第4話「蜘蛛と好奇心」
翌朝。スマホのアラームで目が覚める。
「……ん」
呟きながら、ベッドから起き上がる。
体調がいい。三日前の高熱と倦怠感が嘘のように、毎朝すっきりと目が覚める。魔道具化した服を着たまま寝ているおかげか、肩こりもない。
キッチンに向かう。
朝食はシンプルに。トーストとコーヒー。魔道具化した包丁で切った食パンは、断面が信じられないくらい滑らかだった。焼き上がったトーストを一口齧る。
「うまい……」
なんでパンを切っただけで味が変わるんだろう。わからないが、美味いからいい。
コーヒーを飲みながら、スマホでニュースをチェックする。
昨日のニュースの続報が出ていた。
『都内で不審な失血死体 新たに2件確認 警察が関連を調査』
昨日の1件に加えて、昨夜から今朝にかけて2件。合計3件。
いずれも目立った外傷がなく、体内の血液量が著しく少ない状態で発見されている。発見場所はバラバラ。共通しているのは、全員が夜間の屋外で倒れていたこと。
「物騒だな……」
他人事のように呟く。
記事のコメント欄には、不安の声が並んでいた。
『連続殺人じゃないの?』
『外傷なしで失血死って意味わからん』
『夜の一人歩きは控えた方がよさそう』
俺は画面をスクロールして、記事を閉じた。
怖い話だが、俺には関係ない。
それよりも――。
「今日こそ蜘蛛を見に行くか」
一昨日の夜、女王蟻に血を一滴垂らした。でも、目に見える変化はなかった。あの時は逃げられてしまったし、その後どうなったかもわからない。
物体と違って、生物は変化に時間がかかるのかもしれない。あるいは、一滴では量が足りなかったのか。
「今回は三滴くらい垂らしてみよう」
朝食を終えた俺は、立ち上がった。
住宅街を抜け、空き家に向かう。
途中、アパートの駐車場を通りかかった。
――あの亀裂が、まだある。
昨日気づいた、アスファルトのひび割れ。女王蟻が地中に消えた場所の近くだ。
「……気のせいか?」
しゃがみ込んで、亀裂を覗き込む。暗くて、何も見えない。
鼻を近づけると――かすかに、土の匂いがした。
地下に、空間がある?
いや、まさかな。蟻一匹が掘った穴くらいで、アスファルトが割れるわけがない。
俺は立ち上がり、空き家に向かった。
空き家までは、徒歩5分ほど。住宅街の外れにある、古い一軒家だ。何年も前から誰も住んでいない。壁は剥がれ、窓ガラスは割れ、庭は雑草に覆われている。
フェンスは錆びついていて、簡単に開いた。
庭を横切り、玄関に近づく。軒下を見上げる。
――いた。
女郎蜘蛛。
黄色と黒の縞模様が鮮やかな、大きな蜘蛛。体長は3センチくらい。巣の中心で、じっとしている。
「よし……」
俺はポケットから、魔道具化した万年筆を取り出した。ペン先で指先を軽く刺す。チクリとした痛み。赤い雫が浮かぶ。
「……いくぞ」
息を整える。
そして、蜘蛛の背中に、血を垂らした。
ポタリ、ポタリ、ポタリ。
3滴。
女王蟻の時は1滴だった。今回は3倍。これなら、しっかり変化するはずだ。
蜘蛛は動かない。巣の中心で、じっとしている。
数秒待つ。
10秒。20秒。30秒。
――変化なし。
「……やっぱりすぐには変わらないのか」
俺は呟いた。女王蟻の時と同じだ。生物の場合、変化に時間がかかるらしい。物体ならすぐに変化するのに。
理由はわからないが、そういうルールなのだろう。
「じゃあ、どれくらい時間がかかるんだ? 一晩? 数日?」
確かめるしかないな。
でも、ここで待ち続けるわけにもいかない。蜘蛛を持ち帰るのも、巣ごとは無理だし、無理に動かしたら死ぬかもしれない。
俺は周囲を見渡した。空き家の庭。誰も来ない場所。ここなら、そのまま放置しておいても問題ない。
「よし、ここで様子を見よう」
毎日ここに来て確認すればいい。変化が起きたら、すぐわかる。
「とりあえず、夕方にまた来るか」
俺は蜘蛛を見上げた。相変わらず、じっとしている。血は背中に付着したまま、乾いて黒っぽく固まっている。
「頼むぞ、変化してくれよ」
期待を込めて呟き、俺はその場を離れた。
帰り道。
スマホでニュースの続報をチェックする。
失血死事件。朝の時点で3件だったが、昼のニュースでは4件に増えていた。新たに発見されたのは、早朝のジョギング中に路上で倒れていた40代の女性。
共通点が報じられ始めている。全員が夜間から早朝にかけて屋外で倒れていた。外傷はほとんどない。体内の血液が著しく減少している。
警察は連続性を視野に捜査を進めているが、凶器も手口も不明とのこと。
「不気味だな」
それだけ呟いて、スマホをポケットに戻した。
夕方。
待ちきれなくなった俺は、再び空き家に向かった。
空き家に着くと、庭を横切り、玄関の軒下を見上げた。
――いた。
女郎蜘蛛。相変わらず、巣の中心にいる。
でも――。
「……ん?」
何か、違和感がある。
大きさは――変わっていないように見える。色も同じ。
でも――動きが、少し違う気がする。
普段の蜘蛛は、ほとんど動かない。巣の中心で、じっとしている。でもこの蜘蛛は――微かに、脚を動かしている。
まるで、何かを感じ取っているような。
「気のせいか……?」
首を傾げる。でも、確かに違和感がある。
もう少し様子を見よう。
俺はその場に座り込み、蜘蛛を観察し始めた。
5分。10分。15分。
――その時だった。
蜘蛛が、動いた。
ゆっくりと。巣の中心から、端に移動する。
そして――糸を吐き始めた。
「おお……」
普通の蜘蛛も糸を吐く。でも、この蜘蛛の糸は違った。
太い。しかも、光っている。
夕日を受けて、金属のような光沢を放っている。
「これ……変化してるのか?」
興奮が込み上げてくる。
蜘蛛は糸を吐き続ける。元の巣に上書きするように、新しい糸で巣を強化していく。
その動きは、普通の蜘蛛よりも明らかに速い。そして正確だ。一本一本の糸が、幾何学的に美しいパターンを描いている。
そして――蜘蛛の身体が、少しずつ大きくなっているのがわかった。
最初は3センチだった。今は――4センチに近い。
たった半日で、1センチ近く成長している。
「マジか……」
声が震えた。変化が、始まっている。確実に。
しかも、色が少し変わっている。黄色がより鮮やかに。黒がより深く。コントラストが強くなっている。
俺は息を止めて、見守った。
蜘蛛は巣の補強を終えると、再び中心に戻った。じっと、動かない。
でも、朝とは違う。なんというか――存在感が増している。
「すげぇ……」
俺は立ち上がった。
もっと観察したいが、日が暮れてきた。
「明日、また来る」
蜘蛛に向かって呟き、俺はその場を離れた。
帰り道。頭の中は興奮でいっぱいだった。
生物実験、成功だ。確実に変化している。
明日には、もっと変化しているはずだ。どこまで大きくなるんだろう。どんな能力を持つんだろう。
考えるだけでワクワクする。
「やっぱ、生物の方が面白いな……」
笑いながら、俺はアパートに戻った。
その日の夜。
空き家の軒下。
女郎蜘蛛は、巣の中心にいた。
身体は、さらに大きくなっている。
7センチ。
夕方、真央が見た時よりさらに成長していた。
糸は、もはや蜘蛛の糸には見えない。鋼線のような光沢と強度を持ち、巣全体が暗闇の中でぼんやりと銀色に光っている。
そして――脚が、少しずつ変化し始めていた。
関節の可動域が広がる。筋肉が発達する。爪が鋭くなる。
外骨格の表面に、微かな模様が浮かび始めている。縞模様ではない。もっと複雑な――文様のようなもの。
変化は、まだ止まらない。
そして――蜘蛛の中で、何かが芽生え始めていた。
知性。
本能だけではない、何か。
巣に虫がかかった。小さな蛾。
蜘蛛は動かなかった。いつもなら、すぐに飛びかかるはずだ。
だが、今夜は違う。蛾が暴れるのを、じっと見ている。
まるで――観察しているかのように。
数秒後、蜘蛛が動いた。
だがすぐには噛みつかない。
まず糸で、蛾の羽を一枚ずつ固定した。次に脚を。最後に、腹部を。
手順が、ある。効率的な、手順が。
本能だけの生き物には、こんな行動はできない。
蜘蛛は、蛾を完全に固定し終えると――食べなかった。巣の端に移動させ、そのまま放置した。
まるで――保存しているかのように。
夜の闇の中で、蜘蛛の複眼が、微かに光った。
それは、ゆっくりと成長していく――。




