第51話「繋がり」
台東区蔵前。深夜11時。
リャン・ウェイは2階の事務室でノートパソコンに向かっていた。
画面には暗号化されたメッセージアプリが開いている。東南アジアの上層部との連絡。エマとルイの「出荷」先の選定が進んでいた。金髪碧眼のバイリンガル姉弟。写真を送った3つの買い手候補から、全員が購入意思を示している。入札になる。最高額が出るまで——もう少し待つ。
3階の和室には、エマとルイが幽閉されたままだ。拘束して4日目。食事は1日1回、パンと水をドアの隙間から差し入れている。衰弱はまだしていない。商品価値を下げないよう、最低限の管理はしている。
1階ではヴィクトルが見張りをしている。他の構成員は——1人が外出中で、もう1人が3階の別室で寝ている。
午後11時15分。
1階のシャッターが外から特定のリズムで叩かれた。普通のノックではない。裏社会の作法だ。
ヴィクトルの声がインターホン越しに聞こえた。
「誰だ」
「チェンだ。王のルートで来た」
リャンの手がキーボードの上で止まった。
王。名古屋の中華系組織の仲介役だった男の名前だ。王のルートからの紹介——つまり、あのネットワークの人間が接触してきた。名古屋の組織が壊滅したという噂は聞いていたが、ネットワーク自体は生きているということか。
「通せ」
リャンがインターホンに答えた。
1分後。階段を上がってくる足音。
ドアが開き、男が入ってきた。
アジア人。30代半ば。黒いジャケットに、暗い色のシャツ。丁寧な物腰だが——リャンの訓練された目が、即座に異常を感知した。
歩き方。
この男の足運びには、無駄がない。体重移動が完璧に制御されている。格闘技の経験者か、軍人か。そして——暗い室内にもかかわらず、瞳孔が収縮していない。暗所での視力が異常に良い。
フェロモン強化された冒険者だ。リャンはそう判断した。裏社会では珍しくない。ダンジョンに潜って強くなった人間が犯罪組織に流れるケースは増えている。
「チェンだ。座ってくれ」
男が椅子に腰を降ろした。リャンはデスクの向こう側に座り、引き出しの拳銃に手が届く距離を保った。
「王から聞いている。何の用だ」
「取引だ。人間を定期的に確保して、指定の場所に運んでほしい」
リャンの表情が変わらなかった。この手の依頼は——珍しくはない。
「何名」
「月に5名から10名。身寄りがなく、消えても騒がれない者。年齢・性別は問わない」
「用途は」
「運ぶだけでいい」
リャンは男を見た。質問には答えない。だが——嘘をついている様子もない。用途を伝えない客は珍しくない。知る必要のないことは聞かないのが、裏社会の鉄則だ。
「1名あたりの報酬は」
「200万。現金で」
リャンの指が机の上で止まった。
200万。リャンの組織が「商品」を国外に送る場合、1名あたりの利益は50万から100万がいいところだ。200万は破格だ。しかも国外輸送のリスクがない。東京都内で引き渡すだけ。
「……受け渡し場所は」
「東京都内で指定する。毎回変える。連絡はこの番号に」
男が名刺大のカードをテーブルに置いた。携帯電話の番号だけが書かれている。
リャンはカードを手に取った。
「——いい話だ。だが、急な話でもある。検討する時間を——」
リャンが言いかけた時だった。
1階から、金属が軋む音が響いた。
シャッターが、外から力ずくでこじ開けられる音。
リャンの全身が硬直した。
「警察だ! 動くな!」
1階から怒声が上がった。日本語。複数の足音が階段を駆け上がってくる。
リャンが立ち上がった。椅子が倒れる。
「——警察だ」
男——チェンが、リャンを見た。
その目が——一瞬だけ、暗闇の中で光った。赤く。
いや。気のせいだ。蛍光灯の反射だ。
リャンはそう思い込もうとしたが、考えている暇はなかった。バックルームに走った。AF在庫の棚。魔剣包丁。破壊のバット。密売用の在庫が並んでいる。
「ヴィクトル!」
1階から返事はない。既に制圧されたか。
リャンが振り返った時——チェンは既に窓際にいた。
男が窓枠に手をかけた。ガラスを肘で割り、枠を掴み——身を乗り出した。
3階相当の高さ。路地。コンクリート。
男が飛んだ。
音もなく。
リャンは窓から下を見た。路地に——誰もいなかった。着地の音も、走る足音もない。3階から飛び降りて、消えた。
普通の人間に——できることではない。
だが追及している余裕はなかった。階段を駆け上がってくる足音が、2階に到達しようとしていた。
超常物品犯罪対策班。班長の栗原が先頭に立っていた。
守護のヘルメットを被り、左手に鉄壁の盾を構えている。どちらも犯罪者から押収した転用品だ。品質スコアは低いが、ないよりはましだ。
1階のシャッターは機動隊がバールでこじ開けた。中にいた男——ルーマニア人のヴィクトルが、暗闇の中から飛びかかってきた。催涙弾を顔面に食らい、目を抑えて倒れたところを3人がかりで拘束した。拳銃1丁を所持。
栗原が階段を上がる。
「2階に突入する。催涙弾先行。盾持ちが先頭。後続は銃を構えて援護。近接は避けろ」
催涙弾が2階の事務室に投げ込まれた。白い煙が充満する。
煙の中から——人影が飛び出した。
速い。
魔剣包丁を手にした男が、階段を駆け下りてくる。催涙ガスの中でも目が効いている。フェロモン強化された身体。指数12程度——だが、通常の人間の数倍の反射速度だ。
栗原が盾を構えた。
魔剣包丁が鉄壁の盾に叩きつけられた。衝撃が腕を伝わる。盾が衝撃を吸収したが、栗原の身体が階段で半歩押し戻された。
「——硬い!」
後続の班員が拳銃を構えた。だが催涙ガスの中では狙いが定まらない。外せば味方に当たる。
強化構成員が階段の壁を蹴って跳び、2人目の班員に体当たりした。班員が壁に叩きつけられる。守護のヘルメットが頭部を守ったが、衝撃で一瞬意識が飛んだ。
「後退するな! 押し込め!」
栗原が叫んだ。
機動隊が増援で階段を詰めた。盾2枚を横に並べ、壁と盾で強化構成員を挟み込む。催涙弾を追加投入。視界が完全に潰れた強化構成員が、包丁を振り回しながら後退する。
栗原が盾越しに手を伸ばし、強化構成員の包丁を持つ腕に手錠をかけた。もう片方の手に2人目の班員がかかり、3人がかりで床に組み伏せた。
抵抗が止まるまで15秒。通常の犯罪者なら3秒で終わる制圧が、5倍かかった。
2階を確保。催涙ガスが晴れていく中で、事務室の惨状が見えた。デスクが倒れ、壁に穴が開き、天井のパネルが一枚落ちている。
リャンは裏の非常階段に向かっていたが、外回り要員の機動隊に確保された。
「3階を確認しろ。被害者がいるはずだ」
栗原が指示を出した。
3階。
2階の戦闘の衝撃が、古い雑居ビルの構造を揺らしていた。
奥の和室。窓のない6畳間。ドアは外から鍵がかかっている。
エマとルイは、暗闇の中で身を寄せ合っていた。
突然の轟音。床が揺れた。壁から埃が落ちる。遠くから怒声が聞こえる。何かが破裂する音。金属がぶつかる音。
ルイがエマの腕にしがみついた。
「お姉ちゃん——」
「静かに。下で何か起きてる」
エマは耳を澄ませた。日本語の怒声。「確保しろ!」「動くな!」。警察だ。
もう一度、大きな衝撃。床が跳ねた。壁の下の方で、何かが砕ける音がした。
ドアが——歪んだ。
エマの目が見開かれた。
ドア枠が、衝撃で傾いている。蝶番の上部が壁から浮いていた。ドアと壁の間に、5センチほどの隙間ができている。
エマは立ち上がった。隙間に指をかけ、引いた。古い合板のドアが軋む。蝶番が壁から抜けかけている。もう一度引いた。ルイも手を添えた。
蝶番が外れた。ドアが傾き、倒れた。
廊下。暗い。催涙ガスの匂いが薄く漂っている。階下から声が続いている。
エマの頭が回転した。
警察に保護されれば——安全かもしれない。だがパスポートはリャンに取り上げられている。不法滞在扱いにされるかもしれない。収容施設に入れられるかもしれない。ルイと引き離されるかもしれない。
父も母も、もういない。身元を証明してくれる大人がいない。
恐怖が——判断を歪めた。
エマはルイの手を引いて、階段とは反対方向に走った。廊下の突き当たり。非常口の表示。鉄の扉。
扉を押した。開いた。外の非常階段。冷たい夜の空気が顔を打った。
下を見た。非常階段の1階部分に——人影があった。機動隊の制服。リャンを壁に押さえつけている。
上を見た。屋上への階段。
エマはルイの手を引いて屋上に上がった。3階建ての雑居ビルの屋上。低い。隣のビルとの間は1メートルほど。
飛べる。
「ルイ。飛ぶよ」
「……怖い」
「私が先に行く。手を伸ばすから、掴んで」
エマが助走をつけて飛んだ。隣のビルの屋上に着地。振り返り、手を伸ばした。
ルイが——跳んだ。
エマの手がルイの手首を掴んだ。引き上げた。2人が隣のビルの屋上に転がった。
息を整える暇はなかった。パトカーのサイレンが近づいている。赤い光が路地の壁を照らしている。
隣のビルの非常階段を駆け下り、路地に出た。
走った。どこに行けばいいか分からない。裏路地。深夜。空き家だらけの住宅街。
走りながら——匂いに気づいた。
甘い匂い。
夜の空気の中に溶けている。花でもない。果実でもない。もっと深い。森の奥の、古い大木に顔を寄せた時のような匂い。
エマの脚が、無意識にその方向に向いた。恐怖の中で、唯一——恐怖を感じない方向。匂いの先に、何かがある。何かがあるという予感だけが、パニックの中で唯一の道標になった。
台東区から墨田区方面へ。空き家の並ぶ住宅街。匂いが濃くなっていく。
黄色いテープとコーンのバリケード。封鎖線。深夜の監視はカメラと巡回のみ。近隣の警察も摘発の対応で手薄になっている。巡回員の姿は見えなかった。テープの下を潜り抜けるのに、子供2人には大した隙間も必要なかった。
森の中に入った。
銀緑色の植物が密生していた。蔦が空き家の壁を覆い、蔓が道路を跨ぎ、銀色の草が地面から噴き出している。月明かりの下で、銀の葉が鈍く光っている。金属が擦れ合うような微かな音が、絶え間なく響いている。
甘い匂いが全身を包んだ。
呼吸が楽になった。心臓の鼓動が落ち着いていく。走り続けていた脚の震えが止まる。
恐怖が——薄れていく。
消えたわけではない。リャンの笑顔も、鍵がかかる音も、まだ鮮明に残っている。だが——匂いが、それを遠ざけていた。ここにいれば大丈夫だという感覚が、理由もなく湧いてくる。
ルイの手の震えも止まっていた。
「……いい匂い、だね」
「うん」
2人は歩いた。森が深くなる。空き家は完全に蔦と蔓に覆われ、建物の輪郭すら分からなくなっている。頭上を銀緑色の天蓋が覆い、月光が葉を透かして柔らかな銀色の光になって降り注いでいた。
——そして。
見上げるほどの巨木が、夜空に聳えていた。
銀色の幹。直径3メートル近く。月光を受けて、樹皮に刻まれた幾何学紋様が淡く脈動している。枝は四方に広がり、頭上の空を完全に覆っている。
世界樹。
ニュースで見たことがある。墨田区の巨木。伐採を試みたら超常生物に阻まれたという。
根元に——銀色の果実がいくつか転がっていた。リンゴほどの大きさ。殻に金の筋が走っている。甘い匂いの源。
エマとルイは、4日間まともに食べていなかった。
パンと水を1日1回。それだけだ。空腹が——身体の奥から、判断力を奪っていた。
エマが果実を一つ拾い上げた。
温かかった。冬の夜気の中で、果実だけが温かい。殻は硬いが、力を込めると——割れた。中から甘い香りが溢れ出す。果肉は半透明で、淡い銀色の光を帯びていた。
毒かもしれない。
食べていいものか分からない。
だが——ルイが隣にいる。ルイの碧い目が、果実を見ている。空腹で頬がこけている。
エマは果実を二つに割った。半分をルイに渡した。
「……食べよう」
ルイが果肉を口に入れた。
エマも、食べた。
甘かった。花の蜜に似ているが、もっと深い。果汁が舌の上で弾け、喉を流れ落ちていく。温かさが——胃の中から全身に広がっていく。
2人は根元に座り込んだ。背中を銀色の幹に預けて。
空腹が消えた。寒さが消えた。恐怖が——遠くなった。
ルイがエマの肩にもたれかかった。目を閉じている。
「……お姉ちゃん。ここ、あったかいね」
「うん」
エマは弟の肩を抱いた。
銀色の梢の向こうに、星が見えた。東京の空に星が見えるのは珍しい。だがこの森の中では——街の灯りが遮られ、夜空が近い。
目を閉じた。
2人は世界樹の根元で眠りに落ちた。
同時刻。東京都内。
陳偉龍は台東区蔵前の路地を走っていた。
3階の窓から飛び降り、音もなく着地し、そのまま裏路地を抜けた。転種の身体能力。人間時代の指数22.8に加え、転種としての超人的な跳躍力と暗視能力が上乗せされている。パトカーのサイレンが遠ざかっていく。追跡はされていない。
エリザベートへ念話を送った。
《取引先が日本の捜査機関に摘発された。自分は認識されていない。別のルートを探す必要がある》
エリザベートの返答は即座だった。
《了解した。——お前の姿は誰にも見られていないな》
《窓から飛び降りた。組織のリーダーに見られたが、あの男は今頃逮捕されている。証言しても信用されない》
《……よろしい。東京のセーフハウスに戻りなさい。次の指示を待て》
念話が切れた。
エリザベートは即座にヘカテへ念話を繋いだ。
《ヘカテ。人身売買ルートが1つ潰れた。捜査機関の摘発だ》
ヘカテの冷静な声が返った。
《想定の範囲内です。東京には同種の組織が複数存在する。陳偉龍のネットワーク情報から、別のルートを当たることは可能です。時間はかかりますが、代替は見つかる》
《急がせる必要はない。我々への導線が切れていることを最優先で確認しろ》
《了解です》
エリザベートはリリスへ念話を送った。
《リリス。血液調達の外部ルートが一時頓挫した。代替を探る。——一族への直接的な影響はない。導線は切れている》
リリスの返答は短かった。
《分かった》
台東区蔵前。雑居ビル。
超常物品犯罪対策班の栗原が、制圧完了の報告を受けていた。
「構成員4名を逮捕。うちフェロモン強化された1名は負傷した状態で拘束。AF密売の在庫を押収。魔剣包丁6本、魔弾銃2丁、破壊のバット1本、その他多数」
「3階の被害者は」
「3名を保護しました。20代の日本人女性2名と、40代の日本人男性1名。全員、衰弱していますが命に別状はありません。——ただし」
班員が声を落とした。
「保護した被害者の1人が証言しています。『金髪の姉弟がいた。外国人の子供。数日前に連れてこられた』と。——3階の奥の部屋のドアが壊れていました。蝶番が外れています。突入の衝撃でドア枠が歪んだようです」
「逃げたのか」
「非常階段が開いていました。屋上から隣のビルに移動した痕跡もある。——深夜の混乱で、追跡が遅れました」
栗原が歯を噛んだ。
「外国人の子供が2人、深夜の東京を走り回っている。——すぐに捜索を出せ。周辺の防犯カメラの映像を確保しろ。近隣の交番にも連絡。金髪の姉弟だ、目立つはずだ」
「了解」
班員が走り出した。
栗原は雑居ビルの入口に立ち、深夜の裏路地を見つめた。
パトカーの赤い光が、建物の壁を照らしている。その光の届かない路地の奥に——2人の子供が消えていった。
栗原は知らない。
2人が向かった先に、銀色の森があることを。




