なり小なりコンクールの経験はある為、彼女の応えは理解できるが無縁のようにも感じた。
「……指先が震えそうになる事もある?」
「うん……人前の演奏は緊張感があるから……」
少し考えれば分かる事だ。親友は前に出て歌うタイプではなかったと。hanaとして画面越しに見つめる度に遠くに行ったような気がした事もあったが、彼女は彼女のままで出会った当初の穏やかな性格から変わりはない。
「……奏、ありがとう……」
「綾ちゃん?」
分からない様子に微笑む。彼女も同年代の学生らしく、直向きに続けてきた結果が今に繋がっていただけで根底は変わらないと悟る。ここには音楽が好きな者しかいないのだから。
コンクールに出るか迷っている時点で出場するべきだと頭の片隅では分かっているが、突きつけられる現実に一歩が踏み出せない。出場したコンクールは違えど、彼女に限った事ではなく詩織も理花も結果はどうあれ出場していた。中には一次審査で落ちたものもあるが、最終選考まで残ったものもある。得意な作曲家や相性の良さはあり、努力が必ずしも実を結ぶとは限らない。それを分かっていても続けられるかは彼女たち次第だが、続けていけなければプロになれないと理解していても、綾子は尻込みしてしまっていた。
「淳一は夏のコンクールに出るんだよね?」
「ああ、ちゃんと同好会にも顔は出すよ?」
「うん……久しぶりに体を動かしたいかも……」
「だよな……こもってると太陽に当たらないから、たまには光合成しないとな?」
「もう……またそんなこと言ってーー」
可愛らしい笑みを浮かべているが、微かな違いに気づいたのは彼だったからだろう。ある意味では鈍感な彼の前では取り繕わなくていいと、油断していたからともいえる。
「綾子も息抜きしろよ?」
「うん、この間もね……」
ピアノ専攻仲間の話をする彼女は実に楽しそうだが、聞いている淳一にも優秀な生徒ばかりだと分かる。指揮科も彼のように積極的に講習会やコンクールに参加する者がほとんどだが、比較しても仕方がない事だと分かっていても比べてしまうのは致し方ないだろう。
「拓真も頑張ってるみたいだしな……」
「酒井も?」
「ああ」
元クラスメイトの専攻は淳一も把握していた。それが彼女と同じ専攻なら尚更だろう。指揮科に進んだのは自身だけだからこそ比較対象はいないが、高校からの友人が揃っていれば消極的になる気持ちも分からないではない。
「樋口くんと続いてるみたいだからさ」
「そうなんだ……よく練習室で見かけるもんね」
「だよな、俺も見かけた事ある」
練習室の並ぶ塔に立ち寄る事の多い淳一も、酒井と樋口が揃って入っていく所を見かけた事があった。二人の背中にあったケースからも専攻楽器ではなく、音楽活動に力を入れていると分かっていた。
信じて突き進む難しさが分かるからこそ、上手く言葉にできない。隣で手を繋いで歩いていても、考えてしまう事はある。それはお互いさまの為、無言のままでも気にならない関係だからこそ気づけずにいた。
いつものように手を振り、先に降りる淳一を見送る。重ねた日々が遠い昔のように感じるほど、音楽漬けの日々が繰り返される。
ーーーーーーーー私も、願ってたはずなのに…………
選択科目で詩織のように教員免許を目指す事も出来たが選ばなかった。二度目の夏もコンクールに出ることなく終わりそうだ。
繰り返し練習すれば、暗譜もできるようになる。それはピアノを弾く綾子にとっては当たり前かもしれないが、淳一からすれば弾き続けられる事も一つの才能のように思えた。
「淳一……見て!!」
「ん? どうした?」
珍しく腕を引っ張られ、距離の近さに高鳴る間もなくスマホに視線を移す。流れる音色が止めば拍手と歓声が響き、目が逸らせない。
「……これって…………」
「うん、ニューヨークに行くって言ってたから……」
「そっか……」
あまりに違うスケールの大きさに、思わず尻込みしそうになっていると気づく。彼女はこんな気持ちを抱いていたのかと。




