第55話「竜の子」
地下180メートル。女王蟻の間。
女王蟻の触角が震えた。
巣の全域から流れ込む血のネットワークの情報。その中に——新しい信号が混じっていた。
浅層。地下15メートル。
兵隊蟻が、未知の生物を検知していた。
未知。女王蟻にとって、巣の中で「未知」のものは極めて少ない。人間は既知だ。養殖対象として管理している。蟻は全て女王蟻が産んだ個体であり、1体の例外なく把握している。世界樹の根は——先日から浅層に到達していた。これも既知だ。血の主の匂いがする隣人。
だが今、浅層にいるものは——そのいずれでもなかった。
女王蟻がネットワーク越しに情報を読んだ。
爬虫類。体長50センチ。4本の脚。鱗に覆われた体表。長い尾。頭部には鋭い歯を持つ顎。鱗の表面に暗い金属質の光沢がある。通常の爬虫類とは異なる——外見はトカゲに似ているが、体格と鱗の質が桁違いだ。
そして——匂い。
血の主の匂い。
女王蟻の触角が、より深く震えた。
この匂いは知っている。巣の全ての起源にある匂い。女王蟻自身の体内を流れるフェロモンの源流。世界樹の根からも同じ匂いがした。
だがこの生物は——巣の一部ではない。世界樹の一部でもない。血の主から派生した、第三の存在。蟻でも、植物でもない。動物だ。
動く。移動する。そして——
食べている。
女王蟻が浅層の兵隊蟻に視覚情報を要求した。ネットワーク越しに、兵隊蟻の複眼が捉えた映像が伝わってくる。
地下15メートルの通路。琥珀色の壁面。小型兵隊蟻が2体、巡回していた。体長30センチ。浅層の標準的な個体だ。
2体が、未知の生物と遭遇した。
未知の生物——幼竜と呼ぶべきもの——は、通路の中央に立っていた。体長50センチ。鱗が暗い銅色に光っている。尾が床を叩くように揺れている。縦に裂けた瞳孔が、金色に輝いていた。
兵隊蟻2体が、触角を向けた。未知の匂い。だが——血の主の匂いも混じっている。蟻の本能は混乱している。排除すべき異物か。血の主の眷属か。判断が——遅れた。
幼竜が動いた。
速い。体長50センチの爬虫類の動きではない。床を蹴り、1体目の兵隊蟻の頭部に飛びかかった。顎が外骨格に食いついた。
小型兵隊蟻の外骨格は、浅層の冒険者が低品質のアーティファクトを使って砕ける程度の硬度だ。だが、それは普通の動物が砕けることを意味しない。しかし、幼竜の顎は——それを噛み砕いた。歯が外骨格を貫通し、中の体液を啜った。
2体目の兵隊蟻が反応した。大顎を開き、幼竜に突進した。だが幼竜は1体目の残骸を蹴って跳び退き、2体目の横を抜けた。そして背後から——尾で打った。
尾の一撃が、2体目の脚の関節を砕いた。バランスを崩した蟻に、幼竜が飛びかかった。同じように頭部を噛み砕き、体液を飲んだ。
2体。10秒。
幼竜は血と体液にまみれた口を開閉しながら、通路の壁に背を寄せた。体液を吸収するたびに、鱗の光沢が僅かに増していく。成長している。蟻の体液に含まれるフェロモンを摂取し、それを糧にして変態を加速させている。
女王蟻は、この光景をネットワーク越しに見ていた。
判断を求められていた。
女王蟻の思考は、人間の言語で表現できるものではない。論理ではなく、本能と経験の蓄積による重み付けされた反射の連鎖だ。だが——その判断のプロセスを、人間に近い言葉に翻訳するなら、こうなる。
血の主の創造物は排除しない。それは本能の最も深い層に刻まれた原則だ。
世界樹の根がダンジョンの浅層に到達した時、女王蟻はこの原則に従って排除を見送った。根は血の主の匂いを持ち、ダンジョンのフェロモンと互換性のある物質を放出していた。巣のシステムを破壊するものではなかった。蟻たちが本能的に避けるだけで、実害はなかった。
吸血鬼がダンジョンに侵入した時は、異なる判断をした。吸血鬼も血の主から派生した存在だった——血の主の匂いの残滓はあった。だが吸血鬼の身体はフェロモンに一切反応しなかった。ダンジョンのシステムに組み込めない存在。養殖対象にも、共生者にもならない。しかも吸血鬼は蟻を攻撃し、巣の構造を脅かした。血の主の匂いの残滓があっても、巣のシステムと根本的に相容れない存在は——異分子として排除した。
では、この幼竜はどうか。
血の主の匂いがある。吸血鬼よりも遥かに濃い。直接血を受けた個体だ。世界樹の根と同程度の濃度で、血の主の因子が全身に行き渡っている。
だがこの幼竜は——蟻を捕食している。2体の兵隊蟻を殺し、食べた。体液を吸収し、成長の糧にしている。
世界樹の根は、蟻を食べなかった。通路の壁面を変質させはしたが、蟻を殺さなかった。だから今のところは共存できている。
この幼竜は——食べる。
浅層の兵隊蟻2体は、巣全体の損害としては微小だ。浅層には数千体の兵隊蟻がいる。2体の喪失は誤差の範囲内だ。
だが幼竜は成長している。蟻を食べるたびに大きくなっている。今は50センチ。浅層の小型兵隊蟻しか食べられない。だが1メートルになれば中型兵隊蟻も捕食対象になる。2メートルになれば——エリートすら。
そして——この幼竜の成長速度は異常に速い。浅層に侵入してから数時間で、既に40センチから50センチに成長した。蟻の体液を糧にしている以上、食べれば食べるほど速くなる。
女王蟻は、二つの可能性を秤にかけた。
可能性1。幼竜が成長を続け、巣の個体を大量に捕食し、巣の機能を損なう。最悪の場合——門番や、体内で芽生え始めている新たな女王の卵に危害を及ぼす。
可能性2。幼竜が成長しても、巣の規模から見て許容範囲の損害に留まる。血の主の創造物として、巣のシステムに何らかの形で組み込まれる。あるいは——巣の外に出ていく。
吸血鬼を排除した時の判断基準は明確だった。フェロモンに反応しない。巣のシステムと相容れない。したがって異分子。
幼竜はフェロモンに——反応している。蟻の体液を摂取し、フェロモンを吸収している。ダンジョンの空気中のフェロモンにも影響を受けている可能性がある。巣のシステムと完全に相容れないとは——まだ、言えない。
そして何より——血の主の匂いが、濃い。女王蟻の本能の最も深い層が、この匂いに対して「排除せよ」という指令を出すことを拒んでいる。
観察する。
損害が許容範囲を超えるまでは、手を出さない。
ただし——損害が増えれば、判断を変える。血の主の創造物であっても、巣を崩壊させる脅威には対応しなければならない。それは世界樹の根に対しても同じだ。今のところ根は蟻を殺さないから共存できている。もし根が蟻を殺し始めれば——その時は、根すらも排除する。
血の主の匂いは、絶対的な免罪符ではない。
女王蟻は浅層の兵隊蟻に指令を送った。幼竜を直接攻撃するな。ただし幼竜の位置と行動を常時監視せよ。接近する兵隊蟻は——回避行動を取れ。犠牲を最小限にしながら、幼竜の成長速度と行動範囲を記録する。
蟻は、待つことに倦まない。
だが——この判断が正しかったかどうかを検証する時間は、女王蟻が思っていたよりも短かった。
東京ダンジョン攻略スレ Part.401
623:名無しの冒険者
浅層で変なもん見た
625:名無しの冒険者
>>623
また世界樹の根か?
627:名無しの冒険者
>>625
違う
トカゲ
でかいトカゲがいた
630:名無しの冒険者
トカゲ???
632:名無しの冒険者
>>630
マジだって
地下15mの通路に体長50cmくらいの爬虫類がいた
鱗が金属みたいに光ってた
蟻の死骸が近くに転がってた
634:名無しの冒険者
写真は
636:名無しの冒険者
>>634
撮ろうとしたけどブレた
暗いし動き速いし
これが精一杯
[画像:暗い通路の中で、金色に光る二つの点(瞳?)と、暗い体表の輪郭が辛うじて見える。ピントが合っていない]
638:名無しの冒険者
なにこれ
心霊写真かよ
641:名無しの冒険者
>>638
目が光ってんだよ
金色に
あと鱗が銅色っぽかった
普通のトカゲじゃない
643:名無しの冒険者
ダンジョンにトカゲって
蟻しかいないんじゃなかったのか
645:名無しの冒険者
>>643
蟻以外で初めてじゃね?
モンスター化した冒険者は人間だからカウント外として
647:名無しの冒険者
蟻を食ってたっぽいのがヤバい
蟻を食う生物がダンジョンに棲みついたら
生態系が変わるぞ
650:名無しの冒険者
新種のモンスターか?
蟻から進化した何かとか
652:名無しの冒険者
>>650
蟻から爬虫類は進化しねえだろ
654:名無しの冒険者
外から入ってきたんじゃね?
ペットが逃げ出したとか
656:名無しの冒険者
50cmのトカゲって
日本にそんなでかいトカゲいるか?
658:名無しの冒険者
>>656
外来種ならいる
ミズオオトカゲとかグリーンイグアナとか
ペットが逃げ出して野生化した例はある
661:名無しの冒険者
でもダンジョンの中に入っていくか?
普通のトカゲがフェロモンの中で生きていけるのか
663:名無しの冒険者
フェロモンに適応した爬虫類
強化されたトカゲ
……冗談抜きで怖いんだが
665:名無しの冒険者
あと別件だけど
15m帯の宝箱が壊されてた
中身が散乱してて蟻の体液が飛び散ってた
あのトカゲがやったのか
667:名無しの冒険者
宝箱を壊す?
蟻は宝箱を壊さないぞ
中に入ってるAFを取り出すのは人間の仕事だ
670:名無しの冒険者
>>667
宝箱に金属部品があるだろ
蝶番とか留め金とか
金属に興味があるのか?
672:名無しの冒険者
ドラゴンかよ
お宝に目がないトカゲとか
674:名無しの冒険者
>>672
草
676:名無しの冒険者
草じゃねえよ
浅層に蟻食いの爬虫類が住み着いたら
初心者冒険者にとっては蟻より危険かもしれんぞ
678:名無しの冒険者
ギルドに報告したのか
681:名無しの冒険者
>>678
した
ギルドは「確認する」とだけ
でもさっき品川入口に注意喚起の張り紙が出てた
「浅層の一部区画で蟻以外の生物の目撃情報あり。単独行動は避け、遭遇した場合は交戦せず速やかに撤退すること」
市ヶ谷。防衛省地下施設。午後。
佐々木参事官が巖道の訓練終了を待って、報告に来た。
「先生。ダンジョン内の新しい情報です」
巖道が袴の裾を直しながら振り返った。
「何か」
「ダンジョン内に、蟻以外の大型生物が確認されたという報告が複数上がっています」
巖道の動きが止まった。
「蟻以外?」
「はい。冒険者からの目撃情報です。浅層——地下15メートル付近で、体長50センチ程度の爬虫類が目撃されています。蟻を捕食していたとの証言があり、宝箱が破壊されていたという報告もあります。ギルドが注意喚起を出しました」
「爬虫類か。——蟻の変異か」
「不明です。蟻から爬虫類に変異するとは考えにくい。外部から侵入した可能性が指摘されています。ダンジョンの入口は都内に67箇所ありますが、非管理入口も多く、動物が迷い込むことは物理的に可能です」
「フェロモンで強化された動物が生まれた、ということか」
「そうなります。蟻を捕食しているなら、蟻の体液からフェロモンを摂取している。それが爬虫類の身体を強化し——成長を促進している可能性があります」
巖道が腕を組んだ。
「50センチのトカゲか。今のところは浅層の話だ。脅威度は低い」
「はい。ただ——成長を続ければ話が変わります。深層に移動して大型の蟻を捕食し始めた場合、冒険者にとっても鬼庭にとっても想定外の脅威になり得ます」
「蟻と違って行動パターンが読めんからな。蟻は門番行動を取る。巡回ルートがある。パターンがある。だが野生の爬虫類は——そうはいかん」
「仰る通りです。種の同定も出来ていません。冒険者が撮影した写真がありますが——」
佐々木がタブレットの画面を見せた。暗い通路の中で金色に光る二つの点と、暗い体表の輪郭が辛うじて見える画像。
「これでは何も分かりませんな」
「ギルドに追加調査を要請しています。1stチームは深層での活動が主なので、浅層の調査は2ndか3rdチームに依頼することになりますが——」
「佐々木くん」
巖道が佐々木を見た。
「今は六本木が最優先だ。管理庁の本格稼働。鬼庭の実戦投入。吸血鬼への対処。——深層案件ならともかく、浅層のトカゲは、ギルドに任せておけばいい。50センチの爬虫類に鬼庭を出す必要はない」
「仰る通りです。——ただ、報告だけは上げておきます。超常事態対策室にも」
「そうしろ。記録は残しておくべきだ。——いつ何が起きるか分からん世の中だからな」
巖道が苦笑した。穏やかな老人の笑みだが、その目は笑っていなかった。
100メートルの壁。六本木の吸血鬼。世界樹の拡大。そして今度は——ダンジョン内の未知の生物。
超常案件が、一つずつ増えていく。
佐々木が退出した後、巖道は一人で訓練場に残った。
骨断包丁を手に取り、素振りを始めた。振り下ろすたびに衝撃波が空気を裂き、5メートル先の訓練用のダミーに深々と切り傷を入れる。
門番。吸血鬼。——そして、トカゲ。
巖道はまだ知らない。その50センチのトカゲが、いずれ世界を揺るがす存在になることを。




