第47話「夜襲」
名古屋市中区・栄。午前2時12分。
陳偉龍は、目を開けたまま暗闇の中にいた。
眠れない夜はいつものことだ。雲南省の山岳地帯で3年間を過ごした身体は、深い眠りに落ちることを拒否する。意識の半分は常に覚醒している。枕元の切断のナイフに手が届く距離。ベッドの脇に立てかけた散弾魔銃。左腕のアームガード——エリート兵隊蟻の外骨格を加工した黒い防具——は、寝ている間も外さない。
雑居ビルの3階。奥の部屋。6畳ほどの空間にベッドとスチールデスクだけが置かれている。壁には名古屋市街の地図と、ダンジョンの入口の位置を記した東京の地図が並べて貼ってある。
陳偉龍。34歳。元中国人民解放軍特殊作戦部隊。正確には、雲南省軍区の山岳作戦大隊で3年間、ミャンマー国境の麻薬武装組織の掃討戦に従事した。退役後——退役という言い方が正しいかどうか分からない。辞めたのではなく、消えた。軍籍を抹消し、偽造パスポートで日本に入国した。
目的は明確だった。アーティファクト。
ダンジョンの出現と、超常的な物品の存在が世界に報じられた直後、陳偉龍は日本行きを決めた。軍の指示ではない。個人の判断だ。中国国内にダンジョンはまだ出現していない。東京にしかない。東京に行き、ダンジョンに潜り、アーティファクトを手に入れる。
フェロモン指数22.8。
東京に入国してから3ヶ月間、毎日のようにダンジョンに潜った。もぐりの冒険者として、非管理入口から単独で。浅層から始め、中層を経て、深層まで到達した。その過程で身体は変わった。握力は400キロ近くになり、暗闇の中で15メートル先の蟻の脚の動きが見える。壁の微振動で隣室の人間の心拍数が分かる。
3ヶ月で22.8。異常な速度だ。普通の冒険者が半年以上かかる数値を、陳偉龍は半分の期間で達成した。理由は単純だ。潜る頻度が違う。毎日潜り、毎日蟻を倒し、毎日体液を浴びた。中毒管理は——していない。渇望はある。だが山岳地帯で3年間、飢えと寒さと恐怖の中で任務を遂行した精神力は、フェロモンの渇望程度では揺らがなかった。
その後、名古屋に移った。
東京で潜った3ヶ月間に、闇市場のルートを構築した。アーティファクトの回収と本国への密輸。組織を作り、現地の在日華僑と本国から送り込まれた構成員を使って、名古屋を拠点にした。名古屋を選んだのは、東京が混みすぎているからだ。競合が多く、日本の当局の目も厳しい。名古屋なら——裏社会の隙間に入り込める余地がある。
組織の規模は32名。うち戦闘員が5名。
戦闘員の4名は、陳偉龍が東京で集めた中国人のもぐり冒険者だ。全員がダンジョンに潜ってフェロモン強化を受けている。指数は15から18。陳偉龍に比べれば低いが、一般の人間とは次元が違う身体能力を持っている。
残りの27名は——ビジネスの人間だ。会計、物流、通信、仲介。アーティファクトを回収し、鑑定し、梱包し、船便で香港に送る。その先は——陳偉龍は知らない。知る必要もない。金は振り込まれる。それで十分だ。
午前2時15分。
陳偉龍の目が動いた。
何かが——違う。
壁の振動。隣の部屋で寝ている張と李の心拍。いつもと同じリズムだ。階下のテナントは深夜で無人。ビルの外——栄の繁華街。この時間帯でも酔客の足音がまばらに聞こえる。
だが。
足音の中に——ないものがある。
いや。あるものがない。
人間の足音には、体重に応じた振動がある。靴底がアスファルトを打つ衝撃が地面を伝わり、ビルの構造体を通じて微振動として届く。陳偉龍はそれを常に読んでいる。
今——ビルの外壁に、振動がある。だが足音に対応する地面の衝撃がない。
壁を、何かが登っている。
地面を経由せずに。
陳偉龍は0.3秒でベッドから起き上がった。左手が切断のナイフの柄を掴み、右手が散弾魔銃を引き寄せた。
同時に——窓ガラスが砕けた。
ノクスが窓枠を蹴って室内に飛び込んだ瞬間、暗闘の中で光が走った。
散弾。
ノクスの胸に4発が着弾した。血の結晶化で瞬時に硬化させた胸部の表面が、散弾の衝撃を受け止める。品質スコア——50前後の散弾魔銃。追尾機能つき。閉鎖空間では脅威だとカーミラが言っていた。
だが散弾は、純種の結晶化した血を貫通しなかった。
ノクスは着地した。部屋の中。6畳。ベッド。スチールデスク。壁の地図。そして——男。
男は既にベッドから離れ、部屋の隅に背をつけていた。左手に切断のナイフ。右手の散弾魔銃をノクスに向けたまま。左腕にエリート兵隊蟻の外骨格を加工したアームガード。両脛に鋼鉄の脛当て。胸部にも外骨格のプロテクトが見える。
寝ている間も、装備を外していない。
——用心深い。
ノクスは男を見た。蒼い瞳が暗闘の中で淡く光っている。
男の目が——動揺していなかった。
窓を破って侵入してきた存在。散弾を胸に受けて平然と立っている存在。人間ではない。それを瞬時に理解し——それでもなお、構えを崩していない。
「殺さずに確保しろ」。カーミラの指示だった。
ノクスが踏み込んだ。
男が散弾魔銃の引き金を引いた。2発目。ノクスの顔面に向かう。ノクスは上体を傾け、散弾が頬を掠めた。血が飛ぶ。即座に再生が始まる。
距離2メートル。ノクスが右手を伸ばした。男の散弾魔銃を掴み、奪い取る——つもりだった。
男が銃を手放した。自分から。
ノクスの手が空を掴んだ瞬間、男の左手の切断のナイフがノクスの右前腕を斬った。
——深い。
ノクスの右腕の外側を、手首から肘まで、一直線に切り裂いた。品質スコアの高い切断のナイフだ。純種の肉体を容易く裂く。
血が噴き出した。再生は始まっているが、断面が広い。数秒かかる。
男はナイフを斬り返した。今度はノクスの左脇腹を狙う。
ノクスは左腕で受けた。ナイフの刃が左前腕に食い込む。骨に当たって止まった。
男が——一瞬、動きを止めた。
刃が骨に食い込んだまま抜けない。ノクスが左腕の筋肉を意図的に収縮させ、ナイフを挟み込んでいた。
その一瞬で、ノクスの右手が男の喉に伸びた。指先から麻痺毒が分泌される。爪が男の首の皮膚に触れた。
男は意識を失わなかった。
麻痺毒が、効いていない。
ノクスの蒼い瞳が見開かれた。
男はノクスの右手を振り払い、左手でナイフの柄を捻って刃を引き抜いた。ノクスの左腕から血が飛散する。
男が後退した。壁際。構えを崩さない。ナイフを逆手に持ち替え、低い姿勢で——待っている。
反撃ではなく、防御。体力を温存し、相手の出方を見ている。軍人の戦い方だ。
ノクスは立ち止まった。右腕と左腕の傷が、3秒で塞がっていく。男がその光景を見ている。目を見開いてはいない。冷静に観察している。
——この人間は、私の再生を見て怯えない。
ノクスの中で、何かが動いた。
恐怖ではない。焦りでもない。
面白い。
この人間は——強い。
「もう一度」
ノクスが呟いた。日本語だ。
踏み込んだ。今度は正面から。男のナイフが迎撃に来る。ノクスは右手で刃を掴んだ。掌が裂けた。血が溢れる。だが構わない。刃を握ったまま、左手で男の右手首を掴んだ。
男の手首の力が——強い。フェロモン指数22.8の人間の握力は400キロをこえる。ノクスの純種としての腕力でも、片手では抑えきれない。
だが両手なら——
ノクスは右手でナイフの刃を掴んだまま、左手で男の手首を捻った。関節が軋む。男が歯を食いしばった。声は出さない。
ナイフが床に落ちた。
ノクスが男の首に左手を当て、爪から麻痺毒を注入した。前回の数倍の量。
男の身体が——微かに震えた。だが倒れない。膝が僅かに折れただけだ。
「……効かない」
ノクスが呟いた。
麻痺毒が、この男にはほとんど効いていない。通常の人間なら、爪で触れただけで意識を失う。この男は——数倍の量を注入されても、まだ立っている。
フェロモンで強化された肉体が、毒物への耐性を持っている。
ノクスは男の首を掴んだまま、壁に押しつけた。純種の全力。男の後頭部が壁に打ちつけられ、コンクリートにひびが入った。
男の意識が飛んだ。
——毒ではなく、物理的な衝撃で。
ノクスは男を床に降ろした。気絶しているが、呼吸はある。
任務完了。無傷で——とは言えないが、殺してはいない。
右手の掌がまだ裂けている。ナイフの刃を素手で掴んだ傷。
ノクスは自分の手を見つめた。
血が滴っている。自分の血。深紅色。
その血が——指先で、微かに揺れた。凝固し始めている。形を取ろうとしている。
まだ、決まらない。だが——近い。
同時刻。3階の手前側。
エリザベートと転種3名——岡田、渡辺、高橋——が、残りの構成員を制圧していた。
正面扉を突破した岡田が先頭に立ち、部屋の中に踏み込んだ。8畳の大部屋。二段ベッドが4台。構成員が——跳ね起きた。
4名の戦闘員が、武器を手にしていた。
こちらも寝ている間に装備を外していない。アームガード、プロテクト——外骨格の加工品。そしてアーティファクトの武器。
最初の1人が魔弾銃を発射した。追尾弾が岡田の胸に向かう。岡田が身を捻り、弾丸が左肩を掠めた。転種の身体能力で弾道を見切っている。だが追尾機能がある。弾丸がカーブして戻ってくる。
渡辺が前に出て、盾代わりに身体で受けた。弾丸が右の二の腕を貫通した。転種の再生能力。数十秒で塞がる。
「速い——」
渡辺が呟いた。弾速ではない。戦闘員の反応速度だ。深夜の強襲に、0.5秒以内で武器を構えている。フェロモンで強化された人間の反射速度は侮れない。
岡田が最も近い戦闘員に踏み込んだ。
戦闘員が魔弾銃で応射した。至近距離。岡田は銃身を左手で弾き、右手の掌底で胸部を打った。
戦闘員が2メートル吹き飛んだ。壁に叩きつけられ——立ち上がった。
外骨格のプロテクトが衝撃を吸収していた。
「硬い!」
岡田が叫んだ。転種の打撃力で胸を打っても、エリート兵隊蟻の外骨格が防いでいる。
高橋が横から入り、戦闘員の脚を払った。倒れた戦闘員の首に手を当て——爪から麻痺毒を注入した。
戦闘員の身体が——5秒間痙攣し、そして動き出した。
「毒が——効かない?」
高橋が愕然とした。通常の人間なら、爪で触れた瞬間に全身が硬直し、意識を失う。この戦闘員は5秒で回復している。フェロモン指数15から18。毒物への耐性が、通常の人間とは桁違いだ。
「物理で抑え込め!」
岡田が判断を切り替えた。SAT時代の対テロ制圧術。相手の関節を極め、体重で押さえつける。転種の筋力なら——フェロモン強化された人間でも、物理的に拘束できる。
岡田と高橋が1人を押さえ込んだ。渡辺がもう1人の腕を背中にねじ上げた。
残り2名が——逃げようとした。部屋の窓に向かう。
エリザベートが動いた。
大鎌。
血が凝固し、2メートルの柄の先に三日月形の刃が形成された。エリザベートの固有形態。範囲制圧に特化した武器。
鎌の刃が弧を描き、逃走しようとした2名の前を塞いだ。刃先が窓枠に食い込み、退路を断つ。
「動くな」
エリザベートの声は低く、穏やかだった。だがその声の奥に——有無を言わせない圧がある。
2名が凍りついた。大鎌の刃が首の横を通過した残像が、まだ網膜に焼きついている。
4名の戦闘員を制圧。殺害なし。
エリザベートが岡田に目配せした。
「残りの非戦闘員は」
「渡辺と高橋が2階と1階を確認中です。——深夜なので、大半が3階で寝ていた。逃げた者はいません」
「……1つ、報告があります」
岡田が声を落とした。
「戦闘員への麻痺毒が、ほとんど効きませんでした。通常の量では数秒で回復する。——フェロモンで強化された人間は、毒への耐性が異常に高い」
エリザベートの赤い瞳が、僅かに見開かれた。
「……それは——予想外ね」
エリザベートは念話でリリスに報告した。
《リリス。麻痺毒がフェロモン強化された人間に効かない。通常の量では5秒程度で回復する。指数15から18の戦闘員ですらこの耐性だ。指数20を超える人間には——ほとんど効果がないかもしれない》
リリスの返答が、一瞬遅れた。
《……グール化は》
《試していない。だが麻痺毒と同じ唾液由来の成分だ。同様の耐性がある可能性が高い。戦闘中にグール化させるのは——実質的に不可能かもしれない》
長い沈黙。
《……分かった。転種化の検証に移れ。軍人の方は確保できたか》
《ノクスが確保した。意識を失っているが、生きている》
《1名で試す。結果を見てから次を判断する。——エリザベート。慎重にやりなさい》
《了解》
午前3時40分。制圧完了から1時間半後。
鈴木が確保した安全家屋——栄から2キロ離れたマンションの一室——に、全員が移動していた。
拘束された犯罪組織の構成員32名のうち、非戦闘員27名はグール化を施した。こちらは通常の人間なので、麻痺毒もグール化も問題なく作用した。
戦闘員4名は物理的に拘束。手足をアーティファクトである無限のロープで固定し、壁にもたれさせている。全員が意識を取り戻しているが、身動きが取れない。
そして——陳偉龍。
別室のベッドに寝かされている。同じく手足は無限のロープで固定。意識はまだ戻っていない。
エリザベートが、ベッドの脇に立った。
「ノクス。お前が確保した男だ。観ていなさい」
ノクスが部屋の隅に立ち、蒼い瞳で見つめていた。
エリザベートが右手の手首を牙で切った。暗い赤色の血が溢れる。
陳偉龍の首筋に——牙を立てた。血を吸う。そして、吸った量と同量の自分の血を、傷口から注入する。
転種化。
純種の血液が人間の体内に流れ込む。血管を通じて全身に拡散し、細胞の一つ一つに吸血鬼の因子が浸透していく。
通常の人間なら——この過程は数分で完了する。純種の血液1リットルで、人間の全身を転化できる。
だが——陳偉龍の身体が、抵抗した。
エリザベートの血液が体内に入った瞬間、陳偉龍の筋肉が痙攣した。体温が急上昇する。フェロモンが定着した細胞が、吸血鬼の因子を異物として排除しようとしている。
「……抵抗が強い」
エリザベートが呟いた。額に汗が浮いている。
通常の転種化では、人間の体重の5パーセント程度——体重70キロの人間なら3.5リットル——の血液で十分だ。だが陳偉龍の身体は、フェロモンが全身に定着している。その定着したフェロモンが、吸血鬼の因子と拮抗している。
エリザベートは血液の注入量を増やした。
1リットル。2リットル。3リットル。
通常の3倍を注入しても、転化が完了しない。陳偉龍の身体がまだ抵抗している。体温は40度を超えている。全身から汗が噴き出し、筋肉が間欠的に痙攣する。
4リットル。
エリザベートの顔色が変わった。自分の血液の——半分近くを消費している。
「——もう少し」
5リットル。
陳偉龍の身体の痙攣が——止まった。
体温が下がり始めた。呼吸が安定する。心拍が——変わった。遅くなり、深くなった。人間の心拍ではない。
転種化。
成功した。
エリザベートがベッドの脇に膝をついた。立っていられない。血液の半分近くを消費した代償だ。
「……成功した。だが——」
エリザベートが息を整えた。
「通常の3倍以上の血液を消費した。フェロモンが定着した人間を転種化するには、通常とは桁違いのコストがかかる。——指数22.8の男で、私の血液の半分近い。これが指数30を超える人間なら——1人の純種の全血液を使い切っても足りないかもしれない」
ノクスが静かに言った。
「つまり——巖道の部隊の隊員を戦場で転種化するのは、事実上不可能だと」
「戦場では不可能だ。時間がかかりすぎる。血液の消費も大きすぎる。——だが」
エリザベートが立ち上がった。まだ足元がふらついている。
「時間をかけて、安全な場所で行うなら——可能ではある。この男の転種化には成功した」
エリザベートが念話を開いた。
《リリス。転種化は成功した。ただし、通常の3倍以上の血液を消費した。フェロモン指数22.8の人間で、私の血液の約半分。戦場での転種化は事実上不可能。安全な場所で時間をかければ可能》
リリスの返答が届いた。
《……麻痺毒が効かない。グール化も困難。転種化には大量の血液が必要。——フェロモンで強化された人間は、我々にとって従来の人間とは根本的に異なる存在だということね》
《はい。巖道の部隊と正面から交戦した場合——噛んで麻痺させる、グール化させるという戦術が通用しない。純粋な白兵戦になる。それは——》
《分かっている。サンライズとは次元が違う戦いになる》
念話が切れた。
エリザベートは窓の外を見た。名古屋の夜景。東京より暗い。こうしてる間にもフェロモンで強化された人間は増え続けている。
フェロモンで強化された人間は、吸血鬼にとって——噛めない敵だ。
それは、一族の戦略の根幹を揺るがす発見だった。
午前4時。
陳偉龍が目を開けた。
天井が見える。知らない天井だ。蛍光灯は消えている。だが——見える。暗闇の中で、天井のシミの一つ一つが鮮明に見える。
身体が——違う。
力が、以前とは桁違いに溢れている。
心臓の鼓動が遅い。深い。血液が——違う。体温が低い。だが寒くはない。むしろ——これが自然な状態のように感じる。
「目が覚めたか」
女の声。日本語。だがイントネーションが微妙に違う。
視界の端に、赤い髪の女が立っていた。ダークレッドの長い髪。赤い瞳。
「你是谁」
陳偉龍が中国語で問うた。
女が日本語で答えた。
「あなたの新しい主よ」
陳偉龍は——返事をしなかった。
ただ、自分の身体の変化を、静かに観察していた。




