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血を与えたら進化しすぎた件~世に出回るアーティファクトも東京に出来たダンジョンも多分俺のせいだけど面白いからいいよね~  作者: 唯之助


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第44話「反響」

 火曜日。午前8時。永田町。内閣府。


 佐々木参事官は、超常事態対策室の会議室に向かう廊下で、名刺入れのカードを入れ替えた。


 名刺が2枚ある。


 1枚目。「防衛省防衛政策局 参事官 佐々木智彦」。原籍はここだ。


 2枚目。「ダンジョン管理庁設立準備室 統括参事官 佐々木智彦」。こちらは出向先の肩書きだ。


 霞が関では珍しくない人事だ。新設機関の立ち上げに際して、既存省庁の人間が出向する。佐々木の場合は防衛省に籍を置きつつ、管理庁の設立準備室を実質的に指揮している。加えて鬼庭との連絡役も兼ねている。1人の人間が3つの職務を担う——人員不足の裏返しだった。


 会議室のドアを開けた。


 超常事態対策室の定例会合。出席者は12名。内閣官房副長官、防衛省、環境省、警察庁、厚生労働省、国土交通省から。壁面のスクリーンには「第23回 超常事態対策室 定例会合」の文字。


 佐々木は自分の席に着く前に、早川の報告書のコピーを出席者全員のファイルに挟んだ。昨夜メールで送付済みだが、紙でも配っておく。こういう会議では紙が効く。


 官房副長官の篠田が開会を宣言した。


「定例の前に、昨日の墨田区の件を先にやる。佐々木参事官、報告を」


 佐々木が立ち上がった。


「昨日午前9時15分、墨田区向島の巨木——第三種超常案件——の伐採作業中に、超常性の生物と遭遇しました。詳細は配布資料の通りです」


 スクリーンに、作業員が撮影した写真が映し出された。銀色の幹の前に立つ漆黒の影。ぼやけているが、8本の脚と人間の上半身のシルエットは見て取れる。


「蜘蛛型。体長2.5メートル。上半身は人間の女性に近い形状、下半身は蜘蛛。漆黒の体表に黄金の紋様。8つの赤い目。——護衛の4名を含む19名全員が無傷で行動不能にされました。糸による三次元的な空間制圧です。アーティファクトの武器でも糸を断てず、射撃も無効化されました」


 会議室に沈黙が落ちた。


「加えて——この生物は日本語を話しました。片言ですが、明確な発話です。『この木を殺さないで』と。知性があり、意思疎通の可能性がある。殺意は皆無で、防衛行動のみ。19名全員が無傷という事実がそれを裏付けています」


 環境省の課長補佐が手を挙げた。


「伐採はどうなりますか」


「凍結を推奨します。あの生物を排除できない限り、伐採は不可能です。そして排除するには——鬼庭の巖道先生を投入する必要がありますが、巖道先生は六本木作戦の準備を優先しています。巨木の伐採のために鬼庭の全戦力を振り向ける判断は、現時点では合理的とは思えません」


「では当面は」


「封鎖の維持。半径200メートルの立入制限を継続し、情報収集に努めます。あの生物の行動パターン、生態、能力の限界を把握した上で、次の手を考える」


 官房副長官の篠田が腕を組んだ。


「超常の脅威がまた1つ増えたわけだ」


 佐々木が頷いた。


「現状の整理を申し上げます。政府が対処すべき超常案件は、現在3つです」


 スクリーンを切り替えた。



 【超常案件一覧(現時点)】


 第一種:ダンジョン(都内全域)

  入口67箇所。深度200m超。拡大継続中。

  冒険者累計5万名以上。死者800名超。

  ダンジョン管理庁が対応中(本格稼働に向け準備中)


 第二種:吸血鬼(六本木ヒルズ)

  封鎖線維持中。鬼庭が対処準備中。

  社会浸透活動の兆候あり(未確認)


 第三種:世界樹および守護者(墨田区向島)

  高さ28m。成長継続中。フェロモン類似物質を放出。

  蜘蛛型の知的生物が棲息。伐採を阻止。

  封鎖維持中。



「3つの超常案件に対して、鬼庭は9名。管理庁は準備室段階で実働職員が30名に満たない。GRTが200名。超常事態対策室が23名。——率直に申し上げて、リソースが全く足りません」


 篠田が佐々木を見た。


「管理庁の本格稼働はいつになる」


「来月中には庁舎の確保と初期人員の配置を完了する見込みです。ただし、初期人員は各省庁からの出向者80名程度が限界です。67箇所の入口を管理するには500名規模が必要ですが、その規模に達するのは早くて半年後になります」


「半年」


「はい。その間は——冒険者ギルドとの暫定協力協定に基づき、入口管理の実務をギルドに委託する現行体制を継続するしかありません」


 警察庁の課長が苦い顔をした。


「民間団体に行政機能を委託し続けることの法的リスクは——」


「承知しています。新アーティファクト法案でギルドの法的位置づけを確定させる方向で動いています。現在、法制局と調整中です。ギルドを『超常物品流通管理団体』として法律上認定し、入口管理と武器型アーティファクトの所持許可代行を委託する。管理庁はその上位に立ち、監査と政策立案を担う」


「ギルドの田所がそれを飲むか」


「飲むでしょう。田所は現実主義者です。法的な裏打ちがない現状は、田所にとってもリスクです。ギルドの職員が入口で冒険者と揉めた時、法的根拠なしでは対処できない。——ただし、手数料率の上限設定とギルドの会計監査を条件に含めなければ、財務省と警察庁が首を縦に振りません」


 篠田が頷いた。


「管理庁の件は引き続き急げ。——世界樹の件に戻る。佐々木参事官の見解では、あの蜘蛛型の生物は交渉の余地があるということか」


「私の見解ではなく、現場指揮官の早川の見解です。殺意がない、言葉が通じる、木を守ること以外に関心がない——この3点から、排除以外の選択肢を検討すべきだと。私もその判断に同意します」


「交渉して何を得る」


「分かりません。まずはあの生物が何者で、何を望んでいるのかを理解する必要があります。そのためにも、情報収集が先です」


 篠田が結論を出した。


「墨田区の巨木は伐採凍結。封鎖を維持し、情報収集を継続。——次の議題に移ろう」



     



 同日。午後1時。池袋。冒険者ギルド本部。


 田所勝のデスクに、分析報告書が届いていた。


 昨日の伐採現場に同行させたギルドの分析要員——高梨の部下——が、持ち帰ったフェロモン計測データをまとめたものだ。


 田所はコーヒーを飲みながら報告書を読んだ。


「世界樹周辺フェロモン類似物質濃度報告」。


 数値が並んでいた。


 測定ポイント①

 世界樹から300メートル地点(伐採チーム集合場所)

 フェロモン類似物質濃度。ダンジョン地下30メートル帯の分子構造に相当


 測定ポイント②

 世界樹から50メートル地点(重機配置場所)

 フェロモン類似物質濃度。ダンジョン地下60メートル帯の分子構造に相当


 測定ポイント③

 世界樹根元付近(伐採要員の作業位置)※伐採作戦中止後、撤退前に概算測定

 フェロモン類似物質濃度。ダンジョン地下80メートル帯の分子構造に相当


 ※ただし、伐採チーム19名は作業中および撤退までの約40分間、上記濃度に曝露されたが、

  フェロモン中毒に類する急性症状を示した者は1名もいなかった。


 田所はコーヒーカップを置いた。


 地下80メートル帯。


 地上に、ダンジョンの深層と同等の環境が出来上がっている。


 あの木の根がダンジョンの地下30メートル以深に達しているという調査報告は、先週の環境省の合同調査で出ていた。根が地下深くからフェロモンを吸い上げ、地上に放出している——という仮説は以前からあったが、この数値はそれを裏付ける。


 だが田所が注目したのは、濃度そのものではなかった。


 報告書の最後に、高梨の補足コメントがあった。


「世界樹周辺のフェロモン類似物質は、ダンジョン由来のフェロモンと分子構造が95%以上一致するが、残り5%に未知の成分が含まれている。この未知成分が、ダンジョンフェロモンの人体への急性毒性を中和している可能性がある。実際、伐採チームの誰一人として中毒症状を示していない点は、ダンジョン内で同等濃度に曝露された場合の反応と著しく異なる。世界樹の放出物質は、計測器上の分子構造はダンジョンフェロモンに酷似するが、人体への作用機序は根本的に異なる別系統の物質である可能性が高い。果実にも同様の未知成分が含まれていると推測されるが、サンプルが回収できない現状では検証不可能」


 田所は報告書を閉じた。


 果実。銀色の果実。あの木の枝に生っていた果実は、伐採中止で回収できなかった。蜘蛛型の生物がいる限り、回収は困難だと伐採チームのリーダーが報告している。


 秘書の黒川が入ってきた。


「田所さん。佐々木参事官から連絡です。伐採は正式に凍結。封鎖を維持して情報収集に移行するとのこと。——それと、伐採要員4名の報酬は政府が全額負担。ギルドへの手数料も支払うそうです」


「金の話はいい。——黒川、高梨に伝えてくれ。世界樹周辺のフェロモンデータを、今後も定期的に計測したい。封鎖線の外側から、無人計測機を設置できないか検討しろと」


「封鎖線の外側からですか。管理庁の許可が——」


「佐々木さんに話す。佐々木さんは管理庁の準備室も兼務している。ギルドがフェロモン計測を行う名目で封鎖線近くに機材を置く。環境モニタリングという体裁なら、通るだろう」


 黒川が頷いてメモを取った。


「もう一つ」


 田所が椅子の背にもたれた。


「あの蜘蛛型の生物のことだ。伐採チームから聞いた話では、日本語を話した。木を守ろうとしている。——知性があり、言葉が通じ、殺意がない」


「それが何か」


「将来、あの木に近づく手段が出てくるかもしれない。力ずくではなく、交渉で。その時にギルドが関与できる位置にいたい。果実の回収は、ギルドにとって最優先の案件だ。あの果実の成分が判明すれば——フェロモン中毒の治療に革命が起きる可能性がある」


 黒川が田所の顔を見た。田所の表情は穏やかだったが、目の奥に光があった。


「果実の回収は、管理庁にも環境省にもできない。できるのは——現場に人間を送り込めるギルドだけだ。蜘蛛が交渉に応じるかどうかは分からない。だが少なくとも、ギルドが情報を持っている——という状況を作っておく」


「……いつもの手ですね」


「いつもの手だ」


 田所が笑った。



     



 同日。深夜。六本木ヒルズ。45階。


 リリスの居室。


 幹部会議ではない。リリスとヘカテの2人だけだった。


 ヘカテがタブレットを操作しながら報告していた。


「今朝のニュースで確認しました。墨田区の巨木の伐採が中止になった。環境省が『巨木周辺で想定外の生態系の変化が確認されたため、伐採計画を一時凍結し、追加調査を行う』と発表しています。——報道はそこまでです」


 リリスが目を細めた。


「想定外の生態系の変化。曖昧な表現だ」


「SNSではもう少し詳しい情報が出ています。伐採チームの作業員と思われるアカウントが、伐採現場で『巨大な蜘蛛のような生物を目撃した』と投稿しています。投稿は数時間で削除されましたが、スクリーンショットが拡散しています」


「蜘蛛型の生物」


「はい。銀色の巨木の前に立つ、黒い影の画像も出回っています。画質が悪く、何か分かる精度ではありませんが——」


 ヘカテがタブレットをリリスに向けた。遠距離から撮影された、ぼやけた画像。銀色の幹。その前に立つ漆黒の影。


「体長2メートル以上。上半身が人間の女性に近い形状、下半身が蜘蛛。——SNSでは『蜘蛛女』『アラクネ』と呼ばれ始めています」


「ダンジョンの蟻とは別系統か」


「おそらく。蟻はダンジョンの内部で発生した生物です。この蜘蛛型の生物は——地上の巨木に棲息している。ダンジョンの外で超常的な生物が発生したのは、これが初めてです」


 リリスが椅子の肘掛けに指を当てた。


「巨木自体については」


「以前から追跡しています。墨田区向島に出現した銀色の巨木。高さは20メートルを超え、成長を続けている。周辺からダンジョン由来と思われるフェロモン類似物質が検出されている——というのが公開情報です」


「フェロモン類似物質」


「はい。ここが重要です。あの巨木はダンジョンのフェロモンに類似した物質を放出している。つまり——ダンジョンと何らかの関連がある」


 リリスの深紅の瞳が光った。


「我々はダンジョンに入れない」


「入れません。蟻が異分子として排除する」


「だが——巨木は地上にある」


 ヘカテが頷いた。


「地上にある。そして、ダンジョンに類似した物質を放出している。——我々はフェロモンの恩恵を受けることはできないが、それはダンジョンの中での話だ。例の巨木が放つフェロモンは別かもしれない。現段階では推測ですらない憶測ですが、可能性はないとも言えない。いずれ調査は必要かと」


「それと——果実があると聞いた」


「SNSの投稿です。巨木に銀色の果実が生っているという目撃情報が複数。政府が回収を試みたが、蜘蛛型の生物に阻まれて回収できなかった——という情報も、削除前の投稿から推測できます」


「果実の効果は」


「不明です。一切の情報がありません」


 リリスはしばらく黙って考えていた。


「今は手を出さない。人間が騒いでいる間は静観する。——だが、あの巨木の情報は継続して集めろ。特にフェロモン類似物質の詳細と、果実の成分に関する情報。政府か、ギルドの人間か、誰かが分析結果を出すはずだ」


「了解」


「話を変える。名古屋の件は」


 ヘカテがタブレットを切り替えた。


「エリザベートから、鈴木の最新報告を受けています。中華系犯罪組織の情報収集が進んでいます」


「まとめろ」


 ヘカテが報告書の画面を表示した。


「名古屋・栄の中華系犯罪組織。鈴木が3週間にわたり監視を継続した結果をまとめます」


「拠点は栄の雑居ビル3階。表向きは貿易会社。出入りする人間は——鈴木が確認した限りで32名。うち在日華僑が約10名、残りは本国から入国した中国人。入国時期はバラバラですが、半数以上がダンジョン出現後の入国です」


「アーティファクトの密輸のために入国した可能性が高い」


「はい。ビザの種類は不明ですが、短期滞在であれば90日で更新が必要です。それ以上滞在している者がいるなら、留学や技術ビザで偽装しているか、不法滞在か」


「戦闘員の件は」


「ここからが本題です。鈴木が特に注視している5名がいます。この5名は、他の構成員と明らかに身体の質が違う。反応速度、歩行時の重心移動、周囲への警戒の仕方——フェロモンで強化された冒険者の特徴を示しています」


「5名の詳細は」


「4名と1名に分けるべきです。4名は——動きの質が似ています。速いが、荒い。訓練を受けた人間の動きではなく、実戦で身につけた野性的な反射です。おそらくダンジョンに繰り返し潜ってフェロモン強化された、もぐりの冒険者。フェロモン指数は推定で10から15の範囲だと考えています」


「推定の根拠は」


「鈴木の身体感覚です。鈴木は転種ですので、フェロモン由来の身体強化とは原理が異なりますが——基礎訓練で人間の動きの質を見る目は養っています。あの4名の反応速度と筋力は、指数10以下の一般人とは明確に異なるが、社会浸透組が品川入口で観察している巖道の部隊と比較すると明らかに劣る。——高く見積もっても20は超えてはいないだろう、というのが鈴木の判断です。私もその判断は妥当と考えます」


「残りの1名は」


 ヘカテの声がわずかに変わった。


「この1名は、他の4名とは質が違います」


 リリスが視線を上げた。


「鈴木の報告を引用します。『この男は他の4名と行動を共にしているが、動きの体系が根本的に異なる。他の4名は反応速度こそ速いが、動きに無駄が多い。この男は——無駄がない。立ち止まっている時の姿勢、歩き出す時の重心移動、不意の物音への反応——すべてが訓練された動きだ。軍人か、それに準じた教育を受けている』」


 リリスが椅子の上で姿勢を変えた。


「軍事訓練を受けた人間が、犯罪組織にいる」


「珍しくはありません。退役軍人が犯罪組織に流れるケースは世界中にある。——ただし、この場合は少し事情が異なります」


「何が」


「この男は中国籍です。中国語を母語とし、他の構成員との会話を鈴木が断片的に聞き取っています。そして——入国時期がダンジョン出現のわずか2週間後です」


「2週間後」


「はい。ダンジョンが発見され、アーティファクトの存在が公になった直後に日本に入国している。もぐりの冒険者として東京のダンジョンに潜り、フェロモン強化を受けた上で、名古屋の犯罪組織の戦闘部門に合流した——という経緯が推測されます」


 リリスが黙った。


 ヘカテが続けた。


「この男のフェロモン指数は——正確には分かりません。鑑定の鏡はダンジョンの外では使えませんし、我々は鏡を持っていません。ですが、鈴木の観察と、4名との比較から推測すると——少なくとも15以上。動きの質から考えれば、20に近い可能性もあります」


「20に近い」


「あくまで推測です。ただ——軍事訓練を受けた人間がフェロモン指数15以上であれば、一般の冒険者とは桁違いの戦闘力を持ちます。巖道の部隊の隊員は指数20以上で軍人の経歴を持つ人間で構成されていますが、この男が指数15以上で軍事訓練を受けているなら——質的には政府の秘匿部隊に迫る可能性がある」


 リリスの指が肘掛けを叩いた。


「可能性が3つある。1つ目——退役軍人が個人の判断で渡航し、犯罪組織に合流した」


「最もありがちです」


「2つ目——中国政府あるいは軍が、アーティファクトの回収と分析を目的に、工作員を日本に送り込んでいる。犯罪組織は偽装」


「否定できません。アーティファクトは現時点で地球上最も価値のある技術資源です。いかなる国家もこれを無視できない。中国が工作員を送り込んでいても全く不思議ではない」


「3つ目——犯罪組織が独自に軍人を雇い入れた」


「これも否定できません。資金力のある犯罪組織であれば可能です」


 リリスが結論を出した。


「いずれにせよ、この男は強い。それが重要だ。——カーミラが言ったように、フェロモン強化された人間との戦闘データが必要だ。この中華系組織は実験台として適切だという判断は、今も変わらない」


「変わりません。むしろ——軍事訓練を受けた指数15以上の人間がいるなら、そのデータの価値はさらに高い」


「ただし、今は動かない。鈴木にもう1週間の監視を継続させろ。組織の全容——構成員の総数、戦闘員の装備、拠点の構造、行動パターンの全容が揃ってから作戦を立案する」


「了解。エリザベートに伝えます」


「もう1つ。この男のフェロモン指数をもう少し精度よく推定できないか。鈴木に、可能であるなら戦闘員が訓練している場面を観察させろ。素振りや組手の動き、走る速度、反応時間——それだけでも、もう少し絞れるはずだ」


「指示します」


 ヘカテが退室しようとした時、リリスが呼び止めた。


「ヘカテ。転種にした場合の戦力はどう見る」


 ヘカテが振り返った。


「元の素体が強ければ、転種も強くなります。この男がフェロモン指数15以上で軍事訓練を受けた人間であれば——仮に転種化できた場合、現在の戦闘部隊の転種を上回る戦力になる可能性があります。——もっとも、フェロモンで強化された人間を転種化できるかどうか自体が未検証ですが」


「だからこそ、検証が必要だ」


「はい。その通りです」


 リリスの深紅の瞳が、暗い部屋の中で光った。


「……面白い」


 ヘカテが退室した。


 リリスは一人で窓の外を見た。六本木の夜景。封鎖線の向こうに、東京の灯りが広がっている。


 世界樹。蜘蛛型の生物。フェロモン類似物質。銀色の果実。


 そして——中華系犯罪組織の中に潜む、1人の軍人。


 駒が増えている。盤面が広がっている。


 リリスにとって、それは脅威であると同時に——機会だった。


 一族の生存圏を広げるための。



     



 同時刻。墨田区。真央のアパート。


 真央はベッドの上でスマホを見ていた。


 掲示板に、伐採失敗の話が広まっていた。



 東京異常現象総合スレ Part 189


 724:名無しの住人

 墨田区の銀色の木、伐採失敗したらしい

 環境省が「想定外の生態系の変化」で凍結って発表

 なんだよ想定外の生態系って


 731:名無しの住人

 >>724

 現場にいた作業員のツイート(もう消されてる)だと

 でかい蜘蛛が出てきて全員動けなくされたらしい

 画像もあったけど遠くからでボケボケ


 738:名無しの住人

 >>731

 蜘蛛? ダンジョンの蟻みたいなやつか?


 742:名無しの住人

 >>738

 蟻じゃなくて蜘蛛

 体がでかくて上半身が人間に見えるって

 マジなら完全にモンスターだろ


 749:名無しの住人

 ソースがツイート1個で消されてるのに信じるの?

 政府は「生態系の変化」としか言ってない


 755:名無しの住人

 >>749

 蜘蛛が出たかどうかは知らんが

 伐採できなかったのは事実だろ

 あの木どうすんだよ もう30メートル近いぞ


 762:名無しの住人

 ダンジョンの蟻、六本木の吸血鬼、

 今度は墨田区の巨大蜘蛛

 東京に何が起きてんだマジで


 770:名無しの住人

 今年の東京

 ・地下に蟻の帝国

 ・港区に吸血鬼

 ・下町に巨大蜘蛛と銀の巨木

 異世界転生ものの設定かよ



 真央はスマホをベッドに置いた。


 掲示板の住人たちは面白おかしく書いているが、真央には状況が分かる。伐採チームが来て、アラクネが追い返した。それだけだ。


 窓の外を見た。遠くに銀色の梢が見える。暗い空に鈍く光っている。


「……ちゃんとやったんだな」


 アラクネに向けた言葉ではなかった。独り言だ。


 アラクネがバレたのは想定内だ。あのサイズの蜘蛛が銀色の巨木に張り付いていれば、いつかは見つかる。問題は——次にどうなるかだ。


 政府は伐採を凍結した。しばらくは様子見だろう。だが、あの木は成長を止めない。放っておけばさらに大きくなる。いずれまた、何かしようとする人間が来る。


 真央はそのことに対して、不安も心配も感じなかった。


 アラクネが守れるなら守る。守れなくなったら——その時はその時だ。


 真央にできることはない。正確には——できることはあるが、やる気がない。魔道具を貸してやれば、或いは血を追加で与えてやれば、もしかしたらアラクネはさらに強くなるかもしれない。だが、そこまでする理由がない。アラクネが自力で何とかするのを見ている方が面白い。


 スマホの画面を閉じ、天井を見つめた。


 明日はコンビニのシフトが昼から。午前中は寝ていられる。


 真央は目を閉じた。


 窓の外で、銀色の木が夜空に光っていた。

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― 新着の感想 ―
主人公はあくまで傍観者ね ここまで徹底してるのは好み ただ物語の進展がかなり遅い、というより主人公パート多めにしてほしい
あーやばい 主人公のこと嫌いになっちゃった 無責任すぎてなんかちょっと嫌いになっちゃった アラクネおさなんかあるじゃん、仮にも親だぜ 短期間とはいえ一緒に住んでたわけじゃん無責任で無関心すぎるよね流石…
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