第49話「胎動」
地下180メートル。女王蟻の間。
暗闇の中で、女王蟻は身じろぎもせずに横たわっていた。
体長3.8メートル。前回の産卵から時間が経ち、腹部は再び膨張している。だが今は卵ではない。体内で何か別のものが——まだ形を持たない何かが、萌芽のように膨らみ始めていた。
血のネットワークが、巣の全域から情報を運んでくる。
浅層。人間が今日も数千人入っている。宝箱の配置は最適化されている。浅層の兵隊蟻が適度に人間を排除し、フェロモンが人間を強化している。養殖場は順調だ。
中層。5人前後の小集団がいくつか。60メートル台を徘徊している。兵隊蟻で対応可能。
深層。2つの集団がそれぞれ別の領域で活動している。9名の集団が80メートル台で戦闘を繰り返している。5名の集団が85メートルまで来ている。どちらも練度が上がっている。エリート兵隊蟻を損失しているが、巣の全体からすれば許容範囲内だ。
100メートルの大空洞。門番の3体は健在。幾つかの集団が100mに辿り着いたものの撤退している。前は1名の人間が単独で門番と交戦した。門番に傷を入れたが、これも撤退した。傷は治癒型が修復した。この人間は以前にも来ている。巣にとっての脅威度は高い。だが門番が機能している限り、100メートル以深への侵入は阻止できる。
掘削最前線。地下215メートル。
女王蟻が指令を送った。左に掘れ。
0.3秒の遅延。
掘削蟻が左に曲がるまでに、0.3秒かかった。1ヶ月前は即座に反応していた。巣が小さかった頃は、ネットワークの遅延はゼロに等しかった。
0.3秒。蟻にとっては長い。兵隊蟻への戦闘指令が0.3秒遅れれば、侵入者への対応が一歩遅れる。一歩の遅れは、蟻1体の死を意味することがある。
巣が大きくなりすぎた。
女王蟻はこれを——言語化する手段は持たない。概念としても、理解の形は人間のものとは異なる。だが身体が知っている。体内の神経に似た組織が、過負荷を訴えている。一つの中枢で処理できる情報量の限界に近づいている。
体内の変化が、この限界への応答だった。
卵房とは異なる器官が、腹部の深い場所で組成を始めている。まだ卵ではない。まだ何者でもない。だが——いずれ卵になるものの原基が、女王蟻の体内で準備されつつあった。
別の場所に、別の中枢を。
分巣。
女王蟻はその概念を——概念という形ではなく、本能の奥で感じている。木が大きくなりすぎた時に種を落とすように。蟻のコロニーが巨大化した時に新たな女王を産むように。それは生物として自然な応答だった。
だがまだ早い。まだ必要ない。今はまだ、この巣を維持できている。0.3秒の遅延は——まだ、致命的ではない。
女王蟻は観察を続けた。体内の変化を急がせることはしない。来るべき時が来れば、来るべきものが来る。
蟻は、待つことに倦まない。
浅層。地下25メートル。
女王蟻の意識が、巣の一角に引き寄せられた。
通路の壁面。琥珀色のコーティングの上に、銀色の細い筋が走っていた。
蟻が作ったものではない。
女王蟻がネットワークでその筋を辿った。コーティングの表面から、壁面の亀裂の中に入り込んでいる。亀裂の奥から——銀緑色の根が顔を覗かせていた。細い。太さ3ミリ程度。だが、先端は生きている。ゆっくりと伸びている。
地上の方向から来ている。
女王蟻はこの根の匂いを知っていた。
血の主の匂い。
巣の全ての起源である匂い。女王蟻の体内を流れるフェロモンの源流にある、あの匂い。
根の周囲では、壁面コーティングの組成が変わり始めていた。琥珀色のフェロモンコーティングに、銀色の成分が混じっている。フェロモンの質も微妙に異なる。通常のダンジョンフェロモンとは分子構造が少し違う——だが根幹は同じ。同じ血の主から派生した、別系統の物質。
兵隊蟻たちは、この区画を本能的に避けていた。自分たちのフェロモンとは異質なものがある。だが敵意ではない。なじみがありながら、少し違う。蟻の本能はそれを「巣の外壁を共有する隣人」のように処理している。排除すべき異物でもなく、巣の一部でもない。
女王蟻は根を観察した。根は壁面の亀裂からゆっくりと伸びている。1日に数ミリ。このペースで伸び続ければ、数週間で通路の壁面を覆い始めるだろう。
根が通路に入れば、通路の環境が変わる。蟻のフェロモンコーティングの上に、根の銀色の成分が重なる。宝箱の配置に影響が出るかもしれない。人間の冒険者がこの区画に入った時、通常とは異なる反応を示すかもしれない。
排除するか。受け入れるか。あるいは——利用するか。
女王蟻はまだ答えを出さなかった。
根からは血の主の匂いがする。血の主が直接作ったものを、女王蟻は排除しない。少なくとも害にならない限りは。それは本能の深い層に刻まれた原則だった。
観察を続ける。
変化がどこに向かうのか、見極めてから判断する。
墨田区向島。
封鎖線の内側。人間の気配がない静寂。
アラクネは世界樹の幹に背を預けて座っていた。8つの赤い目が梢を見上げている。
高さは30メートルを超えた。枝は四方に広がり、住宅街の上空一帯を銀緑色の天蓋で覆っている。根は地面の下を縦横に走り、半径50メートル以上が森になった。空き家の壁面は蔦と蔓に覆い尽くされ、建物の輪郭すら分からなくなっているものがある。道路のアスファルトは根に砕かれ、銀緑色の草が繁茂している。
風がないのに、葉がざわめく。金属が擦れ合うような音が、絶え間なく響いている。
アラクネはこの音を聞いていた。木の声。言葉ではない。根を通じて伝わってくる感覚。水を求めている。光を求めている。そして——もっと深く、もっと遠くに根を伸ばしたがっている。地下の奥にある何かに向かって。
アラクネは木の声が分かる。アラクネの糸と世界樹の根は、地下で触れ合っている。アラクネの巣の糸は空き家の地下から世界樹の根元まで張り巡らされ、根と糸が絡み合った場所がいくつもある。そこを通じて、木の「感覚」が伝わってくる。
真央が来なくなった。
封鎖線が引かれてから。人間が線を引いて、中に入れないようにした。真央はその線の外にいる。
「オヤ……コナイ」
アラクネが呟いた。日本語は上達している。文法はまだ不安定だが、意味を伝えることはできる。
寂しい、という言葉は知っている。でもそれが今の感覚と一致するのか、分からない。何かが足りない。それだけ。
枝に実る銀色の果実。数十個に増えていた。最初の一つを見つけてから、果実は着実に数を増やしている。大きさはリンゴほど。殻は固く、銀色の光沢がある。
アラクネがそのうちの一つに触れた。温かい。殻の中に、何かが詰まっている。何が入っているのかは分からない。でも——何かを待っている。
「コノミ……ダレカヲ……マッテル」
然るべき者に渡るはずだという、漠然とした感覚。世界樹を通じて伝わってくるもの。果実は——落ちる時が来たら、落ちるべきところに落ちる。
封鎖線の外側から、報道ヘリの音が聞こえた。プロペラの重低音。カメラのレンズが光る。
アラクネは気にしなかった。人間がどこから見ていても、守るべきものはここにある。
この木。この森。この静けさ。
アラクネは幹にもたれかかり、8つの目を閉じた。
木が、根の先で何かに触れようとしている。地下の深い場所にある、大きな何か。
全部、繋がっている。
アラクネは、そう感じていた。
同日。墨田区。
真央は新しいアパートの部屋で天井を見ていた。
前のアパートから500メートルほど離れた場所。窓の外に銀緑色の蔓が這い始めたのを見て、引っ越すかと思い立ってから3日で移った。荷物はバッグ二つ。服と、手鏡と、いくつかの魔道具と、スマホ。それだけだ。
新しいアパートも空き家だらけだった。管理人のいない物件を適当に見つけて入った。家賃は——まあ、後で考える。東京を離れた人間が多すぎて、空き家が余っている。文句を言ってくる大家もいない。
退避推奨区域の通知がポストに入っていた。まだ強制ではない。だが前のアパートでは、窓を開けると甘い匂いが部屋に充満するようになっていた。あの匂いは嫌いではないが、近所の人間が騒ぐのが面倒だった。新しい部屋からは匂いはほとんど感じない。500メートル離れるだけでこうも違う。
コンビニの弁当を食べながら、スマホで掲示板を開いた。
882:名無しの冒険者
金の出現率下がってね?
先週3回潜って1グラムも出なかった
884:名無しの冒険者
ゴールドラッシュ終了のお知らせ
886:名無しの冒険者
金はどうでもいい
80m以深の情報くれ
888:名無しの冒険者
>>886
100mの壁についてギルドが通達出したの見た?
「突破不可能な障壁」だとよ
891:名無しの冒険者
100mの先に何がいるんだろうな
893:名無しの冒険者
ボス蟻だろ
ラスボス
895:名無しの冒険者
話変わるけど墨田区の世界樹周辺ヤバくね
封鎖線超えて森が広がってる
897:名無しの冒険者
ダンジョン、アーティファクト、吸血鬼、狼男にグール、世界樹、蜘蛛女。
東京完全にファンタジーだろ。
900:名無しの冒険者
次はドラゴンでも出るんじゃね
902:名無しの冒険者
エルフはいつ出てくるんだよ
904:名無しの冒険者
草
真央がスマホから目を離した。
ドラゴン。
蟻、蜘蛛、蚊、木。虫と植物はやった。
——爬虫類はまだやってない。
トカゲに血を垂らしたら、何になるだろう。蚊が吸血鬼になった。蜘蛛がアラクネになった。蟻がダンジョンを作った。木が世界樹になった。
真央の血は、対象の「概念」を極限まで強化する。包丁は究極の切れ味。絆創膏は究極の治癒。蟻はダンジョンを作った。蜘蛛はアラクネになった。木は世界樹になった。
トカゲの概念。爬虫類。鱗。冷血。
——竜。
面白そうだとは思う。でもペットショップに行く気分でもない。コンビニのシフトが明日もある。世界樹の件で近所が騒がしいし、引っ越したばかりで荷物も片付いていない。
天井を見上げた。新しいアパートの天井は前の部屋より少し高い。シミが3つある。
——まあ、そのうち。
スマホを枕元に置いて、目を閉じた。
甘い匂いは、もう届かない。




