第3話「日常と、異変の芽」
朝は、あまりにも普通に始まった。
空は薄く白み、夜の名残をゆっくりと押し流している。住宅街はまだ静かで、聞こえるのは遠くを走る車の低い走行音と、どこかの家の換気扇の回る微かな唸りだけだった。
ゴミ出しの時間には少し早い。
それでも田中美佐子は外に出ていた。四十六歳。主婦。几帳面な性格で、いつも人より少しだけ早く行動する。
カラスに荒らされるのが嫌だった。
両手で抱えた半透明のゴミ袋の中では、空き缶が触れ合い、小さく鳴っている。
集積所までは徒歩一分もかからない。角を曲がればすぐだ。
その途中だった。
視界の端に、誰かの背中が映った。
電柱の下。道路脇のガードレールに、もたれるように立っている。
男だった。
「あら……」
思わず足を止める。こんな早朝に立ち尽くしているなんて、珍しい。酔っ払いだろうか。
近づくにつれ、違和感が芽生える。
動かない。呼吸によるわずかな揺れすら見えない。
「大丈夫ですか?」
声をかける。返事はない。男は微動だにしない。
寝ているのかと思った。だが立ったまま眠る人間などいるだろうか。
美佐子はゴミ袋を足元に置いた。
胸の奥に、小さな不安が生まれる。
もう一歩、近づく。
そこでようやく、顔が見えた。
――白い。
いや。白いというより、色が抜けている。
蝋細工のようだった。皮膚が乾き、細かな皺が無数に浮いている。頬は不自然にこけ、眼窩が深く落ち込んでいた。
そして何より。目が開いている。濁ったまま、どこも見ていない。
「ひっ……」
喉が鳴った。反射的に後ずさる。
その拍子に、ゴミ袋が倒れた。中から転がり出た缶が、アスファルトを跳ねる。
カラン、と乾いた音。
その瞬間だった。
男の首が、ぎこり、と動いた。
美佐子の呼吸が止まる。
ゆっくりと。本当にゆっくりと。
男の顔がこちらを向く。目は合っているはずなのに、視線を感じない。
生きた人間の目ではなかった。ガラス玉のように濁り、光を反射しない。
「だ、大丈夫ですか……?」
震える声で、もう一度。
男の唇が、わずかに開く。何かを言うのかと思った。
だが。
漏れたのは言葉ではない。乾いた空気が擦れる音だけだった。喉が潰れているような、掠れた呼気。
男が一歩、踏み出す。関節が不自然に曲がる。まるで操り人形。いや。糸が絡まり、正しい動きを忘れてしまった人形。
近づいてくる。逃げなければ。
頭では理解しているのに、足が動かない。
恐怖とは、本来そういうものだ。理解より先に体を凍らせる。
男の腕が持ち上がる。皮膚が裂けそうなほど乾いている。血管は浮き出ていない。何も流れていないかのように。
距離が、あと一歩。
その時。
男の膝が崩れた。
支えを失った体が前のめりに倒れる。美佐子の目前で、鈍い音を立ててアスファルトに叩きつけられた。
動かない。完全に。
「……え……?」
数秒。いや、もっと長く感じた。
恐る恐る近づく。息を止め、覗き込む。
頬に赤みはない。唇は紫。肌は紙のように軽そうだった。
異臭はしない。腐敗ではない。ただ――乾いている。干からびている。
震える指で、手首に触れる。
冷たい。脈はない。完全に止まっている。
その時だった。視界の端に、何かが映る。
小さな赤黒い染み。男の靴の先から、点々と道路に続いている。
血だ。だが量がおかしい。
これだけ?
人間の血は、こんなものじゃない。
まるで――ほとんど残っていないかのようだ。
背筋に氷が滑り落ちる。
その瞬間。
上空で、羽音がした。ぶぅん、と低く湿った音。
反射的に空を見上げる。何もいない。
だが気配だけがある。見られている。そんな感覚。
美佐子は悲鳴を上げた。
住宅街に、甲高い声が響き渡る。
カーテンが揺れ、窓が開き始める。
数分後、通報を受けた警察が駆けつけることになる。
検視官は首を傾げるだろう。
外傷は、ほぼ無い。死因不明。だが体内の血液量が、異常に少ない。
前例のない状態だった。
この日の時点では、まだ一件。
だが、それは始まりに過ぎなかった。
同じ日の朝。
俺が目を覚ましたのは8時過ぎだった。
今日もバイトは休みにした。連続で休むのは気が引けるが、店長には体調不良と伝えてある。嘘ではない。一昨日は本当にだるかったのだから。今はすこぶる元気だが。
ベッドの上で大きく伸びをする。
部屋の中には、一昨日の実験の痕跡が散らばっている。真っ二つになったまな板。プリンのように貫かれたテーブル。チラシの裏に走った鮮やかなインクの線。
そして、魔道具たち。
包丁、フォーク、ペン、眼鏡、服、スマホ、ダンベル、ティッシュ。
たった二日で、俺の部屋は様変わりしていた。
「さて、今日は何するかな」
昨夜の女王蟻のことが、少し頭をよぎる。血を一滴垂らしたが、変化は見えなかった。そのまま逃げられてしまった。
生物実験は、また別の機会だな。
今日は、まだ試していない物を片っ端から検証しよう。
そう決めて、キッチンに向かった。
朝食の準備をしながら、ふと思いつく。
魔道具化した包丁で肉を切ったら、どうなるんだろう。
冷蔵庫を開ける。昨日買った豚肉のブロック。本当は煮込み料理に使う予定だったが、まあいい。
皿の上に直接置く。まな板は真っ二つだった。
魔道具化した包丁を握る。刃を当てる。軽く引く。
――スッ。
音がしなかった。抵抗もなかった。
断面が、異常に滑らかだ。まるで鏡のように光を反射している。
「うわ……綺麗すぎる……」
普通の包丁なら、肉の繊維が潰れたり、断面がガタガタになったりする。でもこれは、細胞一つ一つが正確に切断されている。
薄切りにして、フライパンで焼く。
一口食べる。
「……うまっ」
声が出た。柔らかい。信じられないくらい柔らかい。繊維がまるで感じられない。
「包丁変えただけでこんな変わるのか……」
あっという間に皿が空になった。
朝食を終え、検証の続きに取りかかる。
ダンベルを持ち上げてみる。10キロ。普段なら10回が限界だ。
1回、2回、3回……。
不思議なことに、全然疲れない。いや、疲れるのだが、筋肉が悲鳴を上げるまでの時間が異常に長い。しかも下ろした瞬間に、だるさが消える。
筋トレの用途が強化されている。回復速度が常軌を逸している。
10回、20回、30回……。気づけば50回もやっていた。
ダンベルを下ろす。腕がパンパンだ。でも、痛くない。むしろ、心地いい。
鏡で自分の腕を見る。明らかに太くなっている。たった数分で。
「……これはやばいな」
昼過ぎ。
俺は外に出ることにした。コンビニに行って昼飯を買ってこよう。
アパートを出る。外は晴れていた。魔道具化した服のおかげで、日差しが強くても暑くない。
――その時だった。
視界の端に、何かが映った。
アパートの駐車場。昨夜、女王蟻が消えた場所。
「……ん?」
足を止める。
アスファルトに、亀裂が走っている。昨日はなかった気がする。
細い亀裂。ヒビというより――何かが内側から押し上げたような。
「まさかな……」
首を傾げながら、そのままコンビニに向かった。
コンビニに着くと、店内は静かだった。俺は適当に弁当と飲み物を選び、レジに向かう。
会計を待つ間、ふと店内のテレビに目がいった。
ニュースが流れている。
『今朝、都内の住宅街で男性の遺体が発見されました。死因は失血死と見られていますが、目立った外傷はなく、警察は詳しい状況を調べています』
画面には、ブルーシートで覆われた路上と、規制線を張る警察官の姿。
「怖いですよね」
レジの店員が言った。
「え?」
「このニュース。失血死って、普通じゃないですよね」
「あー……まあ、確かに」
適当に相槌を打つ。
失血死。外傷なし。確かに気味の悪い話だ。
だが、俺には関係ない。
会計を済ませ、店を出る。
コンビニ袋を揺らしながら、アパートに向かった。
部屋に戻り、弁当を食べながら、スマホでニュースの続報をチェックする。
失血死事件。まだ詳細は分かっていないが、コメント欄は騒ぎ始めている。
『殺人か、これ?』
『外傷なしで失血死、謎すぎる』
俺は画面をスクロールして、記事を閉じた。
怖い話だが、俺には関係ない。
それより、生物実験だ。
女王蟻は逃がしてしまったが、他にも虫はいくらでもいる。もっと大きな生き物で試してみたい。
「蜘蛛とか……いいかもな」
巣にいるから逃げない。サイズも大きいから、変化がわかりやすい。
そういえば前に、住宅街の外れにある空き家で女郎蜘蛛を見かけたことがあった。
明日、見に行ってみよう。
焦る必要はない。この能力は、どこにも逃げない。
蚊に刺された跡を軽く掻きながら、俺は目を閉じた。
今日も、いい一日だった。
同じ頃。
江東区。廃工場跡地の地下。
女王蟻は、掘り続けていた。
真央の血を受けてから、まだ二日。
だが、変化は確実に進行していた。
体長は、元の1センチ強から3センチに達している。通常の女王蟻の三倍。外骨格の色は、薄い茶褐色から深い赤褐色に変わりつつある。
何より――掘削速度が異常だった。
通常の女王蟻が一日かけて掘る量を、一時間で掘り抜く。大顎が土を砕き、前脚が掻き出し、体が前進する。その動きに迷いはない。本能が、最適な角度と深さを教えている。
地下3メートル。
最初の部屋が完成していた。こぶし大の空間。壁面は唾液で固められ、滑らかな光沢を放っている。
そこで、女王蟻は最初の卵を産んだ。
12個。
通常の蟻の卵より、わずかに大きい。表面が、ほんの少しだけ赤みを帯びている。
血の影響が、次の世代にも引き継がれている証だった。
女王蟻は卵を産み終えると、すぐに掘削を再開した。
もっと深く。もっと広く。
本能が告げている。この程度では、足りない。まだ、全然足りない。
女王蟻は掘り続けた。休むことなく。眠ることなく。
地上では、誰も気づいていない。
この地下で、何かが育ちつつあることを。




