第40話「深淵の門」
地下180メートル。女王蟻の間。
暗闇の中で、女王蟻は身じろぎもせずに横たわっていた。
体長3.8メートル。腹部は更に膨張し、もはやこの空間から出ることは物理的に不可能になっている。だが女王蟻に動く必要はない。血のネットワークが、すべてを繋いでいる。
触角が震えた。
巣の全域から、情報が流れ込んでくる。
浅層。人間が今日も数千人入ってきている。働き蟻が宝箱を配置し、兵隊蟻が適度に排除し、フェロモンが人間を強化している。養殖場は順調だ。
中層。4名から6名の小集団がいくつか。地下60メートルから70メートル付近を徘徊している。兵隊蟻で対応できる。
深層。9名の集団が地下70メートル付近で訓練を繰り返している。その練度は上がっている。もう一つの5名の集団は、3週間前に87メートルまで来て引き返した。近いうちにまた来るだろう。
女王蟻は、それらの侵入者を排除しようとは思っていなかった。
浅層の人間は必要だ。フェロモンで強化した人間がアーティファクトを地上に持ち出し、人間社会に広める。それが巣の存在意義の一部であることを、女王蟻は血のネットワーク越しに漠然と理解していた。
だが深層への侵入は——別だ。
100メートル以深は巣の心臓部だ。女王蟻の間、孵化室、食糧庫、兵隊蟻の主力待機所。巣の最重要機能がこの領域に集中している。かつては地下120メートルにあった女王蟻の間も、巣の拡大に伴い地下180メートルに移設された。掘削の最前線は地下200メートルに達し、なお拡大を続けている。
そして——その領域を守るために、女王蟻は新たな存在を設計した。
孵化室。地下170メートル。
琥珀色に発光する壁面に囲まれた広い空間に、数百の卵が整然と並んでいる。通常の卵は琥珀色で、長径1センチ。1日に数百個を産む兵隊蟻の卵だ。
だがその一角に、通常とは明らかに異なる卵があった。
3つ。
通常の卵より二回りほど大きい。長径3センチ。殻の色が深い。そして——殻の表面に、微かな金属光沢が浮いていた。
働き蟻たちが、その3つの卵の周囲を慎重に世話していた。温度と湿度を一定に保ち、栄養液を殻の表面に塗布している。だがそれだけではない。
働き蟻が、卵の傍らに小さな物体を運んできた。
アーティファクトだ。
スミス・アントの工房で作られたアーティファクトのうち、品質検査で基準に達しなかったもの。宝箱に配置するには品質が低すぎる不良品。
だが女王蟻は、それを廃棄しなかった。
働き蟻が、品質不良の鉄壁の盾——品質スコア8の粗悪品——を、最も大きな卵の殻に押し当てた。続けて、力のブレスレットの不良品。そして切断のナイフの不良品。3つのアーティファクトが、卵の殻に密着させられた。
殻が——吸い込んだ。
アーティファクトの金属表面が、卵の殻と溶け合うように浸透していく。鉄壁の盾の概念が殻を通じて内部の胚に染み込み、力のブレスレットの増幅概念が筋組織の原基に浸透し、切断のナイフの鋭利さが脚の形成細胞に到達する。
幼体が成長する過程で、アーティファクトの概念は外骨格や筋組織と完全に一体化する。成体になった時には——アーティファクトと蟻の区別がつかなくなっている。
人間がアーティファクトを「装備する」のとは、根本的に意味が違う。人間は道具を手に持ち、身に着け、使い終われば外す。
蟻は、それを食べて自分になる。
3つの卵は、それぞれ異なる組み合わせのアーティファクトを吸収していた。
1つ目——最も大きな卵。鉄壁の盾、力のブレスレット、切断のナイフ。防御と攻撃と筋力の三位一体。肉弾戦に特化した超個体として設計されている。
2つ目。魔弾銃と力のブレスレット。射出機構と筋力の増幅。遠距離攻撃に特化した個体。
3つ目。安らぎの香と癒しの泉水。回復系の概念を2つ同時に融合させた、支援に特化した個体。
女王蟻がこの3体を「設計」したのは、3ヶ月前だ。
人間の5名の集団が、初めて地下80メートルを突破した時。血のネットワークを通じて流れ込む真央の脳の情報処理パターンが、「冗長な防衛」「多層的な備え」という感覚を伝えていた。女王蟻はその感覚を、自分なりに解釈した。
1体では足りない。異なる能力を持つ個体を組み合わせ、互いの弱点を補完する編成が要る。
人間が「パーティ」を組むように。
蟻もまた——チームを組む。
3つの卵は、通常の卵より成長が遅かった。アーティファクトの概念が胚の発達に干渉し、通常の2週間ではなく、3ヶ月を要した。その間、働き蟻は卵の世話を怠らなかった。温度管理。栄養補給。そしてアーティファクトの概念が胚全体に均一に浸透するよう、卵を定期的に回転させた。
そして——今週。
3つの卵が、同時に孵化した。
最初の卵から現れた幼体は、通常の兵隊蟻の幼体の10倍の大きさだった。体長50センチ。外骨格の原基が既に金属質の光沢を帯びている。
幼体はそこから驚異的な速度で成長した。蛹の期間はわずか4日。通常の兵隊蟻が蛹から成体になるまで2週間を要するのに対し、アーティファクトの概念が成長を加速させた。
成体になった時——それは、エリート兵隊蟻とは次元の異なる存在になっていた。
体長5.4メートル。
エリート兵隊蟻の基本骨格を持つが、外骨格の質が完全に異なる。黒と銀の二層構造。鉄壁の盾の概念が外骨格全体に融合し、胴体は戦車の装甲板のように衝撃を面で分散させる構造に変質している。前脚の2本は切断のナイフの概念で刃状に変形し、長さ1.2メートルの斬撃武器になった。力のブレスレットの概念は筋繊維の隅々にまで浸透し、その巨体に見合わぬ機動力を与えている。
2体目。体長2メートル。通常のエリートより小型だが、腹部が異様に膨張している。魔弾銃の射出機構が腹部末端に融合し、力のブレスレットで増幅された筋力が蟻酸を極限まで圧縮する。弾丸は蟻酸と鉱物粒の混合体。射程30メートル。近接戦でも、増幅された筋力は通常のエリートを上回る。
3体目。体長2メートル。外骨格の表面から、常に微かな霧が滲み出ている。安らぎの香と癒しの泉水の概念が融合した治癒フェロモン。蟻の傷を修復する。戦闘力は通常のエリートに劣るが、この個体がいる限り、味方の蟻は傷を負っても短時間で再生する。
女王蟻は、3体を地下100メートルの大空洞に配置した。
100メートル以深への唯一の通路を塞ぐ位置に。
門番だ。
この個体たちに名前はない。女王蟻は名前という概念を持たない。ただ、巣の防衛機構の一部として、最重要の関門に据えた。
門番は微動だにせず、空洞の中央にうずくまっていた。前脚の刃を体の下に折り畳み、触角だけをゆっくりと動かしている。壁面のコーティングが伝える振動を、触角で読み取っている。
侵入者が来れば——動く。
それまでは、待つ。蟻は、待つことに倦まない。
同日。地上。午前6時。品川ダンジョン入口。
一般冒険者が列を作り始める前の早朝。管理テントの職員が欠伸をする中、5人の男女がフェンスの内側に入った。
ギルド直轄深層攻略1stチーム。
先頭を歩くのは高梨誠一。38歳。元海上保安庁特殊警備隊。短く刈り込んだ髪に、日焼けした首筋。フェロモン指数27.2。この5人のリーダーだ。
その背後に、4人が続く。
藤原陽太。19歳。大学1年。フェロモン指数23.7。限界値は表示されない。3度の限界突破を経て、実質的な戦闘力は指数30近い。骨断包丁と切断のナイフを腰に帯びている。
倉橋——34歳、元機動隊。指数27.8。盾役。鉄壁の盾。
新堂——29歳、元冒険者。指数26.4。射撃担当。散弾魔銃。
長峰——31歳、元看護師。指数26.1。後衛。癒しの泉水と安らぎの香の管理。
「今日で6回目だ」
高梨が入口の暗闘を見下ろしながら言った。
1stチームが100メートルの大空洞に初めて到達したのは、かなり前のことだ。その時に——あの3体を発見した。以来、5回の偵察を重ねてきた。いずれも距離をとっての観察と、周辺通路の地図作成に徹した。交戦は避けていた。
「前回まで5回の偵察で、門番の配置と行動パターンは掴んだ。今日は——仕掛ける」
「やっと殴れるっすね」
藤原が言った。
「殴って帰る。目的はダメージの確認だ。あの装甲が俺たちの武器でどこまで抜けるか。俺が撤退と言ったら全員撤退する。——いつも通りだ」
5人がダンジョンに降りた。
地下60メートルまでは、慣れた領域だった。
通路の構造、蟻の配置パターン、宝箱の位置。1stチームが1ヶ月かけて蓄積した深層のデータが頭に入っている。中型の兵隊蟻が散発的に現れるが、指数25以上の5人にとっては脅威ではない。
地下80メートル。深層に入った。
空気が変わった。フェロモン濃度が一段跳ね上がる。通路の天井高が8メートルに達し、壁面のコーティングが黒みがかった金属質に変わる。安らぎの香を焚いても、甘い匂いが脳の奥に染み込んでくる。
「エリートが来る。2体」
高梨が言った。前方の通路から、振動が伝わってくる。
エリート兵隊蟻。体長3メートル。金属光沢の外骨格。
1stチームの5人には、もはやエリートとの戦闘は日常だった。倉橋が盾で突進を受け止め、高梨と藤原が左右から関節を断つ。新堂の散弾魔銃が頭部に追撃。40秒で2体を撃破した。
地下90メートル。通路の構造が変わる。天井がさらに高くなり、壁面のコーティングが二重構造になる。足音の反響が違う。振動が壁に吸い込まれ、遠くまで伝わっていく。5回の偵察で通った道だが、何度来ても慣れない空気の重さだ。
「門番は——こっちが来たことに気づいてるはずだ。壁が振動を伝えてる」
高梨が隊列を引き締めた。
地下95メートル。通路幅が広がった。天井高が15メートルに達する。壁面の発光が強くなり、フェロモンの濃度が肺を焼くように重い。長峰が安らぎの香をもう1本焚いた。
通路の先に——広い空間が見えた。
「見えた」
高梨が足を止めた。
大空洞。地下100メートル。これまで5回の偵察で周辺の通路構造を把握してきた。だが空洞の中に足を踏み入れたことは——まだ、ない。
今日が初めてだ。
「倉橋、前衛。藤原、左。新堂、後方。長峰は最後尾。——行くぞ」
5人が大空洞に足を踏み入れた。
天井高20メートル。横幅30メートル。奥行き50メートル以上。
琥珀色の壁面が、フェロモンの霧を通して鈍く発光している。空気の密度が通路とは段違いだ。息を吸うだけで脳の奥が甘く痺れる。
空洞の中央に——それはいた。
体長5.4メートル。
高梨の呼吸が止まった。
エリート兵隊蟻は3メートルだ。それは——その倍近い。通路の天井に頭が届きそうな巨体が、空洞の中央にうずくまっている。6本の脚が床を掴み、触角だけがゆっくりと動いている。
外骨格の質が、エリートとは根本的に違った。黒と銀の二層構造。光を吸い込むように鈍く輝いている。前脚の2本が——刃になっていた。長さ1メートル以上の扁平な刃状。
「……なんだ、あれは」
新堂が囁いた。声が震えている。
そして——巨体の両脇に、2体。
巨体より明らかに小さい。2メートル。だがどちらも、通常のエリートにはない異質さを纏っていた。
右の個体。腹部が不自然に膨張している。腹部末端に管状の突起がある。
左の個体。外骨格の表面に霧のようなものが纏わりついている。甘い匂い。安らぎの香に似ているが——もっと生々しい。
3体が、5人を見た。
触角がこちらを向いた。
「高梨さん——」
「分かっている」
高梨の声は低く、揺れなかった。だが手の内側が汗で滑っていた。12年のSST経験で見てきたどんな現場とも違う。これは——人間の想定の外にある存在だ。
「偵察だ。交戦して——」
言い終わる前に、巨体が動いた。
5.4メートルの巨体が、小型車のような速度で突進してきた。床が震え、空気が唸る。
「倉橋!」
倉橋が鉄壁の盾を正面に構え、膝を落とした。
衝突。
盾越しに、倉橋の全身に衝撃が走った。指数27.8の身体が3メートル押し戻される。安全靴の底が床面を削り、火花が散った。腕の骨が軋む。
「——っ、重い!」
戦車の砲弾を受け止めたような衝撃。鉄壁の盾がなければ、胸郭ごと潰されていた。
高梨が右から回り込んだ。鋼鉄の木刀を巨体の中脚の関節に叩き込む。指数27.2の全力の一撃。
外骨格に——弾かれた。
手応えが硬すぎる。木刀の衝撃が手首に返ってくる。関節部分ですら、通常のエリートとは比較にならない硬度だった。
「関節も硬い——!」
藤原が左から跳び込んだ。骨断包丁を後脚の関節に突き立てる。品質スコア78の上品質。限界突破者としての腕力——
刃が、2センチほど食い込んだ。
体液が僅かに滲んだ。完全に弾かれたわけではない。だが2センチだ。関節を断つには程遠い。
巨体が後脚を振った。藤原が咄嗟に飛び退く。刃状の前脚が空気を裂いた。風圧だけで藤原の前髪が吹き飛んだ。当たっていたら胴体が両断されていた。
「避けろ藤原!」
新堂が散弾魔銃を構えた。狙いは右の個体——腹部が膨張した奴。
だが撃つ前に、そいつが先に動いた。
腹部末端から——何かが射出された。
速い。反射的に横に跳んだ新堂の肩を、液体の弾丸が掠めた。
蟻酸だ。圧縮された蟻酸が超高速で射出されている。
掠めた部分の守護のヘルメットの表面が——溶けた。腐食の煙が上がる。
「射撃してきた……! 蟻が!?」
新堂が叫んだ。
そして——左の個体が動いた。
小さな体から、霧状のフェロモンが拡散した。甘い匂いが空洞に広がる。巨体の後脚——藤原が骨断包丁で切り込んだ2センチの傷口が、見る間に塞がっていった。体液の滲出が止まり、外骨格の端が再生するように閉じていく。
10秒で、傷が消えた。
「——嘘だろ」
藤原が目を見開いた。
命がけで刻んだ2センチの傷が、無かったことにされた。
回復する蟻。射撃する蟻。そしてあの装甲の化け物。
3体が——連携している。
「撤退」
高梨が即断した。
「まだ——」
「撤退だ、藤原。これ以上は全滅する」
藤原が唇を噛んだ。だが反論はしなかった。高梨の撤退判断には従う。チームに入った時からの約束だ。
5人が背を向けて走った。
巨体は——追ってこなかった。
5.4メートルの巨体が、空洞の中央に戻っていく。両脇の2体も、定位置に戻った。
関門の番人は、関門を離れない。
それが唯一の救いだった。
地上。午後3時。渋谷。冒険者ギルド本部。地下1階。会議室。
5人はパイプ椅子に座っていた。全員が疲弊している。倉橋は左腕を庇うように抱えている。巨体の突進を受け止めた衝撃で、前腕の骨に亀裂が入っていた。癒しの泉水で応急処置を施したが、完治には数日かかる。
高梨がテーブルの上にタブレットを置いた。
「第6次偵察——初の本格交戦の結果を報告する」
会議室には5人の他に、2人の人物がいた。
田所勝。冒険者ギルドマスター。42歳。壁に背を預けて腕を組んでいる。
黒川陽一。副ギルドマスター。テーブルの端でノートパソコンを開いている。
田所と黒川は、第1次偵察で門番の存在を報告されていた。3体の異常な蟻が100メートルの大空洞を守っている——その事実は、この部屋にいる人間だけが知っている。以来5回の偵察は距離をとっての観察に徹してきた。今日、初めて接近戦を仕掛けた。
「結論から言います。門番は、やはり突破できない。今の戦力では」
高梨の声は淡々としていたが、その「やはり」に重みがあった。観察を続けて弱点を探り、装備を整え、万全の状態で挑んだ結果だ。
「交戦の詳細を報告する」
「体長5メートル超の門番。遠距離から観察した時の印象通り、外骨格の硬度は桁違いだった。鋼鉄の木刀が弾かれた。骨断包丁で2センチ食い込んだのが最大の成果です。前脚の刃は、近くで見ると想像以上だった。振り下ろされた風圧だけで藤原の髪が吹き飛んだ。当たれば人間は真っ二つになる。倉橋が鉄壁の盾で突進を受け止めて、前腕の骨にひびが入った」
田所の目が細くなった。
「取り巻きも、観察通り厄介だった。射撃型は蟻酸を圧縮して高速射出する。ヘルメットの表面が溶けた。回復型は——これは実際に交戦しないと分からなかった。藤原がつけた2センチの傷が、10秒で塞がった」
「10秒か。——それは観察では分からなかった情報だな」
「はい。あの3体は、削っても回復される。回復役を先に潰さない限り、門番に有効打を蓄積できない。時間をかけて弱点を探り、装備を整え、万全で挑んだ結果です。——結論は変わりません。今の戦力では、突破できない」
田所が壁から背を離した。
「新しく分かったことは他にあるか」
藤原が口を開いた。
「外骨格の中に——何か、見えたんです」
「何か?」
「門番の脚を切った時に、断面が見えました。外骨格の内側に、金属質の層が組み込まれていた。見覚えのある光沢です。鉄壁の盾とか、切断のナイフとか——アーティファクトの素材に近い。蟻の体が、アーティファクトの力を取り込んでるみたいに見えた」
「アーティファクトの力を?」
「推測です。でもあの硬さは、ただの外骨格じゃない。盾の防御力と同じ性質のものが、体の一部になってる。射撃してきた奴も、腹の構造が魔弾銃に似てた。回復する奴が出す匂いは、安らぎの香に近かった」
田所が黙った。3秒。
「つまり蟻が、アーティファクトの性質を何らかの方法で自分の体に取り込んでいると」
「そう見えました。仕組みは分かりません」
「あの3体は偶然じゃない」
高梨が補足した。
「防御役、射撃役、回復役。3体が連携して動いていた。何かが、意図的にあの組み合わせを作っている。——ダンジョンの奥に、設計者がいる」
田所がゆっくりと椅子に座った。
「ますます厄介だな。——黒川。交戦データを追加記録しろ。門番の詳細は引き続き最高機密だ」
「了解です」
「100メートルの壁は前から掲示板で話題になっていた。そろそろギルドとして公式見解を出す。門番の存在は匂わせずに、冒険者への警告だけだ。——『100メートル以深には、現在の冒険者の戦力では突破不可能な障壁が確認された。ギルドとして、100メートル以深への単独・少人数での進入を強く制止する』。これを出せ」
「具体的な門番の情報は——」
「出さない。管理庁にも政府にも。——今はまだ、ギルドだけが知っていればいい」
高梨が頷いた。
「迂回路の調査結果も報告しておきます。5回の偵察で、100メートル以深に続くと思われる通路を2本発見しました。いずれも90メートル台から分岐する下り通路です。——しかし2本とも、最終的に同じ大空洞に合流していた。門番を避けて100メートル以深に入るルートは、現時点では確認されていません」
「つまり正面突破しかないと」
「少なくとも、今分かっている範囲では。ダンジョンは拡大を続けているので、新しい通路が出現する可能性はありますが——期待しない方がいい」
高梨が頷いた。
「突破するには何が要る?」
田所が高梨に問うた。
「人数です。門番の装甲を抜けるのは今のところ藤原だけだ。だが藤原が門番に張り付いている間、射撃と回復の2体を同時に抑える手がない。最低8人。できれば12人。しかも全員が指数25以上で、深層での戦闘経験がある者でないと、門番の一撃で死ぬ」
「今、ギルドの登録冒険者で指数25以上は何人だ」
黒川がノートパソコンを確認した。
「1stチームの5名を含めて、推定で20名弱です」
「深層戦闘の経験がある者は」
「1stチーム以外では——10名程度。ただし100メートル到達は1stチームのみです」
「2ndと3rdの現状は」
「2ndチーム、5名、平均指数23.2。リーダーは宗形。70メートル台への進出は来月の予定です。3rdチーム、5名、平均指数21.8。リーダーは神保。60メートル台での訓練段階」
「2ndが25に到達するまで、あと何ヶ月だ」
「深層に通い続ければ2ヶ月で25に届く者が出ます。全員が25以上になるのは3ヶ月以上」
「レイドか」
田所が呟いた。
「レイドです」
高梨が答えた。
「エリート兵隊蟻のようにはいきません。精鋭を集めて、人数で押すしかない」
田所が天井を見上げた。
「3ヶ月。——急がせれば死人が出る。だが待てば門番の側も強くなるかもしれん。今日の時点で突破不能なものが、3ヶ月後にも突破不能なら——永遠にあの先には行けない」
「だから育成を急ぎます。ただし——」
高梨が言った。
「急いで死ぬな、が原則です」
田所が薄く笑った。
「海保の流儀か」
「全員連れて帰るのが仕事でしたから」
「次の議題に移る。——藤原、残れ。他は休んでいい」
倉橋、新堂、長峰が退室した。
会議室に田所、黒川、高梨、藤原の4人が残った。
「藤原。お前の体質について、改めて確認しておきたい」
田所が言った。
「特濃フェロモン結晶を3回摂取して、モンスター化していない。渇望も軽い。——こんな人間は他にいるのか」
「いません」
高梨が答えた。
「限界突破直後のモンスター化率は1回目で約15パーセント。2回目は95パーセント。残り5パーセントも大抵は一週間以内にダンジョンに潜ってそのまま帰ってこない。そして3回目は関しては——前例がない。3回目の摂取で何事もなく人間のまま立っているのは、ギルドの記録にも掲示板にも、藤原以外の報告はない」
田所が藤原を見た。
「自分では、あと何回耐えられると思う」
「あと2回くらいは大丈夫だと思います」
19歳の大学生が、淡々と言った。
「根拠は」
「3回目の後、渇望は来ました。1回目よりも2回目よりも強かった。でも安らぎの香1本で眠れました。体への負担は——正直、3回目は少しキツかったです。しばらく視界がぼやける時間があった。でも3日以内で完全に回復しました。4回目で同じ程度の負担なら、耐えられます。5回目は——分からないですけど」
「3日で回復したのか。通常の限界突破者は1回目でも1週間は渇望の波が続き、まともに動けないと聞くが」
「俺の場合は違うみたいです。理由は分かりません」
高梨が口を挟んだ。
「田所さん。4回目の摂取は反対です。3回でも前例がない。4回目で何が起きるか——」
「分かっている。今すぐ飲ませるつもりはない。——だが門番を突破する日が来た時、藤原の出力をもう一段上げる必要があるかもしれない。選択肢として持っておく」
田所が立ち上がった。
「藤原の体質について知っているのは、この部屋にいる人間と、ギルド幹部の佐伯、木村だけだ。政府には漏らすな。管理庁が藤原の存在を知れば——研究対象として確保に動く可能性がある」
「分かってます」
「お前は冒険者だ。政府の実験体じゃない。ギルドが守る」
田所の声には、商人の計算と、微かな本気が混じっていた。
「最後に一つ。黒川、月次報告を」
黒川がノートパソコンの画面を切り替えた。
「冒険者ギルド月次統計です。登録冒険者数14,200名。前月比プラス3,800。ゴールドラッシュ以降の急増が続いています」
「死者は」
「今月の死亡確認28名。前月比マイナス6。初心者講習と入口管理の効果が出ています。ただし非登録冒険者を含めた推定死者は50名以上。累計死亡確認者は810名を超えました。行方不明者は4,200名以上」
「深層の状況は」
「70メートル以深の登録冒険者が620名。先月は480名。深層冒険者は増えています。月間死亡率は1.4パーセント。先月の2パーセントからは改善」
「一般冒険者の最深到達は」
「87メートル。その冒険者は3日後に行方不明になっています。100メートル到達は1stチームのみ。少なくとも我々の知る範囲では一般冒険者で大空洞まで辿り着いた者はいません」
田所が頷いた。
「高品質アーティファクトの出現頻度が上がっています」
黒川が続けた。
「品質スコア80以上の極上品が先月の3倍出現。ダンジョンの生産機構が進化しているようです。市場価格は下落傾向ですが、取引量でカバーし、月間取引額は32億円に達しました」
「品質が上がる一方で、深層の蟻も強くなっている。——いたちごっこだな」
「はい。——あと、もう一件」
黒川の声のトーンが変わった。
「墨田区の件です」
「墨田区?」
「本日、環境省が墨田区向島に調査チームを派遣しました。異常巨木の件です。高さ26メートルの銀色の木が出現し、フェロモン類似物質を放出している。内閣官房の超常事態対策室は『第三の超常案件』として分類しました」
田所の手が止まった。
「フェロモン類似物質?」
「ダンジョン内部のフェロモンと類似した化学物質です。木の周囲半径200メートル以内で検出。濃度は浅層のダンジョン入口に匹敵するレベルだと」
「ダンジョンの外で、フェロモンが出ている」
田所が高梨を見た。
「高梨。深層に何十回と潜ってきて、ダンジョンの外でフェロモンが検出された例はあるか」
「ありません。ダンジョンの超常現象は、すべてダンジョンの内部に限定されていた。地上でフェロモン類似物質が出るのは前例がない」
「ダンジョンとの関連は」
「分かりません」
黒川が答えた。
「根が地下35メートルまで伸びているという報告があります。35メートルは——」
「ダンジョンの中層だ」
沈黙が落ちた。
田所がコーヒーカップをテーブルに置いた。乾いた音が会議室に響いた。
「六本木の吸血鬼。ダンジョンの門番。そして——地上に出現した超常の木。三つ目の問題だ」
「冒険者が勝手に見物に行って事故を起こす前に、ギルドとして対応を考える必要があります」
「ああ。——管理庁の佐々木参事官に連絡を取れ。ダンジョンとの関連調査にギルドの専門家を入れろと打診する。情報を先に押さえる」
「了解です」
黒川がノートパソコンを閉じた。
高梨も立ち上がった。
「田所さん。門番の突破は時間がかかる。だが——方法はある。2nd、3rdチームの育成。そして藤原の成長。時間さえあれば」
「分かっている。急いで死ぬな、だろう」
「はい」
高梨が退室した。
田所は一人、会議室に残った。
窓のない地下の部屋。冷めたコーヒー。壁に貼られたダンジョンの断面図。
100メートルの壁。門番。アーティファクトの力を取り込んだ蟻。そして——地上に出現したフェロモンの木。
ダンジョンは深くなり、蟻は強くなり、今度は地上にまで超常現象が侵食し始めている。
「……忙しくなるな」
田所が呟いた。
誰もいない会議室で、その声は壁に吸い込まれて消えた。




