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血を与えたら進化しすぎた件~世に出回るアーティファクトも東京に出来たダンジョンも多分俺のせいだけど面白いからいいよね~  作者: 唯之助


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第43話「銀の守り手」

 1週間後。防衛省。


 佐々木参事官の執務室に、内線電話が鳴った。


 内閣官房超常事態対策室からだった。


「墨田区の巨木の件です。伐採計画が正式に決裁されました。環境省の伐採チームが来週月曜に現地入りします。——それで、護衛の件なんですが」


 佐々木はメモを取りながら聞いた。


「蜘蛛の巣の件は調査しましたか」


「周辺の生態系調査を実施しましたが、巨大な蜘蛛そのものは確認されていません。ただ、巣の規模が通常の蜘蛛では説明できないという藤井技官の見解は変わっていません。念のため、武装した護衛を随行させたいと」


「何名程度を想定していますか」


「環境省としては、重機オペレーター2名と作業員6名を出します。伐採にはアーティファクトの切断系が必要なので、冒険者ギルド経由で伐採要員を4名手配済みです。護衛は——そちらの判断にお任せします」


 佐々木は一拍考えた。


 蜘蛛の巣があった。だが蜘蛛そのものは未確認。伐採対象は植物だ。動かないし、反撃もしない。ファイアストームやサンライズのような戦闘作戦ではない。あくまで環境対処だ。


 だが——ダンジョンの時も、最初はただの「害虫駆除」だった。


「4名出します。鬼庭から」


「ありがとうございます。それで十分かと」


 電話を切った後、佐々木は内線で巖道のいる地下訓練施設に連絡を入れた。



     



 市ヶ谷。地下訓練施設。


 巖道征四郎は、訓練場の隅で茶を淹れていた。


 65歳。白髪を短く刈り込んだ痩身の老人。動きは静かだが、その体幹を支える筋肉は鋼線のように引き締まっている。フェロモン指数は34を超える。人間の最高域。


 佐々木からの電話を受けたのは、早川だった。


「先生。墨田区の巨木の伐採に、護衛を出してほしいという要請です。来週月曜。4名」


 巖道は湯飲みを傾けた。


「蜘蛛の巣の件か」


「はい。実体は未確認ですが、念のためと」


「ふむ」


 巖道は茶を一口含んだ。


「早川。お前が連れて行け。人選は任せる」


「了解です。——先生は」


「行く理由がない。木を切るのに老人は要らんだろう」


 早川が敬礼して退室した。


 巖道は窓のない訓練場の天井を見上げた。木の伐採。護衛。蜘蛛の巣。——巖道の直感は、何も引っかかっていなかった。超常案件ではあるが、六本木の吸血鬼とは次元が違う。


 早川なら十分だ。



     



 同日。池袋。冒険者ギルド本部。


 田所勝は、デスクで電話を受けていた。


「ダンジョン管理庁の佐々木参事官から打診がありました」


 秘書の黒川が報告する。


「墨田区の巨木の伐採に、ギルドから伐採要員を出してほしいと。アーティファクトの切断系を扱える経験者を4名。報酬は政府が負担」


「切断系か。骨断包丁か魔剣包丁、切断のナイフを持ってる冒険者を出せということだな」


「はい。ギルド経由で手配すれば、万が一の事故時に保険も適用されます」


 田所はコーヒーを飲んだ。


 墨田区の巨木。先週の幹部会で黒川が報告した「第三の超常案件」。フェロモン類似物質を放出する銀色の木。根が地下35メートル——ダンジョンの中層に届いている可能性。


 田所にとって、この木は脅威であると同時に情報源だった。


「伐採要員を出す。ただし条件をつけろ」


「条件?」


「果実のサンプルを1つ、ギルドに提供すること。あの木に生っている銀色の果実——政府は回収して分析すると言っているが、こちらにも1つ寄越せ。フェロモン類似物質を放出する植物の果実だ。冒険者の健康管理に関わる可能性がある——という名目で」


「環境省が了承しますかね」


「佐々木参事官を通せ。あの人は現実主義者だ。ギルドの協力が必要なら、果実1つくらいは出すだろう」


 黒川が頷いてメモを取った。


「伐採要員は赤星のチームから出すか。骨断包丁を持っている松永と、魔剣包丁の小野。あと切断のナイフを持っている2名を組み合わせれば4名になる」


「指数は」


「松永が17。小野が15。他の2名は13と12。伐採作業としては十分です」


「護衛は政府が出すんだろう。武装は不要だな」


「ただ——あの木の周辺にいたというのが本当なら」


「蜘蛛の巣か。護衛がいるなら問題ないだろう。うちの仕事は木を切ることだ」


 田所はもう1つ、黒川に指示を出した。


「高梨に連絡しろ。伐採現場のフェロモン濃度を測定させたい。計測機材を持った分析要員を1名、同行させろ」


「分かりました」


 田所はコーヒーカップを置いた。


 政府が木を切る。ギルドが手を貸す。その過程で、あの木の情報を先に掴む。


 ——いつもの手だ。



     



 翌週月曜日。午前8時30分。墨田区向島。


 環境省のワンボックスが2台、大型トレーラーが1台、路地の手前に停車した。住宅街の道幅では、これ以上奥に入れない。


 先週の退避勧告で、残っていた4世帯も一時退避している。半径200メートル以内に民間人はいない——はずだ。


 環境省の伐採チームリーダー——50代の技術者、名札には「水島」とある——がワンボックスから降りた。重機オペレーター2名と作業員6名が続く。


 別のワンボックスから、ギルドの伐採要員4名が降りた。松永は骨断包丁を背負い、小野は魔剣包丁を腰に下げている。残る2名は切断のナイフを装備していた。全員がギルドの冒険者証をぶら下げている。


 その後方のワンボックスから、4名が降りた。私服。だが身のこなしが違う。


 早川勇一。35歳。鬼庭の副官格。フェロモン指数25.8。鋼鉄の木刀と守護の手袋。短く刈り込んだ髪に、鋭い目。


 宮園駿。26歳。元冒険者。フェロモン指数24.5。鉄壁の盾と切断のナイフ。


 山岸拓海。29歳。元空挺団。フェロモン指数24.0。破壊のバットと守護のヘルメット。


 神崎遥。27歳。限界突破者。フェロモン指数22.3。散弾魔銃と瞑想のアメジスト。


 数ヶ月の深層訓練で、全員の指数が上がっていた。発足時から1から3ポイントの上昇。週3回の品川ダンジョン訓練の成果だ。


 もう1名——ギルドの分析要員が同行していた。計測機材の入った大きなバッグを担いだ若い男だ。高梨の指示で、フェロモン類似物質の現場計測を行う。


「防衛省から派遣された護衛チームです。何かあれば我々が対処します。作業はそちらの判断で進めてください」


 早川が水島に挨拶した。


 水島は不安そうな顔で路地の奥を見つめた。


「……あれを切るんですか」


 路地の先に、銀色の巨木が見えていた。住宅街の屋根を遥かに超え、朝日を受けて鈍い金属光沢を放っている。


「そうです」


「チェーンソーじゃ無理ですよね」


「アーティファクトの切断系で幹に切れ込みを入れ、重機のワイヤーで引き倒す手順です」


「根は」


「幹を倒した後に重機で掘り起こします。今日は幹の切断が目標です」


 水島は頷いたが、表情は晴れなかった。あの木の根元まで重機を入れるには、壊れた道路を通らなければならない。根がアスファルトを突き破り、地面がでこぼこになっている。


「まず通路を確保します。根を切りながら重機を入れる道を作ってください」


 水島が作業員に指示を出した。


 早川は4名のチームを配置した。


「宮園、南側。山岸、東側。俺と神崎で北側——空き家の方角だ」


「蜘蛛の巣の報告があった空き家ですね」


「ああ。一応見ておく。——ただし先制攻撃はするな。何か出てきたら報告。それだけだ」


 神崎がアメジストに手を触れた。


「……早川さん。匂いが強いですね。甘いけど、ダンジョンの深層に似てる。70メートル帯の空気に近い」


「体調は」


「問題ないです」


「無理はするな」


 ギルドの分析要員が、路地の入口で計測機材を展開し始めた。フェロモン濃度計。小型の分光器。データロガー。


「ここで300メートル離れた地点と比較データを取ります。もっと近づけますか」


「伐採が終わるまでここで待機してください。安全が確認されてから木の近くに入れます」


 早川が答えた。



 午前9時。伐採準備完了。


 重機がエンジンをかけた。クレーン車のワイヤーが展開される。作業員が根元までの通路を確保し、伐採要員が木の近くに到着した。


 世界樹は——以前見た時よりさらに大きくなっていた。


 高さ28メートル。幹の直径は2メートル以上。銀色の樹皮に刻まれた幾何学紋様が、朝日を受けて脈動している。枝は四方に25メートル以上広がり、住宅街の上空を銀緑色の天蓋で覆っていた。


 根は半径40メートルに達し、道路は完全に崩壊。隣接する空き家の壁面は蔓と根に覆われ、もはや建物の原型を留めていない。木を中心に、銀色を帯びた植物が密生し、小さな森が形成されつつあった。


 松永が骨断包丁を肩に担ぎ、幹を見上げた。


「……でかいな。チェーンソーじゃ確かに無理だ。この幹に包丁で切れ込みを入れるのに、何発必要かな」


「やってみないと分からんだろ。とりあえず根元近くから」


 小野が魔剣包丁を構えた。


 午前9時15分。


 伐採開始。


 小野が魔剣包丁を振り下ろした。


 刃が銀色の樹皮に食い込んだ。通常の木材の7倍の硬度——だが魔剣包丁はダンジョンの兵隊蟻の外骨格に切れ込みを入れられる程度の切断力を持つ。樹皮に深さ3センチほどの切れ込みが入った。


 木が——震えた。


 地面が微かに揺れた。半径40メートルに広がった根が脈動し、銀緑色の葉が一斉にざわめいた。風がないのに。


「振動が来ます。木が反応してる」


 神崎が呟いた。限界突破者のフェロモン感知能力が、空気中の変化を捉えている。


「甘い匂いが急に強くなった。木が——何か出してます」


「危険か」


「今のところ、身体への影響はないです。でも——何かを呼んでいるような」


 小野が2撃目を入れた。切れ込みが深くなる。銀色の樹皮の下から、透明な樹液が溢れ出した。甘い匂いが一気に強まった。


 3撃目。4撃目。松永も加わり、骨断包丁の衝撃波で幹に大きな切れ込みを作る。


 切断面が幹の5分の1ほどに達した時——


 神崎が叫んだ。


「上!」


 全員が見上げた。


 空き家の二階——ではなく、世界樹の幹の中腹から、何かが降りてきた。


 8本の脚。漆黒の体表に黄金の紋様。下半身は巨大な蜘蛛。上半身は人間の女性のシルエット。


 体長2メートル半。


 8つの目が、赤く光っていた。


 伐採要員の松永が凍りついた。骨断包丁を握る手が強張る。


「な——何だあれは」


 小野が後退しようとした。


 足が——動かなかった。


 見下ろした。足首に、透明な糸が絡みついている。


 いつの間に。


 地面を見渡した。——見えない。だが確かにある。地面すれすれの高さに、透明な糸が無数に張り巡らされていた。伐採チームが準備している間に——否、おそらくはもっと前から。調査チームが来た日から、あるいはそれ以前から、この空き地全体に糸の網が敷かれていた。


 アラクネは木の幹の中腹に張り付いたまま、動かなかった。


 8つの赤い目が、伐採チームを見下ろしている。


「全員、動くな!」


 早川が叫んだ。


 遅かった。


 作業員の一人が恐慌をきたし、走り出した。3歩目で足が糸に絡まり、転倒。起き上がろうとしたが、倒れた先にも糸があった。もがくほどに全身に糸が絡みつく。10秒で繭のように包まれ、動けなくなった。


「助けてくれ! 体が——動かない!」


「落ち着け! もがくな! 動くほど絡まる!」


 早川が鋼鉄の木刀を抜いた。


 足元の糸を叩き切ろうと——木刀を振り下ろした。


 切れなかった。


 鋼鉄の木刀。ダンジョンの中層で産出される品質スコア60台のアーティファクト。兵隊蟻の外骨格を粉砕できる打撃が——この糸に通じない。


 木刀が糸に当たった瞬間、糸が弾力で衝撃を吸収した。金属的な硬度を持つ一撃を受けても、繊維の一本も断たれていない。


「……効かない」


 早川の声に、初めて動揺が混じった。


 アラクネが動いた。


 木の幹から、音もなく滑り降りてきた。8本の脚が銀色の樹皮を掴み、垂直面を這い降りる。地面に着地した時、足音すらしなかった。


 伐採チームと世界樹の間に、アラクネが立った。


 切れ込みの入った幹を背にして。


 伐採要員の小野が反射的に魔剣包丁を振った。


 ——空を切った。


 小野の腕が途中で止まっていた。振り上げた腕に、上方から降りてきた糸が絡みついている。天井——いや、世界樹の枝から垂れ下がった糸だ。地面だけではない。上空にも、壁面にも、電柱にも。この空間全体が、三次元の蜘蛛の巣になっていた。


 小野の手首から魔剣包丁が落ちた。包丁に別の糸が絡みつき、地面に固定された。拾えない。


 同時に松永の足首にも糸が巻きついた。引っ張ろうとしたが——粘着する。靴底が地面に接着されたように動かない。先ほどの透明な糸とは種類が違う。粘着性のある糸と、強度だけの糸を使い分けている。


 残りの伐採要員2名は、既に腰から下を糸に固定されていた。切断のナイフを振るおうとしたが、ナイフの刃にも糸が絡みつき、手から離れない——否、手もろとも固定された。


 4名の冒険者。全員がフェロモン強化された身体を持つ。ダンジョンで兵隊蟻と戦った経験がある。


 全員が——一撃も加えられないまま無力化された。


「作業員を回収しろ! 山岸、宮園!」


 早川が指示を出した。


 山岸が作業員の元に走った。3歩目で足が止まった。


「糸が——ッ! 足元に——」


 宮園が盾を構えて前進した。鉄壁の盾で地面の糸を押しのけようとする。


 糸が盾に絡みついた。


 粘着性の糸。盾の表面にべったりと張りつき、引き剥がそうとしても離れない。宮園が力を込めて引っ張ると——盾が手から離れそうになった。


「盾が——取られる!」


 宮園は咄嗟に盾を手放した。盾が地面に落ちた瞬間、複数の糸が殺到し、盾を地面に縫い付けた。


 鉄壁の盾。大型兵隊蟻の突進すら容易く受け止める防御装備が、回収不能になった。


 アラクネは一歩も動いていなかった。


 木の前に立ったまま、口から糸を吐き、腹部の紡績突起からも糸を放出している。それだけだ。糸を張るだけで、この場の全員を制圧しつつあった。


 早川が判断した。


 接近戦を仕掛ける。糸の発射元を叩く。


 足元の糸を踏まない軌道を計算し、瓦礫の上を跳んだ。フェロモン指数25.8。鬼庭の副官格。その速度は常人の3倍近い。


 2メートルの跳躍。空中から鋼鉄の木刀を振り下ろした。


 アラクネの8つの目が、早川を捉えた。


 糸が来た。


 正面からではなく、左右と上方から。早川の跳躍軌道を読んだ上で、着地点の周囲に糸の壁を張った。空中では方向転換できない——それを分かった上での迎撃。


 早川は木刀で正面の糸を払った。切れない——が、弾くことはできた。纏わりつく前に叩き落とす。左からの糸を肩で受け流し、右からの糸を木刀の柄で絡め取って引きちぎろうとした。


 ちぎれなかった。


 木刀の柄に糸が巻きついたまま、引っ張られた。アラクネが糸を引いている。早川の体重を——片手の糸で引き寄せている。


 早川の身体が空中で軌道を変えた。着地点がずれる。左足が粘着糸の上に着いた。


 固定された。


 早川は即座に靴紐を切り、靴を脱ぎ捨てた。靴下のまま瓦礫の上に立つ。


 だがその1秒の間に、上方から落ちてきた糸が両肩に絡みついた。ぶら下がっていたのではない。世界樹の枝から垂らされた糸が、早川の動きに合わせてタイミングを計って落とされた。


 両肩を固定された。腕は動く——が、振り幅が制限された。木刀を振り上げることはできるが、振り下ろす力が半減する。


 アラクネは——まだ、一歩も動いていなかった。


「神崎!」


 神崎が散弾魔銃を構えた。距離15メートル。BB弾が12発に分裂してアラクネに飛来する。


 アラクネが口から糸を吐いた。扇状に。


 散弾が糸のカーテンに突入した。12発すべてが空中で減速し、糸に絡め取られ、ゆっくりと地面に落ちた。


 神崎が2射目を装填しようとした。ポンプアクションの動作——その腕に、横方向から糸が巻きついた。いつの間に。散弾魔銃ごと腕を固定された。


「射撃も——通じない……!」


 4対1。鬼庭の精鋭4名。


 全員が、触れられてすらいなかった。


 全員が、一方的に無力化されていた。


 アラクネは木の前に立ったまま、8つの赤い目で全員を見渡した。


 静寂が降りた。


 重機のエンジン音だけが響いている。重機オペレーターは運転席から出られずにいた——ドアに糸が絡みついて開かない。


 作業員8名。伐採要員4名。鬼庭の護衛4名。ギルドの分析要員1名。重機オペレーター2名。


 合計19名。


 全員が——無傷のまま、行動不能になっていた。


 早川は肩の糸に拘束されたまま、アラクネを見つめていた。呼吸が荒い。全力で動いて、全力で無力化された。


 脳が状況を分析している。


 一度も打撃を受けていない。一度も刃を向けられていない。全員が糸で固定されているだけだ。


 殺意が——ない。


 この生物は、一度も殺しにきていない。


 アラクネが——口を開いた。


 人間の上半身。漆黒の肌に黄金の紋様。その口から——


「……キラナイデ」


 日本語だった。


 全員が凍りついた。


 化け物が——喋った。


「……コノ木ヲ……キラナイデ」


 声は低く、かすれていた。片言の、しかし明確な意味を持つ言葉。


 早川の目が見開かれた。


 知性がある。言葉を話す。——人間の言葉を。


「……コノ木ハ……ワルイコトシテナイ。タダ……ソダッテルダケ」


 アラクネが、切り込みの入った世界樹の幹に手を触れた。透明な樹液が傷口から流れている。


「……イタカッタネ」


 木に向けた声は、伐採チームに向けた声とは違っていた。柔らかかった。


 アラクネが振り返った。8つの赤い目が、早川を真っ直ぐに見つめた。


「……モウ、コナイデ」


 それだけ言って、アラクネは世界樹の幹に飛びついた。8本の脚が樹皮を掴み、音もなく中腹まで登っていく。銀色の枝の陰に身を潜め——そこから動かなくなった。


 全員を拘束した糸は、そのままだった。


 沈黙が続いた。


 水島が——伐採チームのリーダーが、糸に絡まったまま、掠れた声で言った。


「……今の、日本語ですよね」


 誰も答えなかった。


 早川が深呼吸した。肩の糸が呼吸の動きに合わせて軋む。


「……全員の状況を報告しろ」


「宮園です。両足固定。上半身は動きます。外傷なし」


「山岸。右足と右腕固定。怪我はないです」


「神崎。両腕固定。——射撃できません」


 作業員たちは恐怖で声が出ない。だが、全員が呼吸している。意識がある。出血している者はいない。


 早川が上を見た。世界樹の枝の陰に、漆黒の影が見える。赤い目が8つ、こちらを見つめている。


 追撃してこない。


 退けば放す——のだろう。おそらく。


「……撤退する」


 早川が静かに言った。


「糸を外す方法を探せ。刃物では切れない。——粘着性のある糸は時間で乾燥するかもしれない。焦るな」


 30分後。


 粘着糸の粘着力が僅かに弱まり始めた。乾燥したのではなく、アラクネが意図的に粘着成分を分解したのかもしれない——そう早川は推測した。退去の意思を示した人間に対して、拘束を緩めた。


 全員が糸から脱出した。宮園の盾は回収できなかった——糸が幾重にも絡みつき、人力では引き剥がせなかった。


 19名全員が、路地の手前まで後退した。


 早川がスマートフォンを取り出した。


「佐々木さん。早川です。——墨田区の件、報告します」


 声は平静だった。だが、握る手の力は入っている。


「伐採は中止。現場に超常性の生物を確認しました」


「蜘蛛型。体長2.5メートル。半人半蜘蛛。上半身は人間に近い形状、下半身は蜘蛛。漆黒の体表に黄金の紋様。8つの赤い目」


「戦闘力は——我々4名では対処不能です。速度やパワーではなく、糸による三次元的な空間制圧。地面、壁面、上空に透明な糸と粘着糸を張り巡らせ、近づく者を無力化する。アーティファクトの刃でも糸を切断できません。射撃も糸のカーテンで無効化されました」


「——そして、もう1つ」


 早川が一拍置いた。


「日本語を話しました」


 電話の向こうで、佐々木が息を呑む気配があった。


「片言ですが、明確に意味のある発話です。『この木を殺さないで』と。——知性があります。言葉が通じる。そして——我々19名全員が無傷です。一度も攻撃を受けていない。殺意は皆無。防衛行動のみ。あの生物は木を守ること以外に関心がありません」


「……分かった。巖道先生に報告する。早川、お前の見解は」


 早川が世界樹の方角を見た。銀色の梢が朝日を受けて光っている。


「私見ですが——力で排除するのは得策ではないと考えます。殺意がない。言葉が通じる。木を守ることだけが目的。この3点を踏まえれば——排除以外の選択肢も、検討に値すると思います」


「排除以外の選択肢とは」


「今の私には分かりません。ただ、あの生物を殺さずに伐採を強行する方法は——思いつきません。そして殺すには、先生の力が必要です」


「巖道先生を投入するかどうかは、上の判断だ。報告書を上げてくれ」


「了解」


 電話を切った。


 宮園が隣に来た。


「早川さん。……あいつ、泣いてませんでしたか」


「泣く?」


「木に触った時。『痛かったね』って言った時。——声が震えてた」


 早川は答えなかった。


 山岸が呟いた。


「俺たちが切った傷を心配してたんだな。あの木の」


 神崎がアメジストに手を触れながら言った。


「糸で全員を拘束している間——フェロモンの変動がありました。怒りや攻撃性に対応する変動じゃなかった。どちらかというと——不安に近い。あの生物は、怖がってたんだと思います。木を失うことを」


 早川が全員を見渡した。


「報告書を書く。事実のみ。推測は推測として分ける。——帰るぞ」



 伐採チームと護衛が撤収していく。重機のエンジンが止まり、トレーラーが路地を離れる。


 世界樹の枝の陰で、アラクネは動かなかった。


 8つの赤い目が、去っていく人間たちを見つめていた。


 全員の姿が見えなくなった後、アラクネはゆっくりと幹を降りた。


 魔剣包丁で切りつけられた傷口に、手を触れた。透明な樹液が、まだ僅かに滲んでいる。


「……ダイジョウブ。モウ、イッタヨ」


 木は答えなかった。だが枝が微かに揺れ、銀色の葉がさわさわと音を立てた。


 アラクネが8つの目を細めた。


「……マモッタヨ。オヤニ……イワレタトオリ。ダレモ、コロサナカッタ」


 糸が張り巡らされた空間の中で、銀色の巨木と半人半蜘蛛が寄り添っていた。


 風が吹いた。銀緑色の葉が金属音を立てて揺れる。甘い匂いが広がる。


 傷口から流れた樹液が、ゆっくりと固まり始めていた。木の自己修復だ。数日もすれば、傷は塞がるだろう。


 アラクネは幹に背を預け、目を閉じた。


 木の鼓動を感じている。温かい脈動。地下深くから水を吸い上げ、幹を通り、枝へ、葉へ、そして果実へ。循環する命の流れ。


 守った。


 今日は——守れた。


 でも、また来る。人間はまた来る。


 次は——もっと大勢で。もっと強い武器を持って。


 アラクネの8つの目が、遠くを見つめた。


 不安はある。だが——逃げない。


 ここが、自分の場所だ。



     



 同時刻。墨田区。真央のアパート。


 真央はベッドの上でスマホを見ていた。


 ニュース速報は出ていない。伐採は今日のはずだが、掲示板にも情報が流れてこない。


 窓の外を見た。


 遠くに銀色の梢が見える。朝日を受けて光っている。


 枝が揺れていた。風はない。


「……まだ立ってるな」


 真央が呟いた。


 伐採は失敗したのだろう。アラクネがやったのか。たぶんそうだ。


 真央は特に何も感じなかった。良かったとも、嬉しいとも思わない。


 ただ——まだ面白いものが見られる。世界樹がどこまで育つのか。果実がどうなるのか。アラクネがどうなるのか。


 その程度の感想だ。


 真央はスマホを閉じ、コンビニのシフト表を確認した。


 今日は昼から夕方まで。


 いつもの日常だ。


 窓の外で、銀色の木が光っていた。



     



 夕方。防衛省。佐々木の執務室。


 早川の報告書がメールで届いていた。


 佐々木は2回読み直した後、椅子の背にもたれた。


 蜘蛛型の超常生物。体長2.5メートル。半人半蜘蛛。日本語を話す。殺意なし。木を守る目的のみ。鬼庭4名を含む19名を無傷で無力化。


 佐々木は報告書に添付された写真を見た。作業員が撮影した、遠距離からのぼやけた画像。銀色の幹の前に立つ漆黒の影。赤い目の光。


「……第四の超常か」


 ダンジョン。吸血鬼。世界樹。そして——世界樹の守護者。


 佐々木はタブレットにメモを打った。


 巖道への報告。対策室への報告。そして——関係閣僚への報告。


「伐採は凍結。当面は封鎖の維持と情報収集を推奨。対象生物は知性を持ち、意思疎通の可能性あり。排除ではなく、慎重な対応が必要と考える」


 佐々木はメモを送信した。


 別のメールを開いた。田所からだ。


「伐採現場のフェロモン計測データを共有します。詳細分析には時間がかかりますが、速報値だけ。——世界樹周辺半径50メートルのフェロモン類似物質濃度は、ダンジョン地下60メートル帯に相当します。これは従来の想定より遥かに高い。あの木は、地上にいながらダンジョン深層と同等の環境を作り出しています」


 佐々木は添付ファイルを開いた。グラフ。棒グラフ。数値の羅列。


 もう一通、田所からのメール。


「果実のサンプルは回収できませんでした。伐採中止のため。次の機会に改めて要請します。——ただし、あの蜘蛛型生物がいる限り、果実の回収は極めて困難と判断します」


 佐々木はメールを閉じた。


 窓の外。東京の夕景。六本木方面には封鎖線の光。品川方面にはダンジョン入口の照明。そして——墨田区の方角に、銀色の何かが夕日を反射している。


 ダンジョン。吸血鬼。世界樹。守護者。


 この国の超常脅威は、増え続けている。


 佐々木は溜息をついた。


 報告書を書かなければならない。閣僚会議の資料も。メディア対応の想定問答も。


 ——忙しくなる。


 いつものことだった。

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― 新着の感想 ―
それもこれもあのクソッタレが全部悪いわホント!
吸血鬼達だって日本語話してるし対話の窓口は開いてるのになー! っぱ血袋必要とするのが問題なんすかね
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