第41話「浸透」
大阪。ミナミの雑居ビル群。
午前1時を回っていた。
道頓堀から2本裏に入った路地。看板の蛍光灯が消えかけたスナックの隣に、外観だけでは何の店か分からないドアがある。ステンレスの取っ手に「会員制」のプレートが貼られているだけだ。
地下への階段を降りると、煙草の煙が充満した細い通路の先に、10坪ほどの部屋があった。
武器屋だ。
といっても看板はない。知る人間だけが来る。扱っているのは表の市場に出せないもの——改造エアガン、催涙スプレー、スタンガン、そして最近はアーティファクトが加わった。
店主の河合は50代の小柄な男だ。前科2犯。傷害と銃刀法違反。5年前に出所してからは裏社会の武器仲介で食っている。大阪の半グレ組織、在日外国人の犯罪グループ、たまに暴力団の末端——客層は広い。
河合がカウンターの下から金属製の箱を引き出した。中身を確認する。
89式5.56mm小銃。
2丁。
シリアルナンバーは削られている。削り跡は丁寧だ。グラインダーで面を均した後に酸処理を施してある。痕跡鑑定で復元するのは困難だろう。
河合はこの手の銃を何十丁と見てきた。改造拳銃、密輸品、暴力団の処分品——だが89式は別だ。89式は自衛隊の制式小銃であり、民間に流通する経路が存在しない。米軍払い下げのM16やAR-15とは根本的に違う。89式が闇市場に出るということは、出所は一つしかない。
自衛隊から流れた。
盗品か。横流しか。あるいは——。
河合は箱の蓋を閉じた。
この2丁を持ち込んだのは、東京の仲介業者だ。名前は知らない。知る必要がない。2週間前にも同じルートで3丁が流れてきた。合わせて5丁。すべて89式。すべてシリアルナンバーが削られている。
買い手はいくらでもいる。89式は5.56mm NATO弾を使う。弾薬の入手は闇市場経由でも可能だ。性能は折り紙つき——命中精度、信頼性、耐久性、いずれも世界水準。1丁200万円で売れる。5丁で1,000万円。
だが河合は、売る前に考えていた。
89式が5丁。短期間に。同一ルートから。
盗難であれば、自衛隊の武器庫から5丁も消えれば大騒ぎになる。防衛省は銃の管理に関しては異常なほど厳格だ。弾薬1発の紛失でも捜査が入る。——しかし、この5丁に関して、そういった報道は一切ない。
つまり、正規の管理台帳から外れた銃だ。
管理台帳から外れた89式。
河合はテレビのニュースを思い出した。数ヶ月以上前の六本木ヒルズ奪還作戦——オペレーション・サンライズ。あの時、突入した自衛隊の部隊は大損害を受けた。隊員の多くが行方不明になり、装備ごと消えた。
サンライズ作戦で投入された部隊の装備。89式小銃は当然含まれていたはずだ。
行方不明になった隊員の銃。管理台帳上は「作戦中に喪失」と処理されているだろう。紛失の捜査は行われない。戦場で失われた装備だからだ。
では、その銃が今ここにあるのは——なぜだ。
河合の頭の中で、断片が繋がった。
サンライズ作戦の相手は、吸血鬼を自称する未知の存在だった。精鋭部隊を壊滅させ、装備は丸ごと奪われた。
その装備が、シリアルナンバーを削られて、闇市場に流れてきている。
出所を隠す必要があるのは——出所が判明すれば、売り主の正体に繋がるからだ。
河合は煙草に火をつけた。
ミナミの裏社会で30年。人間が何をするかは大体分かる。暴力団の内部抗争。半グレの縄張り争い。外国人マフィアの利権闘争。——すべて、理屈で動いている。
だが六本木の連中は——理屈が分からない。
あの事件以来、六本木は封鎖されたままだ。政府は吸血鬼の正体について公式には何も発表していない。テレビでは有識者が「未知の感染症」だの「新型の生物兵器」だの言っているが、誰も本当のことは知らない。
知らないが——銃は嘘をつかない。
89式が闇市場に流れているという事実。それは、六本木の中にいる何者かが、軍用装備を組織的に処分していることを意味する。処分する理由は一つしかない。現金化だ。現金化して、別の物を買っている。
何を買っているのか。
河合は知らない。だが最近、東京の仲介業者から奇妙な注文が来ていた。
「アーティファクトの護符。可能なら複数。値段は問わない」
護符。ダンジョンで出る、心身を健康にするという魔法のようなアクセサリー。フェロモン中毒の緩和にも効くと言われ、闇市場では品質の高い物で1個2,000万円以上で取引されている。そんなものを「値段は問わない」で買える人間は——相当な資金力を持っている。
軍用銃を売って得た金で、護符を買っている。
護符を、大量に欲しがっている。
心身を健康にするアーティファクト。冒険者の間ではフェロモン中毒の緩和に使われている。——だが、六本木の連中がフェロモン中毒に悩んでいるとは思えない。
そう言えば、サンライズ作戦の後に吸血鬼を名乗る一団が護符を首から下げていたという情報が出回っていた。
河合は煙草の煙を天井に吐いた。
——まさかな。
深くは考えないことにした。裏社会の鉄則だ。客の素性を詮索しない。金が払われる限り、取引は成立する。
だが、頭の片隅に残った。
河合は箱の蓋を開け直した。89式の銃身が、蛍光灯の下で鈍く光っている。
自衛隊の銃を売り、護符を買う。
それは——人間の仲介業者を使った、吸血鬼の経済活動だ。
河合は笑った。乾いた笑いだ。
——世も末だ。吸血鬼が闇市場の客になる時代か。
箱の蓋を閉じた。明日、買い手に連絡する。仲介手数料は30万円。いつも通りだ。
相手が人間だろうと吸血鬼だろうと、金は金だ。
六本木ヒルズ。45階。深夜2時。
リリスの居室に、幹部が集まっていた。
テーブルを囲むのはリリス、カーミラ、セレネ、ヘカテ。田中が末席に着いている。エリザベートは念話で参加。ノクスとミラベルは別室で待機中だ。
リリスが口を開いた。
「定例報告を始める。——ヘカテ、まずシルバーゲートの現状から」
ヘカテがタブレットを操作した。
「シルバーゲート・エクスプロレーション。法人設立から6週間。実稼働は3週間です」
「設立までに3週間かかった理由は」
「法人登記自体は1週間で完了しましたが、ギルドへの法人登録に時間を要しました。ギルド側の審査は書類上の確認のみですが、申請が殺到しており順番待ちが発生。松田が現場で調整し、最終的に3週間で登録完了」
「稼働後の成果は」
「冒険者12名を雇用。うち現在実稼働しているのは8名です。残り4名のうち2名は装備不足で待機中、1名は負傷で休業、1名は無断欠勤のまま連絡が取れなくなっています」
「逃げたか」
「可能性はあります。雇用契約上の縛りが弱いため、他社に移ったか、単独でダンジョンに潜っている可能性も。松田が追跡中ですが、優先度は低いと判断しています」
「回収したアーティファクトは」
「3週間で——守護の護符3個。鉄壁の盾1枚。守護のヘルメット2個。破壊のバット1本。力のブレスレット2個。魔弾銃1丁。癒しの絆創膏32枚。その他、下位のアーティファクト多数」
リリスが目を細めた。
「護符3個。それだけで3週間分の人件費と経費を回収して余りある」
「はい。月給50万円×12名で600万円。その他、回収されたアーティファクトに応じたインセンティブ。装備の初期投資が約2,000万円。護符3個の闇市場価値が6,000万円超。収支は十分な黒字です。もっとも、護符は売却せず一族の備蓄に回していますが」
「護符の総数を更新しろ」
ヘカテが数字を読み上げた。
「サンライズ以前からの保有7個。その後の追加分——フリマ3個、村井ルート2個、歌舞伎町1個、非公認冒険者1個。これで14個。その後——シルバーゲート経由で3個追加。村井ルートで1個追加。フリマで1個追加。合計19個」
「配分は」
「社会浸透組に10個。大阪2、名古屋1、東京7。エリザベート1個。純種の日中活動用2個。予備6個。——予備が6個に増えたことで、今後の展開に余裕が生まれています」
カーミラが口を開いた。
「護符以外のアーティファクトが重要だ。守護のヘルメット2個、力のブレスレット2個、魔弾銃が計2丁——元の1丁と合わせて。転種の武装に回せる」
「それについては後ほど、田中の報告で」
リリスが頷き、次の議題に移った。
「エリザベート。社会浸透の進捗を」
リリスが目を閉じた。念話の受信に集中する。数秒の沈黙。
目を開けた。
「エリザベートの報告を伝える。——まず全体像から。現在、社会浸透組の転種は東京に7名、大阪に3名、名古屋に1名。計11名が封鎖線の外で活動中。このうち護符を持ち日中も活動できるのは10名。名古屋の鈴木は護符を持っているが、浸透が進んでおらず、夜間中心の活動を継続」
リリスが言葉を区切った。
「東京。赤十字血液センターからの横流しが安定稼働に入った。週30リットルの供給を維持している。人質からの採血と合わせて、血液の需給は——ぎりぎりだが、均衡している」
「人質の状態は」
ヘカテが答えた。
「74名から68名に減少。6名が衰弱死。グール化して戦力に加算しています。残る68名のうち、安定して採血できるのは52名。限界が近い者が16名います。赤十字ルートがなければ、既に破綻していました」
リリスが続けた。
「大阪。村井のネットワークが機能し始めている。裏社会の仲介業者2名との関係を構築し、アーティファクトの売買ルートを確保。89式小銃5丁を2ロットに分けて売却完了。売却益は約1,000万円。この資金を護符とアーティファクトの購入に充てている」
「問題点は」
リリスが再び目を閉じた。エリザベートの念話を聞く。
「二つある、とのこと。一つ目は89式の残り。現在、六本木に89式が9丁残っている。これ以上の売却は慎重に行う必要がある。5丁を短期間に同じルートに流したことで、仲介業者の河合という男が出所を勘繰り始めている。エリザベートは『同じルートへの追加売却は3ヶ月以上間隔を空けるべき』と判断している」
「勘繰るだけなら問題ない」
カーミラが言った。
「問題になるのは、勘繰った結果を誰かに話す場合だ。裏社会の人間は基本的に口が堅い。客の素性を詮索しないのが生き残る条件だ。だが——河合が警察の情報提供者であった場合は別」
「河合の身辺調査は」
「村井が進めている。前科2犯。傷害と銃刀法違反。警察との関係は——現時点では不明。ただし、大阪府警の組対が河合の店を把握しているのは確実だ。泳がされている可能性がある」
リリスが判断した。
「河合への89式の追加売却は停止。別ルートの開拓を村井に指示しろ。——二つ目の問題は」
「名古屋の鈴木が情報を一つ掴んだ。エリザベートが精査した結果を報告する」
リリスが念話の内容を伝えた。
「名古屋の歓楽街で、中華系の犯罪組織が活動している。組織名は不明。規模は推定30名から50名。在日華僑の一部と、本国から入国した人間が混在している。通常の犯罪組織——密輸、賭博、売春——の範囲を超える特徴が一つある」
「何だ」
カーミラが聞いた。
「組織の戦闘部門に、身体能力が異常に高い人間がいる。鈴木の観察では4名から5名。——動きが、ダンジョンに潜っている冒険者に似ているとのこと」
部屋の空気が微かに変わった。
「フェロモンで強化された人間を、犯罪組織が抱えている」
ヘカテが即座に分析した。
「もぐりの冒険者でしょう。ギルドにも管理庁にも登録していない非公認の冒険者が2万人以上いると推定されています。その中に外国籍の人間が含まれていても不思議ではない。ダンジョンに潜り続ければフェロモン指数は上がる。指数10を超えれば、通常の人間とは明確に差がある」
「組織的にダンジョンに潜らせている可能性は」
「高い。この中華系組織が名古屋で何をしているかはまだ不明ですが——鈴木が1週間前に目撃したのは、組織の構成員が大量のアーティファクトを車に積み込んでいる場面です。癒しの絆創膏、安らぎの香、魔弾銃らしきもの。数十点」
リリスの深紅の瞳が光った。
「数十点のアーティファクトを保有する犯罪組織。——しかもそれが中華系で、本国から入った人間が含まれている」
「アーティファクトの国外流出ルートの可能性があります」
ヘカテが言った。
「以前から裏社会では、中国系のバイヤーが香港経由でアーティファクトを本国に流しているという情報がありました。——この組織がその末端である可能性は十分にある」
カーミラが腕を組んだ。
「興味深いのは、フェロモン強化された戦闘員がいるという点だ」
全員がカーミラを見た。
「市ヶ谷で訓練中の人間の特殊部隊——巖道の部隊——がフェロモンで強化されているという情報を掴んでいる。だが実際に、フェロモン強化された人間がどの程度の戦闘力を持つのか、我々は検証できていない」
田中が口を開いた。
「サンライズ作戦時の自衛隊はフェロモン強化されていませんでした。次に来る部隊は強化されている。その差がどれほどのものか——把握しておく必要はあります」
「つまり——」
カーミラの暗紫の瞳が鋭く光った。
「中華系の犯罪組織は、実験台として適切だということだ」
沈黙が落ちた。
リリスが考え込んでいた。
「フェロモン強化された人間との戦闘。グール化や転種化が可能かの確認。——加えて、組織が保有するアーティファクトの回収。一挙に複数の目的を達成できる」
「日本人の冒険者やギルド登録者を襲えば、足がつく」
カーミラが続けた。
「現状、六本木に注目が集まっている。封鎖線の外での社会浸透活動を悟られるわけにはいかない。——だが、非合法の犯罪組織なら話は別だ。消えても捜査は日本の警察が担当する。中華系組織の壊滅は——日本の当局にとっても歓迎すべき結果だろう」
ヘカテが付け加えた。
「ただし、組織が中国本国と繋がっていた場合、外交的な波紋が生じる可能性はあります」
「外交的な波紋は人間同士の問題だ。我々には関係ない」
「関係ないのはその通りですが——人間の関心がこちらに向く可能性を考慮すべきです。中華系組織の壊滅が報道された場合、犯行の態様から吸血鬼の関与を疑う人間が出るかもしれません」
「痕跡を残さなければいい」
カーミラが断言した。
リリスが決定した。
「今は動かない。まず情報を集める。鈴木に指示を出す。中華系組織の拠点の特定。構成員の数と戦闘力の見積もり。フェロモン強化された人間の指数——鈴木には鑑定の鏡がないから正確な数値は出せないが、動きの観察で概算を出させろ。アーティファクトの保有量と種類。組織の活動パターン。——情報が揃ったら、作戦を立案する」
「了解」
「エリザベート。鈴木への情報収集指示は、お前から念話で直接出せ」
リリスが念話でエリザベートの返答を受けた。
「了解との返答。ただし、鈴木の行動を拡大する場合、名古屋の護符1個では不足する可能性がある。日中の監視活動が必要になれば、追加の護符が要る」
「予備から1個を名古屋に回す。——ただし、鈴木が不用意に近づきすぎないよう釘を刺しておけ。フェロモンで強化された人間は、通常の人間より五感が鋭い。転種の気配に気づく者がいるかもしれない」
「了解」
報告が一巡した後、リリスが議題を変えた。
「政府の特殊部隊について。前回の報告からの更新はあるか」
田中が立ち上がった。
「社会浸透組が品川入口で継続監視を行っています。巖道の部隊は週2回から3回のペースで品川入口からダンジョンに潜っています。潜行時間は4時間から6時間。到達深度は——正確な数値は不明ですが、70メートル前後と推測しています」
「根拠は」
「潜行時間と帰還時の消耗度から推測しました。発足初期は4時間程度でしたが、最近は6時間を超える日もある。消耗の度合いも上がっている。——深度を拡大していると見るべきです」
「隊員数は」
「9名で変動なし。全員がアーティファクトで武装しています。個々の装備は観察距離が遠すぎて詳細は確認できていませんが、武器と防具の両方をアーティファクトで揃えていることは間違いありません」
「サンライズ作戦時の自衛隊とは装備の質が根本的に違う。——あの時の兵士は通常の軍用装備だった。今度はアーティファクトで全身を固めた精鋭が来る」
「その点について、一つ懸念があります」
田中が言葉を選んだ。
「彼らがダンジョンに潜り続ければ、フェロモン指数は上昇し続けます。現時点での推定指数は不明ですが——発足時に20以上であった人間が、週3回のペースで深層訓練を続ければ、1ヶ月で2から3ポイントの上昇が見込まれます。つまり今頃は22から28の範囲に達している者が出ている」
「それが何を意味する」
「指数25を超えた人間がどの程度の戦闘力を持つかは、実際に交戦した経験がないため正確には分かりません。ですが、サンライズで我々が相対した通常の兵士とは桁違いの身体能力を持つのは確実です。——しかもアーティファクトで武装し、連携訓練を重ねている。質が根本的に異なる相手になります」
沈黙が落ちた。
リリスが結論を出した。
「監視を継続。到達深度の変化と、訓練パターンの変化に注意しろ。彼らが80メートル以深に進出し始めたら——実戦投入が近いと判断する」
「了解しました」
幹部会議が解散した後。
37階。訓練場。
ノクスが一人で血の結晶化の訓練をしていた。
右手のひらから暗紅色の液体が滲み出し、空気に触れた瞬間に固体化していく。長さ40センチほどの直刀が形成された。
産まれてから2ヶ月が経つ。霧化速度は0.8秒にまで短縮した。カーミラが課した「1秒以内」の目標は達成済みだ。だが満足はしていない。
リリスは0.3秒。カーミラは0.4秒。セレネは0.5秒。——先輩たちの域には遠い。
結晶化した刀を振った。空気を切る音が訓練場に響く。刃は均一で、気泡はない。ミラベルより結晶化の速度も精度も上だ。——当然だ。自分は戦闘型。ミラベルは分析型。役割が違う。
ノクスが刀を液体に戻し、再び結晶化した。今度は曲刀。柄の部分まで一体成形で作り上げる。
5秒。
もっと速く。
再び溶かし、再び結晶化。直刀。3秒。
——まだ遅い。カーミラ姉上は1秒で鞭を形成する。
ノクスの蒼い瞳が暗がりの中で光った。固有形態はまだ決まっていない。カーミラが言った——「最初の本気の戦闘で決まる」と。
本気の戦闘。
それが来た時、自分は何を握るのだろう。
ノクスは刀を液体に戻し、次は斧の形を試した。
重い。だが——振り抜いた時の破壊力は、直刀より遥かに大きい。
違う。自分の身体に合わない。重量武器はセレネ姉上の領域だ。
再び溶かし、今度は——何も考えずに結晶化した。
手のひらの上に現れたのは、細い刺突剣のような形状だった。70センチ。細く、軽く、しなやかに弧を描く刀身。
ノクスは自分の手を見つめた。
なぜこの形になったのか、分からない。意識しなかった。手が勝手に作った。
——これが、私の形か。
まだ分からない。本気の戦闘が来るまでは。
ノクスは刺突剣を溶かし、訓練を再開した。
同じ頃。35階。
ミラベルが、ヘカテの作業室にいた。
鹵獲したノートPCの前に座り、社会浸透組から集まった情報を整理している。栗色の髪を耳にかけ、金色の瞳がディスプレイの光を反射している。外見は10代後半の少女だ。だがその目は、数字と構造を見ている。
「ヘカテ姉上。質問があります」
「何」
「シルバーゲートの収支モデルを試算しました。現在の冒険者8名体制で月に護符3個のペースが維持されると仮定すると、年間36個。一族の需要を満たすには——何個の護符が必要ですか」
ヘカテがタブレットから目を上げた。
「現時点で転種全員に護符を配るには、25個が追加で必要。つまり合計44個。年間36個のペースでは足りないが、冒険者の数を増やせばペースも上がる。問題は——冒険者を増やすと管理コストも増える」
「人間は管理が難しい」
「その通り。転種ではない人間を雇っている以上、シルバーゲートの真の目的を知られるわけにはいかない。冒険者が不審に思う要素——護符だけ異常に重視する回収方針、経営者の素性が不明、深夜の連絡が多い——を排除しなければならない」
「松田は上手くやっていますか」
「松田は有能だ。だが限界がある。1人の人間の能力で管理できる冒険者の数には上限がある。20名を超えると——」
「破綻する」
「そう。だからシルバーゲートは現状の12名前後を維持しつつ、質の高い冒険者を入れ替えていく方針。数で稼ぐのではなく、中層以深に安定して潜れるベテランを確保する」
ミラベルが頷いた。
「もう一つ。吸血鬼の国の経済モデルについて、概算を更新しました」
ヘカテの目が光った。
「聞かせて」
「現在の一族は約40名の吸血鬼と8体のワーウルフで構成されています。将来的に100名規模に拡大した場合——」
「血液の需要が週200リットルに達する。赤十字ルートだけでは到底足りない」
「はい。したがって、100名規模への拡大には血液供給の抜本的な転換が必要です。人間との『取引』——血液の提供と引き換えに何かを提供する——という母の構想は、100名規模の時点で現実的な必要性を持ちます」
「まだ早い。今の段階でその議論をリリスに持ちかけても——」
「分かっています。今は試算するだけです」
ミラベルが静かに言った。
「でも、ヘカテ姉上。準備だけは早い方がいい」
ヘカテはミラベルを見つめた。
生まれて2ヶ月。この子は——自分と同じ種類の頭脳を持っている。だが、自分とは違う。ヘカテは目の前のデータを分析する。ミラベルは——10年先を見ている。
「……続けなさい」
「はい、姉上」
六本木ヒルズ。37階。訓練場。
幹部会議の翌日。深夜。
カーミラが転種の戦闘部隊を集めていた。
田中修。岡田。渡辺。高橋。岩瀬。元特殊作戦群の7名のうち近接戦闘の専門家と狙撃手。計11名。
壁際に、アーティファクトが並べられている。
「シルバーゲートが3週間で回収した武装系アーティファクトと、既存の在庫を合わせた現在の保有数を報告する」
カーミラがアーティファクトを指差した。
「守護のヘルメット。2個。品質スコアは31と45」
「鉄壁の盾。1枚。品質スコア52」
「力のブレスレット。2個。品質スコア29と38」
「破壊のバット。1本。品質スコア41」
「鋼鉄の木刀。2本。品質スコア35と22」
「守護の手袋。1組。品質スコア30」
「魔弾銃。2丁。品質スコア28と37」
「以上が戦闘に使えるアーティファクトの全てだ。11名に対して——全く足りない」
田中が一歩前に出た。
「装備の優先配分について提案があります」
「聞こう」
「守護のヘルメット2個は、六本木防衛の要所に配置する転種2名に。頭部の防御は生存率に直結します。力のブレスレット2個は——」
「待て」
カーミラが遮った。
「配分の前に確認する。力のブレスレットが転種にも効くかどうかは、まだ検証していない。——岩瀬、お前が着けろ」
カーミラがブレスレットの1個を岩瀬に投げた。
岩瀬が左手首に嵌めた。
数秒の沈黙。
「——効きます」
岩瀬の目が微かに見開かれた。
「身体が軽い。筋力が——5パーセントから10パーセント程度、底上げされている感覚です」
「フェロモンとは別系統の効果だ」
ヘカテが補足した。幹部会議で同席していないが、事前にカーミラに分析結果を伝えていた。
「フェロモンは人間の生体にのみ作用します。転種の身体は吸血鬼に変化しているため、フェロモンの効果は受けない。しかしアーティファクトの効果はフェロモンとは原理が異なるようです。装着者の身体能力を底上げする——種族を問わず」
「つまり、アーティファクトの防具と武器は転種にも有効」
カーミラが結論を出した。
「シルバーゲートの回収ペースが上がれば、転種の全員をアーティファクトで武装できる。——だが今は11名に対して装備が足りない。田中、優先配分を決めろ。基準は——六本木防衛時に最も生存率を上げる配置」
「了解しました。24時間以内にまとめます」
「もう一つ」
カーミラの視線が転種たち全員に向いた。
「シルバーゲートの回収リストに、一つ加えろ。——散弾魔銃」
田中の目が動いた。
「散弾魔銃は浅層では出ません。シルバーゲートの冒険者が到達できるかどうか——」
「到達させろ。冒険者の質を上げるか、深層に潜れる人間を新たに雇え。散弾魔銃は1丁あれば複数の人間を同時に制圧できる。——次に人間の精鋭部隊が来た時、必要になる」
「了解」
カーミラが腕を組んだ。
「サンライズでは、こちらの装備が人間より劣っていた。——二度目は、その逆にする」
11名の転種が、静かに頷いた。
六本木ヒルズの暗い訓練場で、次の戦いの準備が進んでいた。
その同じ夜。
名古屋。栄の繁華街。
転種の鈴木が、路地裏のコインパーキングに停めた車の中にいた。
エンジンは切ってある。窓は数センチだけ開けてあり、夜の空気が車内に流れ込んでいる。
鈴木の目は、通りの向こうのビルを見ていた。5階建ての雑居ビル。1階はカラオケ店。2階は空き。3階以上は——表向きは貿易会社のオフィスだ。
夜11時を回っていた。
ビルの3階に明かりがついている。カーテンの隙間から人影が動いているのが見える。
鈴木は転種としては経歴が薄い。サンライズ以前に社会浸透用として転種化された民間人だ。元は派遣社員。30代後半。特筆すべき技能はなかったが、転種化されてから変わった。人間の5倍の聴覚と視覚。暗闇でも60メートル先の人間の表情が読める。
名古屋に来て6週間。最初の4週間は繁華街の人間関係の把握に費やした。ホストクラブ、キャバクラ、風俗店——夜の街の動線を学び、誰が誰と繋がっているかを地道に記録した。
中華系の組織に気づいたのは3週間前だった。
最初に見たのは、深夜2時にビルの裏口から出てきた4人の男だ。全員中国語を話していた。体格は普通。だが——動きが違った。
鈴木は派遣社員時代にダンジョンに潜ったことはない。だが転種化された後、田中の部隊で基礎訓練を受けた。人間の動きの「質」を見分ける目は、ある程度養われている。
あの4人の動きは、訓練を受けた軍人のそれではなかった。もっと——野性的だ。反射速度が速く、周囲への警戒が異常に高い。片方の男が不意に振り向いた時、その速度は通常の人間のものではなかった。
フェロモンで強化されている。
鈴木はそう直感した。そしてエリザベートに念話で報告した。
今夜は——アーティファクトの積み込みを目撃した翌日だ。エリザベートから追加の指示が来ている。
「拠点の特定。構成員の数。フェロモン強化された人間の数と概算の能力。アーティファクトの保有量。——行動パターン。以上を1週間以内に報告しろ。ただし、接近しすぎるな。観察距離を30メートル以上に保て」
鈴木は車の窓から目を離さなかった。
3階の明かりが消えた。
数分後、裏口から2人の男が出てきた。片方は小柄な中年の日本人——おそらく在日華僑だ。もう片方は長身の若い男で、明らかに本国から来た人間だ。
長身の男が荷物を持っていた。大きなスポーツバッグ。
中身は分からない。だが——重い。男の筋肉の使い方から、15キロ以上あると推測できる。アーティファクトか、現金か。
2人は通りに出て、タクシーを拾った。
鈴木はナンバーを記録した。追跡はしない。指示通りだ。
車の中で、鈴木はメモを取った。
構成員の出入り。時間帯。人数。荷物の有無。車両のナンバー。
地味な仕事だ。だが——これが鈴木にできる最善だ。戦闘はカーミラやセレネの領域。自分の仕事は、目と耳になること。
念話でエリザベートに報告する。
「3階のオフィス。22時に明かり点灯。23時12分に消灯。2名が裏口から退出。1名は在日華僑と推定。1名は本国系。大型スポーツバッグ1個。15キロ以上。タクシーで移動。ナンバーは——」
報告が終わると、鈴木はエンジンをかけた。
セーフハウスに戻る。明日も同じ時間にここに来る。
名古屋の夜は静かだ。
だがその静けさの下で、人間には見えない網が、少しずつ広がっていた。




