第46話「侵食」
第46話「浸蝕」
墨田区向島。午前7時。
封鎖線の外側に立つ警備員の小島は、目の前の光景に言葉を失った。
1週間前、ここには住宅街があった。二階建ての古い木造住宅が並び、狭い路地に自転車が停まり、電柱に広告が貼られた、どこにでもある下町の風景。
今、その風景は——消えかけていた。
緑だ。
封鎖線の半径200メートルの内側から溢れ出すように、蔦と蔓が広がっている。空き家の壁面を覆い、屋根を越え、電柱を巻き、道路の亀裂から銀緑色の草が噴き出している。1週間前は封鎖線の内側にとどまっていた植生が、今朝は線を越えて外側3メートルの地点まで到達していた。
銀色を帯びた葉が朝日を受けて鈍く光っている。風がないのに、葉がざわめく。金属が擦れ合うような音が絶えず響いている。
そして——匂い。
甘い匂いが、空気に溶けている。花の蜜でもない。果実の芳香でもない。もっと深い、森の奥の古い大木に顔を寄せた時のような、生命力そのものの匂い。
先週は封鎖線の周囲数十メートルで感じる程度だった匂いが、今朝は100メートル以上離れた場所でも明瞭に感じられた。
小島は無線機を持ち上げた。
「第3監視ポスト、定時報告。植生が封鎖線を越えました。昨夜からの拡大量は推定3メートル。速度が上がっています。——あと、空き家の屋根が3棟、完全に蔦に覆われて見えなくなりました。建物の外壁が蔦の重みで一部崩落しています」
「了解。——別の報告は」
「生物の目撃はありません。蜘蛛型も確認なし。ただ——木が、また大きくなっています」
小島は封鎖線の向こうを見上げた。
住宅街の屋根を遥かに超えて、銀色の巨木が朝空に聳えている。1週間前に28メートルと測定された高さは、目測で30メートルを超えていた。枝は四方に30メートル以上広がり、住宅街の上空一帯を銀緑色の天蓋で覆っている。
世界樹。掲示板やSNSで誰かが名付けた通称が、いつの間にか公式の呼称になりつつあった。
根は——もう見えない。半径40メートルだった根の範囲が、地面の下でさらに広がっているのだろう。道路のアスファルトが波打ち、マンホールの蓋が持ち上がり、歩道のブロックが根に砕かれている。世界樹を中心に、半径50メートル以上が「森」と呼んでいい状態になっていた。
小さな森。だが——1週間で10メートル以上広がっている。
この速度が続けば、1ヶ月後には封鎖線を完全に飲み込む。
小島はもう一度、銀色の梢を見上げた。枝の陰に、何かが動いた気がした。赤い光が一瞬、8つ。
気のせいだ。そう思うことにした。
同日。夜。六本木ヒルズ。38階。作戦室。
カーミラが、壁に貼られた名古屋市栄区の地図に赤いマーカーで印をつけた。
テーブルを囲むのは4人。カーミラ、ヘカテ、田中修、そしてノクス。リリスは45階の自室から念話で参加している。エリザベートも念話で接続中だ。
「名古屋作戦の概要を説明する」
カーミラの声は低く、明瞭だった。深紅の瞳が地図を見据えている。
「作戦の第一目標。栄の中華系犯罪組織の制圧。構成員32名のうち、戦闘員5名を優先的に確保する。特に——軍事訓練を受けたと見られる1名は、可能な限り無傷で確保すること」
「第二目標。フェロモンで強化された人間の戦闘力の測定。我々がまとまった人間の軍事力と交戦したのはサンライズ作戦が最後だ。あの時の自衛隊はフェロモン強化を受けていない通常の兵士だった。だが今は違う。巖道の部隊のように、フェロモンで強化された専門部隊が存在する。フェロモン強化された人間がどの程度の脅威になるのか——犯罪組織との交戦で、そのデータを取る」
「第三目標」
カーミラが声を落とした。
「転種化の検証。フェロモンで強化された人間を転種化できるかどうかは、これまで未検証だ。通常の人間の転種化は確立されているが、フェロモンが人体に定着した状態で吸血鬼の因子が機能するかどうかは——分からない。成功すれば、フェロモン強化の恩恵を引き継いだ強力な転種が生まれる可能性がある。失敗すれば、グール化するか、死ぬ」
ノクスが口を開いた。
「転種化は誰が行うのですか」
「エリザベートだ。純種でなければ転種化は行えない。エリザベートは封鎖線の外に出ており、名古屋への移動が可能だ」
田中が補足した。
「転種化が可能かどうかを確認するだけなら、戦闘員5名のうち1名で試せばいい。結果を見てから、残りをどうするか判断する方が安全です」
「同意する」
カーミラが頷いた。
「では、部隊の編成に移る」
地図の上に駒を並べるように、カーミラが名前を置いていった。
「指揮——エリザベート。名古屋の現地にいる鈴木と合流し、作戦を統括する。エリザベートは純種として最も長く人間社会で活動している。現地の判断はエリザベートに一任する」
「実行——転種の戦闘部隊から3名を抽出する。岡田、渡辺、高橋」
田中の表情が変わった。
「3名ですか。——残りの戦闘部隊で六本木の防衛は維持できます。ただ、岡田と渡辺はSAT出身の中でも中核です。2人を同時に外すのは——」
「承知の上だ。だからこそ、期間を限定する。名古屋での活動は最大1週間。制圧作戦自体は1夜で完了させる。前後の移動と準備を含めて1週間以内に全員が六本木に帰還する」
「移動手段は」
「封鎖線を越えるのが最初の問題だ」
ヘカテがタブレットを操作した。
「3名の転種を六本木から名古屋に送り出すルートを確認します。第1経路——主経路。地下6階から下水道管渠を通り、麻布十番の雑居ビル地下へ。全長800メートル。転種3名が通過するのに問題はありません。出口から地上に出た後は、深夜帯にタクシーで東京駅へ。新幹線の始発で名古屋に入ります」
「新幹線」
ノクスが意外そうに言った。
「護符があれば日中も活動できる。転種であれ純種であれ、それは同じだ。普通に新幹線に乗ればいい」
カーミラが淡々と答えた。
「人間社会のインフラは、そのまま我々のインフラになる。それが社会浸透の意味だ」
ノクスが黙って頷いた。
「岡田、渡辺、高橋の3名に護符は行き渡っているか」
ヘカテが確認した。
「3名とも護符を所持しています。品質は岡田がスコア45、渡辺が38、高橋が41。——ただし転種は護符があっても日光下での能力低下が3割ほど残ります。日中の移動は問題ありませんが、万が一日中の戦闘に入った場合は、純種と比べて不利です」
「作戦は深夜に実行する。日中の戦闘は想定しない」
「了解です。移動中は新幹線の車内ですし、護符があれば身体の苦痛もない。問題ないでしょう」
カーミラがノクスを見た。
「お前も名古屋に送る」
部屋の空気が変わった。
田中が顔を上げた。ヘカテの指がタブレットの上で止まった。
ノクスの蒼い瞳が、微かに光った。
「……私を」
「お前は純種だ。戦闘能力は転種を遥かに超える。だが——実戦を経験していない。訓練では出来ないことがある。相手の血の匂い。骨が砕ける感触。殺意を持った人間の目。——それを知らなければ、お前の固有形態は決まらない」
カーミラの声は冷たかったが、どこか教育者の響きがあった。
「犯罪組織との交戦は、お前にとって最適な初戦だ。相手は強くない。だが武装している。フェロモンで強化された人間もいる。本気で殺しにかかってくる相手と戦うことで、初めて本当の戦いを知る。——お前の血の武器が、お前自身の形を選ぶ瞬間が来る」
ノクスは少し間を置いて、答えた。
「了解しました」
「ノクスの護符を確認しておきたい」
ヘカテが口を挟んだ。
「ノクスは現在、護符を持っていません。六本木の予備が2個。うち1個をノクスに渡す形になります」
「渡せ。予備が1個に減るが、1週間で帰還する。その間だけだ」
カーミラが即座に言った。
「予備の品質は」
「スコア42と35。42の方をノクスに」
「了解です」
ノクスは真っ直ぐ前を向いていた。蒼い瞳に、揺らぎはなかった。
「作戦の流れを確認する」
カーミラが地図を指した。
「明後日。転種3名——岡田、渡辺、高橋とノクスが封鎖線を越え、東京駅から新幹線で名古屋入り。鈴木の安全家屋に集結」
「エリザベートが東京を発ち、名古屋で鈴木と合流。全員で対象の拠点を最終確認。鈴木の3週間分の監視データに基づき、拠点の出入口、内部構造、戦闘員の配置、行動パターンを全員で共有する」
「装備の最終確認と役割分担の確認。当日の気象・周辺環境を確認。——エリザベートが夜間に対象拠点周辺の最終偵察を行う」
「決行。深夜2時から4時の間。——拠点は栄の雑居ビル3階。ビルは5階建て。1階がテナント、2階が事務所、3階が対象の拠点、4階と5階は空き」
カーミラが地図にビルの見取り図を重ねた。鈴木が3週間かけて作成した手描きの図面だ。
「進入経路は2つ。第一。ビル外壁から3階の窓を破って突入。ノクスとエリザベートが担当。純種2名の速度なら、窓を破ってから拠点内部を制圧するまで5秒以内。——第二。1階入口から階段を上がり、3階の正面扉を突破。岡田、渡辺、高橋の転種3名が担当。同時進入で退路を塞ぐ」
「対象の武装は」
田中が確認した。
「鈴木の報告では——拳銃3丁以上。刃物類多数。加えて、アーティファクトを数十点保有している。鈴木が目撃した積み込みの時点で、癒しの絆創膏、安らぎの香、魔弾銃らしきものが確認されている。密輸用の在庫を含めれば、さらに多い可能性がある」
「魔弾銃が複数あるなら厄介だ」
「品質は不明だが、闇市場で流通する品は品質スコア30から40が多い。追尾機能がある。閉鎖空間での射撃は脅威だ」
「承知している。だからこそ、初動の速度が重要だ。窓を破って3秒以内に射手を無力化すれば、魔弾銃は使わせない。——もう一つ。回収したアーティファクトは一族の備蓄に回す。数十点を一度に手に入れられるのは、作戦の副次的な収穫だ」
「戦闘員5名のうち——軍人の1名はどこにいることが多い」
「鈴木の報告では、深夜帯は3階の奥の部屋。他の4名は3階の手前側で寝ている。軍人だけ別室だ。——これは偶然ではない。他の構成員とは扱いが違う。おそらく組織内での地位が高い」
「殺さずに確保できるか」
「純種が相手をすれば可能だ。——ノクス」
カーミラがノクスを見た。
「お前の最初の仕事は、この軍人の確保だ。無傷で。転種化の素体として使うかもしれない人間を、壊してはいけない」
「殺さず、傷つけず、抵抗する人間を制圧する」
「その通り。——できるか」
ノクスは3秒ほど黙り、それから答えた。
「やります」
「いい返事だ」
カーミラが、微かに笑った。
会議が終わった後、ノクスは36階の訓練室に一人で残っていた。
暗い部屋の中で、右腕から血が滲み出ている。深紅の液体が空中で凝固し、刃の形を取った。直剣。長さ70センチ。
3秒保持して、液体に戻す。
再び凝固。今度は曲刀。
戻す。
槍。
戻す。
自分に最も合う形が分からない。カーミラは鞭。リリスは剣。セレネは双剣。ヘカテは槍。エリザベートは大鎌。——それぞれの純種が、自分に最も適した形態を最初の本気の戦闘で見出した。
名古屋で——見つかるだろうか。
ノクスは右腕の血を液体に戻し、訓練室の壁にもたれた。
蒼い瞳が天井を見つめている。
恐怖はない。殺意もない。ただ——知りたいという渇望がある。自分が何者なのか。自分の形が何なのか。
それを知るためには、戦わなければならない。
ノクスは立ち上がり、もう一度血を結晶化させた。
今度は——何の形も決めずに。
血が右腕から流れ出し、空中で揺れた。形を持たない深紅の液体が、ノクスの意思に従って漂っている。
名古屋で、この血が何になるのか。
あと3日で分かる。
同時刻。六本木ヒルズ。45階。
リリスは窓際に立っていた。
念話の接続を切り、一人で東京の夜景を見ている。
名古屋の作戦は動き始めた。エリザベートとノクスが純種として参加する。転種の精鋭3名が実行部隊として同行する。カーミラの作戦計画は堅実で、リスクは許容範囲内だ。
だがリリスの思考は、名古屋ではなく——墨田区に向いていた。
ヘカテが毎日更新している情報レポートの最新版。墨田区の世界樹の周辺で、植生の異常な拡大が続いている。封鎖線の半径200メートルを越えて蔦と蔓が広がり始めた。政府は封鎖範囲の拡大を検討している。
世界樹の成長が止まらない。
高さ30メートル超。根の到達範囲は半径50メートル以上。周辺の空き家は蔦に覆われ、小さな森が形成されつつある。——そしてフェロモン類似物質の放出が続いている。
リリスはその報告を読むたびに、同じことを考えていた。
我々はダンジョンに入れない。蟻が排除する。フェロモンの恩恵も受けられない。吸血鬼の身体はフェロモンに反応しない。
だが世界樹は、ダンジョンではない。地上にある。
あの木の周辺で何が起きているのか。銀色の果実は何なのか。フェロモン類似物質は、ダンジョンのフェロモンと同じなのか、違うのか。
今は手を出さない。政府が封鎖している。蜘蛛型の生物が守っている。
だが——あの森が広がり続ければ、いずれ封鎖は維持できなくなる。管理が追いつかなくなり、隙が生まれる。
その時が来たら。
リリスは窓に手を触れた。ガラスの向こうに、東京の夜が広がっている。超高層ビルの灯り。その間を縫うように走る首都高の光の帯。
遥か東——墨田区の方角に、銀色の梢がかすかに見える気がした。実際にはここからは見えない。だが、リリスの視力は人間の何倍もある。
……いや。見えない。ただの夜空だ。
だが——あの木は、確実にこちらに向かって伸びている。
リリスは窓から手を離し、執務机に戻った。ヘカテへの念話を開いた。
《名古屋の件はカーミラに任せる。——お前は世界樹の情報を引き続き集めろ。特に根の拡大速度と方向。あの木の根がどこまで伸びているか。地下の情報が欲しい》
《了解。ただ、地下の情報は入手が困難です。政府が地中レーダーで調査していますが、結果は非公開です》
《非公開だろうと、どこかに漏れる。ニュースサイト、SNS、掲示板、学術論文の下書き。人間は秘密を守れない生き物だ。探せ》
《……はい》
ヘカテの返事が途切れた。念話が切れた後も、リリスは執務机の上の地図を見ていた。
東京の地図。六本木にいる自分たち。品川のダンジョン入口。そして——墨田区の世界樹。
3つの点。
いつか、この3つが交わる日が来る。
その日に備えて——今は、一手ずつ打つ。
名古屋が、最初の一手だ。




