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血を与えたら進化しすぎた件~世に出回るアーティファクトも東京に出来たダンジョンも多分俺のせいだけど面白いからいいよね~  作者: 唯之助


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第57話「芽生える野望」

冒険者ギルド本部。地下1階。会議室。


 壁に貼られた品川ダンジョンの断面図に、赤いマーカーで印がつけられていた。地下15メートル、22メートル、28メートル、35メートル、42メートル、48メートル。ドラゴンとの遭遇が報告された地点だ。2週間前は浅層の15メートルに1つだけだった印が、今は中層の50メートル近くまで点在している。


 黒川陽一が報告書を読み上げた。


「ドラゴン確認以降の2週間の被害集計です」


 田所勝が壁に背を預けて聞いていた。腕を組み、目を閉じている。


「死亡確認7名。内訳——ギルド登録者4名。山根チームの柴田大輝、24歳。品川入口の28メートル帯で遭遇、交戦中に死亡。これが最初の死者です。続いて30メートル帯でソロの冒険者1名。35メートル帯で2人組の冒険者のうち1名。42メートル帯でソロ1名。——探索企業所属2名。カシマ・エクスプローラーの中層調査チームから1名、ダイブ・リミテッドの回収要員から1名。未登録者1名は非管理入口から入った野良の冒険者と推定されます」


「行方不明5名。深層から帰還しなかった者で、ドラゴンとの関連は不確定ですが、消失した時期と区域が一致します。通常の蟻との戦闘による死亡の可能性もありますが——ドラゴンの活動域が中層全域に拡大していることを考慮すると、少なくとも3名はドラゴンによるものと見るべきです」


「負傷帰還11名。いずれも中層の30メートルから50メートル帯で遭遇。全員が『翼のある大型爬虫類』と証言しています。負傷の内容は、爪による裂傷が最も多く、次いで尾による打撲。1名は圧縮空気のようなもので吹き飛ばされたと証言しています」


「宝箱の破壊確認28箇所。浅層12、中層16。中のAFは全て消失。蝶番と留め金の金属部品も残っておらず、木枠だけが粉砕された状態で放置されています」


 田所が目を開けた。


 ダンジョン関連の死者は分かっているだけでも800名を超えている。だがそれは蟻との戦闘や事故——パターンのある危険だった。蟻は門番行動で一定の場所に留まる。巡回ルートがある。通路のどこに何体いるか、何度も潜れば覚えられる。予測可能な危険。覚悟していれば避けられる危険。


 ドラゴンは違う。


 移動する。待ち伏せする。AFを持っている冒険者を優先的に狙う。蟻は危険だが予測可能な敵。ドラゴンは予測不可能な捕食者だ。しかも日を追うごとに大きくなり、強くなり、賢くなっている。


「企業からの正式な討伐依頼が5通来ています」


 黒川が封筒の束をテーブルに置いた。


「ダイブ・リミテッド、カシマ・エクスプローラー、シルバーゲート・エクスプロレーションを含む探索企業5社の連名です。『ダンジョン内爬虫類型超常生物の早期排除を要請する』と。——企業にとっては冒険者がダンジョンに潜れないことが即座に収益の停止を意味します。中層の自粛要請が出てから、中層以深での活動量が6割減っています。AFの流通量も激減している」


「個人の冒険者からも苦情が殺到しています。掲示板では——」


「掲示板は後でいい。1stの報告は」


「高梨チーム長が待っています」


 ドアが開き、高梨誠一が入ってきた。38歳。元海上保安庁特殊警備隊。1stチームのリーダー。日焼けした顔に疲労が滲んでいる。昨夜ダンジョンから戻ったばかりだ。装備を解いていない。骨断包丁が腰に帯びられたままで、守護のヘルメットが左手にぶら下がっている。


「ドラゴンとの接触に成功しました。地下45メートル」


 高梨が椅子に座らず、立ったまま報告を始めた。


「体長が3メートルを超えていました」


 黒川のタイピングが止まった。


「2週間前は1.5メートルでした。倍です。成長速度が落ちていない。むしろ——加速している可能性がある。蟻を食い、AFを食い、人間を食うたびに大きくなっている」


「交戦は」


「仕掛けませんでした。——仕掛ける前に、ドラゴンが逃げた」


 田所の目が細くなった。


「逃げた?」


「はい。こちらが5名で接近した時点で、ドラゴンは即座に察知して移動しました。通路の分岐を2つ越えて、我々の追跡範囲から離脱しています。——判断ができている。こちらが5人だと分かっていた。5人組が来たら逃げる。1人や2人なら襲う。その判断を、接敵前に下している」


「知能があるということか」


「あります。しかも急速に発達しています。行動パターンが完全に変化している。初期は蟻に正面から突っ込むだけだった。今は通路構造を記憶した上での待ち伏せ型の狩りに切り替わっている。蟻の巡回パターンを把握し、蟻が通過する直前に分岐点に潜んで背後から襲撃する。——さらに厄介なのは、冒険者の行動パターンも学習していることです」


「どういうことだ」


「冒険者が宝箱を開けてAFを取り出した瞬間を狙って襲撃するケースが報告されています。宝箱に近づく冒険者を遠くから観察し、AFを手にした瞬間——つまり冒険者が宝箱に意識を集中して周囲への警戒が薄くなる瞬間に、急襲する。AFの運搬体として冒険者を利用しています」


 田所が椅子に座り直した。


「翼は」


「さらに伸びています。天井高8メートルの中層広間で、壁から壁への滑空を確認しました。まだ長距離飛行はできないようですが、段差の跳躍や上空からの降下は自在です。地上戦で追い詰めても、上に逃げる手段を持っている」


「追いかけて仕留められるか」


「困難です」


 高梨が断言した。


「中層の通路は広い。天井高が高い区画では滑空で我々より速く移動できる。狭い通路に入り込めば体躯の小さい方が有利——3メートルはまだ通路幅3メートルの空間に入れる。追跡中に蟻の巡回ルートを横切れば蟻との交戦が発生する。結局、蟻と戦いながらドラゴンを追う形になり、消耗戦になります。1stチーム5名だけでは追い込めない」


「レイドだ」


 田所が立ち上がった。


「中層の複数地点を同時に塞いで、逃げ場を潰す。1stだけでは足りない。2nd、3rdを含む合同体制を組む。通路の分岐を全て塞げば——ドラゴンの逃走経路を制限できる。高梨、通路の地図を出せ。封鎖ポイントの選定に入る」


「了解です。——ただし」


 高梨が一瞬、言葉を切った。


「ドラゴンが我々の包囲に気づいた場合——包囲を突破しようとする可能性があります。3メートルの体躯が全力で突進してきた場合、品質スコア60以下の盾では持たないかもしれない。包囲要員には相当の覚悟が必要です」


「分かっている」



     



 レイド体制の構築に入ろうとした矢先——事態はさらに悪化した。


 その日の夕方。


 3rdチームのリーダー・神保が、品川入口のギルド臨時事務所に駆け込んできた。


 息が切れていた。左腕が不自然な角度でぶら下がっている。脱臼か、あるいは骨折。後ろにもう1人。チームメンバーの1人が、右脚を引きずりながらついてきた。顔面が蒼白で、目の焦点が合っていない。


 2名だけだった。


 3rdチームは5名だ。


「神保。何があった」


 田所が駆け寄った。


 神保は壁にもたれかかった。呼吸を整えようとしているが、声が震えて止まらない。


「地下55メートルで——ドラゴンに、やられました」


「55メートル?」


 田所の声が硬くなった。ドラゴンの活動域は中層の上部——30メートルから50メートル帯と報告されていた。55メートルは中層の深部だ。3rdチームの訓練域。


「週3回の訓練潜行中でした。門番討伐レイドに向けた連携訓練です。ドラゴンは30から50メートル帯にいると聞いていたので、55メートルなら安全だと判断しました」


 神保の目が揺れた。


「通路の壁面に——爪痕がありました。55メートル帯に。3本の引っかき傷。見たことのない深さでした。壁面のコーティングが削り取られて、地肌の岩盤が見えていた」


「蟻の残骸は」


「ありました。大型兵隊蟻。1メートル級が4体。外骨格が砕かれて、中身が空です。——大型を4体。群れで行動する大型兵隊蟻を、まとめて。そこで撤退を判断しました。遅すぎた」


 神保の声がさらに低くなった。


「通路を戻ろうとした瞬間——天井から来ました。天井です。翼を半開きにして、通路の天井付近に張り付いていた。暗くて見えなかった。蟻は地上を歩く。冒険者も地上を歩く。天井は——誰も見ていなかった」


「体長は」


「3.5メートル。翼を広げたら——通路幅いっぱいです。前肢の爪を突き出して急降下してきた。先頭の2人が間に合わなかった」


 神保の声が途切れた。


「1人は——爪が頭部を直撃しました。守護のヘルメットが砕けた。スコア40のヘルメットが。——もう1人は肩から胸を裂かれて、壁に叩きつけられた。3人目が包丁で応戦しようとしたけど——ドラゴンの尾に殴られて、吹き飛んだ。壁に——」


「3名か」


「3名が戻ってきません」


 沈黙が落ちた。テントの外からダンジョンの入口を出入りする冒険者の声が聞こえる。日常の音。だがこのテントの中は——日常ではなかった。


「——ドラゴンは、倒した人間の装備から先に手をつけていました。身体よりもAFを」


「AFを食った」


「はい。骨断包丁を——噛み砕いて飲み込んでいた。スコア55のやつです。それと外骨格のアームガードと胸部プレート。魔弾銃も。全部食った。——俺ともう1人が逃げ出すまで、ドラゴンはAFを食うのに夢中でした。俺たちを追わなかった。AFの方が俺たちより価値があるんだ。あいつにとっては」


 黒川が声を抑えて言った。


「ドラゴンはAFを積極的に取り込み、自らの力にしている。骨断包丁を取り込んだ場合——衝撃波を使える可能性が出てきます」


 田所が電話を取った。


「佐々木参事官。田所です。——緊急の報告があります」


 声は平静だった。だが受話器を握る手の関節が白くなっていた。


「3rdチームが壊滅しました。5名中3名が帰還していません。ドラゴンの活動域が55メートル帯にまで拡大しています。体長は3.5メートル。骨断包丁を含む高品質AFを捕食しています。——ギルドの合同レイドだけでは対処困難な可能性が高い。鬼庭の投入を正式に要請します」


 電話の向こうで佐々木が数秒黙った。


「了解した。巖道先生に伝える」


 電話を切った田所は、壁の断面図を見た。赤いマーカーの点に、55メートルを追加した。


 ドラゴンの活動域が、日を追うごとに深層に向かって伸びている。2週間前は15メートル。今は55メートル。


 このペースが続けば——来週には深層の入口、60メートル台に到達する。門番がいる100メートルの大空洞にまでドラゴンが到達したら——門番とドラゴンが戦うことになるのか。あるいは——


 田所は考えたくなかった。だが考えなければならなかった。


 もしドラゴンが門番を倒したら。門番という蓋がなくなったら。100メートル以深に何があるのか、誰も知らない。その蓋を——ドラゴンが食い破るかもしれない。



     



 六本木ヒルズ。45階。深夜。


 ヘカテがタブレットを手にリリスの前に立った。


「シルバーゲートの中層活動チーム——冒険者4名のグループが3日前から連絡途絶です。品川入口から中層に向かったまま帰還していません」


「ダンジョン内の事故は珍しくない」


「通常なら、はい。しかし今回は状況が異なります。松田経由の情報ですが、ダンジョン内に蟻以外の大型爬虫類が出現しており、複数の冒険者が殺害されています。ギルドが活動自粛要請を出し、中層以深への活動が大幅に制限されている状況です」


 リリスが目を開けた。


「蟻以外の生物が。——詳しく」


「掲示板では『ドラゴン』と呼ばれています。体長3メートル以上。数週間前に浅層で50センチの爬虫類として初めて確認されましたが、蟻とアーティファクトを捕食して急速に成長しています。AFを食べるとその概念を取り込んで自身の肉体に統合するという報告があり、現在は中層の武器では鱗に傷をつけることも困難なほど硬化している。2週間で確認が取れている範囲だけで7名が死亡。ギルドの3rdチームが壊滅し、1stチームですら正面戦闘を避けている状態です」


 カーミラが口を挟んだ。


「AFの概念を取り込む? ダンジョンがAFを作るのは知っているが——それを食って強くなる生物がいるということか」


「はい。AFを食べることで、それに含まれる概念を自分の身体に統合しているというのが、ギルドの見解です。事実として鱗はより硬く、爪はより鋭く、肉体はより強靭になっていると。成長が止まる兆候はありません」


 リリスが指でテーブルを叩いた。


「ダンジョンに入れない我々にとって、ダンジョン内部の生物は直接の脅威ではない。だがシルバーゲートの運営に影響が出ている。中層以深の活動が止まれば、護符の回収が滞る。——松田に中層以深への派遣を一時停止させろ。ドラゴンが排除されるか安全が確認されるまで、冒険者を犠牲にする意味はない」


「了解です。——もう一つ。このドラゴンについて、気になる点があります」


「何だ」


「あくまで推測ですが——ダンジョンの蟻は血の主の創造物です。世界樹も同じ起源を持つと見られている。我々の始祖もまた、血の主の血から生まれた。では、蟻以外の生物がダンジョンに出現し、蟻を捕食し、AFの概念を取り込んで成長する——この生物もまた、血の主に関連する存在ではないでしょうか」


 リリスが一瞬、沈黙した。テーブルを叩いていた指が止まった。


「……可能性はある。蟻と世界樹と我々——全てが血の主から派生している。ドラゴンも同じ起源を持つなら——血の繋がりがあるかもしれない」


「始祖なら、血のネットワークを通じて何か感じ取れるかもしれません」


「母に聞いてみる。——だが期待はするな。母も全ての創造物を把握しているわけではない。ダンジョンに入れない以上、この生物を直接調べることもできない。情報の収集を続けろ。松田経由でギルドの動向を追え」


「了解です」



     



 新宿。ボーダーライン・エクスプロレーション。4階。


 御堂蓮司が封書を開いた。


 ギルド安全管理部門からの正式な協力依頼。「ダンジョン内爬虫類型超常生物(通称ドラゴン)の調査・排除に関する協力要請。エリート兵隊蟻の討伐実績を有する民間冒険者チームへの依頼」。


 討伐成功時の報酬は5億円。調査協力のみでも日当50万円。


「5億か」


 轟木が封書を覗き込んだ。


「悪くない。装備の更新費用が丸ごと賄える」


「問題は、ドラゴンが我々の目的に影響するかどうかだ」


 九条が腕を組んで壁にもたれた。限界値25に到達した身体。これ以上の成長はない。だがその分、技術と判断力の研磨に集中できている。


「ドラゴンは現在、中層の30メートルから55メートル帯で活動している。100メートルの壁とは活動域が異なる」


 御堂が地図を広げた。品川ダンジョンの断面図。氷室が探索時に描いた手書きの通路構造図だ。


「だがドラゴンが成長を続ければ、いずれ深層に到達する。我々が100メートルを目指す途上で、ドラゴンと遭遇する可能性がある。門番とドラゴンの両方を同時に相手にする状況は——避けたい」


「ギルドの1stが追い込めない相手だ。我々5人で正面から挑んで勝てるか」


 鶴見が静かに言った。白髪を束ねた老兵の目が、地図を見据えている。


「分からない。だからこそ、情報が要る。——ギルドの合同作戦に参加すれば、ドラゴンの弱点、行動パターン、成長の限界について直接情報が得られる。それらを知ることは、100メートルの壁の突破にとっても有益だ」


「結論を出す」


 御堂が全員を見た。


「協力する。ただし我々の本来の目的は変えない。ドラゴンの排除はギルドの仕事だ。我々はそこに便乗して情報と経験を得る。——依頼を受けろ。報酬は全額、装備の更新と100メートル攻略の準備に充てる」


 氷室が頷き、返信を書き始めた。



     



 地下85メートル。深層。


 暗闇の中で、金色の瞳孔が光っていた。


 ドラゴンの足元に、エリート兵隊蟻の死骸があった。体長3メートル。80メートル以深に配置された個体。金属光沢の外骨格が——粉砕されていた。頭部が引き千切られ、胴体の内側が空洞になっている。体液を余さず吸い尽くされた抜け殻。


 ドラゴンの体長は4メートルに達していた。


 2週間前とは別物だ。銅色だった鱗は暗い赤銅色に変わり、表面に微細な六角形の紋様が浮き出ている。紋様は光を受けると微かに脈動する。前肢の爪は30センチを超え、先端は透明に近い硬度を持っていた。振り下ろせば5メートル先の空気が裂ける。3rdチームから捕食した骨断包丁の衝撃波を放つ力が、爪の一振りに乗るようになった。エリート兵隊蟻の外骨格を爪に触れずに切断できる。


 翼は完全な骨格と膜を持ち、折り畳めば背中に密着する。広げれば翼幅5メートル。通路内での滑空と急降下は自在だ。天井高15メートルの深層の広間では、壁面を蹴って飛び移り、上空から蟻を急襲する。地上戦と空中戦の切り替えを、ドラゴンは本能的に使いこなしている。


 喉の奥の射出器官。3つの魔弾銃の概念が統合され、圧縮空気を高圧で射出する構造がほぼ完成していた。5メートル先の蟻を吹き飛ばす程度の圧縮空気弾。まだ火炎は出ない。だが——射出の瞬間、喉の奥が橙色に光る。圧縮空気が摩擦熱で微かに発光している。あと数段階の概念統合で、射出物質が空気から別の何かに変わる兆候だ。


 ドラゴンはエリートの死骸の傍に座り、暗闇を見ていた。


 知能が発達していた。


 数多の蟻を食い、AFを食い、人間を4名食った。蟻の体液からはフェロモンを。AFからは概念を。そして人間の脳からは——知識の断片を。


 AFの概念統合と同じメカニズムだ。AFは「概念が込められた物体」であり、人間の脳は「知識と記憶の概念が蓄積された器官」だ。ドラゴンの消化器官は、物理的な素材と概念的な情報を分離して吸収する。金属は骨格と鱗に。フェロモンは筋繊維に。概念は——それぞれの機能に最適な場所に統合される。


 人間の知識の断片は、ドラゴンの知性に統合された。


 完全な記憶の再現ではない。言語をそのまま理解するわけでもない。固有名詞も文法も、人間の文化的文脈も——正確には理解していない。だが概念として。断片的に。


 戦術。人間が蟻と戦う時に使う陣形。前衛と後衛。フェイント。退路の確保。挟撃。包囲。——これらが直感として身についていた。ドラゴンの待ち伏せ型の狩りは、蟻の行動パターンの学習だけでなく、人間の戦闘知識の断片を応用した結果でもある。天井に張り付いて急降下する戦術は、蟻には存在しない行動だ。人間の記憶の中にあった「高所からの奇襲」という概念が、翼を持つドラゴンの身体で実現された。


 だが——より広い知識の断片も流入していた。


 4人目の人間。3rdチームの冒険者。指数24。この男の脳に蓄積されていた情報は、他の3人よりも多かった。冒険歴が長く、社会経験も豊富だった。ニュースを毎日見ていた。世界情勢に関心があった。


 その男の脳から流入した概念の断片。


 ニュースの映像。テレビの画面。デスクトップパソコンのブラウザ。新聞の見出し。——それらに付随する視覚情報と感情の記憶が、概念のかたまりとしてドラゴンの知性に流れ込んだ。


 この地下の通路の外に——世界がある。


 地上がある。空がある。海がある。大陸がある。国がある。都市がある。


 ドラゴンの概念的本能——「最強生物」「何者にも縛られない」「孤高の覇者」——が、この情報に反応した。


 最強とは何か。


 この地下の通路で蟻を食い、人間を食い、強くなること。それは最強ではない。この暗く閉じた世界のいち捕食者に過ぎない。


 最強とは——この世界のあらゆる存在の頂点に立つことだ。


 人間は個体としては弱い。だが人間は集団で道具を使い、環境を改変し、この惑星の頂点に立っている。その人間が持つ最も強力な道具。概念として流入する断片——「破壊力を集約して遠距離から殲滅する装置」。航空機。戦車。ミサイル。——核。


 最強であるためには、その最強の道具を持つ集団を超えなければならない。


 ドラゴンの知性は、まだ人間の言語を完全には理解しない。固有名詞を正確に認識しているわけではない。だが概念は理解する。「この惑星で最も多くの破壊力を集中させている集団」。それが太平洋の向こうにいること。空母と呼ばれる巨大な船を何十隻も持ち、大陸を跨いで攻撃する能力を有すること。


 まだだ。今の身体ではまだ足りない。この程度では——届かない。


 だが——段階を踏めばいい。


 まずこの地下で、さらに成長する。より深い層の、より強い蟻を食う。より高品質のAFを食う。翼を完成させる。ブレスを完成させる。


 そして地上に出る。最寄りの軍事力を試す。勝てるなら、その先へ。勝てなければ——退いて、さらに成長してから再び挑む。


 その果てに——太平洋の向こう、最強の集団がいる。


 ドラゴンの自己認識は——「ドラゴン」だ。真央の無意識から転写された概念。ファンタジー世界の最強種。宝を溜め込み、国を焼き、勇者を殺す。


 そのドラゴンが現実世界に生まれた。現実世界の最強と対決するのは——概念の完成として必然だ。


 傲岸不遜。何者にも縛られない。孤高の覇者。この世界のあらゆる力の頂点に。


 ドラゴンは85メートルの通路を歩き始めた。より深い層へ。より強い獲物がいる場所へ。より高品質の宝箱がある場所へ。


 翼が肩の後方で広がりかけ、通路の壁面を擦った。まだ狭い。この通路ではもう翼を完全に広げられない。


 ——外に出なければならない。


 その日が近いことを、ドラゴンの本能が告げていた。

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