第5話「変質」
スマホのアラームで目が覚める。
「……よし」
ベッドから起き上がり、大きく伸びをする。
今日はバイトの日だ。久しぶりの出勤になる。ここ数日、実験に夢中で休みまくっていたから、店長に怒られるかもしれない。
「まあ、なんとかなるだろ」
楽観的に考えながら、身支度を整える。
ふと、以前の自分なら、もう少し申し訳なさを感じていた気がすると思った。無断欠勤に近いことをしておいて、怒られるかもなんて軽い言い方で済ませている自分に微かな違和感がある。
だが、その違和感自体がすぐに薄れていく。店長が怒ろうが怒るまいが大した問題じゃない。そんな風に、自然と思えてしまう。
あの高熱以降――能力に目覚めてから、俺の中で何かが変わりつつある。何が変わったのかは、うまく言葉にできない。ただ、世界と自分の間にあった薄い膜のようなものが、少しずつ厚くなっている感覚がある。
魔道具化した服はもう四日目だが、汚れも匂いもまるでない。洗濯という概念が消滅した。
キッチンに向かい、朝食の準備をする。トーストと目玉焼き。魔道具の包丁で切ったトマトを添える。一口齧ると、やはり美味い。だがもう驚きはしない。これが俺の日常になりつつある。
朝食を終え、コーヒーを飲みながらスマホでニュースをチェックする。
『都内で不審な失血死 新たに3件確認 累計7件に 警察が特別捜査本部の設置を検討』
昨日の4件から、一夜で3件増えている。ペースが上がっていた。
記事を読む。発見場所は練馬区、板橋区、足立区。都内の広い範囲にまたがっている。全員が夜間の屋外で倒れており、目立った外傷はなく、体内の血液量が著しく少ない。凶器も手口も不明。
コメント欄には不安の声が溢れていた。
『もう怖くて夜出歩けない』
『7人も死んでるのに犯人の手がかりすらないの?』
『吸血鬼じゃないかって言ってる人いるけどマジで何なの』
「どんどん増えてるな……」
呟いた。不気味な話だ。
だが――その「不気味さ」が、以前よりも遠い。
他人の死が、ガラス越しの風景のように感じられる。数字が一つ増えた。それだけのことだ。四件が七件になった。明日には十件を超えるかもしれない。その数字の一つ一つに、人生があったはずだ。家族がいて、仕事があって、帰りを待つ人がいたはずだ。
そういうことは、頭では理解している。
でも、胸に響かない。
数日前なら、もう少し重く感じていた気がする。確証はないが、そんな気がする。
時計を見ると、もうバイトの時間が近い。
「やべ、そろそろ行かないと」
スマホをポケットに入れ、部屋を出た。
バイト先は、駅前のコンビニだ。徒歩15分ほど。
住宅街を歩いていると、すれ違う人々の顔がやけにぼんやりと映った。以前なら、近所の人に会えば軽く会釈くらいはしていた。でも今は、そういう気が起きない。というより、必要性を感じない。彼らは彼ら。俺は俺。それで十分だ。
コンビニに到着した。
「おはようございます」
店内に入ると、すぐに店長の声が飛んできた。
「おう、宍粟。久しぶりだな」
店長は腕を組んで、レジカウンターの奥から俺を見ている。怒っているというよりは、呆れている顔だ。
「すみません、ちょっと体調崩してて……」
嘘だ。体調なんて崩していない。むしろ人生で一番健康かもしれない。でも、社会にはこういう儀式が必要だ。嘘をつき、相手がそれを受け入れ、話が先に進む。それだけのことだ。
店長はふーんと鼻を鳴らしただけで、それ以上追及しなかった。
「まあいい。今日はちゃんと働けよ」
「はい」
以前なら、少しは罪悪感があったかもしれない。でも今は、何も感じない。ただの手続き。ただの通過儀礼。
バックヤードに向かい、制服に着替えようとして――手が止まった。
この服、魔道具化してるんだよな。脱いだら、効果が切れる。適温維持も、防御も、全部なくなる。
結局、魔道具化した服を下に着たまま、制服を上から羽織ることにした。少しもこもこするが、問題ない。
準備を終え、店内に出る。シフトは午前10時から午後6時まで。
「宍粟、レジ頼む」
店長の指示で、レジに入る。
客が次々とやってくる。弁当、飲み物、タバコ、雑誌。いつもの光景だ。
ピッ、ピッ、とバーコードを読み取り、会計を済ませる。単調な作業。でも嫌いじゃない。手を動かしている間は、頭で別のことを考えていられるからだ。
――蜘蛛、どうなってるかな。
最後に見た時、あの蜘蛛は半日で4センチまで成長していた。糸は金属のような光沢を放ち、色味も少し変化していた。あれから一晩が経った。どこまで変化しているだろう。
今日の仕事が終わったら、また見に行こう。
そう考えていた時、ふと店内のテレビが目に入った。音量は小さいが、字幕が表示されている。
『失血死事件 警視庁が特別捜査本部を設置 「極めて異常な事態」』
「怖いですよね」
レジに並んでいた客の一人が、俺に話しかけてきた。50代くらいの女性で、買い物カゴにパンと牛乳を入れている。
「ええ、まあ……」
適当に相槌を打つ。以前なら、もう少し共感を込めた返事ができた気がする。でも今は、この女性の恐怖が、どこか遠い。水槽の向こう側の魚を眺めているような距離感がある。
「吸血鬼じゃないかって噂もあるんですよ」
女性は声をひそめて、しかし真剣な顔で言った。
「……吸血鬼ですか」
思わず笑いそうになったが、堪えた。吸血鬼。ファンタジーの世界の話だ。まさか、そんなわけがない。
「だって、血を全部吸われて死ぬなんて、普通じゃないじゃないですか。外傷もないのに」
適当に同意して、会計を済ませる。女性は満足そうに頷き、店を出て行った。
その背中を見送りながら、俺はふと思った。
――この人も、夜に出歩いたら被害者になるのかな。
その想像が浮かんだことに、一瞬だけ自分で驚いた。だが、不思議と嫌悪感がない。ただの可能性の一つとして、頭の中を通り過ぎていくだけだ。天気予報と同じ程度の重みしかない。
「でも……吸血鬼、ねぇ。マジでいたら熱いかもなぁ」
小さく呟いて、次の客を待った。
昼休憩。
バックヤードで、コンビニ弁当を食べる。
弁当を片付け、スマホを取り出す。ニュースの続報をチェックする癖がついていた。
失血死事件のスレッドがSNSでトレンド入りしている。様々な憶測が飛び交っていた。新型ウイルス説、カルト集団説、そして吸血鬼説。
馬鹿馬鹿しい――と思いかけて、手が止まった。
ある考えが、不意に浮かんだからだ。
数日前の夜。俺は蚊に刺された。何箇所も。首筋、腕、足首。あの夜は窓を閉め忘れていた。
蚊は、俺の血を吸った。
俺の血は、物体の用途を極限まで強化する。
生物に対しても効果がある。女王蟻には逃げられたので分からないが、蜘蛛は三滴で一日にして倍以上に成長し、知性の萌芽まで見せている。
なら――蚊は?
蚊の「用途」は、血を吸うことだ。
もしその機能が極限まで強化されたとしたら。
人間一人分の血液を、丸ごと吸い尽くせるようになったとしたら。
「……まさか」
声が震えた。
失血死。外傷なし。体内の血液が著しく減少。
全部、説明がつく。
進化した蚊が、人間の血を吸い尽くしているとしたら。針が極限まで細く鋭くなり、外傷が残らないほどになっていたら。麻酔成分が強化されて、被害者が痛みに気づかないほどになっていたら。
全部、辻褄が合ってしまう。
「いや、いや、いや」
首を振る。
そんなわけない。蚊が人を殺すなんて。全身の血を吸い尽くすなんて。物理的に無理だ。蚊の腹に、5リットルもの血液が入るわけがない。
――本当に?
蜘蛛は一日で倍以上に成長した。体長3センチだったものが7センチになった。体積でいえば十倍以上だ。そんな成長は、通常の生物学ではあり得ない。
蚊も同じように巨大化していたら。腹部の容量が桁違いに増えていたら。
あり得ない話じゃない。
俺の血は、あり得ないことを起こす。それはもう、証明済みだ。
「……偶然だ。絶対に偶然だ」
自分に言い聞かせる。
でも、言い聞かせている時点で、心のどこかでは可能性を認めている。
奇妙なのは、その可能性に対して湧き上がる感情だった。
恐怖? 罪悪感?
どちらも、あるにはある。だが薄い。膜を一枚隔てたように、遠い。
代わりに感じるのは――。
興奮だった。
もし本当に、俺の血が原因だとしたら。蚊が進化して、人間を殺せるほどの存在になったとしたら。それは、俺の血にそれだけの力があるということだ。三滴の血で蜘蛛を変え、そして蚊に吸われただけで――人を殺す捕食者を生み出した。
すごい、と思ってしまった。
その感情に気づいた瞬間、背筋が冷えた。
人が死んでいる。七人も。もっと増えるかもしれない。それを「すごい」と感じる自分がいる。
「……俺、変わってきてるな」
呟いた。
数日前の自分なら、こんな風には考えなかったはずだ。他人の死を数字として処理したり、自分の力の証明として捉えたりはしなかった。
何が変わったのか。
あの高熱。能力の覚醒。それ以来、少しずつ、何かが削れている気がする。共感とか、罪悪感とか、そういう——人間らしい柔らかい部分が。代わりに、好奇心と合理性が尖っていく。
それは、能力の副作用なのか。それとも、元々俺の中にあったものが、能力をきっかけに表に出てきただけなのか。
どちらにしても――止まる気はなかった。
答えの出ない問いを頭の隅に押しやり、俺は弁当の空き容器をゴミ箱に捨てた。
休憩時間が終わる。レジに戻らなければ。
午後6時。シフトが終わった。
制服を脱ぎ、魔道具化した服だけになる。やはり快適だ。
店を出て、迷う必要もなく空き家に向かった。蜘蛛がどうなっているのか、気になって仕方なかった。
空き家に着いたのは、午後7時前。
日没直後で、地上はもう暗い。フェンスを開け、庭に入る。
軒下を見上げた。
そして――息を呑んだ。
「……でかっ」
思わず声が出た。
女郎蜘蛛は、巣の中心にいた。
だが、昨夜見た姿とは、もはや別の生き物だった。
体長は15センチ近い。大人の手のひらに収まりきらないサイズだ。昨夜の7センチから、一日でさらに倍以上に成長している。
脚は長く、一本一本が俺の人差し指ほどの太さがある。関節が増えており、可動域が広い。爪は鋭く、先端が鉤状に曲がっている。
外骨格の表面には、複雑な文様がはっきりと浮かんでいた。黄金と漆黒の模様が幾何学的なパターンを描き、まるで誰かが意図的にデザインしたかのようだ。
そして、巣。もはや蜘蛛の巣とは呼べない代物だった。軒下の空間全体を覆う銀色のドームが形成されている。糸の一本一本が鋼線のような光沢を放ち、夕暮れの最後の光を受けて、幻想的に輝いていた。
「すげぇ……」
俺が見上げていると――蜘蛛が、動いた。
ゆっくりと、巣の中心で身体の向きを変える。八つの複眼が、一斉にこちらを向いた。
ゾクリ、と背筋に電流が走った。
視線を感じる。はっきりと。
普通の蜘蛛は、人間を「認識」しない。視界に入っても、脅威か餌かの二択でしか判断しない。
だが、この蜘蛛は違う。俺を見ている。俺という存在を、認識している。
その複眼の奥に、知性がある。昨夜よりもさらに明確な、何かを考えている者の目だ。
数秒間、俺と蜘蛛は見つめ合った。
恐怖はなかった。代わりにあったのは、言葉にしがたい高揚感だ。
「やっぱり、生物実験は面白いな……」
笑いが、自然とこぼれた。
巣の端に、獲物が整然と並べられていた。食糧の備蓄。住居の設計。この蜘蛛には、知性がある。
日が完全に暮れた。
「明日、また来る」
蜘蛛に向かって呟いた。
部屋に戻り、ベッドに横になる。
天井を見つめながら、今日一日を振り返った。
バイト。客との会話。失血死のニュース。蚊との関連を疑ったこと。そして、蜘蛛の成長。
だが、最も気になっているのは、蚊のことでも蜘蛛のことでもなかった。
俺自身のことだ。
変わっている。確実に。
以前の俺なら、他人の死にもう少し心を痛めていたはずだ。バイト先で嘘をつくことに、もう少し罪悪感を覚えていたはずだ。蜘蛛の進化を「面白い」としか思えない自分に、もう少し恐れを感じていたはずだ。
それらが全部、薄れている。
まるで、魔道具のように。
包丁が切れ味に特化するように。ペンが書くことに特化するように。俺という人間も、何かに特化し始めている。
好奇心。合理性。そして――無関心。
自分に関係のないことへの、徹底的な無関心。
それが能力の副作用なのか。あの高熱が何かを変えたのか。それとも、元々こういう人間だったのか。
答えは出ない。出ないが――止まる気もなかった。
蜘蛛は明日も成長する。蚊は夜の街で狩りを続けているかもしれない。女王蟻も何処かで巣を広げているかもしれない。
俺の血が生み出した存在たちが、それぞれの場所で進化を続けている。
それを止める気は、ない。止められるのかどうかも、わからない。
でも、それ以前に――止めたいと思わない。
その事実が、何よりも雄弁に、俺の変質を物語っていた。
「……明日も、バイトだな」
呟いて、目を閉じた。
眠りに落ちる直前、ふと思った。
俺は、どこに向かっているんだろう。
答えが出る前に、意識が途切れた。




