第54話「胎動」
墨田区。真央のアパート。朝。
テーブルの上の飼育ケースの中で、ヒョウモントカゲモドキが餌のコオロギを食べていた。
買ってきてから3日目。真央はパンフレット通りに飼育環境を整えた。ケースの底に爬虫類用のマットを敷き、水入れを置き、パネルヒーターで床を温めている。温度は28度。湿度は40パーセント。トカゲは黄色い体に黒い斑点を散らし、太い尻尾をゆったりと揺らしている。
真央はコーヒーを飲みながら、トカゲを見ていた。
3日間観察した。よく食べる。よく寝る。たまにケースの壁にぺたりと張り付いて、丸い目でこちらを見ている。爬虫類特有の無表情。何を考えているのか分からない。
蜘蛛に血を垂らした時のことを思い出す。あの時は空き家に棲みついていた女郎蜘蛛に3滴。変化は半日で始まり、翌日にはサイズが倍以上になった。知性が芽生え、糸の質が変わり、行動パターンが複雑化した。10日たらずでで2メートルのアラクネになった。
木に血を垂らした時は、ケヤキの樹皮に指を押し当てた。変異進行度0.3パーセントから始まって、数ヶ月かけて世界樹になった。植物は遅い。
トカゲは——どうなる。
「よし、やるか」
真央がポケットから万年筆を取り出した。魔道具化した万年筆。ペン先で左手の人差し指を刺す。チクリ。赤い雫。
ケースの蓋を開けた。
トカゲが真央の指を見上げた。丸い目。舌がちろちろと出て、血の匂いを嗅いでいる。
「もしかしたらドラゴンとかになっちゃったりしてな」
呟きながら、血を垂らした。
ポタリ。ポタリ。ポタリ。
3滴。蜘蛛と同じ量。トカゲの背中に、赤い雫が落ちた。
黄色い鱗の上に、血が広がる。一瞬だけ光ったような——気がした。
いや、気のせいだ。蜘蛛の時もそうだった。垂らした直後に目に見える変化は起きない。
トカゲは血を気にする様子もなく、尻尾を揺らしてケースの隅に移動した。
「そんなもんか」
蓋を閉じた。
——夕方に見に来よう。蜘蛛の時は、半日で変化が始まった。
コンビニのシフトが9時からだ。弁当を持って家を出た。
夕方。午後5時。
コンビニから帰宅した真央が、ケースを覗き込んだ。
「……おお」
声が出た。
トカゲが——大きくなっていた。
朝は15センチ程度だった。今は20センチを超えている。半日で5センチ以上成長した。蜘蛛の時以上のペースだ。
色が変わり始めていた。黄色い体の斑点が濃くなり、鱗の表面に暗い金属質の光沢が浮いている。鱗の一枚一枚が、微かに大きくなっていた。
尻尾が太くなっていた。筋肉が増えている。尾の付け根に、以前はなかった隆起がある。
真央がケースの蓋を開けて、指を近づけた。
トカゲの目が——変わっていた。虹彩が縦長になっている。猫に似た、縦に裂けた瞳孔。朝の丸い目とは別物だ。
「やっぱ変化してるな」
指をトカゲの鼻先に近づけた。
トカゲが——噛みついた。
小さな顎が真央の人差し指に食いついた。だが——痛くない。服の効果。魔道具化した服を着ている限り、着用者の肉体は鋼になる。トカゲの歯は、真央の皮膚に歯形すら残さなかった。
真央が指を引き抜いた。トカゲは顎を開き、不満そうに尻尾を振った。
「お前、噛むのか。——蜘蛛も蟻も、噛みついてきたことはなかったぞ」
アラクネは真央を「オヤ」と呼び、従順だった。蟻は真央を襲うことはなかった。だがこのトカゲは——噛んできた。
「態度でかいな」
面白い。血を与えた生物の中で、初めて「従わない」態度を見せた。
「まあいいか。明日もう一回見に来る。——コオロギ食えよ」
ケースにコオロギを5匹入れて、蓋を閉じた。蓋の上に辞書を重しとして載せた。
スマホで掲示板を開いた。コンビニ弁当を食べながらスクロールする。
東京ダンジョン攻略スレ Part.397
452:名無しの冒険者
浅層で変なとこ見つけた
20m帯なんだけど通路の壁が普通と違う
454:名無しの冒険者
>>452
変って何が
456:名無しの冒険者
>>454
壁のコーティングに銀色の筋が入ってる
普通は琥珀色だろ? それが銀色になってる区画がある
あと地面から植物みたいなのが生えてた
458:名無しの冒険者
植物?
ダンジョンの中に植物ってありえなくね
460:名無しの冒険者
>>458
ありえないと思うだろ?
でも見たんだよ 壁の亀裂から銀緑色の根みたいなのが出てた
463:名無しの冒険者
>>460
世界樹の根じゃね?
あの木の根が地下深くまで伸びてるって報道あっただろ
ダンジョンの浅層まで到達してても不思議じゃない
465:名無しの冒険者
>>463
それだ
世界樹の根がダンジョンに侵入してんのか
467:名無しの冒険者
やべえな
ダンジョンと世界樹が融合したらどうなんだ
469:名無しの冒険者
>>467
新しいアーティファクトが出るかもしれない
今までにない素材のAFが生まれる可能性はあるだろ
471:名無しの冒険者
夢が広がるな
474:名無しの冒険者
>>471
悪夢かもしれんぞ
476:名無しの冒険者
もう悪夢超えてるだろ
100mの壁とか吸血鬼とか蜘蛛女とか
人類は終わったんだよ既に
真央がスマホから目を離した。
世界樹の根がダンジョンに到達している。
「……根、そこまで伸びたのか」
前に鏡で確認した時は35メートルだった。浅層20メートル帯まで根が横に広がっていても不思議ではない。
ダンジョンの蟻と世界樹の根。どちらも真央の血から生まれたものだ。
「面白いな」
いつもの感想。
テーブルの上で、トカゲがケースの壁を爪で引っ掻いていた。カリカリという音。外に出たがっている。
「まだ駄目だ。もうちょっと大きくなってから出してやる」
シャワーを浴びて、ベッドに入った。
目を閉じる前に、最後にケースを見た。トカゲの縦に裂けた瞳が——暗闘の中で、微かに光っていた。
翌朝。
真央はアラームで目を覚ました。
テーブルのケースを見た。
——蓋が、ずれていた。
辞書が床に落ちている。ケースの蓋が3センチほど横にスライドしている。そしてケースの中に——トカゲはいなかった。
「……は?」
ケースを持ち上げた。マットの下。水入れの裏。コオロギも全部いない。トカゲが——消えている。
部屋を見回した。ベッドの下。キッチンの棚の裏。クローゼット。いない。
窓が、2センチほど開いていた。
真央は窓を開けた記憶がない。昨夜は閉めて寝た。だが——辞書を押し退けて蓋を開けたトカゲなら、古いサッシの窓を2センチ開けることも不可能ではない。
2階のアパートの窓。下は駐車場。コンクリート。
「……逃げたのか」
真央は窓の外を見た。トカゲの姿はどこにもない。
残念だった。
率直に、残念だった。蜘蛛の時と比較してしまう。蜘蛛は空き家に棲みついていたからどこにも行かなかった。木は根を張っているから動かない。
トカゲは——たった2日で逃げた。血を垂らしてから40時間ほど。
「脊椎動物は行動範囲が広いからな。飼育ケースじゃ無理だったか」
冷静に分析した。爬虫類には定住する本能がない。蜘蛛には巣への執着があり、蟻には巣を構築する本能がある。トカゲは——動く生き物だ。囲いに閉じ込めておけるタイプではなかったのだろう。
それに——噛みついてきた。蜘蛛も蟻も木も、真央に敵意を見せたことはない。このトカゲだけが、反抗的だった。
「お前は、俺に従う気がないってことか」
窓の外に向かって呟いた。返事はない。
真央は窓を閉めた。
「……まあいいか。どっかで生きてるだろ」
靴を履いて玄関を出た。階段を降りる。
駐車場のアスファルトに——爪痕があった。
3本の引っ掻き傷。真新しい。コンクリートに、1ミリほどの溝が刻まれている。昨日の時点では、コンクリートに傷をつけるほどの硬さはなかったはずだ。一晩で——爪が変わっている。
爪痕は駐車場の端まで続き、側溝の蓋の隙間に消えていた。
「地下に行ったのか」
側溝。排水路。その先は——知らない。
「まあ、そのうちどっかで見つかるだろ」
コンビニに向かって歩き出した。
トカゲのことは、もう頭から消えていた。
真央が知らないことが、二つある。
一つ。トカゲは逃走直後から急速に成長を続けていた。窓から飛び降りた時点で25センチ。コンクリートに爪痕を残した時点で30センチ。側溝に入った時点で35センチ。暗所で変態が加速している。
もう一つ。真央が血を垂らしながら呟いた言葉の全てが、血のネットワークを通じてトカゲの進化の方向を決定していた。
「もしかしたらドラゴンとかになっちゃったりしてな」
血のネットワークは、真央の願望の中から最も強い概念を抽出する。
最強生物。空を飛ぶ。ブレスを吐く。——ドラゴン。
ヒョウモントカゲモドキの遺伝子は、爬虫類の設計図を持っている。鱗。冷血。変温。だがその設計図の上に、「ドラゴン」という概念が上書きされた。鱗は装甲になる。変温は恒温に移行する。前肢の肩甲骨の後方に、翼の原基が膨らみ始めている。喉の奥で、未知の器官が形成を開始している。
そして——概念の核心。
傲岸不遜。何者にも縛られない。孤高の覇者。人間以上の知能。
飼育ケースから逃げたのは、「何者にも縛られない」の最初の発現だった。真央の指を噛んだのは、「最強生物」の本能が血の主ですら捕食対象と見なした瞬間だった。
トカゲは——もうトカゲではなかった。
ドラゴンの幼体は、側溝を抜け、排水路を辿り、暗い地下を進んでいた。
フェロモンの甘い匂いが、前方から漂ってくる。
世界樹の森。午後。
エマ・ホワイトリッジは、世界樹の根元に座っていた。
手に大きな銀緑色の葉を持ち、葉脈の紋様を指でなぞっている。果実を食べてから、植物の構造が「読める」ようになった。葉脈のパターンは、木がどこに水を送りたいか、どの枝を伸ばしたいかを示している。木の意思が、葉に書いてある。
ルイは少し離れた場所で、蔓と遊んでいた。
地面から伸びた銀緑色の蔓が、ルイの手の動きに合わせて揺れている。右手を上げると蔓が上に伸びる。左に振ると蔓が左に傾く。意識してやっているのではなく——ルイの感情に蔓が反応している。ルイが楽しければ蔓が踊り、驚けば蔓が縮む。
ルイは笑っていた。
「お姉ちゃん、見て。蔓が僕の真似する」
「見てるよ」
エマが微笑んだ。
耳の変化は続いていた。尖った先端が5センチ以上伸びている。髪で隠せなくはないが、注意して見れば分かる。指先の淡い銀色の発光は、夜になると現れ、日中は消えている。
視力と聴力は日に日に鋭くなっていた。エマは50メートル先の虫の種類を肉眼で識別できる。ルイは100メートル離れた小鳥のさえずりを、どの枝にいるかまで聞き分ける。
アラクネが枝の上から降りてきた。
「……ゴハン」
手に木の実を持っていた。世界樹の影響を受けた森の中の木から落ちた実だ。銀色の光沢を帯びている。
「ありがとう、アラクネ」
エマが受け取った。ルイが走ってきた。
3人で木の実を食べた。
アラクネが食べながら言った。
「……エマ。ルイ。マイニチ、カワッテル」
「うん。——怖くはないよ、もう」
「……ソウ。ヨカッタ」
アラクネが世界樹の幹を見上げた。
「……コノ木モ、カワッテル。ネガ……モット、トオクマデ、ノビテル。チカノ、フカイトコロマデ」
「根が伸びてるの?」
「……ウン。キガ、イッテル。チカニ……オオキイモノガ、アル。ソコニ、ムカッテル」
エマは世界樹の幹に手を当てた。木の感覚が流れ込む。根が地下深くに伸びている。遥か下に——巨大な空間がある。蟻が作った空間。甘い匂いのする場所。
「……ダンジョン」
エマが呟いた。ニュースで聞いたことがある。東京の地下に広がる巨大な蟻の巣。
「根がダンジョンに向かって伸びてる……」
「……ウン。トドイタラ……ナニガ、オキルカ……ワカラナイ」
エマは幹から手を離した。
変化は、自分たちの身体だけではない。世界樹そのものが変わり続けている。根を伸ばし、森を広げ、地下の深い場所に向かって——何かと繋がろうとしている。
風が吹いた。銀緑色の葉が揺れ、金属の擦れ合うような音が響いた。甘い匂いが広がる。
エマはルイの手を握った。
静かだった。
この森の外では、世界が動き続けている。だがここだけは——静かだ。
銀色の木と、蜘蛛と、二人の子供。
嵐が来ることを、木が教えてくれていた。根の先で——何かが動き始めている。まだ小さい。だが——速い。




