第53話「種」
世界樹の森。朝。
エマ・ホワイトリッジは、自分の耳に触れた。
昨日の「僅かな変化」は、一夜で明確になっていた。耳の上端が3センチほど伸び、鋭角に尖っている。指でなぞると、軟骨の形が完全に人間の耳から逸脱していた。
ルイの耳も同じだった。弟は自分の耳を何度も触り、碧い目を不安に揺らしていた。
「……お姉ちゃん。僕たち、どうなっちゃうの」
「大丈夫。痛くないでしょ」
「……うん。痛くない。でも——」
「怖い?」
ルイが頷いた。
エマは弟の手を握った。冷たくはなかった。果実を食べてから、二人の体温は微かに上がっている。指先の淡い銀色の発光は続いていた。夜間は消えていたが、朝日を浴びると再び光り始めた。
「私も怖いよ。でも——ここにいると、怖さが薄くなる。木がそう言ってるから」
エマが世界樹の幹に手を当てた。温かい振動。言語ではない何かが伝わってくる。「大丈夫」。「変わることは悪いことではない」。「お前たちは、なるべきものになっている」。
エマはその感覚を言葉にできなかった。だが——信じていた。木が嘘をつく理由がない。
二人とも空腹を感じなかった。昨夜食べた果実一つで、身体が満たされている。喉の渇きもない。世界樹の根元にいると、空気そのものが栄養を含んでいるかのような感覚があった。
エマが幹に手を当てて目を閉じた。
木の感覚が流れ込んでくる。根がどこまで伸びているか。地下の水脈の位置。この森の中にいる生き物たちの気配。小鳥が枝に3羽。地面の下に甲虫が数匹。そして——遥か地下の深い場所に、何か巨大な空間がある。木の根は、そこに向かって伸び続けている。
目を開けた時——足元の銀緑色の草が、エマの方向にゆっくりと傾いていた。
エマは気づかなかった。
ルイが森の中を歩いていた。世界樹の根元から10メートルほど離れた場所。地面が根で凸凹している。ルイの足が太い根に引っかかった。
転びかけた——瞬間、地面から蔓が伸びた。1本。ルイの手首に巻きつき、身体を支えた。ルイは転ばなかった。
蔓はゆっくりとルイの手首を離し、地面に戻った。
「……お姉ちゃん」
ルイの声が震えていた。だが恐怖ではなかった。驚きだ。
「今、蔓が——僕を支えた」
「見てた」
エマの目が丸くなっていた。ルイが転びかけた瞬間に、地面から蔓が伸びて支えた。ルイが何かをしたのか。それとも——木が自発的に助けたのか。
銀色の蝶が3匹、エマの周りを舞い始めた。世界樹の樹液を体表に纏った虫だ。翅が銀色の光沢を帯びている。払っても離れない。エマの肩の上を旋回し、髪の近くを飛んでいる。
ルイが蝶を見て不安そうな顔をした。——蝶がルイから距離を取った。
ルイが蝶を「きれい」と思った。——蝶がルイに近づき、指先に止まった。
「……お姉ちゃん、蝶が——僕の気持ちに反応してる」
「虫もなの……」
木だけではない。植物だけではない。この森の中の生き物が——二人の感情に反応している。
頭上から、糸が降りてきた。
アラクネが世界樹の枝から降りてきた。8本の脚で幹を伝い、二人の前に着地した。
「……オハヨウ」
「おはようございます、アラクネ」
エマが答えた。昨日の出会いから一晩で、蜘蛛の姿への恐怖は消えていた。世界樹がアラクネを「家族」と認識していることが、幹を通じて伝わってくる。
アラクネが二人の耳を見た。昨日より明確に尖っている。
「……カワッテル。キノウヨリ」
「……はい」
「……コワクナイ?」
エマは少し考えた。
「木が、大丈夫だって言ってるから。——怖くはない。でも……分からないことだらけです」
アラクネが頷いた。
「……ワタシモ、ソウダッタ。ウマレタトキ。カラダガ、カワッテ。コトバヲ、オボエテ。ナニモ、ワカラナカッタ」
「あなたも——変わったんですか」
「……クモダッタ。チイサイ、フツウノ、クモ。オヤノチデ——カワッタ」
ルイが聞いた。
「親って、誰ですか」
アラクネが少し黙った。
「……ワタシヲ、ツクッタヒト。コノキモ、ツクッタ。チカクニ、イル。デモ……イマハ、コナイ」
エマは聞きたいことが山ほどあった。この木を作った人。アラクネを作った人。果実の正体。自分たちに何が起きているのか。
だが——全部を一度に聞いても、アラクネの言葉では説明しきれないだろう。カタコトの日本語で、感覚を言語化するのは難しい。
「……少しずつ教えてください。私たち、しばらくここにいるので」
「……イル? ズット?」
「行くところがないんです。——ここにいても、いいですか」
アラクネの8つの目が——潤んだように見えた。蜘蛛の目に涙腺はない。だが、光の揺れ方が変わった。
「……イテイイ。ズット、イテイイ」
ルイが笑った。小さく。監禁されて以来、初めての笑顔だった。
墨田区。夕方。
真央は新しいアパートに帰る途中で、ペットショップの前を通りかかった。
東京の人口が減って客も減ったのか、店内は閑散としている。店の前にワゴンセールの箱が出ていた。
「爬虫類フェア ヒョウモントカゲモドキ 3,000円」
手書きのポップ。箱の中に、小さなプラスチックケースが並んでいる。その中を——トカゲが動いている。黄色い体に黒い斑点。太い尻尾。丸い目がこちらを見ている。
真央が足を止めた。
以前、掲示板で読んだ書き込みが頭に浮かんだ。「次はドラゴンでも出るんじゃね」。
蚊、蜘蛛、蟻、木。虫と植物はやった。脊椎動物は——まだやっていない。
3,000円。
真央は店に入った。
「これ、1匹ください」
店員がケースを袋に入れてくれた。餌のコオロギも一緒に。
「飼い方のパンフレットも入れときますね。温度管理だけ気をつけてもらえれば、丈夫な子ですよ」
「ありがとうございます」
アパートに戻った。テーブルにケースを置いた。
ヒョウモントカゲモドキ。レオパードゲッコー。手のひらに乗るサイズ。黄色い体に黒い斑点。太い尻尾を揺らしながら、ケースの壁にぺたりと張り付いている。丸い目が真央を見ている。
真央はケースの蓋を開けて、指を近づけた。トカゲが舌をちろちろと出して、指の匂いを嗅いだ。
「……お前に血をやったら、何になるんだろうな」
独り言。
ケースの蓋を閉じた。血は垂らさない。今日は買っただけだ。まず飼い方を覚える。餌のやり方。温度管理。寿命は10年以上。
「10年か。長いな」
パンフレットをめくりながら、コンビニ弁当を食べた。いつもの日常。
テーブルの上で、トカゲがケースの壁に張り付いたまま、丸い目で真央を見つめている。
早朝。江東区。ダンジョン入口。
5つの影が、暗闇に降りた。
境界の門。中核メンバー。前回の潜行から数週間が経過していた。
先頭の御堂蓮司が、通路の壁に手を触れた。指先に伝わる振動を読む。フェロモン指数27。限界値28まであと1ポイント。身体が変わり続けている。壁の微振動から、50メートル先の蟻の脚の動きが読み取れる。
轟木鉄平。指数26。鉄壁の盾と骨断包丁。限界値27まであと1。大柄な身体が通路の幅いっぱいに存在感を放つ。
九条凛。指数25。限界値25。——到達した。これ以上、蟻を倒しても指数は上がらない。戦闘力の天井。九条はそのことを淡々と受け入れていた。以前自分で言った言葉の通りに——「フェロモンが上げてくれないものを、自分で上げる」。技術を磨き、判断力を研いだ。指数25の身体で、26や27の人間と同等の仕事ができるように。
鶴見源蔵。指数24。限界値26。白髪を束ね、切断のナイフを逆手に。老兵の動きには無駄がない。
氷室透。指数21。風読みの羽飾りで索敵を続けている。戦闘要員ではないが、21まで上がったことで深層の環境への耐性が増した。以前より長く活動できる。
全員の首元に瞑想のアメジスト。全員が外骨格加工のアームガードと脛当てを装備している。鶴見が提案した外骨格防具が、全員分揃っていた。
今日の目的は、90メートル台の地図完成——そして、100メートルの大空洞の偵察だ。
地下85メートル。エリート2体を撃破。所要時間18秒。御堂と轟木の前衛、鶴見の遊撃、九条の後方支援。流れ作業のように淀みなく。2ヶ月前は必死だった相手が、今は障害物に過ぎない。
地下90メートル。通路の構造が変わった。天井高15メートル。壁面のコーティングが三重構造になり、フェロモンの濃度が跳ね上がる。甘い匂いが脳の奥に染み込む。アメジストの紫の光が脈動し、急性症状を抑え込んでいるが、全員の心拍が上がっていた。
氷室が額の羽飾りに指を当てた。
「……前方200メートル。大型の生体反応。3体。動いていません」
御堂が足を止めた。
「3体」
「はい。通常のエリートとは明らかにサイズが違います。1体が——巨大です。体長5メートル以上。残り2体は2メートル前後。3体が同じ場所に固まっている」
全員が足を止めた。
「門番だ」
御堂が言った。
ギルドの通達。「100メートル以深には、現在の冒険者の戦力では突破不可能な障壁が確認された」。何がいるかは書かれていなかった。だが——今、氷室の索敵がその正体の輪郭を捉えている。
鶴見が低い声で言った。
「……デカいな。エリートの比じゃない」
「5メートル超。——ギルド調査チームが歯が立たなかった相手が、あれか」
轟木が盾を構え直した。
「仕掛けるか」
「今日は仕掛けない」
御堂が即断した。
「観察だけだ。距離を詰めて、配置と行動パターンを確認する。交戦は——準備が整ってからだ」
5人が慎重に前進した。足音を消し、壁際を進む。アメジストの光量を絞り、存在感を極限まで殺す。
150メートル。100メートル。
大空洞の入口が見えた。
天井高20メートル。横幅30メートル。奥行き50メートル以上。琥珀色の壁面が、フェロモンの霧を通して鈍く発光している。
空洞の中央に——いた。
体長5.4メートル。
黒と銀の二層構造の外骨格。前脚の2本が扁平な刃状に変形している。長さ1メートル以上。6本の脚が床を掴み、触角だけがゆっくりと動いている。
その両脇に2体。1体は腹部が膨張し、末端に管状の突起がある。もう1体は外骨格の表面に霧のようなものが纏わりついている。
3体が連携している。前衛と射撃と回復。
御堂の呼吸が、微かに速くなった。
「……あれが、門か」
5人が大空洞の入口から30メートルの位置で、壁の陰に身を潜めた。
門番は動かなかった。触角がこちらを向いている。感知はしている。だが——まだ攻撃圏内ではないと判断しているのか、あるいは「入口」を守るのが任務であり、入口に来ない者には興味がないのか。
10分間の観察。
御堂は門番の配置を頭に刻んだ。突撃型が中央。砲撃型が右。治癒型が左。3体が等間隔に並んでいる。突撃型の刃の射程圏は半径5メートル。砲撃型の射程は——不明だが、腹部の構造から推測して20メートル以上はある。治癒型の回復霧は、空洞全体に薄く広がっている。
「……十分だ。撤退する」
御堂が全員を見た。
「今日見たものを持ち帰って分析する。あの3体をどう崩すか。それを考えるのが、次の仕事だ」
5人が無言で後退した。門番は追ってこなかった。
撤退路を歩きながら、御堂が口を開いた。
「門は、確かにあった」
誰に言うでもなく。
「門の向こうに何があるか分からない。異世界への入口かもしれないし、ただの蟻の巣の深部かもしれない。だが——門がある。門がある以上、開ける方法がある」
「中核5人では足りない。以前からそれは分かっていた。一般隊員の育成は進んでいるか」
氷室が答えた。
「木下が指数20に到達しました。佐野が19.8。伊東が19.5。——3人が深層入口に手が届く水準です。80メートル以深での実戦投入にはまだ時間がかかりますが、70メートル台での経験を積ませれば、あと2ヶ月で支援要員として機能するようになります」
「2ヶ月か」
「急がせれば中毒で潰す。急がなければ門番が強くなるかもしれない」
鶴見が言った。
「だがダンジョンは今のところ門番を増やしていない。3体のままだ。——時間は、まだある」
御堂が頷いた。
「あの門を開ける。全員で。——それが境界の門の存在理由だ」
地上に出た。早朝の東京。冬の空気が肺を洗い流す。
御堂はダンジョンの入口を振り返った。暗闇が口を開けている。その奥に——100メートルの壁がある。門番が待っている。
門は——近い。
手が届く距離にある。あとは——開ける力を、揃えるだけだ。




