第50話「エマとルイ」
六本木ヒルズ。45階。深夜。
リリスの居室。
テーブルを囲むのは、リリス、カーミラ、ヘカテ、田中修。ノクスとミラベルが末席に座っている。エリザベートが念話で参加。
ヘカテがタブレットを操作した。
「名古屋作戦の戦利品棚卸し、完了しました」
リリスが頷いた。
「報告を」
「まず全体像から。中華系犯罪組織はアーティファクト回収と本国への密輸を目的としており、3ヶ月間にわたりアーティファクトを蓄積していました。鈴木が積み込みを目撃した在庫に加え、拠点の倉庫と隠し金庫から追加で回収。全容は以下の通りです」
ヘカテがタブレットの画面をテーブルに置いた。
「武器系。散弾魔銃1丁、品質スコア50前後。陳偉龍の個人装備です。切断のナイフ3本、スコア30から55。魔剣包丁8本、スコア15から48。魔弾銃3丁、スコア25から47。破壊のバット2本、スコア30と42」
「防具系。守護のヘルメット2個、スコア28と35。力のブレスレット4個、スコア20から42。鋼鉄の脛当て3個、スコア18から35。加えて、陳偉龍が個人で使っていたエリート兵隊蟻の外骨格製防具一式」
「護符・支援系。守護の護符2個、スコア38と52。安らぎの香20本以上。癒しの絆創膏と癒しの泉水が多数。鑑定の鏡2個」
「その他。現金約800万円。闇市場取引用の仲介連絡先リスト」
カーミラが目を細めた。
「……3ヶ月で、これだけ集めていたということか」
「はい。特に護符2個の追加は大きい。これで一族の護符は——名古屋で得た2個と、シルバーゲートが先月追加した3個を合わせて、合計24個になります」
リリスの指がテーブルを叩いた。
「24個。——田中、配分計画を全面更新しなさい。武器系アーティファクトの追加で、転種の武装も一から見直す必要がある」
「了解しました。魔剣包丁8本とナイフ3本で、戦闘部隊の全員に近接武器が行き渡ります。魔弾銃3丁は——射撃に長けた転種に配分します。狙撃手の山田と、岡田、渡辺の3名が適任です」
「護符の配分は」
ヘカテが答えた。
「社会浸透組に12個。大阪3、名古屋2、東京7。六本木に——純種の日中活動用3個、戦闘部隊向け4個、エリザベート1個。ノクス1個。予備3個。計24個」
「転種の戦闘部隊4名に護符を渡すのは初めてだな」
田中が言った。
「はい。転種は純種に比べて護符の弱点軽減効果が低い。護符の品質によって変化しますが、並品質だと日光下での能力低下が3割残ります。ですが——六本木の外で作戦行動を行う場合、日中にまったく動けないのは致命的です。名古屋で実証されました。移動に護符は不可欠です」
「次の議題に移る」
リリスが言った。
「シルバーゲートの現状を」
「はい。冒険者は18名に増員。累計で護符3個、散弾魔銃1丁、骨断包丁1本を回収しています。骨断包丁の品質スコアは58。悪くない」
「問題は」
「2つ。1つ目は松田の管理能力の限界です。18名の冒険者を1人で管理するのは相当の負荷がかかっている。松田自身も限界を自覚しています。これ以上増員すれば——管理が破綻し、冒険者の不満や不審が蓄積する危険がある」
「18名で止める。松田に伝えろ」
「了解。2つ目は——同業他社からの観察です」
ヘカテの声が慎重になった。
「ボーダーライン・エクスプロレーションという探索企業が、シルバーゲートの動向を調べています。SGの冒険者の1人が、ボーダーラインの人間に聞き込みをされたと松田に報告しました」
カーミラの目が鋭くなった。
「何を聞かれた」
「会社の資金源と、回収したアーティファクトの行き先。——深い詮索ではなく、競合企業としての情報収集の範囲です。吸血鬼との関連に辿り着いている気配はありません」
「ボーダーラインは何者だ」
「新宿に拠点を置く探索企業。従業員32名。ダンジョン攻略を専門としています。深層にも手を伸ばしている。SGを含む複数の探索企業を調べているようで、SGだけを狙っているわけではない」
「現時点では問題なし、ということか」
「はい。ただし監視は継続します」
「次。血液供給の件」
リリスの声が、僅かに硬くなった。
ヘカテが報告した。
「人質は62名。前回の68名から6名減少。衰弱死4名、グール化2名。安定して採血可能なのは48名です。赤十字2拠点で週50リットルの上限に達しています。現在の一族規模では——ぎりぎり均衡していますが、余裕はゼロ」
「余裕がゼロというのは——1名でも転種が増えれば破綻する、ということ?」
ミラベルが口を開いた。
全員がミラベルを見た。金色の瞳が静かに光っている。
「はい。その通りです。——私が試算した数字を報告してよろしいですか」
リリスが頷いた。
「一族が100名規模に拡大した場合、週200リットル以上の血液が必要です。現行の供給源——人質と赤十字——では桁が足りません。仮に人質を200名に増やしても、その200名を維持するための食料・水・衛生管理のコストが発生します。人質を増やすことは解決策にならない」
「では何が解決策になる」
「3つの選択肢があります。1つ目、人間との取引。血液バンクに正規ルートでアクセスする。これは一族の存在が人間社会に受容された後でなければ不可能です。2つ目、畜産。家畜の血液で代替する。これは——検証していませんが、人間の血液とは成分が異なるため、完全な代替にはならない可能性が高い」
「3つ目は」
「裏社会のルートで人間を確保する。血液源として」
沈黙が落ちた。
ヘカテが補足した。
「陳偉龍のネットワーク情報から、東京で人身売買を行っている組織の存在が浮上しています。社会混乱に乗じて活動を活発化させている」
リリスが目を閉じた。数秒。
「直接支配はしない。顧客として接触する」
「具体的には」
「陳偉龍を仲介役にして、組織には『人間を確保して指定の場所に運ぶ』業務を委託する。吸血鬼側は金を払う客としてしか見えない構造にする。公安に摘発されても、辿り着くのは犯罪組織、そこから陳偉龍の偽装身分、そして行き止まり」
カーミラが付け加えた。
「血の確保だけではない。名古屋で分かったように、フェロモン強化された人間の転種化は血液コストが高すぎる。通常の人間を確保して血液源にする方が、はるかに効率的だ」
田中の表情が動かなかった。元SATの男は、人身売買という言葉を聞いても顔色を変えない。転種になってからの田中は、一族の存続のために必要な判断を合理的に受け入れる。だが——一瞬だけ、目が伏せられた。
「……この件は、エリザベートに一任する。陳偉龍の管理と合わせて」
リリスが結論を出した。
「最後に。ノクスの評価」
カーミラがノクスを見た。
「良い初陣だった。陳偉龍を余裕をもって確保した。霧化0.8秒は実戦でも十分なスピードだ。散弾を受けても結晶化で防いだ。——だが」
カーミラの声が低くなった。
「あの中国人はフェロモン指数22程度だ。巖道の部隊には——指数30を超える人間がいるという情報がある。正確な数値は分からないが、陳偉龍の数値とは次元が違う相手だ。名古屋の経験だけで満足するな」
ノクスの蒼い瞳が、真っ直ぐカーミラを見た。
「固有形態が、まだ決まっていません」
「分かっている。あの程度の相手では、本能が形を選ぶほどの危機ではなかったということだ。——お前の固有形態が決まるのは、本当に殺されかける時だ。名古屋はその前段に過ぎない」
ノクスは何も言わなかった。ただ、自分の右手を見た。結晶化した血が、指先で微かに揺れていた。形を持たない。まだ。
「以上で幹部会を終了する。各自、持ち場に戻りなさい」
リリスが立ち上がった。全員が席を立つ。
ノクスが最後に部屋を出る時、リリスが念話を送った。
《ノクス。焦る必要はない》
ノクスは振り返らなかった。ただ、微かに頷いた。
東京。台東区。
蔵前のビジネスホテル。午後2時。
6階のツインルームのドアに「DO NOT DISTURB」の札がかかっている。室内のカーテンは閉め切られ、昼間だというのに暗い。
ベッドの一つに、エマ・ホワイトリッジが座っていた。
16歳。金色の髪を後ろで一つに束ね、青い目が暗い室内でぼんやりと光っている。父がイギリス人、母が日本人。ロンドンの中等学校を休学して日本に来たのは、3ヶ月以上も前のことだ。
もう一つのベッドには弟のルイが横になっていた。14歳。姉と同じ金髪碧眼だが、顔立ちは母親似で、やや東洋的な面影がある。痩せている。ここ数日、あまり食べていない。
数ヶ月以上も前に遡る。
父のアラン・ホワイトリッジは、超常現象研究家だった。本業は大学の文化人類学の講師だが、副業でオカルト系のポッドキャストを配信しており、そちらの方がフォロワーが多かった。東京にダンジョンが出現したというニュースを見た瞬間、彼は家族を連れて日本行きの航空券を予約した。
母の真理子は、夫の衝動に呆れながらも反対しなかった。真理子自身も東京出身で、実家の両親に子供たちを会わせたいと思っていた。だが両親は——東京から既に避難しており、連絡が取れなかった。
東京に着いてから、アランは毎日ダンジョンの入口に通った。写真を撮り、冒険者にインタビューし、ポッドキャストの素材を集めた。真理子は子供たちとホテルに残り、東京観光をしようとした。だが東京は観光どころではなかった。店は閉まり、電車は間引き運転になり、街には不穏な空気が漂っていた。
そしてゴールドラッシュが始まった。
アランの目が変わった。研究者の好奇心が、冒険者の欲望に変わった。
「一度だけ潜ってみる。浅いところだけ。写真を撮って、すぐに出てくる」
真理子は止めた。止めたが——アランは聞かなかった。非登録冒険者の群れに紛れてダンジョンに入った。真理子も一緒に行った。夫を一人で行かせるわけにはいかなかった。
エマとルイは、ダンジョンの入口で待たされた。
2時間後、真理子だけが戻ってきた。
左腕を押さえ、顔面蒼白で。
アランは——戻らなかった。
地下15メートルの通路で兵隊蟻に遭遇した。装備は懐中電灯と登山靴だけだった。アランは真理子を逃がすために蟻の前に立ちはだかり——そのまま。
そして不幸なことに1週間後、真理子は傷の感染症で亡くなった。蟻の体液が傷口に入っていた。治療が遅れた。東京の病院は超常事態の負傷者で溢れており、蟻に噛まれた傷の処置は後回しにされた。
エマとルイは——東京に取り残された。
16歳と14歳。パスポートはある。だが帰国の航空券を買う金がない。父のクレジットカードは凍結された。母方の祖父母とは連絡が取れない。大使館に相談したが、未成年の帰国支援は手続きに時間がかかると言われた。
ビジネスホテルの宿泊費は、母の財布に残っていた現金で払った。だが、それも底をつきかけていた。
エマが弟を見た。
ルイは目を開けていた。天井を見つめている。
「……お腹すいた」
ルイが小さく言った。日本語だった。母から教わった日本語は、日常会話なら不自由しない程度だ。
「分かってる。あと少しだけ待って」
エマが財布を開けた。コンビニのおにぎりが2個買える。明日の分はない。
ドアがノックされた。
エマの身体が強張った。
「ホワイトリッジさん? フロントです。延泊のお支払いの件で——」
「……少し待ってください」
エマがドアの前に立った。開けなかった。
フロントの声が続いた。
「明日のチェックアウト時刻までにお支払いいただけない場合、申し訳ありませんがお部屋を——」
「分かりました。明日までに、用意します」
足音が遠ざかった。
エマがドアに背を預けた。
どうする。
明日の朝までに宿泊費を用意しなければ追い出される。大使館の支援は早くても来週。日本に知り合いはいない。
エマのスマホが震えた。
SNSのダイレクトメッセージだった。知らないアカウントから。
「困っている外国人の方を支援するNPOです。宿泊先と食事を無料で提供できます。お困りでしたらお気軽にご連絡ください」
エマは2日間、そのメッセージを無視していた。
だが——ルイの「お腹すいた」という声が、まだ耳に残っていた。
エマは返信した。
台東区蔵前。裏通り。
ビジネスホテルから歩いて10分の雑居ビル。3階建て。1階はシャッターが降りた元ラーメン屋。2階と3階は窓にブラインドが降ろされている。
この建物が、「支援NPO」の正体だった。
リャン・ウェイという名の男が、2階の事務室でノートパソコンの画面を眺めていた。40代。短髪。華奢な体格だが、目つきに落ち着きがある。中国語、英語、日本語を流暢に操る。
画面には、エマからの返信が表示されていた。
「明日、伺ってもいいですか。弟と一緒です」
リャンが微笑んだ。
「金髪の姉弟か。写真通りだ」
隣のデスクに座っている男——ヴィクトル・ドラゴイ、ルーマニア出身、30代——が画面を覗き込んだ。
「いつ来る」
「明日の午後。——ヴィクトル、部屋を用意しろ。3階の奥。鍵は外からかかるやつだ」
ヴィクトルが頷いた。
リャンは立ち上がり、窓のブラインドの隙間から外を見た。
東京の混乱は、リャンのような人間にとっては好都合だった。
リャン・ウェイは、東南アジアを拠点とする人身売買ネットワークの東京支部を任されている。ネットワークの名前はない。名前をつければ追跡される。拠点は半年ごとに変え、スタッフは使い捨てにする。メンバーは5カ国以上にまたがり、共通言語は英語だ。
東京がダンジョン経済で沸騰し始めた頃、リャンは組織の上層部から指令を受けた。東京に行け。混乱に乗じて商品を確保しろ。
商品とは人間のことだ。
ダンジョンの出現以降、東京は社会のセーフティネットが綻び始めていた。行政は超常事態への対応に追われ、福祉の窓口は機能不全に陥っている。避難民、失業者、身寄りのない外国人。通常なら保護されるはずの人間が、隙間に落ちていく。
リャンの仕事は、その隙間にいる人間を拾い上げることだった。
SNSで困窮者を探し、支援を装って接触し、拠点に連れ込む。その後は国外に送り出す。行き先はさまざまだ。東京に来てから半年近く。リャンは既に11人を送り出していた。
だが今回の2人は——特別だった。
金髪碧眼のハーフ。16歳と14歳。容姿端麗。英語と日本語のバイリンガル。
こういう商品には、桁違いの値がつく。
リャンはノートパソコンを閉じた。
「明日の準備をしろ。——丁寧にな。逃がすなよ」
翌日。午後3時。
エマとルイが雑居ビルの前に立っていた。
エマは弟の手を握っていた。ルイの手は冷たかった。
ビルの入口に、英語で「TOKYO SUPPORT CENTER」と書かれたプレートがあった。エマは一瞬躊躇したが、階段を上がった。
2階のドアをノックした。
リャンが笑顔で迎えた。
「ようこそ。さあ、入って。温かい食事を用意してあるよ」
テーブルの上に、カレーライスとサラダが並んでいた。ルイの目が光った。
エマは食事に手をつける前に、室内を見回した。窓にブラインド。奥にドアが2つ。事務用のデスクとパソコン。壁にNPOの活動報告らしきポスター。
普通の事務所に見える。
だが——エマの中で、何かが引っかかった。
ポスターの写真。笑顔の子供たち。だが写真の解像度が低い。ストックフォトだ。本物の活動写真ではない。
エマは黙って食事を始めた。ルイは既にカレーを半分食べ終えていた。
食事が終わった後、リャンが言った。
「今夜は3階に泊まれるように部屋を用意した。シャワーもある。明日、大使館への連絡を手伝うよ」
エマが頷いた。
3階に案内された。奥の部屋。6畳ほどの和室。布団が2組敷いてある。窓は——ない。
リャンが去り、ドアが閉まった。
カチリ、と音がした。
エマがドアノブを回した。
回らなかった。
エマの顔から血の気が引いた。
「ルイ」
「……お姉ちゃん?」
「ドアが、開かない」
ルイが立ち上がった。2人でドアノブを回した。引いた。押した。動かない。
外から鍵がかかっていた。
エマがドアを叩いた。
「開けてください! ドアが——」
返事はなかった。
エマは弟を見た。ルイの顔が真っ白になっていた。碧い目から涙が溢れている。声は出さなかった。
罠だ。
分かっていた。心のどこかでは。無料の支援など、この東京にはない。
エマが弟を抱き寄せた。
「……大丈夫。絶対に、大丈夫だから」
声が震えていた。
同日。霞が関。合同庁舎。
ダンジョン管理庁・超常物品犯罪対策班。
管理庁の本格稼働に先行して設置された合同組織だ。警視庁から出向した警部補の栗原が班長を務めている。班員は12名。うち6名が警視庁、4名が管理庁、2名が検察庁からの出向。
壁面に、押収した魔弾銃3丁と破壊のバット2本が並べられていた。先月の摘発で犯罪者から没収したものだ。班員の何名かは、それらの押収品を自分たちの装備として転用している。守護のヘルメット、鉄壁の盾——取り上げたものを、取り締まる側が使う。皮肉だが、フェロモンで強化された犯罪者と対峙するには通常装備では足りない。
栗原が報告書を広げた。
「池袋のAF密売ルートの追跡結果。——結論から言う。密売ルートの先に、人身売買組織があった」
班員が姿勢を正した。
「池袋で押収した魔弾銃と破壊のバットの流通経路を辿った。売人は台東区の半グレ組織の構成員。そこから上流に遡ると——台東区内のNPO法人を偽装した組織に行き着く。NPO法人東京サポートセンター。表向きは困窮者支援。実態は人身売買だ」
「確実ですか」
「確実だ。密売ルートと人身売買が同じ組織で行われている。構成員の1人がダンジョンに潜った経験があると推定される。目撃証言で——対象が壁を素手で殴って凹ませた、というものがある。フェロモン強化された人間が組織に入り込んでいる」
栗原が写真を壁に貼った。雑居ビルの外観。
「拠点はここ。台東区蔵前の雑居ビル。突入計画の策定に入る。——ただし、通常の警察装備では対処困難だ。フェロモン強化された相手がいる可能性がある。AF装備の確保と機動隊との連携を調整する」
「突入時期は」
「今週中。被害者の確認が急務だ。人質がいる可能性が高い」
栗原は写真を見つめた。
東京の治安は——超常の出現以前とは別物になっている。犯罪者がアーティファクトを持ち、フェロモンで強化された身体で暴力を振るう。警察もアーティファクトで武装しなければ対抗できない。
栗原は報告書を閉じた。突入の準備を始めなければならない。




